第四章
雑踏の中、ルキウス、アル、エティの三人は、神殿へと続く大通りを歩いていた。
既にルキウスは前に着ていた衣装とは別の、この時代に一般的に普及している衣装を身に纏い、さらにその上から目立たないようにマントを羽織っていた。
その色は灰色と、ここに来る前に脱いだ、神官職の証である白いマントとは異なるものであった。
「あーあ……折角女になってんだから、もっと露出した服の方がいいのになぁ……」
ルキウスの服を買う他に、ついでだから食料などの買い出しもしておこうということになり、その荷物を大量に抱え込みながら、アルが至極残念そうに呟く。
それを聞き止めたルキウスが、僅かに眉根を寄せて怒ったような口調で、
「アル……僕は確かに今は、その、女性の姿にはなっているけど、本当は男なんだ。だから、君の意見は悪いけど、聞き入れられないよ。だって、僕がそんな格好をして、元に戻った時は、ただの変態になってしまう」
もっともらしくルキウスに言われ、アルは苦笑を浮かべ、その通りだなとぼやいた。
それに―と、ルキウスは心中でつけ加えるように言葉を紡いだ。
(多分……この街を出れば、僕の身体は元に戻る……)
日数を考えると、女体に変化出来る満月にはまだ時間がある……そう考えながら、ルキウスは足を動かして神殿の見え始めた大通りの真正面に、何気なく視線を向けた。
その双眸が驚愕に縁取られ、足が停止したのは言うまでもない。
「? どうしたの?」
ルキウスの後ろを歩いていたエティが、前で立ち止まられたことに、怪訝の声を上げた。さらに、返事がないことを不思議に思い、彼女もまた視線をルキウスと同じ方向に向ける。
そしてエティもまた、金縛りに合ったかのように、その場に立ち止まった。
「おーい、どうしたぁ?」
唯一、ルキウスの横を歩いていたアルが、二人がついて来ていないことにようやく気づいて、荷物を抱えながら二人の止まっているところまで戻って尋ねた。
「―ブラッドッ!?」
悲鳴染みた声が、ルキウスの口から飛び出した。
神殿の外へと脱出したイファルは、裏手の方から木々に囲まれた場所に身を潜ませ、肩で息をしながら、すぐ背後に視線を向けた。
どうやら、あの男が追ってくる気配はないことを確認し、一息つこうとイファルは、左胸ポケットから煙草の箱を取り出し、そこから一本抜き取り、口元に持っていく。さらにジーンズのポケットから火元であるライターを取り出して、煙草に火を灯した。
つかの間の至福のひと時を感じながら、安堵の吐息をつく。
そして、何気なく視線を前方に向けた瞬間、いつの間に出現したのか、ラキルトが当たり前のように突っ立っていたため、危うくイファルは悲鳴を上げるところだった。
「ツッ……! ビ、ビビッた……つーか、出てくるんなら出てくるって、一言告げてから現れてくれッ」
出現の仕方が心臓に悪すぎると文句を言うと、ラキルトがそれは申し訳ないと、謝罪を言葉にして頭を下げる。
困ったことに、ラキルトは魂という存在だけあって、イファルのような人間には気配というものが感じられず、相手が現れることを察することが出来なかった。
「それよりも……私には少々することが出来てしまった……こんなことを頼むのは、私としても心苦しいのだが、一つ君に仕事を依頼したい」
改まった口調でラキルトに言われ、イファルは怪訝な表情を浮かべた後、煙草を下に放って、靴底で火を消しながら、ぽりぽりと頬を指で掻いた。
「……なんか、あんま聞きたくないような……」
そうぼやくと、ラキルトが僅かに苦笑めいた表情を浮かべた。
「報酬は、私が所有しているものは君のその右手に嵌めている腕輪しかないため、それで支払いたい……どうだろう、引き受けてくれるか?」
逃げる途中に懐から右手の方に腕輪を移動させていたイファルは、その腕輪に左手で触れながら、
「……内容にもよるけど……まぁ、危なくない程度だったら、つき合うぜ」
