第六章
遥か遠くの地に辿り着き、イファルは感慨深げに息を吐いた。その頭上には、満天の星星が煌めき、呼応するように瞬いている。
ロザモ山脈を抜けてからはひたすらエア・バイクを走らせるだけで、ここにきて一番疲労が濃いのは、彼であったからかも知れない。
吐き出される息は白色で、それだけでここの寒さが窺い知れた。
取り敢えず、気を取り直すつもりで、懐から煙草を取り出し口に銜えた。
火元を漁って先端に灯すと、紫煙を吐き出して、一服つく。
その横にラキルトが立った。
「…………どうやら、あそこが目的の地、のようだ」
何か感じるところでもあるのか、ラキルトが視線を投じる先を同じく見据えて、イファルは頷いた。
「まぁ……明らかって言っちゃあ、明らかだよな……しかし、東に来るのは初めてだが、人の気配が全くないな」
多少、人が生活していることを期待したイファルは、その期待をあっさりと裏切られ、落胆が隠せないようだった。
それにも関わらず、イファルやラキルトの前方には、巨大な建造物が映って見える。
「もしかすると、あそこに全員集まってる、ってのはどうかな?」
イファルの質問に、ラキルトは否定的に首を横に振った。
「それにしては、生命の存在が極めて稀薄だ……ルキウス、お前は何か感じるか?」
そこでラキルトは後ろを振り返り、ルキウスに訪ねた。
イファルとラキルトとの会話を聞き、ずっと前方を見据えていたルキウスは、その言葉に難しそうに小首を傾げた。
「分からない……だけど、何かが待っていることは確かだと思う」
この地に足を着いた時、妙な違和感をルキウスは抱いていた。
地場はしっかりしているのに、足元が酷く不安定という、矛盾が生じ、吐き気を伴う眩暈が襲う。
イファルには何ともなさそうだし、ラキルトには肉体がないため、そこまで影響されることはないのだろうが、魔力を持ち、肉体を得ているルキウスには、かなり辛かった。
それでも、それでも、ルキウスは進まなければならなかった。
シオルに会うために―。
「ま、ここにジッとしてても始まらないし、そろそろ行くか?」
煙草を捨てて、足で踏み消したイファルは、事も無げに言い、歩き始めた。
その後を、ルキウスとラキルトが静かに追う。
三人を見守る月は、満月を示していた。
建造物の前に立った三人は、改めて、その巨大さに圧倒された。
「……スゲェな。これ、《マラン》にある神殿並のデカさじゃねぇ?」
「構造の違いはともかく、これは遺跡のようだな……」
入口に立ち、中の気配を探ってみるが、なんの反応もないため、ラキルトがそう判断する。
「遺跡にしては、全然元気そうなんすけど……ああ、でも、《レヌ遺跡》と同じ原理なのか? ほら、魔術で風化を防いでるとか、そんな感じで」
その言葉にルキウスが頷く。
「そうだね。近くに来ると魔力の波動がありありと分かるし……《レヌ遺跡》の方は内部に風化を防ぐ魔術技術が加工されてたけど、これは中だけでなく、外にも施されているね」
だからいつまでも真新しく視界に映るんだと、イファルは納得した。
「しっかし、なんでまた、そんなことするんだ?」
構造は理解出来るが、そうした過程について理解出来ないイファルは訝しげに首を傾けた。
「何か、よほどのことを考えてのことだろう。大神殿や、王宮といった場所にも、そういった魔術は施されているからな……知らなかったのか?」
説明するラキルトが、イファルが目を見開き、驚きを露にしているので、そう尋ねる。
するとイファルは頷いて、そうだと応じた。
「魔術技師ってのは、便利なもんなんだなぁ……」
そんな呆れとも、感心とも取れない声を漏らして、イファルは建造物の内部へと侵入を試みる。
一応、いつでも臨戦態勢が取れるように、ホルスターから銃を引き抜いて、安全装置を外した。
その背後にルキウス、ラキルトと続く。
内部は、外と比べると暖かで、人の気配がないにも関わらず、空調はしっかりとしているようだった。
「至りつくせりって、ヤツだな……」
埃臭くもなく、黴た臭いもせず、清浄な空気にイファルは中を進みながら、又しても感心する。
そんなイファルとは対照的に、ルキウスの表情は何処までも厳しかった。
中に侵入したことにより、眩暈は酷くなる一方だったし、頭痛までしてくる始末だった。脂汗が滲み出し、身体が熱くなり、ルキウスは防寒服を脱いで、小脇に抱え、空いた手で、額を押さえた。
何かが自分を拒んでいるような気さえしてくる圧迫感に、やるせなさを覚えた。
この拒絶が、シオルが自分に対して抱いている感情ではないのかという不安を抱きかかえながら胸元を押さえると、そこには女性としての膨らみが存在していた。今日が満月だから、身体も変化していたのだ。
いつ触れても違和感を抱かずにはいられない存在に、ルキウスは眉根を寄せる。
鈍痛が頭に響いたからだ。
「大丈夫か?」
そんなルキウスを心配げに、ラキルトが声を掛けた。
気丈なルキウスは、そんなラキルトに笑って大丈夫だと告げるが、それで納得する相手ではない。
「あまり無茶はするな。ここの魔術の影響下だ……肉体のない私でも、かなりの重圧が掛かっている。生身ともなると、相当の負担だろう?」
「僕は大丈夫だから……それよりも、ここに、シオルがいるはずなんだ……だから、休んでる暇なんてないよ」
