第五章
エア・バイクが風を切る音が耳に聞こえ、煩いはずなのに、今のルキウスにはそれが全くといっていいほど、気になってはいなかった。
全てがどうでもいいという風情で、虚ろな瞳は走り抜ける砂上を映すだけだ。
そんなルキウスを黙した様子を伺っていたラキルトは、静かに嘆息して、視線を虚空へと漂わせた。
思考が、数日以上前に遡る……。
鮮やかなほど美しく、禍々しい深紅の血液が、ナディアの身体から流出し、見る間に半身を濡らしていく。
「あ……、あ…………」
何も考えられないルキウスは、恐慌状態に陥り、訳が分からなくなって、ナディアの身体を強く抱き締めた。
「…………ルキ、ウ……ス様……」
苦しげに名を呼ぶナディアの唇から、深紅の液体が滴り落ちていった。
ナディアは苦しそうに言葉を吐いたが、その表情は何処か満足そうでもあった。
何故か泣き笑いのような表情を浮かべて、そっと、ルキウスの方に腕を伸ばす。
その手を、ルキウスは自らの手を重ねて、強く握り締めた。
「…………あり、がと……う…………こ…………」
それきり、彼女は沈黙した。
息のある間に、魔術技術、あるいは科学技術を以ってして、治癒、治療していれば、まだ助かっていたかも知れない……けれども、実際にはそんな暇もなく、ナディアは生き絶えてしまった。
ルキウスの腕の中で。
この身の近くに、腕に抱いていたにも関わらず、救うことが出来なかった事実に、ルキウスは呆然と、たった今の今まで息をし、生命に満ち溢れていた彼女の身体をきつく抱き締めた。
魔術技術での蘇生は、禁術とされているため、彼女を蘇生させることは叶わない。科学技術であるならば、あるいは可能かも知れないが、今のこの世界では、科学技術は喪われし技術とされ、医療機器などが充実しているかも怪しかった。何より、設備の整った場所を、ルキウスは知らない。
科学技術といっても、人間の身体がまだ蘇生の利く状態……細胞が生きていればの話であって、完全に脳が停止した後に蘇生を行い成功したとしても、障害が残る危険性があった。
だから、今、ナディアが心臓を止めた時点で、それは死を意味していることになる。
その事実を理解した瞬間、ルキウスの瞳から涙が溢れ出した。
「死んだか……」
ブラッドと対峙していたはずのアガンが、ふいに、つまらなさそうに言葉を漏らした。
その向こうに立つブラッドが、憮然とした表情を作っていた。
「……何度目かの忠告を無視して、俺のものに触れた報いだ。それにしても、随分あっけない死に様だったな」
憮然の次に浮かべた表情は、嘲笑―死者を嘲る、歪んだ笑みだった。
「………………ブラッド、貴様ッ……!」
先程痛みを感じた手からは、ルキウス自身の血も流れ出していた。
ナディアの背には、今だ彼女を死へと誘ったナイフが突き立てられている。それが、紛れもなく、ブラッドの仕業であることを証明するかの如く。
「……―許さない……僕は、絶対にお前を許さないッ!」
怒りが頂点に達した瞬間、ルキウスの中で、何かが弾けた。何者かが自分の中で蠢くような感覚が、ルキウスを襲い、まるで自分の肉体ではないように覚える。
それは、肉体変化とはまた違った感覚だった。
(…………何だ……これは……?)
違う誰かが、知らない人間が、自分の中で好き勝手に暴れ出すような魔力の暴走。
抑制が効かず、ルキウスは翻弄されるように魔力を解放した。
「ルキウスッ……!」
ラキルトが、切迫したように愛弟子の名を叫ぶ。
突如発生した青白い光に、周囲を取り囲むようにして遠くから見物していた街の人間は、目を覆って、その光を遮る。
同じようにエティも目を庇い、イファルもまた、アルを担いだ状態で、目を細めて光の根源を凝視した。
「ッ……!」
アガンや、ブラッドもまた、ルキウスから発せられる光に魅入られたように立ち尽くしていたが、ただ一人、その中で動いた者がいた。
素早くルキウスの暴走を食い止めるため、魔術を練成し、発動させる。それが出来たのは、ラキルトだけだった。
緑色とも、青色ともつかない、碧色の輝きが発生する。
それがルキウスの周囲を取り巻いて、間接的に相手の輝きを押さえ込んだ。
「今の内に移動しろ」
有無を言わせない迫力で、ラキルトがイファルたちに言い放つ。
「―アンタと、アレは?」
聞き返すイファルに、厳しい表情のまま、ラキルトが返事を返した。
「ルキウスはすぐに向かわせる……私は、もう暫くここに残る。話す用が出来たからな」
短いつき合いのイファルでも分かる、ラキルトの静かな怒り方に、背筋が凍るような錯覚をイファルは覚えた。
だが、それ以上は何も言わず、黙ったまま、エティを連れて、この場を退場した。
「ッ……おいッ、俺の……!?」
得物だ、そう言い放とうとして、ブラッドは自分の足が動かないことに気がついた。
見れば、アガンを含めて自分たちの足元に、練成陣が敷かれていた。
「チッ……アンタの仕業だな」
舌打ちをして睨んでくるブラッドの顔を真っ向から見据えた後、今だ発光し続けるルキウスの方へと近づいていった。
「しっかりしろ、ルキウス! お前はこんなところで理性を失って、魔力を暴走させる暇などないはずだろう?」
肉体がないため、相手の身体を揺さぶって呼び戻すことも、引っぱたいて覚ますことも出来なかった。
だからラキルトは、彼にしてみれば在りえないくらいの声量で、ルキウスを叱責する。
それは、ルキウスの聴覚を刺激し、直接脳へと響くような激しさであった。
「あっ……ッ?」
自我を失いかけたルキウスは、その言葉によって、一気に現世へと引き戻される。
