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最終兵器的彼女  作者: 御影志狼
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第七章


 激しい攻防が繰り広げられる中、相手の死角から練成した魔術を繰り出し、それを阻もうと同じく練成した魔術で相殺させる。

 互いの力量が均衡しているため、決着をつけることが中々出来ずに、時間だけが流れていった。

 自分の持つ力を存分に発揮し、肉迫し、ぶつかり合う。

 それは、他者が見れば、心の籠った、剣劇のようにも見えたかも知れない。

 それほど、両者の戦いは華麗であった。

 鮮血が飛び、刀とナイフの刃が激しくぶつかり、火花すら飛びそうな迫力に、生唾を飲み干すことであろう。

 そして、二人の身体から噴き出すような殺気によって、身を竦めるはめになるのだ。

 いや、それだけで済むなら、まだ良いだろう。

 最悪、二人の殺気によって、物言わぬ人形と化すかも知れない。

 それほど激しい戦闘が、起こっていた。

「チィッ……!」

 舌打ちし、隠し持っていたナイフを幾つも投擲する。

 一投げで、三本を投げ、その全ての軌道を読んで、アガンは軽やかにステップを踏んで避けた。

 そのステップが乱れることはなく、流石のブラッドもうんざりするほどの手足れであると、認めざる得なかった。

「いい加減ッ、くたばれッ!」

 相手の間合いに入るが、肉を切らせて骨を断つ覚悟で、懐に入った。

 切られる覚悟がないと、倒せそうもない相手だと、認めるしかなかったからだ。

 思ったとおりに、アガンがその隙を逃すはずはなく、刀が眼前に迫ってくる。

 それを、突っ込むスピードを殺さないまま、刀を振り切った右とは逆の、左に身体を反転させ、勢いに乗ったまま、ナイフを突き出した。

「クッ……!」

 横腹を抉るつもりで突き出したナイフを、そのアガンはギリギリで避わす。そして、それからすぐにまた、反撃に出た。

 飛び退いたかと思うと、再び近場にいるブラッドに猛追する。

 その気迫といえば、流石のブラッドも一筋の汗を流すほどのものだ。

「なぁんか、よっぽど頭にキてるっぽいなぁ?」

 からかい口調で余裕を見せてはいるものの、内心は穏やかではない。

 けれども、

「久しぶりに手応えありすぎて、興奮しそうだ!」

 強い敵ほど、殺し甲斐のあることはない。

 久々の獲物に、ブラッドの心は躍り狂う。

「フン……精々ほざいていろ。貴様が地面に伏した時、同じ気持ちでいるのか、俺が確認してやろう」

 炎のように猛るブラッドに対して、アガンは何処までも氷のようだった。冷たく凍りつき、絶対零度の圧力が、その身から滲み出る。

 その姿はさながら、怒れる獣が唸り声を上げているかのようだった。

「アイス・ブレッド!」

 繰り出す魔術が、数多の氷の粒を放つ。

 粒といっても、それは拳大ほどのもので、もちろん、当たれば無事で済むはずのない速度で、ブラッドに向かって飛来していく。

「冥府に住まう、冥界の王よ……業火によって万物全てを焼き尽くせ!」

 瞬間、激しい水蒸気が両者の間に生じた。

 氷はブラッドの炎によって溶かされ、それが水蒸気となり、更に蒸発していく。

 熱風が吹き荒れ、それが止む前に、既に次の手を二人は打っていた。

 ブラッドはナイフを投擲したと同時に魔術を発動させ、二種類の攻撃をアガンに仕掛ける。

 アガンもまた、魔術を練成し、二つの攻撃を防ぎきったと同時に、抜刀した。

 一歩も譲らない戦闘に、二人は徐々に疲弊していった。

 だが、それでも倒れない。

 いつの間に傷ついたのか、両者の身体には幾つもの傷が走っていた。

 魔術で完璧に防御し切れたわけではなく、小さな傷は、やがて出血を呼んだ。

 滴り落ちる血も顧みず、肉迫し続ける二人。

 ブラッドは心底愉しむかのように笑み、アガンは冷めた表情でブラッドに応戦する。

 その、ブラッドがふと、表情を改めた。

「な、にッ……!?」

 信じられない痛みが、アガンを襲った。

 完全に防護し切ったと思っていた攻撃が、アガンの腹部を直撃し、後方に吹っ飛ばされる。

 腹を貫き、腸が飛び出すほどの衝撃と激痛がアガンを襲い、一瞬息が止まる。咳き込んだとともに、吐血した。

「どういうことだ、って顔だな?」

 一方ブラッドもまた、右手にかなりの痛手を負っていた。

 皮膚は爛れ、指の骨すら見え隠れしている。

「貴、様……一体、何をした?」

 右手に舌を這わせ、舐め癒しながら、ブラッドは至極当たり前のように言葉を紡ぎ出した。

「別にー、大したことはしてないさ。練成した魔術に、最も難しいとされる、死の術を施しただけだ。即死魔術は禁忌の上、扱いが相当難しいとされているが……俺は、火の神官でもある、冥界の星を守護に持つ人間だからな……多少のリスクはあったが、それでてめぇを倒せるなら、安いもんだ」

 舐めてすぐに癒えるわけではないが、それでも痛みが幾分引いたのか、ブラッドは地面に倒れたアガンを、気分良さそうに見下した。

「……その即死魔術に、お前の得意とする炎術を重ねて攻撃したのか……」

 何処か呆れたように、アガンが呟いた。

 しかし、その間にも血液は体外へと流出し、体温が奪われていくのをアガンは自覚していた。

「そういえば、お前の出身は……元々、冥界の王・ネルガルを都市神とし、崇めていた土地だったな……」

 その言葉に、ブラッドは怪訝そうな表情を浮かべる。

「なんで、てめぇがそんなこと知ってんだよ?」

 純粋に驚き、尋ね返すブラッドに、アガンは僅かな苦笑を漏らし、ゆっくりと立ち上がった。

 腹部には完全に穴が開き、ブラッドの攻撃は貫通していた。

 先ほどから治癒魔術を施してはいるが、一向に効き目がないとくると、どうやら自分の死期が近づいているらしいと、アガンは認めざる得なかった。

「気にするな……俺も、お前たちと同様、似たような時の長さを生きている……」

 そう言いながら、アガンは刀を鞘に収め、再び構え直した。

「まだ、ヤるってのか?」

「―当然だ。少しでも、時間を稼いでおきたいからな」

 風前のともし火とは思えない、はっきりとした口調で、アガンは決然と言い放った。

 そんなアガンに、呆れとも、感嘆ともつかない吐息をつき、ブラッドもまた、決着をつけるために、男の要望に応じた。

 両者の間に、銀の煌めきが瞬いた。


 誰かに呼ばれたかのような、そんな気がして、イファルは後ろを振り返った。

「どうした、イファル?」

 足が止まり、妙に背後が気になっているイファルに、多少回復したらしいラキルトが、怪訝そうに声を掛ける。

「いや……今、誰かに呼ばれたような気が……」

 不思議と、胸騒ぎのようなものを感じる。

 何か、良くないことでも起きたかのような、そんな―。

 それを、イファルは頭を振って消した。

 先を急がねばならなかったからだ。

「なんでもない、行こう」

 後ろ髪引かれる思いを断ち切って、イファルは再び、最上階を目指して階段を登り始めた。


 既に誰もいなくなった空間で、アガンは地面に倒れ伏したまま、絶命していた。

 心臓は完全に停止し、肉体が滅んだ状態にあった。にも関わらず、意識があるのは、彼の持つ魔力が、計り知れないほど、強大であったからだ。

(…………死んだか……)