再会することによって、どんな結末が待ち受けようとしていたとしても、それでも、ルキウスは理由が知りたかった。あの時、彼がどうしてあんな行動に出たのかを。
それを聞くまでは、弱音を吐くつもりもなかった。
それを分かっているのか、ラキルトは深く溜息をついて、触れることの出来ないルキウスの頭に手を翳し、あることのように撫でる。
「……お前らしい。が、やはり無理は禁物だ」
止めることは出来ないため、忠告に留めるも、その表情は心底不安そうなラキルトに、ルキウスは苦笑を浮かべる。
そんな時だった。
「―見つけたぞ」
歓喜に満ちた声が、長い回廊に響き渡った。
その声だけで、誰だと判断出来るほど、はっきりとした声量だった。
「ヤな予感……」
イファルの言葉通り、ラキルトは表情を引き締め、ルキウスは眉根を寄せ、頭痛のする頭を、別の意味で押さえて背後を振り返った。
「―ブラッド……」
分かりきった相手が、そこに立っていた。
ブラッドは数週間前に現れた時と、変わらない格好をしていた。
黒い皮製のジャケットを素肌に着込み、泰然とした面持ちで、ルキウスたちを見つめている。
そうした、狂おしいほどの情熱的な視線を向けられることが、ルキウスにとっては苦痛でしかないことを、彼は理解しないまま。
「随分手間が掛かったが、ようやく追いついたな……隠蔽術なんか施しやがって、そっちにアンタがいるのは、厄介だったぜ」
ルキウスから視線が外れ、ブラッドはラキルトの方を見た。
向けられた視線を真っ向から見据え、ラキルトは冷めた視線で応じる。
「だが、見つけてしまえば後はこっちのものだ」
ナイフを取り出し、構えるブラッドに対して、ラキルトは右手を翳し、口を開いた。
「―それはどうかな? 私は、全力でお前を阻む」
瞬間、練成陣が浮かび上がり、金色の光がブラッドの周囲を取り囲んだ。
光の輪がブラッドの身体に絡みつき、彼の行動を制御する。
「今の内に、行け」
厳しい表情を改めないまま、ラキルトはルキウスに言い放った。
「でもッ……」
しかし、それでルキウスが納得するはずがない。何故なら、ルキウスは知っていたからだ。ラキルトとブラッドがどういった関係にあるのかを。
血の繋がりがなくとも、ブラッドにとってラキルトは父と呼べる存在で、ラキルトにとってブラッドとは、息子とも呼べる存在だったから。
それを知っているから、二人が戦うことに、敵対することにルキウスは決断することが出来なかった。
「いいから行けッ!」
ラキルトが怒鳴り、ルキウスは身体を震わせた。が、反論することは出来ずに、ルキウスは諦めてラキルトたちに背中を向け、走り出そうとした。
「待てよ」
その背に、待ったが掛かる。
「……ブラッド」
声を掛けたのは、たった今の今までラキルトの施した呪縛術により、縛められていたはずのブラッドだった。
「その、首の痕はなんだ?」
独り言のように小さな声だった。
感情を押し殺し、次の爆発に備えるような、そんな危うい状況下にある―そんな声色だった。
ブラッドの激しいまでの視線はルキウスの首から下に掛けて留まり、固定されている。
その視線の意図を知ったルキウスは、瞬間羞恥に頬を染め、慌てたように襟首を上げて、ブラッドに言われた痕を隠した。
「あっちゃー……」
銃を構えていたイファルが、やれやれと言うように頭を掻いた。
その、イファルの言葉に弾かれたようにブラッドがイファルに視線を止める。
「…………てめぇか?」
又しても、感情を押し殺した声音に、ルキウスはゾッとする。
「てめぇが俺のモノに手を出したのかッ!?」
激昂する相手に、違うと言ったところで納得するはずもなく、ブラッドはイファルに襲い掛かった。
「ゲッ!?」
慌ててイファルは銃弾を放ち、その場をすぐに飛び退いた。
放たれた相手のナイフを避けるためだった。
「チッ……違うってのにッ……! おい、ルキウス、さっさと行けよ!」
「けどッ……」
「聞き耳持たないヤツに、何言ったって無駄だよ! ここは俺とラキルトで食い止める!」
とは言ったものの、ブラッドの戦闘能力は計り知れなかった。太刀打ち出来るかも危ういが、それでも、依頼されている以上、責任を持たなければならない。
それが、仕事をしている自分の、詰まらないプライドだったとしても。
嫉妬に塗れて激怒した男ほど、手に負えないものはない。女のように泣きながら刃物を振るわれるのも、結構ディープな経験ではあろうが、戦闘に関してプロの、怒りの矛先が自分に向けられるのは初めての経験だった。
後退を刻むステップを繰り広げながら、イファルはルキウスに言い放つ。
「お前にはお前のやることがあるだろうがッ! ぼさっとしてないで、早く行け!!」
焦燥に駆られた声に、ルキウスは一旦ラキルトの方を見遣ったが、何も回答を得られないため、自分で決断を下した。
「必ず、生きて戻ってきて下さい」
そう言い残し、ルキウスは今度こそ、走り去って行った。
「……生きて戻ってこい、ねぇ……なんとも、不吉で哀しい激励だね……ッと!」
猛威を振るう相手の攻撃を間一髪で避けながら、イファルは軽口を叩いて引き金を引いた。
三発の銃弾が立て続けに発射され、それら全てを、練成術を身体に施し、人間から遺脱した速さを持つブラッドが避わす。
「げ!」
一秒も掛からずに懐に入られ、イファルは声を漏らすことしか出来なかった。
白刃の閃きが、イファルの喉元に掛かる―!