「お前はシオルの真意を知りたいのだろう? ならば、こんなところで立ち止まるわけにはいかないはずだ」
静かに、だが力強く心に響く声に、忘れかけていたことを思い出し、ルキウスは魔力を解放するのを止めた。
途端、脱力感が身体を支配し、均衡を崩して、ルキウスは地面にナディアの亡骸を抱いた状態のまま倒れ伏す。
そして、そのまま眠るように意識を手離した。
「ルキウスッ……!」
ラキルトではなく、ブラッドが名を呼び、駆け出そうとする。が、足場が固定されているため、それも叶わない。
ここで初めて、ブラッドは歯軋りをし、ラキルトに敵意を向けた。
それすらも受け止め、なおかつ無視する形で、ラキルトはルキウスの近くまで寄り、倒れた相手に手を翳す。
刹那、碧色の温かい光がルキウスの身体を包み込んだかと思うと、一瞬の内に消失した。ルキウスの肉体ごと、だ。
「テメェッ……」
「今、お前の傍にルキウスを置いておくと、危険だからな……随分な愚行を犯してくれたものだ」
嘆息しながら、ラキルトはブラッドの方をようやくにして、正面から見据えた。
「そこに伏している女性を手にかければ、ルキウスがお前に憎悪を向けるのは当たり前のことだろう? ただでさえ、あれはお前にいい印象を持っていないのだから、少しは自重したらどうだ、ピジョン」
まるで子供に説教をするような口調で、ラキルトは語り、その途端、ブラッドは不貞腐れたような表情でそっぽを向いた。
「………………流石は、神官長といった立ち振る舞いだな。こうもあっさりと場を仕切るとは、お見逸れ入る」
視線を逸らしたブラッドの代わりに口を開いたのは、今の今までずっと沈黙を守っていたアガンだった。
賛美の言葉を吐き出していても、それは何処か白々しく、ラキルト自身を小馬鹿にしているようでもあった。
そして、ラキルトの魔術―地場固定術(一種の制御術のようなもの)が練成されているにも関わらず、あっさりと歩み始めたことに、地に囚われたブラッドが、僅かばかり目を見開き、驚きの表情を浮かべた。
「…………わざわざ術にかかったふりをしてまで、事の成り行きを見守っていたのか、それとも、そうすることで、貴殿の都合のいい展開が待っていると看破していたのか……一体、どちらなのだ?」
物言いたげなブラッドに代わって尋ねるラキルトに、不敵な微笑を浮かべて、アガンが口を開いた。
「鋭いな。まぁ、何にせよ、俺の仕事は終わった……が、その前に俺は女の死体に用があるからな。それを引き取って、俺はこの場を失礼させてもらう」
言い終えた瞬間、練成陣の外へと一瞬に移動し、ナディアの骸の前に立ったアガンは、そのまま血で服が汚れるのも構わずに、抱き上げ、魔術練成を開始する。
「だが、いずれお前とは、決着を着けなければならないな」
ちらり、とブラッドの方を見、鼻で笑った後、アガンは練成した魔術によって、退場した。
それにより生じた風は、乾燥した地には在りえないほど、湿っぽかった。
去りゆく相手を見送ったラキルトは嘆息して、ゆっくりとブラッドの方へと向き直り、施していた術を解いた。
「……野郎……」
それすらも気づかない様子で、野性の獣が牙を剥き出して威嚇するかの如く、麗しい美貌を険のあるものへと変化させる。
それを見てラキルトは、今度は疲れたように吐息を漏らした。
「落ち着け、ピジョン」
静かにブラッドの名前を呼ぶ。
「そっちの名は呼ぶな!」
弾かれたようにブラッドはラキルトを見、怒りの矛先をそちらに向けた。
「大体、アンタには、俺を止める権利はないはずだ。それなのに、どうしてルキウスを連れていく?」
「……向こうの意思を尊重したまでだ。お前の場合、ルキウスが合意しなくとも、事に運びかねないからな……それに、ルキウスには今、しなければならないこともある」
噛みつきかねない勢いのブラッドを、涼しい顔で諌めることが出来るのは、世界広しと言えども、ラキルトだけだろう。
「そこでお前に聞きたいことがある。あの日―五千年前の神託を受けた翌日、お前は何処にいたんだ?」
遥か昔にあった記憶を掘り起こすかのような問いに、ブラッドは沈黙で返した後、静かに口を開いた。
「決まっている。ルキウスを連れ出したアイツの後を追った」
「なるほど……そして、シオルの手によって、お前とルキウスは時を止められたのか」
本当はブラッドの方には永眠封印術は施されていなかったのだが、そのことを話す必要は別にないので、ブラッドは黙っておく。
「その理由を、お前は知らないか?」
「ああん? 俺が知るかよ。俺が向かった時には既にルキウスは眠らされていたからな……問いただしたって、アイツが答えるわけがない」
強情、というわけではなく、ブラッドという人間を嫌っているためだ。そのことを、ブラッド自身がアイツ―シオルのことを嫌っているため、よく熟知している。
「確かに……そうなると、やはり……」
シオルの故郷に立ち寄るしかないな―胸中で言葉を作り、ラキルトは表には出さなかった。口にしていれば、間違いなくブラッドが後を追ってくると知っていたからだ。
「それでは、私は行く」
自己完結を終えたラキルトが、そう口にして姿を掻き消そうとした時だった。
「―待てよ」
それを呼び止めて、ブラッドは、珍しく躊躇ったように視線を逸らし、その後、真っ向からラキルトを見据えた。
「俺は、今も昔も、変わってはいない。だから、ルキウスは必ず俺のものにする」
「…………ああ」
「そのルキウスにアンタがつくってことは、だ。……つまりアンタは、俺の敵に回るってことだよな?」
確認するような響きを含んだ質問だった。
本当に、そうなるのか?