 妙に感慨深げに、アガンは呟いていた。

 魂だけとなった身体は、肉体から離脱し、視線を落とせば動かなくなった自分の骸が転がっている。

 それが妙に笑えてきて、アガンは唇を歪めた。

(………………結局、最後まで見届けることは出来なかったか……)

 寂しそうに笑んで、アガンは虚空を見つめ、ある一人の青年の顔を思い浮かべた。

(……まぁ、それもまた、必然―か)

 どうせ、全てが自分の知る人物の掌で、踊っているに過ぎない出来事なのだと、アガンはその場から消失する寸前に、拳を握り締めた。

(だが……いつか……)

 秘めた決意を口にすることなく、アガンはこの世から消え去った。

 水色の光に包まれて……。


 多少時間を食ってしまったが、何とか転移移動をすることに成功したアルとエティは、ホッと安堵の息をついた。

「ここは……?」

 背後には螺旋の続く階段があり、相当の高い場所にいることが知れた。

「都合良く、最上階に辿り着けたみたいね……ルキウスの魔力の波動を探って着てみたけど……なんだか、変な感じね」

 周囲を見渡し、扉以外、特に目につくものがないと判断したエティは、早速荘厳な雰囲気を漂わせている扉に手を掛けた。

「変って、何が?」

 魔力が備わっていても、肝心の制御の仕方も、相手の魔力の波動を感知するといったことに疎いアルには、エティの言っていることが分からない。

 それに苦笑しつつも、エティは口を開いた。

「ルキウスの気配が全く稀薄なのよ……でも、確かにここにいるって、告げてる。だから、変だって言いたいの」

 言いながら、扉を開けようと、押そうとした瞬間、弾かれたように、エティはその手を引っ込めた。

「どうした?」

 思わず、アルが尋ねるほど、エティの表情は劇的に変化していた。

 顔面は蒼白で、恐怖に染まっていた。唇すら紫に変色し、寄せられた眉が、状況の厳しさを表していた。

「おい、エティ?」

 肩に触れると同時に、呪縛から解かれたかのように、エティはアルに縋りついた。

「か、帰ろうッ、アル! ここにいたらヤバイよ……!」

「はぁ? 何言ってるんだよ。オレたち、何のためにここまできたと思ってるんだ?」

 突然帰ろうと言い出したエティを笑い飛ばして、アルはエティの身体から離れた。

「馬鹿言ってないで、さっさと行くぞ」

「駄目ぇ!」

 エティの静止も聞かず、無造作に扉を押し開けたアルは、その瞬間、思いもよらない気配に身を竦ませた。

 それは殺気とも、闘気とも違う、もっと別の……得体の知れない気配だった。

(なん、だ……!?)

 その気配だけで、アルはその場から動けなくなっていた。

「太陽の替え玉か……入ってくるがよい」

 立ち尽くす二人以外の声が、扉の向こうから聞こえてきた。

 耳にするだけで、気の遠くなるような、神々しさに満ちた声が。

 次の瞬間、全身がまるで何かに操られるかのように、アルとエティは足を踏み出していた。

 足を踏み入れた刹那、視界に映ったのは巨大な木でもなく、青白い光でもなかった。

 巨木を背後に、静かに、だが、泰然と佇んでいる知らない男の姿を、アルとエティは一も二もなく捉えていた。男は全身が発光しているかの如く、荘厳な雰囲気を放ち、此方に青みがかった銀色の眼差しを向けていた。

 同色の髪が、風がないのに靡くように動き、手にしている巨大な大鎌の煌めきが、酷く印象的だった。

 まるで、一枚の大作と呼ばれる絵画を鑑賞しているかのような、錯覚を覚える。魂すらも抜かれて、目の前の男に視線を奪われる。

 そんな二人を、男は薄い唇を動かして、面白そうに笑った。

「金星が補助に回っているようだが……以前の太陽と比べると、見劣りせざる得ない、な……目鼻立ちも、不愉快なほどに共通してはいるが……しょせん、私の敵ではない」

 何気ない仕草で、放たれた相手の攻撃を、避けることが出来たのは、今までの特訓の成果か、それとも単なる偶然か―相手は手を二人に向けて翳し、その手から突然放たれた光線に、アルは右、エティは左に退くことで避けることが出来た。

 一瞬でも遅れれば、命はなかったであろう、閃光であった。

 証拠に、その閃光が当たった扉付近は、瞬く間に溶解し、巨大な穴を生み出していた。

「な、何よッ……コイツ!?」

 ブラッドに感じた時以上の、恐ろしさにエティは震える。

 アルも、そのエティの心情は理解出来たが、ここで引くわけにはいかなかった。

 蹴落とされる男の気配を振り切ろうと叱咤し、あくまで戦う姿勢を崩さないアルに、男は興味深げに目を細めた。

「……その目つき、ますますあの男を思い出させるな……忌々しい、シオル・ジュビリー……私の(にく)(どこ)となる器、ルキウス・ブランクスを封印した、忌むべき存在にな」

 過去を振り返る男の双眸が私怨を抱くように、禍々しく瞬いた。

 けれども、アルとエティはその言葉に愕然となり、信じられないものでも見るように、男に視線を集中させた。

「ま、さかッ……お、前は、お前が、ルキウスなのか!?」

 男の台詞は、まさしく、自分がルキウスであると指しているような内容だったためだ。

 だが、それを認めるほど、アルとエティは頭の回転が速くはないし、まして信じられなかった。

 それほど、ルキウスの容姿とは異なった容貌を、男が持っていたからだ。

 ルキウスの容姿も、確かに常人に比べると遺脱された美しさを誇っていた。華美にはならず、あくまで清楚な印象を人に与え、また、耽美な部分も持ち合わせていた。だが、目の前の男は、そのルキウスすら凌駕する容貌を備えていた。

 目、鼻、唇、眉毛に睫毛……毛の一本に渡るまで、細微に美が備わっているまさに完璧なる美の化身。更にそこから、『神』と称するに相応しい威厳を漂わせているのだ。

 そんな男をルキウスと、単純に認めてしまうわけにはいかなかった。

「何を驚く? 月の神官でもあったルキウス・ブランクスの中に、私がいることはごく自然だと思うが? 確かに、ここまで私の力を引き出せたのは、あの男が初めてだが……それに、夜空の月が消えなければ、私は地上に現れることが出来ない。そういう条件だからな」

「一体、あんたは何を言っているんだッ?」

「…………今度の太陽は、鈍いな。だから、私が復活するのを、阻止出来なかったのだろうな……良いだろう、教えてやる。私は『月』と呼ばれる存在で、この星に住む、あらゆる生命の運命を司る神でもある。その私が、星の終末日を決定した矢先、それを察知した太陽が、私を氷柱の中に閉じ込め、封印した。星の終末を阻止するためにな……転生したと言っても、しょせんは人の子か……あれは、この世界が滅ぶことを避けたいと言い、私を閉じ込めたのさ。親友でもある男の肉体ごと、な……」