寸前でそれを避わせたのは、ラキルトのお陰だった。
閃いたはずのナイフの刃が弾かれたように飛び、同時に接近していたはずのブラッドの身体も宙へと投げ出される。
見れば、自分の周囲は緑色の光が輝いていた。
「…………何処までも、小賢しいヤツだなッ!」
腹立たしいげに表情を歪めて、ブラッドは素早く体勢を立て直し、地面を踏んだ。
あのまま宙を飛んでいれば、地面とキスが出来る体勢になっていたからだ。
もっとも、そんな無様な姿をこの男が取るとは思えなかったが、多少期待したことは事実だ。
「お前が言ったのだろう。次に会う時は容赦しないと。私も、お前の言葉の通りにしているだけだ。敵であるならば、全力でお前を阻む」
両者の間に見えない火花が散る。
そして、沈黙の後に口を開いたのは、ブラッドの方だった。
「……………………そうかよ。だったら、俺ももう容赦はしない。死ね!」
その胸中に渦巻いたのは、躊躇、あるいは葛藤だった。それすらも過ぎた心境は、ただ相手を倒すという明確な殺意だけだ。
イファルには分からない魔術技術を駆使して、周囲一帯が、紅蓮の光に包まれる。
「おいおいおいおい、何だかヤバそうな雰囲気なんですけど?」
肌を焦がす熱量に、イファルが焦りを感じて一歩後退った。
ただの人間ではあるが、周囲の状況を見れば、危険が迫っていることは自明の理だ。
「……下がっていろ」
いつの間にか、傍らに立っているラキルトが、厳しい表情でイファルを庇うようにして、立ち塞がる。
「って、アンタは大丈夫なのかよッ?」
練成を集中させて繰り出すラキルトに、イファルは肩に触れようとして、相手の実体がないことを、改めて実感した。
触れることの出来ない相手。それが、本人にとって、どれほどもどかしいことだったか……ここにきて、イファルはあの時のラキルトの想いを自覚した。
「……依頼しているとは言え、君には借りがある―大丈夫だ」
瞬間、紅蓮の灼熱の炎が、周囲一帯を支配した。
焼け死ぬと自覚出来たのは、火の回りが妙に遅いと感じられたからか、それとも、ラキルトの魔術のお陰で、炎が中和されているためなのか、どちらにせよ、熱さを自覚出来ても、イファルにはどうすることも出来なかった。
「死ねぇぇぇぇぇッ!!」
ブラッドの咆哮が轟いた。
魔術技師たちの隠れ里である《フェルスレント》を後にした、アル、エティ、アガンの三人は、ルキウスたちが向かっているとされる、東の果てへとロザモ山脈を抜け、向かっていた。
喪われし技術とは便利なもので、山脈は登れないため、四輪駆動は置いていかなければならないところを、縮小装置によって、小型化し、人が持ち運び出来る程度にまで配慮された技術によって、山を抜けた後でも、車に乗ることが出来るようになっていた。
そのお陰で、楽とは言えば楽なのだが、正直、その内情は焦燥に駆られていた。
魔術技師たちの里に行ったことにより、アルはそこで、彼らたちにあるものを手渡された。
それは、ルキウスが今、旅の目的としている、シオル・ジュビリーが使用していたとされる、彼の魔術の媒体となる、道具だった。
杖の先には、大きな宝石が嵌め込まれ、やや青みがかってはいるものの、遺跡にある、宝飾器具や、宝石などを目利きしているアルには、それがブルー・ダイヤモンドというものだと理解出来た。
もう一方の先端部分には、棒術ではなく、槍術としても扱えるように、鋭く研ぎ澄まされた刃が施されている。
それを受け取った時、アルは何故か手に馴染む違和感を抱いた。
「これは、貴方が持つに相応しかろう……」
そう言って、杖を渡してくれた老獪の魔術技師は、皺の刻まれた顔を更に寄せて、柔和な笑みを作っていた。
戸惑いを隠せないアルの心情を見抜くかのようと、老人は続ける。
「それを持てば、貴方も自ずとも、自分の使命に気づくはず……どうか、果たされなかった我が一族の悲願を、どうか遂げて下さいませ」
正直、一族の末裔だからとか、使命だからとか、そんなことアルにはどうでもいいことだった。
だけど、杖を手にした瞬間、どうしようもなく、ルキウスに逢いたい気持ちが、強くなったことを自覚していた。
まるで、何かに操られるかの如く、導かれるが如くに、アルは頷いていた。
《フェルスレント》を去った後も、アガンによる戦闘の特訓は続いていた。
実際は時間が足りないため、実践での訓練をすることは皆無に等しく、アガンが運転する車に乗ったまま、精神修行や、チェスを使っての訓練が、アルには施されていた。
最初は、そんなことで果たして強くなれるのかと訝しんでいたアルだったが、身体を動かしていないにも関わらず一日分の修行を終えた時には、身体を動かすのが困難なほど、疲弊した。
どういう原理かは、アルには分からなかったが、どうやら、そういう訓練の仕方もあるのだということを知った。