間違いではないのかと、強く確認を求める問いに、ラキルトはゆっくりと目を閉じ、決意したように開いた。
「―そうなる、な」
瞬間、見えない火花が散った。
「そうか。分かった……今だけは、アンタを見逃してやる。だが、次に会った時は、例えアンタであろうと、容赦はしない」
重く重く言葉にするブラッドに、痛ましさを覚えながらも、ラキルトは決して表情には出さなかった。
「ああ、理解した」
代わりに、そう返事をして、ラキルトは静かに姿を消失させた。
ルキウスたちの元へ向かうために。
ラキルトが消えた後も、ブラッドは暫くその場に残り、かつて自分を育てて……そんな言葉は大仰過ぎるが、衣食住の面倒を見ていてくれた相手の存在していた場所を、静かに見据えていた。
「………………そうか、アンタはやっぱり……」
唇を噛み締めて言葉を紡ぐブラッドの手元には、いつの間にか、一冊の本が持たれていた。
古めかしい作りで、重厚な印象を与えるような本は、読書のためではなく、日々の暮らしを記していくような、ノートであった。
それは、《ディオス国》が、ウイルスに対抗する解決の糸口として見つけた『氷柱の眠り人』である、ルキウス・ブランクスについての情報が書かれている資料でもあった。
そして、ブラッドがここに来ることになった、目的の品―消えたラキルトが記していた日記でもあった。
他人の日記を勝手に読む趣味は、ブラッドにはない。だが、ブラッドは知ってしまった。
直接手にかけた、この国の皇帝であり、教皇でもあった男の口から直接……ラキルトがずっと秘めていた、その想いを。
だから、ブラッドはラキルトに尋ねたのだ……俺の敵になるのかと。
答えは出た。
「ふん……」
笑みを浮かべて、ブラッドは魔術を練成した。練成された魔術によって、本は一瞬の内に炎を纏い、灰燼と化した。
灰が、吹き抜けた風によって流れていくその様を眺めながら、ブラッドはいつの間にか自分の周囲を取り囲んでいる武装した、大勢の人間たちにようやく、気がついた。
肌を焦がすような敵意丸出しの大勢の雑魚に、ブラッドはラキルトに接していたような人間身溢れる表情を一変させ、邪悪なる微笑を浮かべた。
人語も返せぬ獣ですら恐れるような残虐性に満ちた笑顔だった。
「丁度いい。むしゃくしゃしていたんだ。殺らせろ」
この日、《ディオス国》の王都にいた人間全てが、この世から消えた。
思考を現在へと戻したラキルトは、再びルキウスの方へと視線を投げ、再び小さく嘆息した。
「……アンタ、さっきからそればっかだな」
苦笑を零して、イファルがバイクを転がしながら、後ろを向いた。
「聞こえていたのか」
「そりゃ、肉体がなくてもそれだけ盛大に溜息つかれりゃな。それよか、そろそろ《フェルスレント》だぜ?」
再び前を向いて運転するイファルに、ああとラキルトは応じた。
「……随分、風景は変わったが、この辺りは木々が目立つな」
ずっと広がる砂漠を見続けていたため、ここに来て緑に遭遇し、少なからず感動を覚えたラキルトが、思ったままを口にした。
「ん、ああ……確かにな。俺やアル、エティが根城にしてる《テクノ》じゃ、こういった木は一本も生えてねぇからなぁ……新鮮っつっちゃあ、新鮮だな」
「微かだが……魔力の波動を感じる。意図的にこの一帯には魔術が施されているな……その恩恵で、あの木々は生き延びているのだろう」
魔力に敏感なラキルトが、視界から消えていく木々に目を向けて、感知したことを告げる。
「ふぅーん……俺には、魔力なんてからっきしだから、よくは分かんねぇけど、どうやら、アンタらの目的も果たせそうだな」
シオルの生きていた頃の痕跡を辿る……五千年と、果てしない時が経ってはいるが、まだ希望は残っている、そう励ますようにイファルは言い、楽天的に笑ってみせた。
「そう、だな」
苦笑を零して、ラキルトは応じ、再びルキウスの方に視線を向けた。ルキウスはやはり、先程と変わらず、虚ろな表情で遠くを見つめている。
それを見たラキルトは三度、嘆息を零した。
「あれが入り口だ」
ラキルトの気持ちを切り替えるためにも、イファルはバイクを運転しながら、前方に見え始めた巨大な門を指差し、大声で二人にそのことを知らせた。
気持ちのいい風が吹き抜けたのを頬に感じたアルは、ゆっくりと瞼を開け、ぼんやりと天井を眺めていた。
視界の中に、知っている色の髪が揺れたため、そちらに視線を向けると、緑色の双眸が大きく見開かれたと思った瞬間、自分の身体に縋りついてきた。
「アルッ……よかった……」
「…………エティ……? ここは……? オレ……?」
疑問符ばかり浮かべて、記憶を探り始めたアルは、弾かれたように上体を起こして、エティの身体を押しのけた。
「アイツは!?」
自分がされていたことを思い出し、次いで太腿に視線を向けたアルは、そこにあったはずの傷が、血が噴き出していた痕跡も何もないことに、再び疑問符を頭に浮かべた。
「確かオレ、あの野郎に刺されて……」
記憶を辿り、あの時の痛みを思い出したアルが、肉体に、今はない痛みを感じて、顔を歪めた。
「大丈夫、傷はえっと……イファルの知り合いの神官さんが治してくれたから」
「神官~? あいつにそんな徳の高そうな知り合いなんていたっけか?」
癒えた太腿を愛しそうに撫で擦りながら、アルはエティの方をじっと見つめ、その後に何かを探すように周囲を見渡した。
「―ところで、ルキウスは?」
知り合って浅いが、それでも忘れるはずのない姿がないことを疑問に思って、アルは尋ねた。
その瞬間、僅かにエティの身体がびくりと震えた。
「…………行っちゃったよ」
「はぁ? 行ったって、何処に?」
「さぁ? そんなこと、あたしが知るわけないじゃない」
刺々しい態度にアルは苦笑しつつも、それでも諦めきれないのか、周囲に何度も視線を向ける。
「行ったって、まだ、あいつの目的に達成してなかっただろ? つき合ってやらなきゃいけないのに、あいつ、本当に何処行ったんだよ?」
なんとはなしに、口にした言葉だった。さり気なく、もう一度エティに向けて尋ねた言葉。
それが、エティの神経を逆撫でした。
「知らないって言ってるじゃない!」
声を張り上げて、エティは俯いた。
アルに、今の顔の状態を見られたくなかってからだ。
「……お前、さっきから何怒ってんだよ?」
エティが何に対して怒っているのか、全く検討もつかないため、アルは疲れたように溜息を吐きながら、聞いた。