 遡る記憶を淡々と吐き、目の前の男―月は、更に続けた。

「この身体の持ち主は、私を宿していることを知らない。感づかれるほど、私は間抜けではないが、太陽の方はそうもいかなかったようだ……自分の中に眠る力を利用し、更には終末の事実にまで行き着いた。月が地上から消え―つまり月蝕の起こる時、私は地上に姿を現すことを知った男は、その寸前で、私の血肉となる肉体を、自らの力を最大限に振り絞り、封印することに成功した。五千年という時が流れ、この身体が朽ちることはなかったが、逆にそれが仇になったな……滅べば別の者に転生すれば、終末の審判を下せたのだが、それを計算した上で、男は私を封じたのか……それとも、ただ単に、親友は殺せないという、甘さが出たのか……どちらにしても、その力も永遠には続かなかった」

 男は長い独白を終え、ちらりと、アルの方に視線を向けた。

「そのために、奴は替え玉を用意していた。アル・ディールという名の、太陽をな」

 突きつけられた事実に、またも驚愕するアルだった。

 ルキウスに親友に似ていると驚かれた時も、ブラッドにその男と比べられたことにも、更には《フェルスレント》にて、杖を託された時にも、アルは何故だか言いようのない不快感を抱いていた。

 だが、月の言葉で、全てに合点がいった。

 要するに、自分は、シオルの身代わり―後釜だったのだ。

 他人の代わりと言われて、喜べるはずもなく、心は、自分ではなく、シオルの代わりとして見られる苦痛に傷ついた。

 ルキウスの視線が、シオルにしか向いていないことが辛く、アルはただ、自分のことを見て欲しかった。誰かの代わりではない、自分自身を。

 ブラッドに何を言われようが、我慢は出来るが、ルキウスにそう思われることが何よりも辛かった。

 ルキウスのことが、好きだから。

「だが、その使命をお前が果たすことはない」

「黙れよ!」

 言い切る月に向けて、猛々しい闘気を放ちながら、アルは啖呵を切った。

「使命だろうが、なんだろうが、オレには関係ない! さっさとルキウスを出せ!!」

「アル…………」

 激怒するアルに、エティは相手の名を呼ぶしかなかった。誰よりも、アルのことを理解しているため、彼の怒りの意味を、エティは知る。だから、止めることも出来なかった。

「それは出来ない相談だな。アレはもう、深い眠りの深遠についてしまっている……叩き起こしたいのなら、私を倒すしかないな」

 もっとも、それがお前に出来るかと、愉しむかのように問う月に、アルは不屈の闘志を燃やしながら、きっぱりと言い切った。

「あぁ、ヤッてみせるさ!」

 言い終えた瞬時、アルは(シン)に挑んだ。


 螺旋を描く階段を登りつめたイファルは、息を切らしながら、目に映る光景に愕然となった。

 いつの間に先を越されたのか、アルとエティがいて、更に見知らぬ男が二人に向けて容赦のない攻撃を加えていたからだ。

「アルッ、エティッ!?」

 青みがかった銀髪の男に善戦しているとはいえ、かなりの分が悪かった。

 魔力を持たないイファルでも、知らぬ男の身体から迸る力に、圧倒される。

 それでもなんとかホルスターに手を伸ばして、銃を構えた。

 発射される弾は確実に男へと向かったが、相手は特に気にした風もなく、あっさりと弾を避け、ちらりと、こちらに視線を寄越した。

 その刹那、電流が身体に駆け巡ったかのような衝撃が、イファルを襲う。

「なッ……!?」

 肩膝をつき、先に立つ男の顔を見ると、相手は薄く微笑を浮かべていた。背筋の凍るような、微笑みだった。

「『外なる神』を守護に持つ者と……なんだ、単なる人間風情か」

 つまらないものでも見るかのように男に見られ、イファルはカチンと頭にきた。

 だが、文句を言うことの出来る相手ではないのは、一目瞭然だ。

「…………まさか、貴方は……!?」

 姿を現していたラキルトが、驚愕に目を見開き、信じられないかのように身体を後退させた。

 その瞳には紛れもない恐怖が滲み出している。

「―月……」

 ぽつりと、一言漏らしたきり、ラキルトは恐怖で動かなくなってしまった。

「流石は、知恵と魔術を司るトート神だけはあるな。他の神の知識まで持つ、か……そう言えば、お前は太陽と似たような性質を持っていたな……貪欲に知識を吸収しようとする、あくなき好奇心。しかし、それが結果的に自身の身を滅ぼすこととも知らずに、な」

 手にしている巨大な鎌を細腕で支えながら、開いた手で男は自身の髪を梳くってみせる。

「…………ルキ、ウス」

 動かなくなったラキルトは、呆然と、愛する者の名を、男に向けて言い放った。

 それに、今度はイファルが愕然となる番だった。

「な、まさかッ!?」

 先に行ったはずのルキウスの姿は先ほどからなかった。そのルキウスこそが、目の前のこの男なのかという、純粋な驚きに見舞われたための、動揺の声が、イファルの口から零れ落ちた。