訓練中の際、アガンは実に容赦のない男で、アルは散々罵られ、蔑まされた。
つまりは、出来の悪い、弟子だったということだ。
「お前は、魔術に関する制御の仕方が全くなっていない。そういう意味も込めて、そこにいる子供には補助に回って貰った方が良いだろう」
子供―つまりはエティのことだ。
言われたエティは意外そうな表情で、アガンに意見する。
「え、でも、あたし魔力なんて……」
「お前の手にしている銃は、[魔装銃]と呼称されている代物で、魔力が施されている。単純に総身に施し、更に弾にも施されている場合もあるが、お前の弾にはそれがない。魔力のない者が扱うためなら、その両方に施されていなければ意味がない。つまり、弾に魔力が込められていないにも関わらず、[魔装銃]が扱えるということは、だ。お前が多少なりとも、魔力を持つ者だと告げているようなものだ」
淡々と詰まらなさそうに告げるアガンが、いまいち信用出来ないエティは眉を潜ませて、その言葉を信用するべきかを考える。
そんなエティの心中すらも見透かした男は、あくまで無表情に言葉を続けた。
「他者の魔力を補助する形を取るなら、相性の良い者同士が組んだ方が、効率が良いからな。私がそこの阿呆と組んでやっても良いが……それよりは、君の方が適正と思われる」
当の、阿呆と呼ばれたアルは、魔術の修行のため、精神を集中させて何やら、アガンの出した課題をこなしているため、耳に入ってはいない。
「君は彼と違って、魔力の制御の仕方も、補助の仕方も心得ているしな」
「そんなことっ……」
自覚したこともないのに、分かるわけがない、と反論するエティを、アガンは鼻で笑う。
「そんなもの、自覚していなくとも出来る。特に、本能的に知っている者が、理屈でそれを知るとなると、難しい。そう感じたのだから、そうとしか説明出来ないし、他に言いようはないだろう?」
確かに、とエティは思う。自分でも自覚出来ないことを他人に説明することが出来るはずはないし、ましてやこの場合、知りたいのはむしろ、エティの方なのだから。
「そういう力を使う時には、自ずと分かってくるものだ。そう、《フェルスレント》で魔術技師が言っていたように、な」
意味ありげな台詞を吐き、アガンは不意に車を停めた。
「え、何?」
「着いたぞ」
さっさと車を降りて、アガンは歩き出している。それを慌ててアルに教え、二人は車から降りた。
「ここ、が?」
殺風景に広がる荒野の果てに、巨大な建造物が見えた。
周囲に目ぼしいものが存在しないため、浮き上がった建造物が目的の地だと、告げているようなものだった。
「…………あそこに……」
緊張が隠せずに、アルは生唾を飲み込んだ。
移動中に散々、修行は積んでいたため、先ほどから受けていた訓練も、今ではすっかり疲れずにこなすことが出来るようになっていた。
それでも、まだ不安はある。
まだ、自分はブラッドの実力に達しているとは思えなかったから。
その不安を打ち消すかのように、傍らに立つエティが、アルに向けて頷いてみせる。
大丈夫だと、根拠もないのに、絶対という確信を持って。
「―行こうか」
アルが促して、二人が歩き始めようとした時だった。
「…………ッ」
先を歩いていたアガンが、二人にもはっきりと分かる舌打ちを、鳴らした。
「どうしたんすか?」
怪訝を浮かべ、尋ねるアルに、アガンは振り向きもせずに、言葉を綴った。
「悪いが、俺がお前たちにつき合うのはここまでだ。先に行かせて貰う」
瞬時にその場から転移しようとするアガンの行動を悟ったアルは、慌ててアガンを呼び止めた。
「待てよ! 一体何がッ? てか、あんた報酬は?」
契約の際のことをあまり憶えていないため、報酬の件を持ち出したアルに、アガンはようやくにして振り返り、薄く笑みを刻んでいた。
「それは―もう貰った。じゃあな」
そしてアガンはその場から消失した。
「じゃあなっ……て、オレらは一体どうすりゃ良いんだよ?」
置いてきぼりを食らった形で、アルは途方に暮れる。が、エティはそんなアルを励ますかのように、肩を叩いた。
「どうするもこうするも、追い掛けるしかないでしょ? あの人、多分、先にあの建造物のとこに行ったのよ。何か、変な感じがするもの……多分、ルキウスもあそこにいるわ」
目を細めて、先に見える建物を凝視しながらエティは言った。
「こういう時に、あたしの出番でしょ?」
得意気にエティは、アルの方に手を差し伸べる。その意図が掴めずに困惑するアルの手を、構わずにエティは掴み、続けた。
「あたしたちも、行きましょう」
アルは、黙ったまま頷いた。
身体に焼けつく痛みを感じたイファルは、薄っすらと目を開けて、視界に飛び込んだものを見て、慌てて肉体を起こした。
それは、実体のないラキルトが、倒れ伏している姿だったからだ。
