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あの日  作者: 古流
3/12

離婚届け

 台所の水道の蛇口から、ポタ、ポタと水滴の落ちる音が聞こえる。

「別れよう」

 静かな空間に二郎の言葉は別に驚きもなく響いていた。

 心臓の音が聞こえてきそうな程の静寂さは悲しい言葉ですら包み込んでしまう。

「‥‥」芳江は黙っていた。

 二郎と芳江は台所の椅子に腰掛けていた。そしてテーブルの上には、達筆な毛筆文字で片桐二郎の署名と判子が押してある離婚届けが一枚置いてあった。

 二人は隣の部屋で、寝息を立てている葉子を気遣いながら静かに話した。

「俺はこの家から出て、病気がちの実家の母の面倒を見るつもりだ」

 二郎が唐突に言った言葉ではない。知らぬ間に出来た二人の小さな溝が月日を重ねる毎に修復できないほどの大きな溝になっていった。

 身体が満足に動かない二郎を、時には疎ましく感じる芳江が、苛立ちを抑えながら健気に振舞い続けるには、まだ若く魅力的過ぎたのかも知れない。

 ただ時が過ぎ去っていっただけなのに、二郎の辛い思いが分らない芳江ではなかったが、心のどこかでは開放されたい自分がいることを否めなかった。そして二郎への冷めていく気持ちが大きくなるにつれ、結婚以来すっかり忘れていた感情が芳江の胸にほのかに灯っていくのを消す事が出来なかった。

「葉子は‥」

 覚悟を決めていたのか、芳江はその事には言及しなかった。葉子の親権を確かめておきたかった。

「お前にまかせるしかない」

「でも‥」

「俺は葉子を幸せにしてやれない」二郎は寝ている葉子を見た。

「あなたは‥」

「どうにかなるさ」

 二郎は笑いながら芳江を見た。

 こんな時に笑えるのはおそらく二郎ぐらいだろう。

 あきらめた笑いではない。

 あきらめたら笑えない。

「私‥」

 人生を刻む時計のように、ポタ、ポタと雫の垂れる音が芳江には切なく聞こえた。

「いいんだよ、誰のせいでもない」

 二郎の言葉には優しさがあった。その優しさが芳江には耐えられなかった。

「私が目さえ離さなければ‥‥」

 それにしても芳江の言葉は短かった。

「いいんだ、それも今日で終わる」

「‥‥」

 芳江は何も言えなかった。


 それは葉子が4歳のころ。近くの神社に遊びに行った日の出来事だった。

 二郎は、芳江と葉子を連れて神社までの長い階段を登りきって、芳江の側で嬉しそうにはしゃぐ葉子を少し離れたところで見ていた。それは帰り際に起こった。

「葉子おいで、そのお土産物屋さんでなんか甘いものでも買ってあげる」との母の声に葉子の笑顔がはじけた。

「ケーキ食べたい!」

 まだ幼さが残る言葉づかいに母もにっこり笑って葉子の手を引いた。

 その土産物屋は階段の近くにあった。

 一回り見て回った二郎は土産物屋を離れ、二人が買い物をするところを少し離れたベンチに腰かけて見ていた。その時、長い階段をゆっくり登って来る老人が目に入った。あと少しのところまで来て、老人がつらそうに腰を折って立ち止まっているのを目にすると、二郎はベンチから立ち上がり手を貸すために階段の上に立ち、今にも降りようと1歩足を前に出した。その瞬間を芳江は土産物屋の清算中に、今までいた側にいた葉子がいない事に気づいて、泳がせた視線の片隅で捕らえた。その時、芳江の頭の中は真新しい画用紙のように真っ白なった。

今まで芳江の側にいたはずの葉子が、父の後ろからぶっつかるように背中を両手で押したのだ。そこに階段があるのを知りながら、その行動の後に何が起こるのかをわからないままに。