「……間違いない。あれは、ルキウスだ」

 ラキルト自身も動揺を隠せないようで、その声は震えていた。だが、確かな確信を持ってして、事実を口から搾り出した。

 薄紫の髪、萌葱色の瞳。華奢で、中性的な顔立ち―そのどれも当てはまらない容姿であるにも関わらず、ラキルトはそう言い切った。

「ざ、けんなッ……オレは、認めねぇぞ!」

 そんなラキルトの言葉を、イファルではなく、地面に倒れていたアルが否定した。

 月の攻撃を受けて、衝撃に悶え苦しむアルは、それでも歯を食い縛って、精一杯足掻くかのように、立ち上がった。

「アル?」

「誰が、認めるか……さっさと、ルキウスを出しやがれ!」

 アルの元へと駆け寄り、手を貸そうとしたイファルの腕を払いのけ、アルは月をまっすぐに見返したまま、嚇怒していた。

 そんなアルは馬鹿にしたかのように、佇む男はやれやれと、肩をすくめてみせた。

「分からない男だな……頭が悪すぎる」

 言いながら、男はアルたちに向けて、手を翳した。

「いかん!」

 瞬時に魔術を練成し、ラキルトが男の放つ攻撃を防御する。それに加勢するかのようにエティも魔術を練成し、アルたちの前ですさまじいエネルギーの攻防が、繰り広げられた。

「おいっ……アル! お前もう少し冷静になれ!」

 たとえ冷静になっていたとしても、目の前の男に太刀打ち出来るとは、イファルには思えなかったが、それでも今のアルの状態は、あまりにも我を失い過ぎていた。

 普段の彼からは想像のつかないほど、激怒し、完全に頭に血が昇っている。

 これでは、出せる実力は空回りするばかりだ。

「―なってるさ、オレは、これ以上にないくらいに、な!」

 イファルの見覚えのない杖を構え、アルは銀色の男に向けて、魔術を放った。

 白銀の煌めきがイファルの視界を覆い、瞬間、爆発音が耳に轟く。

 イファルが目を開けた時、銀の男の立っていた場所は完全に消失し、床は抉られていた。

 だが、それでも男は生きていた。

 まるで何事もなかったかのように空中で静止し、矮小な存在でもある人間を、馬鹿にしたかのように見下した視線を向けながら。

 その男の姿が、再び消失する。

 飛来してきたナイフを避けるためだった。

「えッ……?」

 新たに介入してきた第三者に、アルとイファル、エティは異口同音に声を漏らしていた。

「……………………ブラッド……」

 その名を口にしたのは、ラキルトだった。


 ある意味神と名乗る男よりも尊大な態度で、紅蓮の炎を纏う男は、全員の前にその姿を現した。

「冥府の王か……、役者が揃ったな」

 第三者の登場を、むしろ喜ぶかのような響きで、月は唇に弧を描いた。

「―一体、どういうことだ、これは?」

 その月を無視して、ブラッドはラキルトの方に視線を向ける。

 一方、ブラッドがこの場所に姿を現したことにより、イファルは絶え間ない不安に駆られていた。

 自分とラキルトを先に行かせるために、ブラッドと対峙することとなったアガンの姿が見られず、その代わりにブラッドが自分の視界に映っていたからだ。

 まさか―と、認めたくない懸念が、イファルの脳裏を横切った。

「手ごわいオッサンを始末して、遅れて乗り込んできたと思えば、ルキウスの姿はない。その代わりに変わった男がお前らを殺そうとしている……」

「…………その変わった者こそが、ルキウスだ」

 月という存在についての知識を持つラキルトは、やや呆れたようにブラッドに端的に事実を教えてやった。

 そして、イファルはその言葉に凍りつく。

 始末、それはつまり……。

「…………嘘、だ」

 アルを支えた状態のまま、イファルは呆然と呟いた。

「あぁ? ああ、そういえば、お前とあれは、つがいの関係だったな……残念だが、俺がここに立っている時点で、結果は言わなくとも分かるだろう?」

 勝ち誇ったブラッドの顔を見た瞬間、イファルは我を忘れて、襲い掛かっていた。

 引き金を引き、数発の銃弾をブラッドに向けて放つ。そして、そうしながら、ブラッドに、こともあろうに、接近戦を挑んでいた。

 結果は言うまでもなく、イファルは地面に突っ伏して、その身体をブラッドが踏みつける状態に終わっていた。

 世界が反転し、まるでこの世が終わったかのような悲壮な表情で、イファルは天井を見上げていた。

 天窓が存在し、夜空を埋め尽くす星空。そして、消えた月の存在を、視界に映したまま、イファルの思考は完全に停止した。

「―これで、役者は揃ったのだろうな」

 この世の者とは思えぬ美声で言い放つ、月の言葉が、何処か遠くから聞こえてくるように、イファルは感じた。


 ただ暗い闇の中に沈んでいた。

 何処までも静かで、眠りを妨げる音もなく、無音で、静寂だった。

 自分は多分、眠っているのだろう。

 その自覚はあるものの、眠っている感覚の中で、聴覚だけが鋭敏になっているような気がしてならなかった。

 音もないのに?

 だからかも知れない。静か過ぎて、逆に眠れないのだ。

 けれども、今の自分には眠る以外、することがなかった。

 身体を丸めて、小さく小さく、(うずくま)る。膝を抱えて、瞼をきつく閉じ、決して目を開こうとは思わなかった。

 開くのが怖かった。もう二度と、光を見ることがないと、ルキウスには分かっていたからだ。

(……静かだな)

 ずっと抱いていた感想を、胸中で漏らした。

 不気味なほど閑寂(かんじゃく)で、寂寞(せきばく)とした思いが胸一杯に広がった。

 酷く、泣き出してしまいそうになる。

(確か、こんなこと……前にも)

 ふと、過去を振り返り、ルキウスはそうかと納得した。

 親友の手によって、長い眠りにつかされた時を思い出したからだ。

(あの時も、こんな闇の中でずっと独りぼっちで……静かだった)

 肉体の時は完全に止められてはいても、精神までは完全に止められていたわけではなかった。夢現(ゆめうつつ)に、自分の状態を思い、その度に親友のことを想った。

 何故、どうして? と。

(だけど……今なら、彼の気持ちがよく、分かる……)

 自分とは入れ違いに表に現れた男。

 その強大な存在を、ルキウスは初めて感知することが出来た。

 そして、自分の生きる世界での、月の役割を、ルキウスは理解した。

(僕も、君と、同じだ……)

 もし仮に、自分が親友の立場であったとしたら、彼と同じ道を、自分は取っていただろう。自分の生きる世界が滅んでしまうからではない。

 ラキルトやブラッド、他の神官たち……そして、王のいる世界。何より、親友が生きているこの世界を、崩壊へと選択することは、ルキウスには出来なかった。

 そのことで、親友自身の時を止めてしまうことになっても。

(僕は……皆のいる、この世界が好きだから……)

 だから、滅んで欲しくなかった。多分、親友も同じ気持ちだったのだろう。だから、ルキウスの時を止めてしまったのだ。

 月の降臨を防ぐために。

 しかし、それも五千年の時が限界だった。

 五千年の時が経過した今、再び月は復活してしまった。今度は、完全にこの世に降臨し、審判者としての鎌を振り下ろすためだけに。

 その目覚めた神の化身を、今のルキウスには止める術はなかった。

 自分の中に月がいる時点で、それを防ぐことは、ルキウスには無理だったのだ。普段は、自分の精神が勝ってはいても、月蝕の時がくれば、精神の形勢は逆転される。

 何よりも、月が地上に姿を現すことの出来る条件が、月蝕の時であるのなら、その月蝕を阻止するか、あるいは月が血肉の器としている肉体をどうにかしない限り、月の降臨は避けられない。

(だから、シオルは、その道を選んだんだ……)

 ルキウスを、封印する形で、月の降臨を阻止する道を。

 親友のしたことは、間違っていないと、ルキウスは思う。けれども、寂しいとも、思える行動だった。

 自分を封印したことが、ではない。何も告げずに、実行したことが、ルキウスには哀しかったのだ。

 せめて一言、告げさえしてくれれば、ルキウスは誤解せずに済んだのだ。親友を一瞬でも疑ってしまうような愚考など考えず、それどころか、喜んで時を止めることに関して承諾していたであろうに……。

 水臭いと言えばそうだが、簡単に告げられるような内容でないことも確かだった。

 あの気難しい親友のことだから、随分悩んだことだろうと、ルキウスは胸中で苦笑を零した。

(…………逢いたいな……)

 何のためにここまできたのか、本来の目的を思い出したルキウスは心底、そう思った。

 ここにくれば、逢えるという確信だってあったのだ。シオルの気配を感じ、ここにいると断言出来るほど、期待に満ちて。

 しかし、実際にシオルの姿は何処にも見当たらなかった。ラキルトのように、あるいは魂だけの存在となって、待っていてくれるかも知れないという僅かな期待も抱いたが、それは脆くも崩れ去ってしまった。

 発光する大樹に、自分の愛用していた杖。

 そして、月の存在を目にした時に、ルキウスの時は再び凍結した。

 月の復活により、自分の身体を支配している者が、自分ではなくなった瞬間、ルキウスは諦めてしまった。

 どうあっても、抗うことの出来ない実力の差を見せつけられたかのようだった。

 悔しい、と思う前に、仕方ないという諦めが勝ってしまっていた。

 だから、ルキウスは今、こんなにも深い闇の中にいるのだ。

 これが現実だと、自分に無理やり納得させて。

(本当に、それで良いのか?)

