父が嫌いだった
小学校の入学式の日、桜はほとんど散り染めていた。
正門の道を挟んだ葉桜の下で、片桐二郎は娘の葉子が出てくるのを隠れるように待っていた。
「お父さんは、来ないで」
葉子がそう言ったからだ。
「どうして?」
父はほっぺを河豚のように、ふくらませて葉子を見た。
そんな父の顔を見たくないとばかり、葉子は母の後ろに隠れると、二郎は苦笑いして、それ以上何も言わなかった。それでも葉子の入学式を見たい気持ちが不自由な足を小学校まで運ばせたのだ。
入学式が終わってから、着飾った人々が小さな新入学生の手を引いて帰って行く。
葉子の母は近所の顔見知りの人々と談笑のかたわら、校門近くで、葉子は友達とふざけあって遊んでいた。
声をかけるつもりはなかった。
ただ、その時、娘が父の方を向いて笑ったように二郎には見えたのだ。
とっさに「葉子!」と大きな声で叫びながら、杖に支えられて左足に右足を引き寄せるようにして一歩前に歩き出した。
「お前の父ちゃんか、あれ!」
葉子の父を見た幼なじみの鉄平が言ったひと言が、葉子の氷のように冷たかった父への思いを、さらに冷やす結果になった。
心の中の奥深く、容易に溶けることのない永久凍土として。
「やめて!」
葉子は恥ずかしい気持ちをこらえて、父には目もくれず一目散で母の所まで走った。
二郎は、いなくなった葉子を探すことはせず、後悔の重い足を引きずりながら、人目を避けるように一人で帰っていった。
左足を出して、地面をこするように右足を引き寄せながら。
(足の悪い父親が、そんなに恥ずかしいのか‥‥)
悔しい思いが胸を突いても、父から逃げていく葉子を、ただ見ているしかなかった。
親としての選択が、それ以外になかったのだ。
小学校に入学した頃の葉子は、学校に行くのを嫌がった。
「お前の父ちゃん、かかし」
鉄平が葉子をからかうからだ。
「お父さんは病気で死んじゃったわ」と葉子は嘘をついた。
「うそつきは泥棒の始まりなんだぞ」
左足に右足を引き寄せる真似をしながら、鉄平は笑って言った。
「本当にお父さんは死んだのよ」
葉子はさらに嘘を続けた。
「うそついたら閻魔さんに舌抜かれるぞ」
父の真似を止めない鉄平の姿が、葉子には本当の父の姿と重なって見えた。
「鉄平なんか嫌い」
葉子の叫びは鉄平にむけられ、同時に父に向けられた。
「人の身体の事でからかったりしては駄目です。それは人として最低なことですよ」
先生が教室で注意するたびに、葉子の小さな心は逆に傷ついていくのだった。
傷ついた心の中の冷たい闇に父親は消えていった。
種も仕掛けもなく、ハンカチの中から鳩が消えていくように。
小学三年生頃になると、父と一緒のときは少し距離をおいて歩いた。足を引きずって歩くこの男が、自分の父親だと思われたくない気持ちからだった。
杖に支えられながら左足が出し、地面をこするように右足を引き寄せる。
片桐二郎のじれったい動作に、葉子はいつもいらついた。
幼い葉子には、人の気持ちを考える余裕などなく、思いをぶつけるように、時として辛らつな言葉が口をつく。
「さっさと歩いてよ、早く帰って友達と遊ぶんだから」
「じゃ、走るぞ」と笑顔で走る真似をして、左足に右足を引き寄せる父。
葉子が恐い顔してにらむと「先に帰っていいよ」
父の優しい声にも、葉子は振り返ることなく、まるで狂犬に追われるように、全力で走っていった。
片桐二郎は葉子のうしろ姿を目で追うと「もうすぐ葉子ともお別れだよ」とのつぶきやきは流れる汗となって目がしらからこぼれ落ちた。
片桐二郎の妻、芳江は笑顔の綺麗な人だった。
人付き合いがよく、決して美人ではないが、どこか人を引きつける魅力があり、葉子はそんな母が自慢で大好きだった。
ほとんど皆がそうであるように、小さい時から母にまとわりついて離れなかった葉子だったが、父親には甘える事ができず、母への思いが強くなるほど父とは距離は遠くなっていった。
足を引きずって歩く父には笑顔すら見せない。
いつも優しい父なのに、悲しいほど葉子を愛しているのに、葉子は父親が大嫌いだった。