「ラキルトッて、痛ッ…………!」
すぐにでも駆け寄りたかったが、身体に走る痛みが、そうはさせてくれなかった。
見れば、火傷の他にも、幾つかの裂傷が走っている。
何故、と考える前に、答えはラキルトの伏している先に立つ男が持っていた。
「……流石に、神官長を務めていただけはあるな……魔術については、ある意味、アイツよりも精通している。だが、防御に徹しているだけでは、俺には勝てない。それが、この結果だ」
周囲一帯は焼き尽くされ、建物の内壁は破壊され、無残な状態にあった。それだけではなく、あちらこちらで小型ナイフが散乱している。
つまり、あの攻撃は、炎とナイフの二重攻撃だったということだ。
ラキルトが練成した魔術は、炎を断絶するための構成がされていたが、それすらも破り、更にナイフが襲う。咄嗟にラキルトも、魔術を繰り出して、ナイフの大半は防いだが、それでも残りはイファルの身体を襲ったというのが、現実だった。
裂傷からは火傷も混じっているため、思ったほどは出血していないが、自分の肉を焼いた、特有の臭気が痛みを思い起こさせる。
「さて……そろそろ終わりにするか」
ブラッドの視線が、イファルに固定され、正直ゾッとしないが、きつく相手を睨み返すことで、その視線に応じた。
「…………反抗的な目だな。気に入らない……それとも、そこに転がっているヤツの助けがあると、期待しているのか?」
先ほどから、ラキルトはピクリとも動かなくなっていた。イファルが視覚出来ているため、まだ存在自体が消えるほど、追い詰められているとは思わなかったが、それでも危機であることには代わりはない。
別に助けを期待しているわけでもなかったが、イファルだけで何とか出来るとも思ってなかった。
人知れず、歯噛みするが、ここで諦めるわけにはいかない。
「最後まで足掻くのは別に構わん。その方が、殺し甲斐があるからな……もっとも、頼りにしているそいつは、当分、動けないだろう。なんたって、本体に罅が生じているからな」
「なんだってッ!?」
ブラッドの言葉に、イファルは慌てて腕輪の状態を確認すべく、視線を落とし、そこで愕然となる。
ほんの僅かではあったが、確かに亀裂が生じて、黄玉の宝石が一つ、壊れかかっていたからだ。
肉体の代わりが、この腕輪とにっているため、ラキルトが今、どういう状態にあるのかは、イファルには分からなかったが、決して良好状態でないことは、確かだった。
「てめぇッ……まさか、これも狙ってッ……!」
イファルの肉体を傷つけるだけでなく、ラキルトの腕輪も始末する意図で、攻撃を仕掛けたのではないかと、疑問をぶつけたイファルを、ブラッドは鼻で笑う。
「だとしたら? 相手を動けなくするには、それが一番手っ取り早い。ま、俺としては、今の攻撃で全て終わりにしたかったが……流石にそうはさせてくれないな」
未だ動けずにいるラキルトを、見下すかのように視線を下に降ろし、ブラッドは再びイファルの方を向いた。
「さぁ、第二ラウンドの幕開けだ」
此方の状態などお構いなしに、ブラッドはそう宣言し、すぐさま実行に移した。
前方にいたはずのブラッドはイファルの眼前に迫り、振り抜かれたナイフの軌道から身体を逸らしたところで、バランスを崩し、転倒する。
本当に、動くのがやっとの状況だった。
それを、獣が逃すはずがない。
喉元部分を強く、頑丈なブーツで踏みつけられ、一瞬呼吸が止まった。
「ガ、ァッ……!」
その脚を退けようと、ブラッドの脚を掴むが、全体重を掛けるような容赦のなさに、それも叶わない。
「お前には、随分と屈辱を味わされたからな……たっぷりと、その礼をしなくては、な?」
嗜虐的に笑うブラッドは、この世の誰よりも恐ろしい存在に思えてきた。そのナイフを持ち、見下す視線が、イファルにあの時の光景を呼び起こされる。
二年前、自分を殺そうとした親友の顔と、ブラッドが重なった。
「ど、けッ……!」
「へぇ? まだ喋る元気があるんだな。喉は潰しておきたいところだが……それをすると、お前の苦痛の声が聞けなくなるからな……精精、苦しみもがけ」
瞬間、ブラッドの脚が退けられ、今度は手で、喉元を締めつけられた。だがそれは、別に締めて殺そうというわけではなく、逃れないために押さえつけるという行為に近かった。
そして、灼熱の痛みが、イファルを襲った。
「―ッ!?」
壮絶な痛みに、眼球を見開き、絶叫を喉から迸らせるイファルの声を、実に心地良さそうに、ブラッドは陶酔した表情で聞く。
シャツを裂かれて、肌に直接傷がつけられた。抉り出すほどの深い傷ではないが、浅くつけられた傷は、ちりちりとした痛みを起こし、身を捩らずにはいられなかった。
「今度は、何処を傷つけられたい?」