と、その内容自体を知り得ないまま、取り敢えず応じる。
「そうか……ありがたい。仕事というのは―」
言いかけたラキルトが、表情を強張らせてイファルの背後に目を向けたのは、それからすぐのことだった。
さきほどの出来事と全く同じ展開に、イファルは背後に嫌な予感を感じて、恐る恐る振り返る。
かなりの至近距離に、あの男が立っていた。
「どわっ……!」
後退って男と距離を取り、左脇にあるホルスターに収めた銃に手をかけようとした瞬間、男は左手に持つ刀を鞘から引き抜き、あっという間にイファルの眼前に刀の先端を突きつけた。
「無駄な抵抗は止めるんだな」
男が躊躇いもなく突けば、間違いなくイファルは死ぬ―そんな位置に刀は存在し、ラキルトは下手に動こうものならイファルの命はないだろうと判断し、動けなかった。
そんな中、イファルは白銀に輝く刃物の先端を凝視し、気が遠くなるような感覚を味わっていた。
以前に体験したことが走馬灯のように頭を駆け巡り、その時に味わった痛みと、喪失感……そして絶望を思い出し、自分でも顔が強張るのを実感した。
冷や汗が流れ、体温がどっと低くなるような錯覚を覚える。
他者の目から見ても、その変化は著しかった。
今やイファルの相貌は蒼白で、立っているのもやっとのような有様になっていた。
「そんなに恐ろしいか?」
刀を向けられて震えるイファルを嘲るように、男が言葉を吐いた。
それは違う、とイファルは否定をしたかったが、口が思うように動かず、言葉が出てこなかった。
確かに刃物は怖いが、恐ろしいわけではない。
イファルにとって、恐ろしいのは刃物自体ではなく、その先端だった。
光の加減で銀に輝くその切っ先が、イファルには堪らなく恐ろしくて仕方のない存在になっていた。
原因は分かっている。過去に親友に刺されたためだ。そこに起因している。
別に刺されただけなら、それほど酷いトラウマにもならなかったかも知れない。けれどあの時、イファルは親友に刺されたことにより、親友の心中と、自分に向けられる憎悪を知った。そして、その親友の裏切りを。
信じていた者に、そんな感情向けられることほど悲しいことはない。あの時の親友の憎しみに染まった双眸……それと銀色の輝きがリンクし、イファルの心を追い詰めるのだ。
「…………嫌、だ……」
ゴクリと生唾を飲み干し、イファルは震える足を何とか動かして後退する。
はたから見れば、刀に恐怖したようにしか見えなかっただろう。
が、イファルの心情をまるで読んだかの如く、男は嘆息して突然、刀を鞘に収めた。
その瞬間、緊張の糸が切れたかのように、イファルはその場にへたり込んだ。
その背後にひっそりとラキルトが控える……まるで、イファルを守るかのように。
「―貴殿の仕事は終了したのではなかったのか?」
双眸を細めラキルトが尋ねると、男はひっそりとした笑みを浮かべ、言葉を紡いだ。
「ああ……だが、別の人間から依頼を受けている……その途中でお前たちに遭遇した、そういうことだ。安心しろ、別にお前たちを殺すことが目的であるわけではない」
イファルに刀を突きつけたのは、ただの冗談だと男が告げた瞬間、イファルは怒りの形相で、男を睨み上げた。
「冗談で、人に刃物を突きつけんなッ!」
腰に力が戻っていない状態のため、座り込んでの罵声を上げる。
男はちょっと驚いた様子でイファルを見つめた後、そっと息を吐き出すような失笑を浮かべた。
「ッ……悪いかよ、先端恐怖症でッ!」
男に自分の現状を笑われたことが相当頭にきたのか、イファルは敵意剥き出しの表情で、男に形相を向け続ける。
「―いや、失礼。少々可愛らしいと思ったものでね」
何気なく男の口から吐き出された言葉に、イファルはわけが分からないといった様子で脱力した。
「はぁ? アンタ、何言ってんだ?」
