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あの日  作者: 古流
12/12

時は風のように

最終話です。

 葉子が歩いているのは父が住む町だ。かたわらをガタンゴットン、ガタンゴットンと電車が通過していく。父の所に向かう葉子の姿は、はかなく、まるで過去の罪の重さの全てを、その両足に引きずっているようだ。すれ違う人々は憐憫の表情をみせて通り過ぎていく。


 葉子は足を止めた。

 駄菓子屋の店先にはガラスの風鈴が風に揺れている。

 夏のかかりの風にちりんちりんと音を鳴すと、視線を走らせた葉子の表情がすこし和んだ。

 店の奥には一人お婆さんが座って葉子のほうを見ていた。

 駄菓子屋を通り過ぎその先の角を曲がっていく葉子の足音が少しずつ小さくなっていった。正直、このまま逃げて帰りたいと思った。

 一本の大きな檜があった。道は檜をはさんで、右と左に分かれていた。その左の道を行けば、すぐにブロック塀の父の家はあった。

 葉子は大きな檜の前で立ち止まって、父の家の方を見た。気持ちの整理のつかないのか、葉子は再び来た道をゆっくりと戻り始めた。やがて風鈴が耳に心地いい音を響かせ、風は音を道ずれに店の戸口から中に吹き込んで来る。

 風のさやけさに誘われて、葉子は駄菓子屋の中にいた。

「すみません」

 葉子はやや大きめの声で言った。

「はい、はい」

 中からお婆さんが腰を、ややかがめながら出てきた。

「都コンブありますか」と葉子はあたりを見た。

「コンブですか。はーいはい」

 お婆さんは店の前に陳列してある、都コンブを見せた。

「全部頂いていいですか」

 それは50個ほど入った箱に、ほとんど残ったままだった。

「勿論いいですよ‥‥」

 お婆さんはコンブの箱を手に取りながら「好きなんですか?」と聞いた。

「父の大好物なんです」

「へえ、今時、珍しく親孝行ですね」

 その時、風鈴がちりんちりんと鳴った。葉子はハッとした。

「違うんです。そうじゃないんですよ」

 悲しげな声だった。

「いいのよ、別に」

 おばあさんはそう言うと、都コンブを袋に入れた。

「でも一つだけここに残して置いて頂戴ね」と葉子の顔を見た。

「そうですね。欲しい人がいますものね」

 葉子は袋からもう一つ取り出すと「一つじゃ寂しいから、もう一つ置いておきましょう」と一つ置いた。

 都コンブが二つ、信じあえる夫婦のように、仲のいい親子のように、愛しあう恋人のように、棚の上に並んだ。


 店を出た葉子は、再び大きな檜の前を通りすぎ、今度は躊躇する事なく父の家の前に立った。

 葉子の目に最初に映ったのは、売り家という大きな看板であった。

 玄関の門の横には、片桐書道教室と書いてある小さな木の看板が、斜めにずれて外れそうになっていた。しばらく立っていた葉子はその場に座り込んでしまった。それを見ていた近所の中年の女性が声をかけてきた。

「気分が悪いんですか?」

 葉子はその声と同時に、ゆっくり立ち上がり「すみません、大丈夫ですから」と頭を下げた。

「この家の人はね、去年の夏にお母さんが亡くなって、足の悪い男の人が一人で住んでいたんだけど」

 女性は葉子の顔をしげしげ見ながら「此処だけの話だけど」と前置きして心置きなく喋りだした。

「……何でも家の相続の事で兄弟の間で結構もめたらしいよ。普段寄り付かない長男夫婦がなんだかんだと言ってきてね。結局、家を売る羽目になったってわけさ、親の面倒は足の悪い次男坊がみてたんだけどさ、他人の家の事だから詳しい事は分らないけど、詰まるところ家を売って引越しっていったって訳なんだよ」

 聞いてもいないのに、すっかり喋ってしまった中年の女性は、覗き込むように葉子の反応を見ていた。

「引越をしたのですか?」

 どこに引越をしたのか聞きたかったが、おそらく聞いても無駄な気がしてただ頷いた。

「娘さんですか、片桐さんの?」

 女性は好奇心ありげに聞いてきた。

「……いえ……違うんです」

 あわてて否定する自分に対して葉子は心が真っ暗になった。

 私は慎二に優しい言葉をかけられるのに、なぜ父に対しては逃げてしまうんだろう。

 父に会いたいと思った葉子だが、その心は昔と何も変わっていないと云う事実に慄然とした。

「そうですか、そうですよね」としきりに頷いてから、言葉を続けた。

「いつも片桐さんは娘さんの話をするんですよ。でもね、私は娘さんなんかいないと思ってましたよ。きっと嘘を言ってると……いる訳ないんだよ。だってこの十何年の間に一度だって会いに来たとこを、私は見た事がないんだからさ。十年だよ」