そんなもの、傷つけられたいと願うわけがない。痛みで答えられないイファルに、追い討ちを掛けるように、ブラッドがイファルの眼前にナイフの先端を突きつけた。
その刹那、イファルは恐怖に身が竦んだ。
深紅の血を付着させ、鈍く光る刃の先端が、イファルを震えさせるのに、充分な効力を発揮していたのだ。
先端恐怖症であるイファルにとって、それは拷問にも等しい行為でもあった。
「い、嫌だッ……!」
まだ、ナイフをちらつかせただけの行為に、過敏に反応を示すイファルを怪訝に思ったのか、ブラッドは訝しそうにイファルを見下ろしていたが、やがて合点がいったのか、嘲笑うかのように言葉を吐いた。
「もしかしてお前、刃物が駄目なのか?」
尋ねられて、違う、先端恐怖症だと、イファルに答えることは出来ない。わざわざ、敵に弱味を知られるのだけは避けたかった。
けれど、それも時間の問題だ。
無遠慮にナイフのブレード部分で頬を叩かれ、ビクリと身体を震わせる、自分が恨めしいと感じた。
「……それとも、刃物の先が駄目なのか?」
確信をつく言葉に、表情を変えられずにいたのは、奇跡に近かった。
しかし、それが逆にブラッドにそうだと、認める確信に至らせたのは言うまでもない。
無表情になったイファルに、ブラッドは得心のいった顔で満足気に笑った。
「それはまた、随分と愉しい弱点をお持ちなことで……それでこそ、いたぶり甲斐があるってものだ」
頬を撫でていたブレードが、カッティング・エッジに変わった。
それにより頬に痛みが走り、イファルは恐怖の他に痛覚に顔を歪ませた。
「グッ……ア……!」
「良い顔だ」
イファルの声が、ブラッドの嗜虐心を煽るのか、愉悦に顔を歪めて、ブラッドは再び胸に刃を走らせた。
「お前は、俺のものに手を出した。これは報いだ―それとも、お前も、そうなってみるか?」
不意に、ブラッドがイファルの視界ギリギリにまで顔を近づけてきた。
端整な男の顔を間近に感じ、空恐ろしいものを感じたイファルは視線を逸らそうとするが、喉元を押さえつけた手が、それを許さない。
呼吸が出来ないほど締めつけられ、喘ぐイファルの唇を、ブラッドは塞いだ。
息をしようと口を開き、舌を突き出した形は、そのままブラッドが面白いぐらい蹂躙するに至っていた。
舌が絡められ、逃れようにも喉に掛かる力が有無を言わせず、逃げようとすれば、ますます力が込められた。
息が出来ないまま、口腔を嬲られる行為は、そのまま死に直面しそうだった。
走馬灯のように今までにあった出来事が、イファルの脳裏を駆け巡り、その中で、まだ知り合って浅い、ある男の顔を浮かぶ。
不遜な態度で、男である自分にキスをした、あの男の顔が。
(……なんでまた、あの野郎のことなんか……)
脳に酸素が行き渡らず、とうとう死期が近づいたのかと、イファルが諦めかけた時だった。
すぐには死なせてくれるつもりもないブラッドは、寸前でイファルを解放した。
激しく咳き込み、酸素を欲するイファルを組み敷き、その様子を愉しそうに見つめながら、ブラッドは言葉を紡いだ。
「正直、野郎なんか抱くのはゾッとしないが、てめぇが屈辱に顔を歪めながら犯し殺すことが出来るなら、それも悪くないかもな……」
焼け爛れた皮膚に顔を寄せ、舌で舐める男は更に立て続けに言葉を吐いた。
「もちろん、俺のも入れてやるが、メインは俺の一部でもある、このナイフだ。先端から、お前が死ぬまで貫いていてやるよ」
その言葉に、血の気が引いた。
冗談ではなく、本気でブラッドがそうする気なのは、一目瞭然だ。
何より、目がマジだった。
ここで、別にルキウスの首筋に痕をつけたのは自分ではないと、言いわけしたところで、相手が納得するはず……はなかった。どの道、イファルの意思で、ラキルトに身体を提供したのだから、自分も同罪なのかも知れない。
そして、二人が実は身体を繋げていないことを、話したとしても、ブラッドは引かないだろう。
たとえ未遂でも、ルキウスの身体に印を刻んだのだから。
どう転んでも、良い方向に進展しそうにない状況に、イファルは泣きたくなった。
これならば、いっそ、自分が生きている間に何かされるくらいなら、死を選んだ方がマシかも知れないと思えてくる。
「言っておくが、舌は噛めないぞ? お前には自害出来ないように術を施したからな。それも、たった今だ」
ブラッドの言葉通り、舌を噛もうとしたイファルは、それが出来ないことに愕然とした。
噛む、という意思に逆らう行動を自分の身が引き起こしているからだ。
「さぁ、始めるか」
無造作に、ブラッドの手がイファルのベルトへと伸ばされた。
その刹那―ブラッドに目掛けて投擲されたナイフを避けるため、ブラッドはその場から飛び退いた。
そして、それを投げた相手の存在に気がつくと、ニヤリと、不敵な笑みを作って相手を見据えた。
「そう言えば、まだアンタが残っていたな」