二十代前半の男に対して向ける言葉に、可愛いという単語があって、果たしていいものだろうか? そんな疑問を抱くイファルに、男はお構いなしに言葉を紡ぐ。
「……自覚がないなら、それでも構わん……俺にとっては予想外だったが、お前に会えたことに今は感謝しよう」
そう呟き、男はイファルの眼前で片膝をついた。
そして、怪訝な表情を浮かべたイファルの顎に手をかけ、上へと向かす。
イファルが背筋に嫌な汗が流れたのを感じた瞬間―それは起こった。
「ッッッッッ!?」
男は、まるで当たり前のように、イファルに口づけたのだ。
あまりの出来事に、イファルの思考は停止し、その間を狙ったかのように、男はイファルの口腔内を、自分の都合のいいようにいたぶった。
相手の舌が自分の縄張り(テリトリー)に侵入し、硬直したままのイファルの舌を探り当てると、ねっとりと自らの舌と絡みつけさせる。男はどうやら、そういったツボを心得ているらしく、下半身に直撃するようなテクニックに、危うくイファルは飲み込まれそうになるが、ふと冷静に考えて、それを行なっているのが男……そう思い出した瞬間、力の限り、男の胸を押し出した。
解放された瞬間、生々しいまでに、離れた唇同士が糸を引き、イファルの頬は羞恥に染まった。
「な、な、な、何しやがるッ!」
身体が震えているのは、ふつふつと煮え滾る怒りを押さえつけているためだ。
男の行為はもはや、上の唇を奪う、などという生易しい表現ではなく、上の口の童貞消失(別にこれまでも女性関係で、深い口づけなど何度もしたことがあるが)、もしくは、犯される、といった表現の方が適切な行為であった。
これ見よがしに男の前で何度も手の甲で唇を拭うと、男は余裕のある表情を、ちょっとむっとしたものにさせ、イファルの溜飲を少し下げさせた。
「……あからさまにやられると、腹の立つものだな」
ぼそりと、男が口にする。
「アンタがいきなり気色の悪いことするからだろ!」
腹が立つのはむしろオレだと、怒鳴り返すと、男は何を思ったのか、再び余裕のある表情―つまり笑みを浮かべ、やれやれといった風に吐息をつきつつ、立ち上がった。
「気色が悪い……ね。なら、その下半身はどうしてそうなっているのか、ぜひ理由を聞きたいが?」
男の視点が、イファルのズボンに向けられ、慌てて羽織っているパーカーで、イファルはその部分を隠した。
「こ、これはッ……」
返答に窮するイファルに対して、男は意地悪く言葉を畳みかける。
「感じなければ男のそこは反応しない。素直に認めたらどうだ?」
そう言われて、素直に認められるほど、イファルは寛容ではない。だが、事実は事実。癪に障るが、男の技巧に踊らされたのも、確かに本当のことだった。
現に下半身の熱が、それを伝えている。
「…………つーか、なんでいきなりそういうことするかねぇ……?」
不思議というよりはむしろ呆れた表情で、イファルは男を仰ぎ見た。
初対面というか、知りもしない男から、いきなりディープなキスを受けて、トラウマになったらどうするんだとぼやくイファルに、男は唇の端を吊り上げて言葉を綴った。
「相手に自分を印象づけるなら、この方法がてっとり早いと思っただけのことだ」
「は……あ~、確かに印象深い行為ではあるよな」
お陰で男が野郎相手でも平気でベロチューの出来る変態だということをイファルは知ったのだから。
そんなイファルの感想など露知らず、男はふいにイファルに向けて、自分が手にしていたバイオリン・ケースを放って寄越す。
「えっ、とっ……?」
反射的に受け取ってしまい、きょとんとするイファルに向けて、男はようやく自己紹介として自分の名を明かし、
「それはお前が持っていろ」
と、命令した。
これで男の―アガンの左手に残されたのは、一振りの刀だけとなる。
「はぁ? なんでオレがこんなわけの分からんもん、持ってなきゃならねぇんだよ?」