 女性の言葉が終わらないうちに、奥の家の方から、女性を呼ぶ声が聞こえた。

女性は喋り足りないのか、少しの未練を残しながらも最後に「この家を買うつもりなら、止めといたほうがいいよ」

 女性は声をひそめて念を押すように言った。

「ろくな事がないんだよ」


 葉子はもと来た道を戻っていった。

 駄菓子屋の角を曲がり、ちりんちりんと鳴る風鈴の音を聞きながら駅まで歩いていった。

 ちりんちりん、ちりんちりん。

 駄菓子屋の中で帽子を左手に持っち右手で杖を突いた一人の男が、店のお婆さんと話をしていた。

「都コンブあるかい」

 杖の男は聞いた。

「今日は若い娘さんが一杯買っていったから、二つしか残ってないのよ」

 お婆さんが奥から顔を出した。

「じゃ、その二つ貰らおうか」

「そうかい」

 都コンブを二つ手に取ると、小さな紙袋に入れて男に渡した。

「いいんだよ、二つもあれば‥‥一つは私が食べて」

 男の話が終わる前に、すかさずお婆さんが「もう一つは娘さんの分でしょう」とシワだらけの顔をクシャクシャにして笑った。

 男は昔からのなじみ客のようだった。

「毎回、毎回、同じことを言って、あきれるでしょう」

「小さい時に別れた女の子だもの、しょうがないよ」

 お婆さんは立っているのがつらいのか、奥へ引っ込み、椅子に腰を下ろした。

「会いにいけばいいんだよ、自分の娘なんだろう、何度も言うようだけど」と強い口調で言った。

「会うのが怖いんだよ。会いに行って嫌な顔をされるのがさ」

 男はお婆さんから少し離れ、店先が見えるところで話をしていた。

「家だって売ってしまって、娘さん訪ねるとこがなくなるじゃないの」

「しょうがないさ、背に腹は変えられないよ。それにもう15年だよ」

「馬鹿だよ、あんた、生意気な口でもきいたら、引っ叩いてやりゃいいんだよ」

 お婆さんは両切りの煙草を口にくわえて、マッチで火をつけた。

「煙草もいいけど火事には気をつけなよ。燃やしちゃ終わりだよ。何度も言うようだけど‥」


 ちりんちりん、ちりんちりん。

 風が風鈴を響かせる。


 手に持った紙袋を、かばんに入れると、男は眩しげに風鈴のほうを見た。その時、駄菓子屋の前を一人の若い女性が横切るのを、その男は瞬きするのを忘れるほど見つめていた。


「若い娘を見ると皆、自分の娘に見えてしょうがないよ」

 男は苦笑いしながら振り返り、手に持っていた向日葵の絵の麦わら帽子を頭にのせて、ゆっくりした足取りで店を出て行こうとした。ところが何を思ったか振り返り「これ今日は止めとくよ」