毅然として構える男は、凍った視線を殺意に漲らせて、佇んでいた。
「アンタは……」
意外な相手が立っていたことにイファルは驚愕して、顔色を変えた。
イファルの危機を救ったのは、夜よりも深い、漆黒を纏ったアガンだった。
「無事か?」
ブラッドから庇うように、アガンがイファルの前に立ち、そう尋ねた。
厳しい視線は、相変わらずブラッドに向けられたままだったが、イファルはなんとか身体を動かして、起き上がり、相手の顔を仰ぎ見た。
「無事かと聞いている」
「あ、あぁ、なんとか、な……それより、アンタがどうしてここに?」
ベルトを締め直し、ふらつく身体を叱咤して、立ち上がったイファルが疑問をぶつける。
「色々とあってな。お前の知り合いの二人も、ここに向かっているはずだ。お前も先に行け」
イファルの方を見ずに、アガンは淡々と言葉を綴った。けれども、その内心は腸が煮えくり返るほど、怒気を孕んでいるのが滲み出るほどの、迫力だった。
一体、何に怒っているのか、検討もつかないイファルは困惑するしかなかったが、取り敢えず相手の意見に従うことにした。
どうせ、ここにいても足手まといになると判断したためだ。
「分かった……行くけど、あのさ、その……一つだけいいか?」
「―なんだ?」
これもまた、振り返りもせずに、アガンは聞いた。
「……アンタに貰ったバイオリン……あれ、本当に、俺が持ってても良かったのか?」
そのバイオリンは、手元に置いておくには邪魔なため、ラキルトに頼んで縮小化し、今はイファルの耳朶に飾られていた。
最初は置いていこうとも思ったのだが、蓋を開け、中身を見た瞬間、何故かそれが出来なくなってしまったためだ。
そんなイファルの心中を見透かしたかのように、アガンは初めてイファルの方に向き直り、耳朶に視線を送り、笑みを作った。
彼にしては珍しいくらい、優しい微笑であった。
「構わん。言うのは二度目だが、あれは元々お前のものだからな」
「だから、それって一体どういう意味なんだよ?」
アガンの言ったことがさっぱり分からないイファルは、聞き返すことしか出来ない。
そんなイファルを少し、哀しそうな表情で見たアガンは、不意にイファルの腰に手を回して、そのまま自分の方に引き寄せた。
「えっ……!?」
今度は、アガンに唇を奪われる。
「んッ…………」
甘く漏れた吐息が、自分のものとは思えなかった。
ブラッドにされている時とは違って、イファルは本気で、抗うことが出来なかった。それどころか、嫌じゃなかった。
されることに抵抗を感じたのは、初めてアガンにキスをされた時だけで、二度目である今は、むしろ積極的に舌を絡めている自分がいる。
そのことがイファルには信じられなかった……いや、本当はもう、自分でも分かっていたのだ。
この男を、自分は意識しているのだということを。
どっちつかずの唾液が糸を引き、相手の顔を、まっすぐに見ることに抵抗を感じた。気恥ずかしかったからだ。
「……今度は嫌がらないんだな」
アガンに言われ、イファルは羞恥で顔を赤らめた。
「う、うるさいッ……」
そんなイファルとは対照的に、アガンは表情を改めて、言葉を紡いだ。
「いずれ、お前に話すことになるだろう……それまで、持っていてくれ」
イファルの耳朶に指で触れ、アガンはそう呟くように告げた。
「…………分かった」
それ以上は聞くことが出来ず、イファルは頷き、ルキウスの後を追うべく、身を翻した。
ラキルトのことは心配なかった。いつの間にか姿は消え、腕輪の部分がほのかに輝いている。そこから、ラキルトの思念が伝わり、自分が無事だということを告げている。
先を急ごうとするイファルだったが、今の今までずっと黙っていたブラッドが、それを許すはずがなかった。
「まさか、アンタの相手がそいつだったとはねぇ……そりゃ、なおさらそいつを穢さないと、俺の気は晴れないな」
ナイフを構えて、獲物を捕らえるかの如く、ブラッドはイファルの行く手を阻む。それを阻止するために、アガンは動いた。
激しい金属音が響き渡り、二頭の獣同士が激しく激突した。
「チィッ……! 流石に、アンタが相手だと、隙がないな!」
「…………アレに手を出したことを、後悔させてやる」
灼熱の炎か、凍結した炎か、両者の火花が散り、その結末を見届けることを、イファルは出来なかった。
腕輪か伝わるラキルトの言うとおり、先を急がねばならなかった。
何かに導かれるままに、ルキウスは進んでいた。
先ほどから続く頭痛は、ある一定の場所を過ぎた頃にはなくなり、後は足を進めるだけであった。
二階へと続く階段を登りきり、更に別の場所から上へと続く階段を見つけた時には、迷わずそちらを選んで、登り続けていた。
誰かが自分を呼んでいる。そう思わずにはいられない、胸中の焦燥を駆り立てるままに、ルキウスは息を切らせながらも、走り続けた。