楽器に疎い、まして、異国の楽器などの知識は皆無に等しいイファルが、突き返そうとアガンにバイオリン・ケースを突きつけるが、相手はそ知らぬ顔をして、既にイファルの方を見ていなかった。
「そちらの亡霊は感づいているだろうが……暫くこの一帯は戦場になる。避難するなら今の内だぞ」
そう言いながらも、胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
紫煙を吐き出し寛ぐその様は、とても緊迫した状況にいるとは思えなかった。
「……貴殿は避難しないのか?」
今までずっと沈黙を守ってきたラキルトが、ようやくにして口を開く。
「―これも仕事なんでね」
一服吸い終えたアガンは、火のついたままの煙草を地面に放り、靴底で消した。
「さて―行くか……」
「おいッ、ちょっとアンタ、これはどうすんだよっ?」
すっかりイファルの手元に置きっ放しのバイオリン・ケースを掲げて尋ねるが、振り返るアガンは何処か寂しそうな笑みを浮かべたので意表を突かれて、二の句が告げなくなってしまう。
「お前が持っていろと言っただろう―それに、それは元々お前のものだ」
意味ありげなアガンの台詞に、イファルは怪訝な表情を浮かべるしかなかった。
「どういう意味だ?」
聞き返すもアガンは既に背を向け、歩き出していた。
「おいッ……!」
慌ててバイオリン・ケースを持ったまま立ち上がるが、そこであることにイファルは気がついた。
「…………あーッ、クソッ」
アガンが歩き去って行く方向とは逆の方を向いて、イファルはいそいそとジーンズのチャックを下へと下ろした。
「―私に気にせず、続けてくれ」
しかし、まだギャラリーがいたことを思い出し、イファルがそちらに視線を向けると、神妙な顔をしたラキルトが頷いて、イファルの姿を見ないように背中を向ける。
「私は何も見ていない」
「………………哀しくなるぐらいの感慨、傷み入るよ……」
これはもはや、羞恥プレイか?
大通りを歩いていたルキウスたちの目の前―〈ナブ神殿〉へと続く石造りの階段に、この世でもっとも会いたくない男が、歓喜に満ちた表情で立っていた。
茶色の中途半端な髪も、紅玉に輝く双眸も、愉悦に歪んだ口元も―それら全てがあの男であると、言わしめている。
「―会いたかったぞ、ルキウス」
よく通る美声が発せられ、男の横を行き交う人々が怪訝そうに、しかし、男の容姿に見惚れたように通り過ぎていく。
「…………ブラッド……」
驚愕が襲った後に残るのは、うんざりするほどの脱力感だけだった。
いつ着替えたのか、ブラッドはつい三時間前に着ていた神官服を脱ぎ捨てていて、一体何処で手に入れたのか、異国風の衣装を身に纏っていた。
「このくそ暑い中に、皮ジャン……」
ルキウスの傍らに立つアルが、ぼそりとブラッドの服装に関しての感想を口にする。
「しかも、素肌に……変態ね」
同じくエティがぼそりと呟き、その心中を漏らした。
ルキウス自身は、アルやエティのように、ブラッドの衣装についての知識がないため、突っ込んだことは言えなかったが、この炎天下の中、見るからに熱を吸収しそうな黒皮製のジャケットとおそろいのパンツは、確かに常軌を遺脱した格好と言えよう。
その、常軌を逸した姿のブラッドが、ゆったりとした足取りで、階段を下りてくる。
皮ジャケットを羽織るその様は、元来の野性味をますます際立たせ、さながら戦いに赴き、死を齎す冥界の王、ネルガルのようであった。
悠々と階段を下っていたブラッドの視線は、先ほどからずっと、ある一点に集中していた。
言うまでもなく、その視線の先にはルキウスがいた。
だから、始めは単なる気まぐれに過ぎなかったのだろう。
ルキウスさえいれば、後のことなどどうでもいいブラッドにとって、それは奇跡とも言える行為であったに違いない。
ブラッドはルキウスの傍らに立つ男の髪の色がどうも勘に触って、ちらりとそちらに視線を向けた。