「…………ねぇ、もうあんなのに関わるのは止めようよ……だって、その所為で、アルは怪我したんだよ? 今までだって、結構危険な仕事はしてきたけど、あたし、今回のことで懲りたよ……アルが、アイツに刺された時、心臓が止まるかと思った……」
俯いて喋り出すエティの声量に黙って耳を傾けていたアルは、苦笑を零して口を開いた。
「何言ってんだよ? ルキウスを最初に連れてきたのは、エティじゃないか? それに、この世界の右も左も分からない奴を放って置くなんて、薄情にもほどがあるぜ?」
アル自身、ずっと小さい頃に両親に先立たれて、どんなに心細い思いをしたことか。ルキウスの境遇は、痛いほどに理解出来る。五千年も長い間眠りにつかされ、目覚めた時には自分の知らない世界が広がっているのだ。それは、アルが経験したことよりも、遥かに壮絶なことだった。
だから、放って置くことは出来なかった。
「……イファルが、後を継いだから平気よ」
「だからって、このまま引き下がるのはどうかと思うぜ? 乗りかかった船だし、最後までつき合うのが、人情ってもんだろ? ……それに」
ちらりと、周囲を見渡した時に目に留めた自分のカバン―そこにまだ膨らみがあるのを認めて、まだあれが自分の手元にあることを知ったアルは思った。彼のマントを返さなくては、と。
「とにかく、中途半端はお前も嫌だろう? 最後までつき合ってやろうぜ?」
あくまでよしとしないエティを説き伏せるために、アルは優しく言葉を紡いだ。
そんな中、ずっと伏せていたエティがふいに、顔を上げる。
その目には、涙が溢れていた。
「エティッ?」
ぎょっとして、アルは名を呼んだ。エティが自分の前で泣くのは、もうずっと前のことだったから……数年ぶりにその涙を見てしまい、アルは動揺が隠せない。
「絶対、嫌! 嫌だよ……もう、アルが傷つくとこ見るの……嫌だよ……あたし、もうあんな思いしたくない……」
「エティ……」
泣きじゃくるエティをあやす為、アルはそろそろとエティの頭に手を伸ばし、撫でてやろうとした。
その手を、エティが振り払う。
「子供扱いするのは止めてッ! アルの馬鹿ッ……! ねぇ、アルだって、もうあんな痛い思いをするのヤでしょ?」
言われ、あの時、ブラッドにされたことを思い出し、アルは唇を歪め、険しい表情をしたまま、首を縦ではなく、横に振った。
「……痛いのは確かに嫌だが、だからって引き下がるわけにはいかねぇよ……あの野郎には、絶対負けたくないッ……」
自分を見下した顔。全てにおいて、自分の方が勝っていると、あの時の戦いでそれをむざむざ認めてしまったアルは、男としてのプライドを酷く傷つけられた。
何故だが、あの男には、絶対に負けたくない。確固たる信念というか、闘志が、アルの中では漲っていた。
「…………好き、なの……」
「え?」
エティの口からか細い声が漏れ、よく聞き取ることの出来なかったアルは、エティの方に耳を傾け、もう一度訪ねた。
「好きなの! あたし、アルのことが! だから、だから、ルキウスのところになんか行かないでッ!」
意を決したように、告白するエティに、アルは呆気に取られて言葉も出せない。
ずっと幼い頃から一緒にいた。アルの両親が死んだ後は、エティを育てていたエティの祖父に引き取られたからだ。
エティとは年が四つ離れていたから、仲のいい兄妹のように年を重ねていった。自分を慕ってくれるエティは確かに可愛い。けれど、それはエティが今告白したような、そういった意味での好きとは違う、親愛の意味でだ。
だから、ずっとそう思っていた相手から、ふいの告白に、アルは戸惑い、なんと言えばいいのか分からなかった。どうやったらエティが傷つかず、円く収まるのか……そう考えた時点で、エティの想いを受け入れることが出来ずにいる自分に気がついた。
そして、何故だか急に、知り合って浅い関係のルキウスの顔が浮かんだ。
「オレは…………」
上手く言葉が出て来ず、アルはエティから視線を逸らした。けれど、ここで逃げるわけにはいかなかった。
エティは、真摯な想いで自分の身の内を告白したのだから、自分もまた、あやふやな態度で誤魔化すのではなく、たとえ、たとえこの関係が崩れてしまうかも知れなくても……自分の想いは告げないといけない―そう思って、アルは再びエティの方を向いた。
「―ごめん……オレは」
ルキウスの顔が浮かぶ。少し、哀しそうで、だけど、真っ直ぐに前を向いて歩いていく姿が。傷つく痛みに顔を歪ませて、だけど、それでも知るために進もうとする、あの頼りなくもあるも、美しいその姿が。
それが、答えだった。
「オレ、オレは、ルキウスのことが好きだから、お前の気持ちに答えてやることは出来ない」
はっきりとそう告げた。
「……馬鹿」
そう言い、顔を伏せるエティだったが、その馬鹿に含まれた心中の想いは、アルが思っていたことよりもずっと、優しいものだった。
あんなの好きになって、苦労するよ。そんな想いで溢れていた。
「ごめん……」
だけど、アルにはそう言うしかない。謝ることしか、出来ない。
「別にいいよ。あ、まぁ、いいわけじゃないけど……アルがルキウスのことを好きなのは、知ってたから……」
「え?」
驚くアルに、エティは涙を拭きながら、微笑を浮かべた。何かが吹っ切れたような表情だった。
「好きな人の考えていることなんてね、自然と分かるもんなの。ましてやアルってば、ものすッごく分かり易い性格だもん」
その表情を見て、アルは女って逞しいなぁと心中で思った。
「じゃ、ルキウスの後を追わなくちゃいけないね……あたし、謝らないといけないこともあるし……」
気持ちの切り替えが早いエティは、先ほどの告白のダメージはなさそうだった。いや、もう考えないようにしているのかも知れない。
だけど、今更その話を掘り起こすこともないので、アルはそのことには触れず、それよりもエティの言ったことが気になって聞き返す。
「どういうことだよ?」
その問いに対して、エティは困ったように言い難そうに言葉を吐いた。
「えっと、ね……アルを《テクノ》まで運んで、イファルたちが次に何処に行くか相談してる時、ルキウスがあたしに謝りにきたの……「ごめんね、僕の所為で、アルがこんなことになってしまって……本当にごめん」、そう謝ってきたんだけど、あの時あたし、ものすごく腹が立ってて、ルキウスに言っちゃったんだ、アンタの所為でッて、アンタがいなきゃこんなことにならなかったのにって……アンタなんか、助けなきゃよかったって……自分で言ってて、ものすごく酷いことを言ってるのは分かってたけど、止められなかった……でも、後になってすごく後悔しちゃったから、謝らなきゃ、ね」
