慎二との出会い
葉子はその話を母親に話したが、父が仕事で怪我したとしか言わなかった。やるせない気持ちを抱きながら葉子は受験勉強に打ち込んだ。
ただ時間がすぎていって、頭の中に黄色い風が吹いて、灰色の脳細胞の記憶を少しずつ、少しずつ吹き飛ばしていった。葉子は不確かな記憶の中にいつまでも縛り付られているわけにはいかなかった。春風と共に無事に大学にも入学して、やや大人びた娘になって大学を卒業していった。
葉子は大学を卒業して、念願の小学校の先生として働き出しても、ほとんど父のことを思い出さなかった。
どんな思いを抱いていても、人の世は淡々と過ぎてゆくのだ。人の涙が、川になりやがて、海になろうと、それだけは変わらない現実であった。
教師三年目の葉子は、新学期を向かえて三年生を受け持つことになった。そのクラスに、立花慎二という、一人の足の悪い男の子がいた。母親が朝、教室まで送ってきて、帰りは迎えに来るという日が続いた。明るい原色の色が似合う、やや化粧が濃い、一見派手な感じの女性だった。ところが、ある日の朝、職員室の窓から、慎二が一人で校門を通って、ゆっくり歩いて来るのが見えた。右足が悪いのか、やはり左足を出してから右足を引き寄せる。それを繰り返しながら、無限の時間を費やすかと思われるほど遅い歩みだった。そばには、いつもいる母の姿がなかった。そのかわり少し遅れて、クラスの友達が数人、その後にばらばらついてくるのが見えた。
葉子は急いで慎二の所まで行くと「歩くのが遅いよ」後からついてきた一人、浩介が愚痴った。
「ありがとうね、後は先生が送るから」
葉子は浩介に笑顔を見せた。
「遅いけど、足悪いししょうがないよ、なあ慎二」
それでも皆は先生と一緒についてきた。
「昨日さぁ、慎二のお母さんいなくなったんだって」あわて者の原真由美が言うと、口に手をあてて様子をうかがうように慎二の顔を見た。
慎二は寂しそうに笑っていた。
葉子の父がそうしていたように、慎二もまた寂しい時も笑うのだった。
「新婚ってやつだろう」
知ったかぶりの山下幹生が横を歩く浩介を見て言った。
「ばか!新婚って結婚したすぐのことを言うんだよ、先生そうだよね」
浩介は幹夫のお尻に右足で蹴りを入れながら、先生を振り返った。
「じゃ不倫?」幹生の声に「ちりちりん、と風が吹いたら音の出る」とすかさず浩介が返すと「それは風鈴」幹生が笑って浩介のランドセルを後ろから引っ張った。
浩介が肩をすぼめると、幹夫は浩介のランドセルを手に掴んだまま尻餅をついた。
先生が二人を睨むと、浩介と幹夫はお互い笑いながら、やや体格のいい真由美の後ろに隠れた。
「それは今はやりの離婚って言うの」
あきれた顔して真由美が後ろの二人に言うと「はやってるのか」と浩介が聞いた。
「そうよ、だから私の友達の‥」
真由美は手で口を塞ぐまねをした。驚いた先生が口をはさんだ。
「いいから後は先生が連れて行くから、みんなは先に教室に行ってなさい」
「はーい」
みんなは慎二から離れるとき「ゆっくりでいいからな」と言って肩を軽くたたいて走っていった。
葉子は慎二と二人になって、否応なく父を思い出さずにはいられなかった。きつい言葉で父を傷つけて平気だった子供の頃。
何が違うのだろうか。
あの時の父と、今、ここにいる慎二と。
一人の大人になって、やさしい言葉で慎二を励ます葉子は、その時、始めて取り返しのつかないことを、私は父に対してしたのではないかと、激しく胸をえぐられた。
葉子はそのまま嗚咽をすると目が霞み、その場に臥せってしまった。
「先生! 大丈夫」
そこには泣きそうな声を出して、動かない慎二がいた。
「大丈夫よ、ちょっと、目まいがしただけだから」
葉子はすぐに立ち上がると、慎二に手をかした。
「いいよ、先生、少し離れて見てくれたら、僕、歩けるから」
慎二は左足に力を入れた。先生の手を離して一人で歩き出した。