「……………………てめぇは……!?」
ブラッドの双眸に飛来したものは、驚愕という名の感情だった。
そして、驚きが過ぎ去った後に、ブラッドの中に残る感情は、明確な殺意であった。
「…………生きていたのか」
恐らく、アルにとっては不明瞭な言葉であったに違いない。けれどもルキウスには、ブラッドの放った言葉の意味を嫌と言うほど理解していた。
怪訝な表情を浮かべてブラッドを見るアルを、背に庇うようにルキウスは素早く立ち回って、アルの前に立った。
エティはエティで、既にブラッドの瞳が妖しく輝いているのを敏感に察し、いつでも銃を放てるよう、ホルスターから引き抜き、構える。
大通りを行き交う人々の数人が、エティが取り出した凶器を視線で捉え、ギョッと目を剥いて、細波のようにその場から離れた。
思えばそれが、正しい判断と言えよう。
「生きているなら生きているで構わない……俺がこの手で殺すことが叶うのだからなッ」
残虐性に満ちた笑みを唇の端に浮かべた瞬間、ブラッドはその場から消失した。
「待てっ、ブラッドッ! 彼はシオルじゃないッ!」
ルキウスの進言も虚しく、ブラッドは完全に戦闘態勢に入っていた。
文字通り、目にも止まらぬ速さで疾走し、アルが気づいた時には、相手の殺気がすぐ背後に迫っていた。
「なッ……!?」
愕然と見開かれる瞳孔に、不敵な笑みを零す、ブラッドの姿があった。
相手の攻撃を避けられたのは、まさに奇跡と言っても過言ではなかった。
「アルッ!」
叫ぶエティが躊躇いもなく引き金を引き、ブラッドの体勢がほんの僅かだが崩れる。だが、体勢を崩したにも関わらず、相手の猛攻が怯むことはなかった。
繰り出された刃を、アルは紙一重で避わした。
「ッぶねぇっ……!」
冷や汗を垂らして、相手との間合いを取ろうと、後退するアルに、ブラッドは怪訝な表情を浮かべて、肩透かしを食らったかのような、そんな失望を露にしていた。
「なんだ……コイツ? 手応えがあまりにもなさ過ぎる」
背後で油断なく銃を構えるエティを歯牙にもかけない様子で、ブラッドはルキウスへと視線を移した。
「……言っただろう、ブラッド。彼はシオルじゃないと。彼はシオル・ジュビリーという人間とは全く異なる人物だと」
後半の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだと、ルキウスは内心で自嘲気味に思った。
そう、どんなに顔が酷似していようとも、どんなに声や、漂わせる雰囲気が似ていようとも、アルは、ルキウスの知っているシオルではない。
分かってはいるのに、何気なく会話している中で、はっとする自分がいるのだ。
あの時と変わらない、日常であると―。
そう、錯覚してしまう。
「フーン……確かに、アイツに比べればお粗末過ぎるほど、弱そうだ。反撃に出ることもなく、避けるのが精一杯なんてアイツにはありえないからな」
手の上で愛用のナイフを弄びながら、嘲るようにブラッドは言った。
「なんだとっ……」
知りもしない相手と比べられ、なおかつ自分の方が格下であると見られることほど、腹の立つことはない。
しかし、そんなアルの感情などお構いなしに、ブラッドは続けて言葉を紡いだ。
「微かに魔力の波動が感じられるが、扱いの仕方も使い方もろくに知らないんじゃ、俺の敵にはならないな―が、お前は俺がこの世でもっとも嫌いなヤツに似ている……それを呪って、死ね!」
突然声色を変え、ブラッドはアルの間合いに詰めように、地面を蹴った。
けれども、背後でブラッドを狙っていたエティが、それを阻止しようと、弾丸を放つ。
それを避わしたブラッドは、忌々しげに舌打ちし、方向を変え、ブーツの先でエティの手にしている銃を蹴り飛ばした。
「キャッ……!」