「………………そう、だな」
エティの言い分も確かに分かる気がするので、苦笑を零して、アルは今度こそ、エティの頭に触れて、優しく撫でた。
「だからぁ、子供扱いしないでよ」
そう零すも、エティはまんざらでもなさそうに、笑みを零した。
「随分、愉しそうだな」
そんな微笑ましい光景を壊すような声が、二人の間を割って入った。
見慣れた《テクノ》にある、アルとエティの根城に、見慣れない男が侵入していた。
全身を漆黒の闇で覆うような、ダーク・スーツをきっちりと着こなした長身の男―アガン・ティファニーだった。
威圧感を抱かずにはいられない相手なのに、ここまで来ていることに全く気づかなかったことに、アルとエティは驚愕した。
驚くほど気配を消すことが得意な男だった。
「あんたはッ……!?」
記憶が途絶える寸前に見た、黒い獣ような物体が、自分の上にいたブラッドを吹き飛ばしたことを覚えていたアルは、直感的にそれが目の前の男であると理解した。
「何しに来たのよ?」
エティの方は、しっかりとアガンの姿を目撃しているため、その男が何故自分たちの前に姿を現すのかが分からずに、刺々しい態度で詰問する。
「少しお前たちに用事があったからな……立ち寄っただけだ。それよりも、どうだ? 俺を雇わないか?」
突然の申し出に、アルとエティはきょとんとして、互いに顔を見合わせた。
「今のお前の実力では、あの男は倒せない。その手助けを俺はしてやろう……あとは、お前たちの望む場所までの案内をしてやろう」
淡々と、だが、その言葉から滲み出る圧倒的な威圧感は消せないまま、アガンが説明する。
「あんた、聞いていやがったな……けど、それにしても、だ。なんであんたがそんなにオレたちに協力してくれるんだよ?」
どうも警戒心を抱かずにはいられない相手を注意深く観察しながら、男の真意を問い質した。
それに対してアガンは小馬鹿にしたように鼻で笑いながら答えた。
「協力……? 勘違いするな、これは取引だ。無償で動くほど、俺はいい人ではない。そうだな、報酬は―」
アガンがさり気ない動きでパチリと、指を鳴らした。
瞬間、アルとエティの思考は完全に遮断され、肉体が重力の法則を無視して宙に浮かぶ。
虚ろな表情で二人が何も考えられないことを理解していたアガンは、刃物のように鋭く、氷のような微笑を浮かべながら、こう口にした。
「お前たちの―に関する記憶だ」
時間は、ほんの僅かに遡る。
ナディアの亡骸を抱いたまま、人のいない場所にまで魔術で移動したアガンは、どさりとぞんざいに、ナディアの身体を地面に横たわらせた。
それから無言のまま魔術練成を開始させ、水色の魔術文字がナディアの横たわった地面から浮かび出し、練成陣が完成する。
それとともに、『同調者』としての能力を発動させ、意識をナディアの死んだ身体に残っている記憶と同調させた。
それはいとも簡単に成功した。
次の瞬間には、死んだはずのナディアが、魂だけの存在となって、アガンの目の前に立っていたからだ。
(貴方は…………)
自分の姿を保つことが難しいから、波打ちながら、ナディアは口を開いた。
「成功したか……どうやら、お前は水と相性がいいらしいな。だから、月の神官でもある、ルキウス・ブランクスと同調することが出来た、か……俺はお前とは波長も相性も合わんが、それでも、同調することは出来る……水属性なら、可能だからな」
淡々と口にするアガンを睨みつけながら、ナディアが重々しく口を開いた。
(貴方は、一体何者なのです?)
「……何者、とは? 俺はただのしがない殺し屋だが?」
はぐらかすアガンに対して、否定的にナディアは首を横に振った。
(生きている間には私には分かりませんでした……が、この姿になって初めて、貴方が、貴方が他の神官たちが持つような魔力とは何かが違うことが理解出来ます)
同調を行なう際にも、精神体になった方がその同調率が高くなることは前にも記した。
それは魂の場合であっても同じで、肉体から切り離された状態であるなら、魔力も大幅に増幅する。
何故なら、魔力とは肉体に関係するのではなく、心の強さや、内に秘めたる力のことを指すからだ。
確かに、肉体にも密接とまではいかないが、関係はある。だが、たとえば肉体で行なうことに関して、人間には限界があることを知っておいて貰いたい。出来ることと出来ないこと、それがあるのは当たり前のことだが、それでも時々人間は、不可能だと思われていたことを可能にする力を持っている。
たとえば、土壇場で負けないという心に同調したかのように、勝てるはずのない相手に勝てた、とか、死にかけた肉体が、リハビリを経て何の支障もなく動かせるようになったか、だとか。
負けないという心の強さが、不屈の精神が、それを可能にした。
その心こそが、魔力の源だった。
少なくとも、《ディオス国》では、あるいは魔術技師たちの根源である《フェルスレント》―そこではそう考えられていた。
(少なくとも、国の出身が違うから、ではこの疑問は解決しないことは確かです。貴方は私とは違う……私の知っている人間とは、何かが異なります)
重く告げる女魂に、アガンは微笑を浮かべた。それは、魂だけの女を震わせるほど、冷たい冷笑だった。
「好奇心を駆り立てるのは勝手だが、それ以上入り込むと、帰れなくなるぞ。そもそも、お前と俺が違うことは当たり前のことだ。同じ人間など存在しない。全てが個々であり、異なるものだ」
まるで、自分に言い聞かせるような言葉だった。だが、違うと、ナディアは否定出来なかった。確かに、アガンの言うとおりだったからだ。
「それよりも、だ。お前は死んだ。従って依頼は無効となるが……構わないな。何せお前は『これで、夫の元にいける』と、告げたんだからな」
ナディアが死ぬ寸前、ルキウスですら聞き取れなかった言葉を、アガンは知っていて、面白そうにナディアを注視した。
(―そうですね。依頼は無効にはなりましたが、それまでの必要経費は、私の家から適当に物色して構いません……その権利が貴方にはありますから)
アガンの鋭い視線に耐え切れないように、ナディアはその視線を避け、承諾した。
「そんなことをする必要もない。俺はもう、自由だからな……元々俺は、飼い犬になって皇帝に仕えていたわけではない。飼い慣らされた牙は脆いものだからな……それに、俺は仕えるのなら、もっと実力のある人間につく―そう、絶対的な覇者に、な」
意味ありげに言い、アガンはナディアに背を向けた。もう用はないというように。
(待って下さい! 最後に一つだけ……貴方の目的は一体―!?)