 不意に、流れてきた声が、ルキウスの聴覚を刺激した。

(……仕方ないよ。僕には、月には勝てないから……)

 無意識の内に言葉を返して、そこでルキウスは初めて我に返って、瞼を開いた。

 その瞬間、視界に広がるのはまたも深遠の闇。身を竦ませるほどの深い黒さに、身体を震わせつつも、続けて響く声に、耳を傾けた。

(君が諦めれば、全てが終わるぞ?)

(―誰? その、声…………まさか!?)

 ある疑念を抱いたルキウスの前に、それが姿を現した。

 初めは、闇の中を照らす、眩いばかりの光だった。

 金色に光るようにも見え、紅蓮の光にも見えた。しかし、実際は何処までも白色で、ルキウスの視界は一瞬光によって覆いつくされ、視覚を失う。目が眩んだのだ、あまりにも眩い光に包まれ、涙さえ零しそうになる。

 それは、歓喜に満ちた、涙だった。

(―シオルッ!)

 ずっと、待ち侘びていた姿だった。

 絶対に逢うと決意し、ずっと捜していた相手の姿を視認した瞬間、ルキウスは駆け寄って、その身体を強く抱き締めていた。

 精神体である状態ではあったが、意識をすれば、他者に触れることも可能だった。

 相手は、確かに手応えを持って、ルキウスの背中に腕を回してきた。

(ずっと……ずっと、僕は君に聞きたかったんだ)

 涙が止まらなかった。その涙が流れるままに、言葉を紡ぎ出し、きつく相手の身体を抱いた。

(あの時、君の言っていた言葉、そして、僕を封じ込めた、その真意……だけど、今なら、僕にも分かるよ)

 月という存在を、知ってしまった今だからこそ、ルキウスには親友のとった行動を理解することが出来た。

(………………すまない)

 対してシオルは、あの時と同じように悲壮な表情で、悲痛な声を吐息のように漏らした。

(謝らないで……君のしたことは、正しいよ……だから、君は悪くないんだ)

(…………それでも、ごめん)

 謝り続けるシオルの背を何度も撫でて、そんなことする必要はないと、分かってくれるまで何度も続けた。

 自分も苦しんだのだろうが、何より、シオル自身も苦しんだことが、ルキウスには分かっていたから、だから、許せた。

(……本当は、僕は君をこの手で、殺そうかとも思ったんだ……君が、月だから、月は、この世界の終末を下す存在だから……だから、それを知った時、僕、は…………)

 昔と変わらない姿のシオルの顔を見ようと、ルキウスはそっと身体から離れて、相手の顔を仰ぎ見た。

 泣きそうなほど顔を歪めたシオルは、痛ましく、ルキウスには思えた。

(僕は、君を殺し、世界の終末を防ぎたかった…………だけど……出来なかった)

 一筋の涙が、シオルの頬を伝って流れた。

(世界を救う手段として、君の死を選択することを一度は望んでおきながらも、僕にはそれが出来なかった……)

 流れ出す涙に触れ、ルキウスは再びシオルの身体を抱き締めた。これ以上は、口にしなくていいと、分かっているからと、口ではなく、身体で告げるために。

(ごめん……ルキウス…………本当に、ごめん)

 最後は嗚咽になり、シオルは拳を握り、自分の行為を悔いるかのように、身を震わせて泣いた。

(僕は、君の選んだ選択を、間違っているとは思わない……だから、そんなに自分を責めないで、シオル……君が一言、言ってくれさえすれば、僕は喜んで、世界のために、君のために、死を選ぶことだって出来たさ)

(……世界を守るために、君に死ねと言えるほど、僕は冷酷にはなれなかった。それ以前に、そんなこと、言えるはずがないだろう)

 けれど、言ってくれなければ、ルキウスはシオルのことを誤解せずに済んだのだ。裏切られたと、絶望するくらいならいっそ、世界のために死んでくれと言ってくれた方がましだった。

 そのことを告げると、シオルは何とも難しい顔になり、言葉を吐き出す。

(…………どの道を選んでいたとしても、僕は君に酷いことをしたんだ……もしかしたら、君を殺していたかも知れない……そして、結果的に殺しはしなくとも、君の時を長く眠らせてしまった……後悔、しているわけじゃないけど、君には怨まれても仕方がないと思っている……謝って済む問題でもないことも……けれど、今の僕には、頭を下げることしか出来ない……)

 本当に済まない、と何度目かの謝罪に、ルキウスは泣きながら笑みを作った。相手の変わらない誠実さを嬉しく思う、そんな笑みだった。

(もう、良いから……それよりも、僕は、君がいてくれれば、なんだって出来そうな気がするんだ。だから、来てくれて、とても心強いよ……)

 諦めていた心を奮い立たせて、ルキウスは新たな決意を胸に秘め、彼にしては珍しい、激しい闘志を燃やして、頭上を見上げた。

(諦めてしまったら、全てが終わってしまう……僕は、アルやエティ、イファルたちのいる、今の世界を守りたいから……だから、もう、諦めないよ)

 決然と言い放つルキウスに、シオルは眩しそうに目を細めて、静かに頷きを返した。

 月が放つ、冷たい蒼白い光とは別の、暖かくすら感じられる月光を放つルキウスと同調して、彼もまた遥か頭上を見上げた。

(そのために、僕も手助けをするよ)

 まだ、世界は終わってはいない。


 役者は揃った、そう口にする月に向けて、馬鹿にしたような視線を、ブラッドは浴びせていた。

「てめぇ、つまらねぇこと言ってねぇで、さっさとルキウスを出せよ」

 ブラッドが欲するものはあくまで、ルキウスだけであり、その他はどうでも良いことだった。だから、ルキウスの肉体とはいえ、全く異なる外見を持つ男になど、興味はなかったのだ。

 そんなブラッドに、月は苦笑を唇の端に刻んだ。

「中々、面白い男だな、お前は。言っていることは太陽と変わらんが……少なくとも、お前には、それなりの実力がありそうだ」

 他者の力量を見極める眼力を月は持ち、正当な評価をブラッドに下した。

「太陽ぉ? あぁ、見ててムカつくぐらい、あの野郎にそっくりな、雑魚のことか?」

「なんだとッ!?」

 容赦ない謂れに、アルは苛烈なほどに反応し、手にした杖を構えた。その杖に見覚えがあるのか、ブラッドの表情が僅かに変化する。

「―へぇ、それを持ってるってことは、多少なりとも、まともに魔術が使えるようになったってことか? ……お前はあの時殺し損ねたからな……丁度良い、ここで、葬ってやるよ」

 イファルの身体からようやく足を退けて、ブラッドはアルの方へと向き直った。

 そこへラキルトが移動し、地面に転がっているイファルを守るように、彼の傍らに立つ。

「望むところだ!」

 すっかり息巻いているアルに、エティは吐息をついて、彼の補助に回ろうと、背後についた。なんだかんだ言って、自分はアルに惚れているのだから、こんなところで死んで欲しくなかったし、アルの手助けがしたかった。

「―が、意気込んでいるところ悪いが、俺の用事はどうやらお前が先じゃあないらしい……そこで、偉そうに俺らを観察している、てめぇだよ。…………ラキルトの言うことが確かなら、あんたにはお帰り願いたいんだけどな、そのルキウスの身体から。その身体は、俺のものだからな……あんたが居座る許可を、俺は下していない」