手を激しく打たれ、エティは堪え切れずに、銃を手放す。無機質な音を発てて、銃は地面を滑っていき、やがてエティから離れた距離―なおかつ、ブラッドよりに停止した。
急いで銃を拾おうとした時、既にブラッドがナイフを片手に、アルの身体を刺し貫こうとして迫っていた。
「アルッ!」
エティには、叫ぶことしか出来なかった。
「クッ……!」
躊躇いもせず、明確な殺意を現したブラッドの攻撃を、アルはなんとか避けるも、ナイフだけでなく、重い相手の蹴りを腹にまともに喰らい、もんどりうって地面に転がった。
「ガハッ……ッ」
衝撃が過ぎた後に訪れるのは、悶え耐えるしかない、痛みだった。
そんな苦しみ悶えるアルに止めを刺さんばかりに、ブラッドが容赦なく腹に蹴りを入れる。
「グゥッ……ツッ……」
痛みに眉間の皺を寄せて耐えるアルに、ブラッドは心底愉しそうに唇を歪めた。
「子供、動くとコイツがますます苦しむだけだぜ?」
銃を拾おうと行動を起こすエティに牽制の言葉を吐き、ブラッドはルキウスの方に視線を向けた。
「お前も、媒体となる武器を手にしていないのだから、下手に魔術なんか練成するなよ?お前に負担がかかる」
ルキウスの行動を見透かしたかのように、ブラッドが言い放った。
「………………だったら、アルを解放しろ」
鋭く相手を見据えながら、ルキウスは何かに耐えるように、左腕に右の爪を食い込ませた。
「―いいな……その眼差し。興奮する」
ルキウスに見つめられることに悦びを感じたのか、ブラッドはまるで見当違いの言葉を吐き出して、ニヤリと笑みを浮かべた。
「そんなお前に見つめられるのも悪くはないが、お前が気にしている相手が、こんなヤツのことかと思うと、少々気に食わなくもない……」
嘲るように足蹴にしている相手を見据え、ブラッドは体重を乗せたまま、ナイフを逆手に持ち替え、なんの躊躇いもなく、アルの太腿に突き立てた。
「―ッ!!」
一拍の間を置いて、アルは喉から絶叫を迸らせた。
「ッ!?ブラッド、お前ッ……!」
信じられないものでも見るような眼差しで、ルキウスは驚愕に彩られる。
不規則な呼吸音が周囲に響き、表現しようのない痛みに身を捩るアルを愉しそうに見つめながら、ブラッドはそのまま突き立てたナイフを下へと引き下ろした。
無論、ナイフが刺さっている状態のままである。
「ヒッ―ッッッ!?」
先ほど受けた痛みとは比べものにならない衝撃が、アルの身体を襲った。
刺したことにより、血は流れていたものの、ナイフを突き立てた状態だったため、それほどの量が流れ出ることはなかった。
しかし、そのナイフを下方へと肉を引き裂くように下ろしていけば血は容赦なく、噴き出す。
「ガ、アァッ……、グゥッ……ッ」
抉られた太腿を両手で押さえながら、悶え苦しみ、脂汗を滲ませて、目を見開く。
いっそ、失神してしまいたかったが、壮絶な痛みが精神を引き戻して、現実を繋ぎ止める。
「いやァッ、アルッ……!」
やけに遠くで、エティの悲鳴を聞いた気がしたが、アルにとってはそれどころではない痛みが、身体を襲う。
「痛いか? 楽になりたいか?」
耳元で甘美な誘いの言葉を囁き、ブラッドは流れ出る血液を指で掬って口元に持っていった。
「貴様の血は美味いな……ルキウスとは別の意味で、俺を興奮させてくれる」
愉悦に歪んだ笑みを浮かべて、突き立てたままのナイフのハンドルにそっと指を絡めて、わざとらしく振動を与えた。
「グアァッ……!」
じんわりと血が溢れ出し、一体どれほどの血が流れ出たのかも分からないくらい、意識が混濁し始めていた。
(……ヤバ……イ…………)
このままだと、永遠に覚めない夢の世界に行ってしまいそうだった。
現に痛覚が麻痺し始めているのをアルは自覚していた。
「……―や、めろ……止めろォッ!!」
意識が遠のき始めていたアルにも、その声ははっきりと耳に届いた。
その瞬間、上に乗っていたブラッドの身体が、凄まじい音を立てて、アルの身体から離れる。