なんなのですか、そう言おうとした刹那、ナディアは声にならない悲鳴を上げた。
眩い光がナディアの身体を下から徐々に掻き消し始めたからだ。
それは、魂が冥界へと向かう誘いの光ではなく、現世も、異界にも姿を保つのではなく、完全なる消失に向かう光であった。
肉体ではなく、魂を喰らう光に喰い千切られる痛みに、ナディアは絶叫した。
「お前は入り込み過ぎた。好奇心は身を滅ぼすだけの行為だと、何故気がつかない?」
冷淡に告げ、アガンはそのままそこから姿を消した。
消失の光は、ナディアの残った肉体すらも包み込み、全てを消し去った。
釈然としない面持ちで、四輪駆動に乗り込んだアルとエティは、少し名残惜しそうに、我が家に視線を向けた。
慌ただしい旅支度が済んだ後は、暫く帰れそうにない予感が、二人の胸に哀愁を抱かせたからだ。
「行くぞ」
そんな二人の胸中を切り捨てるがの如く冷淡さで、アガンが車を走らせる。
車は至極快適で、アガンの運転テクニックを二人は知った。
今でも二人はどうしてこんな男に協力を求めたのか、よくは理解出来ないが、それでも、エティはアガンの実力は目の当たりにしている。
だから、ルキウスたちの後を追うついでに、アルは自分の実力を高めようと、アガンに修行につき合うようにと、そんな無謀な協力を求めた。
が、意外にもアガンはあっさりと承諾し、拍子抜かれた二人は、またも互いの顔を見合わせたのだった。
だが、アルの判断は間違っていたかも知れない。
「いいだろう。だが、私は優しくはないぞ」
意地悪く、愉しそうに唇を歪めるアガンの顔を見た時、アルは自分が生きてルキウスに会えるかどうかを本気で考えてしまった。
奇妙な三人組の旅が始まった。
《フェルスレント》に向かっていたはずのルキウス、ラキルト、イファルの三人は、今はそこを移動して、ロザモ山脈と呼ばれる、《ディオス国》の東に面した山々を登り、それより先にある東の果てに向かっていた。
「あーあ……面倒くせぇ……」
悪態をつきながらイファルは山を歩いて登る。
標高も知れてはいるが、それでも山には変わらない。降る際はともかく、登る時にはエア・バイクは使えないため、足での移動に不平を漏らしたのであった。
「本当に、ごめん……無理はしなくていいよ?」
多分、イファルには相手を責めるつもりはなかっただろうが、愚痴を零されたため、彼がそう行動するに至った、諸悪の根源というべきルキウスが、萎縮しながら謝罪する。
それを聞いたイファルは慌てて首を振った。
「あ、いや、別にアンタを責めたわけじゃねぇよ。なんつーか、西の方にはこういう山なんかねぇからなぁ……山登りは慣れてないから、しんどいって言っただけであって、嫌ってわけじゃないからな」
どうもルキウスには、全て自分の所為にしてしまい、謝る癖があるようだと、イファルは思った。確かに、こうなったのは、ルキウスの所為だとも言えようが、つき合うと決めたのは自分なのだから、それはルキウスの所為ではなく、自分の責任になるのだ。
「でも……」
それでも納得の出来ないルキウスが言葉を濁す。
「あまり自分を責めるな。それに、イファルに仕事の依頼をしたのは私なのだからな。責任は私にある。イファルの愚痴は、私が遠慮なく聞こう」
イファルやルキウスと同じく、肉体がないにも関わらず、一緒に山を登っていたラキルトが口を開いた。
「あー……いや、アンタに愚痴を零すと、その倍の言葉が返ってきそうだからなぁ……遠慮しとく」
それを聞いたルキウスは、楽しそうにくすくすと笑みを零した。長いつき合いではないイファルが、ラキルトの話の長さについて熟知していることが可笑しかったからだ。つまり、それほどラキルトの話の長さがすさまじいことを示している。
「遠慮することはないぞ。そもそも、君を巻き込んでしまったのは、私の責任であるのだから、君が私に対して愚痴を零すのは正当な権利として認められる。それに、自分の身の内に抑圧した感情を溜めておくのは、あまり健康的とは言い難い。君が体調を崩すくらいなら、私は喜んで君の愚痴を聞こう…………ルキウス、何を笑っている?」
このまま話を続けようとしていたラキルトだったが、ルキウスが笑うのが視界に入って、怪訝そうに尋ねた。
「いえ、別に」
そう答えるが、その口元はまだ笑っている。
それを見て、イファルが嬉しそうに笑みを作り、言葉を作った。
「やっぱ、アンタは笑ってる方がいいな」
「え?」
「いや、《フェルスレント》に行くまでもずっと塞ぎ込んでただろ? あそこも結局中にまで入れたわけでもないし……色々あって気を落としてたんだと思うけど、ここにきてアンタの笑顔が見れただけでも、俺はつき合ってよかったと思えるぜ」
そう言って、イファルは何気ない仕草で、ルキウスの頭を撫でた。
兄が弟に接するような気持ちで。
そうされても、ルキウスが嫌悪を沸くことはなかった。本当は、同性に対して構えることがあるルキウスだが、イファルやラキルトに対しては、それはない。
ラキルトはずっと昔から一緒にいたという理由もあるが、勿論、自分の魔術技師としての師匠としてもあるが、知り合って浅いイファルに対して、こんなにも普通に接することが出来ることが、ルキウスには自分でも不思議だった。
「? どうかしたのか?」
「あ、ううん」
イファルに怪訝な表情をされ、ルキウスは慌て首を振る。
そんな二人をラキルトは、何かを思うような瞳で見つめていた。
砂漠の広がり続ける《ディオス国》でも、水のあるところは存在する。
ロザモ山脈にある、本当に小さな泉に辿り着いた三人は、日も暮れたということで、今夜はここで野宿をすることになり、その準備をしていた。
砂漠の夜は昼間とは比べ物にならないくらい冷え込むし、ましてやここは山脈地。零下まで気温は下がる。
だが、そういった気候に慣れているイファルは平気そうに、夕食の準備に取りかかっていた。
ラキルトもまた、肉体が存在していないため、平気ではあるが、ルキウスはそうはいかない。
深々と身を縮める寒さに、少しでも熱を逃さないように、じっとして動かないようにしていた。
「寒いのか?」
ラキルトが心配そうに声をかけると、ルキウスは苦笑して少し、と答えた。