 傲慢不遜な態度で、昂然と言い放つブラッドに、月はますます面白そうに表情を崩した。

 心底愉しんでいる者の表情だった。

「本当に面白いな、お前は……そこまで言うのなら、遊んでやっても構わないぞ? 五千年前に受けた神託に、今も従い続けているお前は、盲信的なほど、マルドゥクを信じているようだしな」

 月の言葉に、アルとエティは意外の表情を浮かべて、ブラッドの方を見た。この、傲慢な男が、以前の主神を信仰しているとは、どうしても思えなかったからだ。

 どうみても、信じるものは己のみ。自分の意志を貫き通すような生き方をしているブラッドが、盲信と言われるまで、神を信仰する姿が、二人には想像が出来なかった。

「…………別に、信じちゃいないさ」

 二人の思った通り、ブラッドは月の台詞を否定した。

「神託など関係ない。俺が、奴を欲している、だから、ルキウスは俺のものなんだ……神託はあくまで口実に過ぎない」

 狂おしいまでに想い続けた。初めは、ただ単に、シオルといつも一緒にいるルキウスもまた、気に喰わない相手だと思っていたに過ぎなかった。

 けれど、いつからだろう……気づけば、目で追うようになるほど、想い焦がれるようになっていた。

 そう、ブラッドもまた、確かにルキウスのことを愛していたのだ。ラキルトのように、見守るような形ではなく、自分の手元に置きたいと、全てを支配したいという欲望を胸に秘め続けてきたほどに。そして、授かった神託により、ルキウスの相手に選ばれたことに、ブラッドは狂喜乱舞した。

 これで、公私共に認められたのだと、ルキウスの全てを得られると、ブラッドは身を震わせた。

 たとえ、許しがなくとも、いずれブラッドはルキウスの全てを手に入れるつもりだった。

 それを、偶然とはいえ、神が許したのなら、素直に喜ぶべきであろうと、ブラッドは思ったのだ。

 良い結果であったのだから、自分の都合の良い展開になったのだから、今は神に感謝してやろうと―そういうことだった。

「―恋は盲目だと、人は良く言ったものだな……しょせん、愛は人の感情が引き起こす、単なる錯覚に過ぎないものだというのに……冥府の王の器であっても、お前もまた、ただの人に過ぎぬ、か……」

 ブラッドの告白に、全てを察知した月は、興味が削がれたかのように、落胆の表情を浮かべて、手にしている鎌を前へと突き出した。

「『振り翳す三日月の審判』……私がこの鎌を、意図を持って振り翳した時、全ての万物はその生命を絶ち、世界は深奥なる眠りの床に帰する……無論、お前たちとて、それは例外ではない。それを阻止し、私の中で眠るルキウス・ブランクスをお前に、目覚めさせることが、果たして可能かな?」

 試すような月の言葉に、ブラッドは不敵に嫣然と、笑ってみせた。

「当然だろう?」

 神すらも恐れぬ冥府の王は、その言葉を合図に、月に挑んだ。


 その時、イファルの世界は終わってしまった。

 アガンという男が死んだ―たったそれだけの事実が、イファルの思考を奪い、身体の自由を奪っていた。

 全てがどうでも良くなり、何も考えたくなかった……気づけば、あの男の存在が、こんなにも、自分の中で大きくなっていたのだと、イファルはぼんやりと思った。

 自嘲気味に笑みを刻み、こんなことなら、と萎えていた思考を復活させ、思いを巡らせた。

(こんなことなら、あの時……戻っていれば良かった……)

 不安に駆られて、立ち止まり、彼を想ったあの時に。

 後悔ばかりが胸を締め、どうしようもなく、苦しくなった。

 そんなイファルの耳に、激しい戦闘の爆音は届かない。

 凄まじい熱量が身体を襲おうと、突風が吹き荒れようとも、イファルには遠くの出来事だった。

「…………イファル、お前はまだ、彼を見ていないだろう?」

 それもそのはずだった。ブラッド及び、アルやエティが月と立ち向かう際の攻撃の余波を、ラキルトが全部独りで防御して、イファルを守っていたため、イファルには大した怪我もなく、茫然自失の状態でいられたのだった。

 そんなイファルに、ラキルトが静かに問い掛ける。

 実際の彼にはそんな余裕も、時間もなく、破損した彼の本体は、激しい魔力の消耗に、再び音を発して亀裂を生じさせ、ラキルトのこの世での存在自体を危うくさせていた。

 それでも、彼はイファルを守り続けて、言葉を紡ぎ出す。

「自身の目で確認もしていないのに、ブラッドの言葉を鵜呑みにするのか? あれは、性根が腐っているからな……可能性は低いが、万が一ということもある……それに、あの不遜な男が、犬死(いぬじに)するとは私には思えない」

 果たして、慰めになるのか怪しい言葉だった。

 だがイファルにはラキルトが言いたいことが、ちゃんと理解出来ていた。

 自暴自棄になっていたイファルの思考は、たったその一言で、呼び戻されたのだ。

「私がそう思っているのに、お前には、そうは思えないのか?」

 その言葉に、イファルは地面から上半身を起こした。

「…………アンタって、乗せるの上手いよなぁ……」

 呆れたように、イファルはラキルトに言い、左の耳朶で揺れるピアスを手で外した。

 それは、ラキルトに頼んで縮小化させた、バイオリン・ケースだった。

 イファルが望めば、元に戻る……そういう条件で、魔術を練成して貰った、アガンからの預かり物に、イファルは手を掛ける。

 願うだけでバイオリン・ケースは簡単に元のサイズに戻り、手元にずっしりとした感触を与えた。

「―何をする気だ?」

 月の攻撃の余波を必死に防御しながら、ラキルトは問うた。

「さぁ? オレにも分からない」

 自身でこれから行なう行動すら、イファルは自分で理解することが出来なかった。

 ただ身体が動くままに、行動していたのだ。だから、ラキルトの質問に、答えられるはずもなかった。

「―分からないけど、多分、こうすることが今のオレに出来る、精一杯のことだと思う、

から―……」

 こんな楽器など、一度も手にしたことがないのに、触れるだけで妙に馴染むバイオリンを抱え、あごあてに自身の顎をあて、固定させた。

 そして、ケースに同じように収められていた弓を右手に持ち、四本の弦に馬の毛で出来ている弓毛を擦り合わせて、音を出した。

 たったそれだけのことなのに、バイオリンの音を聞いただけで、イファルの胸は高鳴りを覚えた。

 自分がバイオリンを弾けることに、悦びすら抱え、イファルは感情の赴くままに、演奏を奏でた。

 知るはずもない弾き方を知り、聞き覚えのない音楽を奏でることの出来る自分を不思議に思いながら、イファルは心が感じるままに、流れるような流暢な調(しらべ)を、心行くまま演奏し続けるのだった。

 