「先生!先生が慎二におぶってもらったら!」
少し離れた所から、浩介が大きな声をだした。
「こらっ!」
葉子は拳を作り右手を振り上げた。
浩介たちはあわてて後ろに走って逃げた。
慎二は前を見て力強く歩いていく。
葉子は少し離れてついていった。それはまるで遠い昔の、父の時と同じように。葉子の心の思いが違うだけで他はなにも変わらなかった。それを皮肉というには、あまりにも葉子には切なすぎた。
「慎二! 先に行って待っているからな」
離れた所からクラスの仲間の声がかかる。
そしてバタバタ走って行く音が聞こえた。グランドに砂ぼこりが舞い上がった。
「‥‥先生」
みんなの姿を見つめながら、慎二は情けなそうな顔をしていた。
「なに?」
少し離れた所から葉子は、慎二の姿に父の姿を重ねていた。
「僕は別に何も欲しくなんか無いよ」
慎二はうつむいていた。
「普通に歩きたい。普通に歩けるようになったらお母さんも家に帰って来てくれるよね」
「お母さんが好きなの」
葉子の言葉に慎二は恥ずかしそうに、目に涙をためてこっくりうなずいた。
「きっと戻って来るわよ、慎二君に会いに」
葉子は慎二の肩を軽く叩いた。しかしそれが何の根拠もない言葉だと言う事を一番よく知っている葉子だった。涙を溜めている慎二の気持ちが、あの時の父の気持ちと同じかも知れないと考えると、一人で去って行った葉子の父が今さら哀れに思えた。葉子は父と別れていらい、一度も父に会わなかった自分と慎二を重ねながら、人生とはあざなえる縄のように本弄されるものなんだろうかと思わずにはいられなかった。今、なぜ葉子の前に慎二が現れたのだろうか。慎二にさえ出会わなければ、こんな事考えもしなかったのにと。
小学三年生の時に、足の悪い父と別れた葉子と小学三年生の時に母と別れた父と同じように歩く慎二。この現実をどう受け止めれば良いのか、葉子の頭は混乱して整理がつかなかった。
父に会って謝りたいという小さな気持ちが、その時はじめて芽生えたのかも知れない。それは自分が未熟な人間だったと懺悔の小さな叫びなのか、ただ過去の過ちを清算して肩の重荷を取り去りたいためなのか。
葉子の全てを許し続けてきた父だった。今、自分が父に対してしなければならない事って何だろう。それがおそらく何一つとして無いという事をわかっていても慎二の悲しそうな目を見て、慎二の足を引きずって歩く姿を見て、今までの自分の人生がバラバラに壊れていくのがわかった。
葉子は「立花君、ゆっくりでいいのよ、勉強時間になんか幾ら遅れても」
葉子は無理に笑った。
「でも先生、それは、ちょっと」
慎二はニッコリしながら頭をゴリゴリ掻いた。
背中のランドセルが揺れて小さいキーホルダが青く光った。
葉子はそれを手に取った。
「それは、青い鳥のキーホルダだよ。いい事があるようにお父さんが付けてくれたんだ」
慎二の背中で青い鳥のキーホルダが揺れていた。
慎二は小さく呟いていた「いい事なんか、何もないのに」
運動場の真ん中で慎二の歩みは亀のように遅かったが、葉子の影ともつれ合うように、まぎれも無く真直ぐに教室に向かって進んでいた。
そして、次の日。
慎二は父親と一緒に学校へやって来た。
慈しむように慎二を見つめる父親と、父の影にようになって歩く慎二の姿は葉子の心に影絵のように焼きついた。
父親は教室の入口まで慎二を送って来ると、担任の葉子に申しわけなさそうに軽く頭を下げた。
葉子がその姿を見た時、その面影に、遠い昔の懐かしい写真を見たような不思議な感覚にとらわれた。
いつか、何処かで会った事がある人じゃないかと。
「立花‥‥」
誰だったろうか。
不確かな記憶の細い糸はぷつっと切れたまま、葉子の頭の中で揺れていた。
葉子がその糸の先を垣間見ることは、決してないのかも知れない。
父の足の怪我の原因を思い出す事がないのと同じように。