階段はいつしか螺旋を描き、自分が一体どれほど登り続けたのか、思い知らされる。
それほど、この建造物の内部は巨大であった。
けれども、その終わりは、いつしか必ず遣ってくる。螺旋階段が終わりを告げ、目の前には荘厳に佇む扉が、構えられていた。
息を整えながら、ルキウスは鼓動を抑えるのに必死になり、ゆっくりとその扉に触れた。
ゴクリと、生唾を飲み込み、ゆっくりと扉を押すと、重々しい音を発しながら、扉は開け放たれる。
内部へと身体を滑り込ませたルキウスの目に、まず映ったのは、眼前を埋め尽くす、巨木であった。
青白い光を発している不思議な巨木。更に、その前には、ルキウスが知る道具が、飾られていた。
「僕の……魔術道具」
それは、親友に預けたはずの、愛用の杖だった。
シオルの持つ杖のように、下方部分には刃はついておらず、かといって、棒術として扱うには短すぎるそれは、完全に、魔術を練成する際に、媒体に使うしかない代物だった。
元々、ルキウスは争いを好まぬ人間であったためかも知れない。魔術に関しても、攻撃魔術を練成したことは殆どなかった。
そういった影響からか、武器もまた、そういった危険なものが取りつけられたり、ブラッドのように、戦闘を目的とする武器にもしなかった。
そんな自分のかつての道具が、今眼前にあった。
懐かしさに胸を打たれて、ルキウスは足を前に運んだ。五千年もの空白があるとはいえ、十五年以上も愛用していたものなのだ。
嬉しさが込み上げてきて、ルキウスは足早に杖のところまで駆け寄る。
が、突然悪寒が全身を支配し、ルキウスにはそれが叶わなかった。
「あっ……な、何っ……?」
血の気の引くような気持ち悪さに、再び嘔吐感に襲われる。それとともに、何かに内で蹂躙される感覚を味わった。
(これはッ……あの時に感じた、感、覚ッ!?)
ナディアが死んでしまった、あの時に抑制することが出来ずに力を暴走させてしまった時と、あまりにも酷似した感覚が、ルキウスを襲う。
「ど、うしてっ……ッ?」
感情のコントロールが利かないわけでもないのに、どうして魔力が暴走しているのか、ルキウスには全く検討がつかなかった。
だから、というわけではない。気づけば必死になって、杖のところまで行こうと足を引き摺って、手を伸ばしていた。
まるで、杖さえ握れば、この暴走は終わると信じているかのように。
大量の汗が滲み出て、歩くのだって困難だった。そんな自分を無理やり奮い立たせて、ルキウスは、ゆっくりとだが、杖の方へと進んでいく。
その時、ルキウスはある違和感に気がついた。
進むごとに、嘔吐感が激しくなり、抑制が効かなくなってきているのだ。
杖に何かあるわけではない。それが分かるのは、杖から齎される波動が、自分に馴染みのあるものだったから。では、何故、こうまで自分は理性すらも吹き飛ばし、思考までも切断されようとしているのだろうか?
それが分からずに、喘ぐようにルキウスは天井を見上げた。
その時、ルキウスの思考は完全に停止した。
今日は多分、満月だった。
それは、この建物に入る前に分かっていたことだ。だから、自分の肉体は、女体に変化している。
なのに、なのにどうして、今見た月は、欠けているのだろうと、ルキウスは思った。
それも、その進行は徐々に進み、今は三日月ぐらいまで、月は欠けてしまっていた。
(月蝕……!?)
その言葉を知ったのは、親友が教えてくれたためだった。
懐かしい記憶。忘れていたこと。
その記憶の中の出来事が、ルキウスの中で浮上する。
皆既月蝕と呼ばれるもので、月が自分たちの住む星に隠れて見えなくなる現象を指している言葉だった。それは、月を照らす太陽を遮り、その星がその光を遮断してしまう時に起こると、博識の親友は自分に告げた。
その親友の顔が定かではなくなるほど揺らぎ、波打つ。
それと同時に、ルキウスは身体に力が入らずに、全ての感覚を失いつつあった。
『月が、隠されてしまう……そうしたら、奴が…………』
完全に停止したはずの思考は、僅かな抵抗により、他者の言葉を思い起こさせた。
『………………君が、月だから―』
それは、最後に聞き取ることの出来なかった、親友の言葉だった。
どれほど、この時を待ち侘びたことだろう。
遠い日々の運命を決める日を計画し、実行に移そうとした矢先に、太陽によって、光を奪われた。
忌々しい邪悪なる霊たち(ウトゥク)……太陽に協力を要請し、太陽は時が終わることを知った。
だから、月である自分の時を止めた。
だが、いつまでも、そう思い通りにはならない。
何故なら、自分を止める術は、もうないのだから。
審判は下された。
もう、世界は眠る時が遣ってきたのだ。
『神』の声を、ルキウスは眠りにつく寸前に、聞いた。