 変化は突如発生した。

 アルやブラッドを相手にしているにも関わらず、ずっと優位に立っていたはずの月の様子が、激変したのだ。

 それと同時に、エティの身体も一瞬発光するが、それは本人すら気づかないものであったため、無視された。

 その時、月はブラッドに止めを刺そうと、大鎌を持つ手とは逆の手で、相手の腹部を貫いているところだった。

 これには流石のブラッドも、声は出さずにはいられず、喉から慟哭を迸らせ、逃れようと必死に足掻いている最中だった。

 そんなブラッドすらも凌駕していたはずの存在が、突然大鎌を取り落として、頭押さえ込んだのだ。

「や、止めろッ……止めろぉぉぉ!!」

 神と名乗った者とは思えない情けない声を上げて、月はのた打ち回る。

 イファルの演奏を恐れるかのように、何度も何度も絶叫し、月は嘆願の言葉を口にした。

「な、なんだ……?」

 身体中に傷を作りながらも、まだ立てる状態にあったアルは、呆然と事の成り行きを凝視した。

 傍らでアルを支えるエティもまた、不可解な表情で月の様子を窺う。

「……これは……」

 突然の月の変化に驚いたのは、ラキルトも同じだった。演奏を続けるイファルの方を振り返り、彼は聴き慣れない音楽に耳を傾け、ある言葉を呟いた。

「『薄緑色の幻』……」

 それが、イファルの弾く曲の、題名であった。

 それは本来、異国の地に存在する音楽楽器で、ピアノと呼ばれる楽器を用いて演奏される曲であった。

 作曲者は不明だが、古くから異国の土地では愛され続けている曲でもある。

 それを、何故ラキルトが知っているのか、そして、何故この国の人間でもあるイファルが知っているのか―答えは、月が知っていた。

「お前、お前はっ……貴様も、また『外なる神』の力を持つ者だと言うのかッ?」

 驚愕に見開かれる月の姿は、人とあまり変わらないように、アルやエティには思えた。

 純粋に驚き、恐怖すら浮かべている月は、なんら人と変わりなく、矮小な存在だったのだ、実際のところ。

「よせッ! 止めろ、出てくるな! この身体は、私のものだ! 私は、月なのだ!」

 不意に、月の苦しみ方が変わった。

 今まではイファルの演奏を聞かないように、耳を押さえているだけだったが、今度は自身の心臓を抑えて、喘ぐように言葉を繰り返し繰り返し唱える。

 不明瞭な言葉を吐き続け、床に両膝を着き、苦しみ悶え続けること数十秒―、

「止めろぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

 女が発するような金切り声を上げたかと思うと、その突如、月の身体は凄まじい熱量を発し、消失した。

 文字通り、跡形も残ることのない、完全なる消失だった。

「なッ……!?」

 アルもエティも、ラキルトですら、愕然とし、瀕死のブラッドも首を巡らせて、今起きた出来事に驚愕した。

 いつの間にか、演奏は止んでいた。

(…………間に合った、のかな……?)

 静まり返った周囲の沈黙を破ったのは、アルでも、エティでもなく、ブラッドでも、ラキルトでもなかった。

 ましてや、たった今演奏を終えたイファルでもなかった。

「―……ルキウス…………」

 初めに気づいたのは、ラキルトだった。

 他者の魔力に関して、敏感に察することの出来る彼だからこそ、一番に気づくことが出来たのだ。

 月が消失したはずの空間から、薄く、青色がかった物質が、頼りなげに揺れていた。それが徐々に輪郭を露にしていき、形を形成していった。

 それは、ラキルトが言った通り、確かにルキウスの姿を纏う者であった。

(…………良かった……ラキルト、それに……アルも、エティも……)

 零れんばかりの笑顔に、ラキルトは何故だか、込み上げてくるものが胸に詰まるのを感じた。

「……お前は……」

 ラキルトは全てを理解した。ルキウスが何故、そんな状態で現れたかということも、そして、どうしてそうなってしまったかも。

 また、その彼に協力したもう一人の姿を認めて、ラキルトは破顔した。

「あんた、は…………」

 自分と全く同じ顔をした者が現れたことに、アルは呆然とし、相手の顔を見据えた。

(―お久しゅうございます……ラキルト師匠)

 礼儀だしく挨拶する青年こそ、ルキウスの親友でもあり、ラキルトの弟子でもあり、太陽と呼ばれていた神官、シオル・ジュビリーであった。

「逢えたのだな、ルキウス……」

 感慨深く、言葉を吐き出すラキルトに、ルキウスは笑みを作って頷いた。

(はい……彼が助けてくれたお陰で、僕は、闇から逃れることが出来ました)

 そしてその結果、ルキウスの肉体は、月ごと、滅び去ってしまった。その事実を知っているラキルトは痛ましそうに表情を歪めた。

(それと、イファルの協力もありましたから……)

 対するルキウスは、そんなこと問題にもならないように笑顔のまま控えめに、イファルの方を見て言った。そんな意識のなかったイファルは困ったように微苦笑を浮かべる。

「オレは……ただ何となく、弾いてみたかっただけだよ」

 実際、何故自分がバイオリンを弾こうと思ったのか、そして弾けたのか、イファル自身にも良く分からなかった。

 が、結果として、自分がルキウスの助けになったのなら、今は素直に喜ぶべきなのであろう。

(……自覚がないのだろうが貴方には、計り知れない秘めたる力がある。それは、僕たちの持つ魔力とは別の、何かだ。その力に、今回は助けられたのだろう……僕からも、礼を言いたい。ありがとう)

 初対面の相手だが、アルと酷似した容姿を持つシオルに頭を下げられて、イファルはこそばゆそうに頬を掻いた。

「いや……だから、別にオレはそんなつもりじゃ……」

 照れたように言うイファルに、ルキウスは愉しそうに笑ってみせた。

「ルキウス、お前はそれで良いのか?」

 不意に、ラキルトが哀しそうにルキウスに向けて問いかけを発した。

 その意図を知るシオルは、痛ましそうに表情を暗くし、ルキウスもまた、少しだけ寂しそうに笑ってみせた。

(良いんだ……これで、世界が救えるのなら)

「…………どういう、ことだよ?」

 不安そうに、アルが尋ねる。エティもまた、怪訝そうな表情を浮かべ、イファルも次のルキウスの言葉を待った。

(月を消すためには、どちらにせよ、肉体を滅ぼさないと意味がない。封印をまた施せば、いつかまた目覚めてしまう……僕の人格で肉体を滅ぼしてしまうと、月としての魂は残るから、いずれ新たな肉体を得て、月は復活してしまう……だから、僕の肉体を月が使用している時に、滅する必要があったんだ)

 驚くべき告白に、周囲のシオル、ラキルト以外の人間は愕然となった。

 それは即ち、ルキウスの死を意味していたからだ。

「ッ、お前は、それで良いのかよ!」

 信じられないように、アルはルキウスの元に走りより、問い質した。

 対するルキウスは、何処までも穏やかな顔で、アルに頷いてみせる。

(良いんだ……僕は、君たちのいる、今の世界を終わらせたくなかったから……だから、そんな顔をしないで)

 泣き出しそうなアルを気遣うように、ルキウスはそう言って、アルの耳元で囁いた。

「だって…………オレは………………もっと、違う方法が、他になかったのかよ?」

 ルキウスが死んでしまう形でしか、世界を守れない結果など、アルは望んでいなかった。

 ルキウスが死ななくて済む方法を、手段としてアルは、選びたかったのだ。だが、ルキウスの親友でもあるシオルが、五千年前にとった行動こそが、その答えを現している。

 ルキウスの死、或いは眠りは、月を復活させないためには、逃れられない宿命であるのだと。

「………………行くのか?」

 アルは、必死に零れそうになる涙を拭いて、ルキウスに問いかけた。

(…………うん。もう、僕が旅を続ける意味がなくなったからね)