するとラキルトは嘆息して、魔術を練成させた。朱色の光が生まれ、それがルキウスの周囲を取り巻く。
「『太陽の恩恵』だ。これで少しは温かくなるだろう」
「ありがとう、ラキルト師匠」
「その、師匠というのはもう止めろ……普通にラキルトと呼んでくれて構わない」
ふんわりと微笑んで礼を言うルキウスから視線を逸らして、ラキルトはぼそりと呟くように告げた。
「え? でも……」
それでも、ラキルトが自分の師匠であることには変わりない、そう告げようとして、ルキウスは止めた。ラキルトがそう望むのだから、その通りにして上げるべきだと思ったからだ。
「じゃあ、分かりました……えと、ラキ、ルト……」
ずっと師匠として、尊敬していた相手を呼び捨てにするのは照れ臭かったから、ルキウスは恥ずかしそうに微笑した。
「ああ、それでいい」
名前で呼ばれたことが嬉しかったのか、ラキルトが珍しく微笑を浮かべる。
それは、女性であるなら、誰もが目に奪われずにはいられない、魅力的な微笑みであった。
「あ、水が足らねぇ……なぁ、悪いけど、泉まで水を汲んできてくれないか?」
食事の支度をしていたイファルがふいに二人に言い、ルキウスはすぐに立ち上がり、水を入れるために使う器を持った。
「僕が行ってきます」
そう言って走り去るルキウスの姿を眺めながらラキルトが、
「水なら、私が練成するが?」
と、言った。
「あんま魔術に頼るのはどうかと思うぜ? 泉の水はさっき調べたけど、人が飲用しても平気だったし、あるもんがあるなら、それを使うに越したことはねぇだろ?」
諭すような物言いに、ラキルトは苦笑を浮かべてそうだな、と肯定した。
「君の言うとおりだ。どうも、魔術が使えることに驕り、私は大事なことを忘れていたようだ」
「そゆこと」
鼻歌でも歌い出しそうな風情で、イファルは夕食の支度を続ける。
そんなイファルを黙ったまま見つめながらラキルトは不意に、
「……羨ましいものだな」
と、呟いた。
「あぁん? 何がだよ?」
ラキルトのような男に憧憬を抱かせるようなことをした覚えのないイファルが怪訝そうに口を開いた。
「―私は今、肉体がないことを酷く悔やんでいる……先ほどもそうだった。ルキウスの支えになってやりたいと思う気持ちは誰よりも強いと思ってはいるが、肉体のない私は、ルキウスの頭に触れて撫でてやることも、抱き締めて身体を温めてやることも出来ない……だからだろうか、必要以上に私は、自分の魔術に頼っている気がする……」
それは、独白だった。
ずっと、ラキルトが胸に秘めてきた想い。
結婚をし、妻を持つ身でありながら、それでも惹かれずにはいられなかった相手への想い。
「……アンタ、ルキウスのこと……」
手を止めて、イファルは繁々とラキルトの顔を見た。そこに、驚きはない。何となくだが、イファルには分かっていたからだ。
迷いもなく、ラキルトがイファルを見返していたことに、イファルは苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「―別に、相手に触れなくたって、人を慰めてやることは出来ると思うぜ? 確かに、支えになるのに一番有効的な手段とは、俺も思うけど……それって、結構下心ありとも取れる行動になると思うぜ? アンタは別に、ルキウスにそういう感情を抱いているわけじゃないんだろ? あ、いや……なんつーか、それもあるだろうけど、それを超えた、想いっつーか……、相手の全てを自分のものにしたいっていう、単なる欲望とは違う感情をアンタからは感じられる、庇護愛だとか、そんなところか……そういう方が、ルキウスにとっては嬉しいんじゃないのか?」
イファルには、ルキウスが過去、どういう目に在ってきたかは知らない。信じていた父親によって肉体を改造され、それ以来、大人の同性に触れられることを恐れ、極端に人と接することに関して注意してきたルキウスの過去など。
けれど、あの目を見ればなんとなく分かるような気がした。……それに、ルキウスの境遇は自分と似ていることも関係した。
信じていた親友に裏切られたこと。ルキウスはそれでも、どうして親友がそういった行動に出たのかが知りたくて旅を続けているが、イファルにはそれが出来なかった。もう親友はこの世にはいないから。そう、納得してしまったから。
本当は、答えを出すことが出来なかった自分の代わりを、ルキウスにさせるつもりかも知れない。自分は親友を殺して、そこで終わってしまったけれど、ルキウスはもういないであろう親友の残した想いを求めて旅をしている。
自分とは違う選択をした、ルキウスの答えを知りたいから、こうして旅を共にしている……それに、それにと、イファルは思う。
「―好きっていう恋愛感情は人それぞれだけど、あの、ブラッドだっけ? アイツみたいな恋愛の形は、ルキウスを苦しめるだけだ。その点を考えると、アンタはずっとルキウスの相手にとって相応しいと、俺は思うぜ?」
「………………しかし、ルキウスは男で」
「それって、あんま重要なことじゃないだろ? 俺はそういうのに偏見ねぇし、あー……でも、自分がネコに回るのか、確かにキツいな……ん、まぁ、そういうのは当事者同士で解決するってことで。あ、そういや、魔術で、相手の身体に憑依するとかって出来るのか?」
不意に話題を変えられて、面くらいつつも、ラキルトはああ、出来るがと答えた。
それを聞いたイファルがにぃ、と意地の悪い笑みを浮かべる。
「まぁ、ルキウス次第だが、丁度いい。俺の身体、アンタに貸してやるぜ?」
物を貸すような気安さで、イファルはとんでもない台詞を吐いた。
泉まで水を汲みに行っていたルキウスは、目的の場所に到着すると、早速持っていた器で水面を掬い、水を得た。
さっきまであんなに寒かったのに、今は春の日差しのような暖かさがルキウスの身体を包み込んでいる。
今のルキウスには魔術のする際に媒体となる道具がないため、魔術を練成することが出来なかった。
道具は、自分の記憶が正しければ、シオルが持っているはずだ。
自分が封印される寸前に、貸してくれと言われて、躊躇なくシオルに渡したことを覚えている。
その答えは、《フェルスレント》で出ると思っていたが、実際のところ、三人は入口には立ったものの、中に入ることが出来ず、《フェルスレント》の人々に追い返されてしまった。