 芳江の視界から葉子だけを残して、二郎は突然その場から姿を消した。

 階段を降りようとした父の身体は一旦、宙に浮いてから、もんどり打ってそのまま長い階段を転げ落ちていった。

 階段の上で突然いなくなった父を探すように呆然と立ちつくす葉子の姿が、落ちていく二郎の目に焼きついた。

 葉子の回りの人が一斉にざわめいた。

 訳知らず人々が集まってくる。

 階段の上で大きな声を張り上げ、あわてて階段を駆け下りる人が同じように階段を二、三段転げ落ちて頭を抱えている。

 見知らぬ女性が泣いている葉子の身体を抱きしめた。外のあわただしい空気に芳江の絶唱に近い声が響いた。

「葉子!」

 その声に葉子は振り向きおぼつかない足取りで、泣きながら母の所に駆けて来た。

「誰かが階段から落ちた!救急車を呼んでくれ!」

 騒然とする中、芳江は葉子をお土産物屋の店員に預けて、よろけそうになりながらも階段の上に立った。

 動悸が激しく胸を打った。

 芳江が階段の上から下を見た時、芳江の目には赤い血だまりの中で小さく横たわる二郎の姿が映った。そして後に何があったのかを芳江はよく覚えていなかった。

 赤い血の色、以外は。

 記憶とは時間と共に霞んでいくものなのに、その赤い色だけは時がたてばたつほど鮮やかさが増していった。

 土産物屋で買い物をしていた芳江が、少し目を放した瞬時の出来事。

 幼い葉子が父をおどかそうとした行動を誰が責められるだろうか。

 僅かな段差がもたらした悲しい事故だった。その事故のため二郎の右足は満足に動かなくなってしまったのだ。

 自分の人生すら、その動きを止めたのではないかと錯覚するほどに。


 芳江は食卓の離婚届けに手を置いた。

「俺と別れたら、いい人見つけて再婚すればいい。」

 二郎は芳江を振り向きながら、隣の部屋で寝ている葉子の側に行き、その小さな手を握った。

 芳江は微かな苛立ちと悲しみを隠すためうつむいたままだった。それは優しい言葉かも知れないが、芳江にとっては冷たく響くだけだった。

 別れの時には優しさなど迷惑だからだ。

 二郎もそれ以上は何も言わなかった。ただ葉子の顔を見つめていた。明日からは会うことが出来ないかも知れないと考えると、葉子の小さな手を握りしめて離す事が出来なかった。

 唯一、寝ている時は、葉子も父から逃げなかった。

 二郎は芳江を見た。そのうしろ姿はいかにも寂しげに映った。それは二郎と別れる寂しさでは決してない。別れるのが寂しければ別れはしない。

 葉子を片親にしてしまう親の身勝手さと、二郎が芳江に対して一言の恨み事も言わない事が腹立たしくて切なかった。

 芳江に親しい男がいる事を二郎は知っていた。しかしそれは無理もない事だと頭では思っていた。まだ若い芳江に足も満足に動かないお荷物を背負って、これからの人生を生きていけるはずがない事は分っていたからだ。それを許す気持ちは二郎が男として芳江の元を去る事を意味していた。それは同時に葉子からも消えていく事になった。

 

 二人は、奇跡のように二郎の前に姿を見せたのだ。

 或る日の昼下がり、二郎が歩いていた歩道から車道を挟んだ向こうの道で、二郎の視界を霞めていった芳江と若い男。

 肩を寄せ合いながら、抱き合うように歩く二人の姿が、交差する車の狭間ではっきり見えた。微笑みあう二人の姿が脳裏から離れない二郎であった。

「今日どこへ行ったんだ?」

 その夜、二郎は芳江に聞いた。

「どこへ行ってたのか‥言わなきゃいけないの。」

 芳江は台所で家事をしながら聞き流していた。

「別に、言いにくい事なら言わなくてもいい」

「言いにくいってどう言う意味‥‥」

 台所で聞こえていたまな板を叩く包丁の音が止んで、その包丁の切っ先よりも冷え冷えとした芳江の声が響いた。

「言いたくない事なら言わなくてもいい」

 二郎は芳江の心が凍えるような冷たい声に戸惑った。

 愛がなくなれば人はこうも変われるものなのか‥‥。

「言いにくい事も、言いたくない事も別にないわ。あなたに言う事は何もありません」

 その挑戦的な言葉に、それ以上二郎は何も言わなかった。言っても仕方がないくらい二人の関係は冷めていたのだ。

 芳江のまな板を叩く包丁の音が再び二郎に聞こえてきた。


 しかし、その事で芳江を責める事はなかった。

 芳江が傷つく事は葉子が傷つくことだった。それを二郎は口に出せなかった。まぎれもなく芳江は葉子が大好きな母なのだから。

「わかったわ」

 芳江はそう言い終わると離婚届を手元に引き寄せ、名前を書いて判子を押した。

 涙の一筋も流すことなく。

 

 そして次の日に、赤いラベルの都コンブを一個、葉子の手の中に残して、片桐二郎は別れも告げずに家を出て行ったのだ。


 二郎にとって思い出のある家を、自ら出て行くのは辛かったが、葉子が幸せになる為にはそれしかないと、その時はそう思うしかなかった。

 その家にはすでに、片桐二郎の居場所が無かったのだから。

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