 未練なく死ねたのだから、この世に留まる理由が、ルキウスには見当たらなかった。

 証拠に、迎えの光がルキウスたちを包み込んでいる。

「オレ、あんたから預かってるものがあるんだ……それに、伝えたい言葉も、ある……」

 預かっているもの……それは、《マラン》に入る前にルキウスが脱いだ、マントだった。

 そして、アルがずっと胸に秘めていた想い―それこそが、伝えたい言葉。

「あんたに預かったマントを、返さないとって、思ってて……それと、オレ……その……あんたのことが―」

 しかし、それを伝える前に、ルキウスは首を横に振って、アルの背後に立つ、エティの方に視線を投げた。

(君には、僕なんかよりずっと相応しい人がいるじゃないか)

 その視線が何より真実を語っていた。

「ルキウス……」

 エティが、呆然とその名を呼ぶ。そんなエティに向けて、ルキウスは温かな微笑みを向けて続けた。

(大丈夫、君の中にある悪い病気は、僕が消したから。だから、もう苦しまなくても良いんだよ)

 その病気―アルテミスを消した方法は、エティを包み込んだあの光であることを、彼女は知らない。けれども、ルキウスが嘘を言っていないことが、エティには理解出来た。

 何より、アルにすら告げていないウイルスについて、ルキウスが熟知していたことが、エティを信じさせることに至らせていた。

 ルキウスの言葉を聞いた時、エティは今までルキウスに冷たく接していた、自分の行動を思い出し、酷く後悔した。

 いや、本当はずっと済まないと思っていたのだ。中途半端で、本当の女になれない自分なのに、男であるはずのルキウスが、完璧な女になれることに嫉妬していた。だから、自然とそれは態度に表れていたし、ルキウスもまた、そんな彼女の心理を見抜いていた。

 気づかなかったのは、アルだけだ。

 そして、エティは思うたびに、ルキウスに対して罪悪感を抱いた。

「………………ごめんなさい」

 だから、ここにきてようやく、エティは謝罪の言葉を口にすることが出来た。

 自分の身体が治ったことを喜ぶのではなく、今までしてきた自分を悔い改める気持ちで、ルキウスに対して誠実な気持ちで頭を下げた。

 そんなエティに、ルキウスは首を振る。

(君は、悪くないよ……だから、泣かないで)

 今度はエティの耳元で囁き、その後、ルキウスはラキルトの元まで飛んで、彼の方に手を差し伸べた。

(ラキルトも、行こう?)

 何処へ、とはラキルトは言わなかった。自分もそろそろ限界であることを、彼は自覚していた。

 ルキウスの手を取ったラキルトは、一旦イファルの方へと向き直り、何かを思い出したかのように、口を開いた。

「報酬として約束していた腕輪が、大分破損してしまったな……すまない。他に代わりになるものがあればいいのだが―」

「別に構わないさ。アンタには、このバイオリンの件があるからな。これで、チャラにしてやるよ」

 真面目なラキルトに、イファルは笑って、ピアスに戻したバイオリン・ケースを揺らして、笑った。

 左手に嵌めた腕輪も、直せばまだ張る値段がつくだろう……もっとも、もう売る気にはなれないがと、内心でつけ加える。

「そうか―ありがとう」

 静かに微笑んで、ラキルトはルキウスやシオルと同じような状態になった。

 立体的に見せていたラキルトは、酷く不安定な状態になって、空中に漂う。だがそれを、ラキルト自身は不安に思うことはなかった。

 何故なら、ラキルトには初めから肉体がなかったのだから。

(ルキウス……、まだブラッドが……)

 あと一人、残していた役者を呼んだのは、意外にもシオルだった。

 視線を地面に倒れているブラッドへと固定させ、彼の側まで寄っていく。

「………………ムカつく面、見せるんじゃねぇよ……」

 息も絶え絶えに言葉を吐くブラッドだったが、その口の悪さは相変わらず健在だった。

(…………お前は、相変わらずだな)

 嫌そうに眉根を寄せるシオルに、これまた嫌そうにブラッドが応じた。

「……てめぇも、な……あー……くそ、もう目も見えねぇ……」

 出血の多さで、彼の余命が少なくなっていることは、誰の目から見ても明らかだった。それでも、最後まで憎たらしい言葉を吐き続けるブラッドは、ある意味大物だ。

 痛いという感覚も、もはや麻痺しているのかも知れない。

(……その割にはしぶといな)

「……言ってくれるじゃねぇか……てめぇ、死んだら覚えてろ」

 その死が、近づいていた。

 間近に迫る死の恐怖を、ブラッドは感じていなかった。何故なら、ラキルトやシオル……何より、ルキウスがいると思うと、そんな恐怖など、感じる必要がなかったからだ。

(やはり、待たないで行った方が良くないか?)

 シオルの言葉に、ラキルトやルキウスは苦笑を零し、アルとエティは互いに顔を見合わせ、イファルは渋面を作った。

(そう言うな……冥府については、ブラッドの方が詳しいだろうしな)

 冥府の王の化身であるブラッドを皮肉げに称して、ラキルトはブラッドの魂が、肉体から分離するのを待った。

 それは、大した時間を待たずにやってきた。

(…………さぁ、覚悟しろよ、根暗野郎!)

 死人とは思えない元気の良さで、ブラッドはシオルに食って掛かる。

 そんなブラッドを、シオルは冷めた目で見つめ、ルキウスたちの方に視線を転じさせた。

(―そろそろ、行こうか)

 ブラッドを無視して、二人に確認をとる。

(そうだな……では、行くか。……君たちには本当に感謝している)

 年長者らしい態度で、ラキルトは生き残った三人に、貞節に頭を下げた。

(本当に……僕の我儘にここまでつき合ってくれて、本当にありがとう……イファル。そして、アル、エティも、追いかけてきてくれて、本当に嬉しかったよ……)

 その声が、姿がどんどんと遠ざかっていくことを、三人は意識していた。

 別れが近いことを示し、切なさが胸に飛来する。

(ま、あの世に行ったら行ったで、俺は諦めずにルキウスをものにするけどな)

(……お前は、本当に懲りない奴だな)

 三人にとって、あまり良い思い出のない相手の声が届き、更にはシオルの声が消え入りそうになった時、堪らなくなって、アルは叫んでいた。

「ルキウス! あんたに、出会えてッ……オレは、本当にっ……」

 その先は喉に詰まって出てこなかった。

 けれども、相手にはちゃんと通じていたらしい。

(僕も……だよ、アル…………エティと、幸せ…………に……ね…………)

 それきり、声は聞こえなくなった。

 周囲は燦々たる有様で、扉は溶解し、天井は粉砕され、壁も半壊している。昂然と佇んでいた大樹は、見るも無残な姿を曝け出していた。

 それが気にならなくなるほど、三人はあるものに気を取られ、ずっと壁から除く外の様子を見つめていた。

 外にはいつの間にか、輝く星々が消え、暗闇が白けて、朝日が顔を出し始めていた。

 その反対側に三人は視線を変え、ホッと安堵の吐息をついた。

 そこには、消えいりそうではあったが月の存在が、確かにあった。


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