ただ、去り際に、伝説の魔術技師の言い伝えだという言葉を、人々は自分たちに告げてくれた。
『薄紫の髪と、萌葱色の瞳を持つ魔術技師が現れたらこう告げよ。我は東の果てで待つ、と』
薄紫の髪、萌葱色の瞳―間違いなく自分のことを指していた。
親友の想いは残っていた。そのことが、堪らなくルキウスには嬉しかった。
たとえ、どんな現実が待ち受けていようとしていても、また再び、彼が自分を封印しようと、殺そうとしたとしても、今度こそ、自分は聞くのだ。
あの時、彼がそうした理由を。
肉体は滅んでいたとしても、ラキルトのような例もあるため、今のルキウスはそれほど、悲観はしていなかった。
たとえ、肉体はなくとも、心はきっと残っている。だって、シオルは東の果てで待つ、そう告げているのだから。
「……ようやく、聞けるよ」
空を見上げて、冷えた夜空一杯に広がる星星を眺めた。
紅い星、青い星、黄色い星、緑色の星……そして、その中で一等大きく、輝く銀色の光を放つ、月。
その月はもうじき、満月を迎えようとしていた。
今は平たい胸を撫で、ルキウスはそっと息をつく。
酷く心が高揚しているのが分かった。
「…………ルキウス……」
不意に声が背後から聞こえ、ルキウスは振り返った。
そこに立っていたのは、イファルだった。
けれど、ルキウスにはそれが、イファルだとは思えなかった。姿かたちは確かにイファルのものであるのだが、滲み出す雰囲気は、明らかにイファルのものとは異なっていたからだ。
ぎこちなく微笑む様が、ある人とよく酷似していた。
だから―。
「ラキル、ト……?」
呆然と、その名を告げた。
「―やはり、お前には分かってしまうのだな」
イファルの顔をしたラキルトが、そう口にした。
声量は確かにイファルのものだが、それと重なって、ラキルトの声が加わる。
だが、そう口にしているのはラキルトだった。
「え……? あ、あの、どうして?」
戸惑いを浮かべるルキウスに、ラキルトがぎこちなく首を傾けた。
それはラキルトがよくする癖のようなもので、ルキウスはそのことをよく、知っていた。
「イファルが身体を貸してくれたんだ。ちゃんと、了承は得ている」
「え、いや……そういう問題でもないと思うのですが……」
「そうだな」
優しく微笑んで、ラキルトはルキウスの前に立った。
いつもよりは低く感じる相手の顔に、ルキウスは何故か胸騒ぐものを感じて、慌てた。
自分の心が高揚しているだけではなく、何か、もっと別の……。
「…………私は、ずっとお前に告げなくてはならない言葉があったんだ」
イファルの指が、ルキウスの頬に触れる。
だが、それを行なっているのは、ラキルトだった。
「僕に……?」
「そう、だ……私は、お前の支えになってやりたい。お前が、私の弟子だからではない。勿論、それもあるが……私は、ブラッドと、同じ想いを、ずっとお前に抱いていた……ルキウス、私はお前のことを愛している」
愛している―その言葉がルキウスの中に深く浸透していった。と、同時に裏切られたという想いが、ルキウスの中で生まれる。
「そんなっ……し、ラキルトッ……どうしてっ、貴方までッ……! 僕は、男です! 貴方まで、僕を、女として見るんですかッ?」
男なのに、同性からそういった目で見られることが堪らなく嫌だった。自分は男なのに、望んだわけじゃないのに、女の身体を手にしてしまい、その思いはますます強くなった。
それなのに、ずっと信じていた、尊敬もしていた人から、そんな残酷な告白を聞いて、ルキウスは心が引き裂かれるような痛みを感じて、悲鳴を上げた。
「嫌、だッ……僕はッ……僕はッ……!」
胸を押さえ込み、よろめきそうになる身体を、ラキルトが支える。咄嗟に逃れようとすると、強く抱かれ、それも叶わなくなった。
「嫌ッ……! 離してッ!」
「……ルキウス、聞いてくれ……確かに私は、お前のことを愛していると言った。ブラッドと同じような想いを抱いていると。だが、少なくとも私は、お前を女として見ているわけではない。お前が、男であることは誰よりも理解している。お前が、望んだわけでもないのに、女の肉体を手にし、それで悩んでいたことも……お前の抱いている心までは理解してやることは出来ないが、それでも私は、側にいてやることは出来る。私は、お前の支えになりたいんだ。傷ついているお前を見ると、守りたくなる……私は、お前が笑っているところが見れないことが、何よりも辛い」
ラキルトの言葉を聞きながら、ルキウスは抵抗を止めた。
「人は、支えあってこそ、強くなれるものだ……私は、お前の支えになりたいんだ」
それ以外は何も求めたりしない。見返りなど望んではいない。求めた時点で、それはたんなる欲に変わるからだ。
無償で支え合うことこそが、ラキルトの中での愛、という言葉に行き着いた答えだった。
「……私では、お前の支えにはならないか?」
そう、耳元で囁かれ、ルキウスは静かに首を振った。
どれだけこの人に支えられたか、それを知らないというほど、自分は恩知らずではなかったからだ。
シオルと同様に、ラキルトはルキウスにとって、掛け替えのない存在だったから。
自分が変わらないまま望んでいた未来の情景に、ラキルトは確かに加わっていたのだから。
「………………そんなことは、ありません」
「……そうか、よかった」
ホッと吐息をラキルトがつき、その息が耳元にかかった時、ルキウスはゾクリと背筋に何かが走るのを感じた。それは、悪寒ではないことを、ルキウスが何よりも理解していた。
自分は、そういった意味でラキルトのことが好きなのかは、まだ分からない。
けれど、ラキルトもまた、失いたくない存在であることは確かだった。
「……し、ラキルト……」
「なんだ?」
身動ぎをして、ラキルトの顔を窺おうと上を見上げると、酷く優しい表情の男が、自分を見下ろしていた。
「あの…………もう、少しだけ、もう少しだけ、こうしていてはくれませんか?」
恥ずかしそうに告白するルキウスに、ラキルトは微笑を浮かべて頷いた。
「ああ、お前が望むだけ、ずっとこうしておいてやる」
包み込む温かさに呼応するかのように、夜空に輝く星々が、優しい光を瞬かせたのだった。