父の記憶も、葉子の小学三年生の終わりで途切れていた。
小学校からの帰り道。
家に帰ったら食べようと、途中のお菓子屋で買ったクリームパンの入った袋を右手に持って、葉子は急いで家まで戻ってきた。父親がちょうど家の玄関からあまり見かけない大きなかばんを持って出てくるところだった。
葉子は会いたくないと、家の影に隠れて父が出て行くまで声を殺して待っていた。
葉子には決して怒ったことがない、いつも笑顔の優しい父なのに。悲しいほど嫌いな父の姿が見えなくなるまでいつまでも隠れていた。
「葉子ちゃん何してるの」
学校帰りの理沙と聖子が声をかけた。
葉子は一指し指を口に当てるしぐさをした。
理沙と聖子もあわてて葉子の影に隠れた。
「お父さんに怒られたんだ」
理沙は息をころして呟いた。
聖子は葉子の服を引っ張りながらその服でしきりに顔を隠そうとしている。
「聖子が顔を隠してどうするのさ」
理沙が笑った。
聖子もはにかんだ。
出てきたのは父だけだった。
時間が止まったようなゆっくりした歩み。
風が吹き、垣根がばさばさと音を鳴らした。
夕焼けに溶け込むような父親の姿は、この世から消えて行こうとしているように見えた。いつもなら、くしゃみが出そうになっても我慢したはずなのに、犬が吼えて怖くて仕方がない時でも、葉子は泣きそうな顔をして隠れていたのに、この時、葉子の背中を微かな波動が走り抜けていった。
葉子はいつもと、何かが違うと感じた。
摩訶不思議な親子の情としか思えない。
「ごめんね、あとで公園で遊ぼう」
葉子は理沙と聖子にそう言って駆け足で父の所まで行った。
「どこへ行くの。お母さんはいないの。私がついて行こうか」と父に声をかけた。
父は嬉しそうに大きな穴の開くほどに葉子の顔を見つめた。
これがこの世の見納めと言わんばかりに。しかし母と別れてこの家を出て行くとは言わなかった。幼い葉子にはその意味すらわからないだろうから。
「いいんだよ、今日は一人で行くよ、遊びに行ったらいい」
父は笑顔で葉子の頭に手を置いた。
「うん」
葉子は内心助かったと、心の中で舌を出した。
「そうだ、葉子‥これ好きだったろう」
父は大きなかばんの中から、中野の都コンブを取り出した。
「ありがとう」
葉子はそんなに好きでもないと思ったが、喜んでそれを受け取るとくるりと向き直って家に歩き出した。玄関までは、そんなに距離はなかった。入口の戸を開け、家の中に入ろうとした葉子は、もう一度父を見るため振り返った。右足を引きずりながら歩く父親のうしろ姿が、電信柱の影に隠れて見えなくなろうとしていた。
葉子が横を見ると理沙と聖子がまだ隠れる真似をしてこっちを覗き込んでいた。
「後でね」
葉子は小さく手を振ると家の中に入っていった。
父は電信柱の影で立ち止まると大きなかばんの中から麦わら帽子を取り出した。葉子に買ってから一度も被られたことがない向日葵の絵が描いてある麦わら帽子。
「変な帽子、恥ずかしくてかぶれない」
葉子の声がこだましていた。
二郎が家から持ち出した唯一、葉子の思い出だった。
思い出は一つで十分だった。
自分からは2度と葉子とは会わないつもり二郎にとって、それは辛さを増す道具にすぎないからだ。そして、その電信柱の影から再び父が振り向いたときには、見慣れた風景が霞んでいるだけで葉子の姿はすでになかった。
「ただいま!」
家の中に入った葉子は、父からもらった中野の都コンブをそのまま無雑作に台所のゴミ箱に捨てると、袋から出したクリームパンをおいしそうに食べた。
「お帰り!」
母はいつものように葉子に声をかけた。ただ、この日は一言だけ多かった
「お父さんはしばらく帰ってこない、犬のお婆ちゃんの家で暮らすことになったの」
母はまるで他人事のように淡々と言った。
犬のお婆ちゃんの家とは、犬を飼っている父の実家のことである。
葉子は父が家にいないのが、たまらなく嬉しく大きな声をだして「やった!」と飛び上がった。ただそれだけのことであった。
別れの言葉すらかける事なく葉子の前から父はいなくなった。