 男は都コンブの入った紙袋を前に出した。

「どうしたんだよ。毎日買ってるのに‥‥嫌がらせかい」

 手を出したお婆さんのシワが笑っていた。

「わからないけど、今日だけは買わずにいるよ」

 男は申し訳なさそうに頭の帽子をさわった。そしてゆっくり歩き出した。

「まったく、この売り上げを毎日の煙草代の足しにしてるのに」

「返してくれなっくてもいいよ。煙草代に使えばいいんだよ」

「いいのかい、最近は大きなショピング何とかが出来て、誰もこんな店で物を買わないんだよ」

 お婆さんは顔の奥のほうで目を細めて、男の帽子に目をやった。

「見かけない帽子だね」

「押入れを整理してたら出てきたんだよ。こう暑いとさ‥‥」

 男は立ち止まって振り向いた。

「押入れの整理じゃなくて、心の整理をしなよ。会うのが怖いなら、さっさと忘れちゃいな」

 お婆さんは煙草をくわえて、気持ちよさそうにクシャクシャな顔をして煙をはきだした。

「忘れちゃいなはいいけど。煙草の火を消し忘れちゃだめだよ」

 男はお婆さんを見て、笑いながら外へ出て行った。


 涼しげな風が男の身体をかすめていく。

 男の視線は遠い彼方を見ているようだった。

 線路沿いの道を歩く若い女性のシルエットを見つめながら、杖を突いた男は、その反対の方向にむかって、左足をだし右足を引き寄せた。

 歩くことが生きている全てだと、人の何倍もの時間をかけて生きているんだと言わんばかりに、ゆっくりと歩を進めた。


 葉子は駅のプラットホームにぼんやり立っていた。

 ここに来てこれで良かったのかと思う気持ちと、まだ、わだかまる気持ちが交叉した。でも父を訪ねた事は決して偽りではなかった。

 父には会えなかったが、思いは伝わったはずだと葉子は思いたかった。

 電車が音を響かせて入ってきた。

 ドアが開いて車内の人となった葉子は、そのままドアのところにもたれると、今歩いてきた道を、窓越しからぼんやり眺めていた。

 電車はガッタン、ゴットンと走り出した。

 始めはゆっくりと景色は流れていた。徐々に電車のスピードが上がるにつれ景色は飛ぶように流れていく。

 それは突然、葉子の目に飛び込んできた。

 駄菓子屋の近くの線路沿いの道だった。

 杖に支えられて左足を出し、地面をこするように右足を引き寄せて歩いている男の姿が。

「‥‥!」

 葉子の口が微かに動いた。

 涙とは言えない一筋が頬をつたった。それは現実か幻想かも分からぬまま、風景の一部となって、振り返る間もなく後方に消し飛んで行った。


 男の横を電車がガタゴトガタゴトと通り過ぎて行く。さっきの若い女性を探しているかのように男の顔が電車を向いた。

 電車のドアの女性が一瞬、男に視線を送ったのが見えた。

 男は瞬く間に去っていった電車を何時までも見ていた。

 これがこの世の見納めと言わんばかりに、大きな穴の開くほどに。


 男の歩みの遅さに比べ、電車が去るのは速い。

 男は歩くのを忘れ、独り言を呟いた。

「又いつか、来るだろうか」

 そして、男はゆっくり歩を進めてゆく。


 ジリジリした暑さに男は額の汗を拭いた。

 自分の影を見つめて歩く男の歩みは止まらない。

 夏の風は気まぐれで、男の頭から向日葵の絵の麦わら帽子を吹き飛ばした。

 小さな帽子の影が流れる。

 男の視線があわてて前を見た。

 少し離れたところに、一人の若い女性が麦わら帽子を手に持って立っていた。

 男の目が、その姿を見つめたまま動かない。

 蝉の声がうるさいほど鳴いている。

 横をラーメン配達の自転車が通り過ぎて行った。

 砂ほこりが舞った。

「葉子‥‥?」

 かすかに男の口が開いた。

 若い女性はゆっくり近づいてくる。

「お父さん‥‥」

 私はもう決して逃げないとでも言うように、若い女性のはっきりした声が聞こえた。そして向日葵の麦わら帽子を頭にのせた。

「葉子なのか?」

「葉子です‥‥」

 片桐二郎は言葉を忘れたかのように葉子を見ていた。

「お父さんとこれを一緒に食べたくて」

 葉子の手が開くと、その中には都コンブがあった。それを前に差し出しながら葉子は父にもたれるように抱きついた。

「ごめんなさい‥‥」

 気まぐれな夏の風が吹いた。

 葉子の頭の麦わら帽子は風にあおられ、空高く飛んでいって、いつしか見えなくなった。


 葉子は暖かい気持ちに包まれながら、父の胸の温もりと頬に感じた涙の冷たさを心の中にとどめて、流れゆく車窓の景色を見つめていた。

「私はもう逃げない」

 葉子は何度も何度もつぶやいていた。


 葉子は電車を降りると階段をのぼって行った。

 改札を通って長い通路を歩き再び階段を降りていく。あれ以来、葉子は階段を降りる時は必ず端によって、手すりを持ちながら降りて行くことにしていた。下り階段を見ると時々目まいをおこす事があるからだ。この時も階段の上に立った葉子は下を見た時に、頭が一瞬真っ白になった。そして今にも崩れ落ちそうに階段の上で手すりにもたれかかってしまった。それでも真っ白に霧のかかった向こう側を必死に見ようと目をあけた。そして、その霧の向こうを葉子の目が微かに捉えた。心の中で消えかかっていたその人が、白い霧の中で葉子を待っていた。

 葉子は半信半疑で小さく手を振った。そして階段の下で、三度の飯よりも葉子が好きな、鯨島学が大きく手を振るのが見えた。

 葉子は嬉しさの為にしばらく動けなかった。頭の中の霧が晴れ、全てを過去に置き去りにして行ったように、もう階段なんか怖くはなかった。

 葉子は手すりを持つことなく、そのまま階段を走るようにかけ降りて行って鯨島学の胸の中に飛び込んだ。

 今度は鯨島の手を強く握って決して離さなかった。

 これを離せば地獄に落ちるとでも言いたげに。


 時は、風のように全ての人の思いを大きな入れ物に入れて無雑作に流れていく。

 二人の横を通過していく電車が思い思いの人々を乗せて、ゴトンガタンとゆっくり走り出していったように。

思ったより長くなってしまいました。

最後までたくさんの人に読んでいただきまして有難うございました。

評価、感想などありましたらよろしくお願いします。



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