それとともに、ブラッドが手にし、自身に突き立てられたナイフも引き抜かれ、再び痛みによって世界に引き戻されたアルは、呻き声を漏らした。
その視界が翳っていることに気づいたアルは、虚ろな眼差しを向ける。
するとそこには、見知らぬ男が立っていた。
「…………誰だ?」
アルではなく、飛ばされたブラッドが立ち上がり、敵意を露に言葉を発した。
「―ピジョン・ブラッドか?」
漆黒を纏ったような男だった。ブラッドもまた、黒皮製のジャケットを羽織ってはいるが、そのブラッドの印象は、黒というよりは赤のイメージが強い。
ブラッドとは別の意味で、怜悧な刃物を思わせる男だった。
「私はアガン・ティファニー……とある依頼により、君を葬らせて頂く」
左手に持つ刀の柄を右手で握り、アガンは静かに構えた。
ブラッドの瞳に真剣が宿り、油断なく構える様から、相手が相当の手足れであることが知れた。
第三者の介入により、アルが解放されたのを機に、ルキウスとエティは駆け出した。
けれども、それは叶わなかった。
「―動かないで」
ルキウスの背後でその声は発せられ、振り返るとそこに、エティの肩を押さえ、銃口を彼女の顳顬に突きつけたナディアの姿があった。
「ナ、ディア……」
驚愕の眼差しで、ルキウスは彼女を見た。
その彼女の手にある、黒光りをする銃が、あまりにも彼女にそぐわないことに、疑念を抱かずにはいられず、困惑を浮かべる。
「ルキウス様……この少女に怪我を負わせたくなければ、私の言うとおりにして下さい」
その双眸は何かに取り憑かれたように爛々と輝いていた。
「この少女を解放することが条件で、貴方の身柄を拘束させて戴きます」
ルキウスが何かを言う前に、ナディアは立て続けに言葉を発した。
人質を取り、ルキウスに要求しているはずのナディアだったが、その表情はとても優位に立っている者の、余裕に満ちた顔ではなかった。追い詰められ、他に取る方法すら思い浮かばない、焦燥に駆られた人に感じる特有の色が、彼女の双眸を占めている。
「…………君の言うとおりにすれば、エティを解放してくれるんだね……?」
「―はい」
ぎこちなく、ナディアが頷く。
「……分かった。けど、その前にアルの―怪我をした仲間の手当てをさせてくれ」
エティの身の安全も大事だし、ナディアの今の心情についても気になったが、何よりも怪我人の傷の手当ての方が先決だった。
「……分かりました」
幸い、ナディアは話が分かる人だったため、沈黙した後に、許可を下した。
「ありがとう」
エティは今だ、ナディアに拘束されたままだったが、彼女が人を傷つけるような人には見えなかったから、何より、自分が彼女の言いなりになってさえいれば、誰かが傷つくことはないと思ったからこそ、ルキウスはエティをそのままの状態にして、アルの方へと駆け出していった。
「そうはさせるかよ」
低く、獣が唸るような声音を発して、アガンと対峙していたブラッドが、アルに駆け寄ろうとするルキウスを阻止しようと、行動を開始する。
いつものように常人の能力を遥かに超えた力を発揮して、アガンの視界から消失―ルキウスの行動を阻むように移動する。
が、自分のすぐ背後に殺気を感じて、ブラッドは振り向き様に逆手に持ったナイフを振り切った。
キィィィン、と金属音が鳴り響き、アガンの持つ刀と、自分の持つナイフの刃がぶつかり合い、火花が飛んだ。
普通のナイフや、あるいは刀であったならば、折れなくとも、刃毀れが生じるような凄まじい衝撃だったが、生憎、ブラッドの持つナイフは、その辺にあるようなただのナイフではなかった。
魔術を練成する際に媒体となる、極めて価値のある武器―この程度の衝撃で折れるような代物ではない。
「……アンタの武器も、ただの玩具じゃないようだな」
だからこそ、相手の武器も普通ではないと見抜くことが出来た。
「それなりの得物を仕留めるのだ。こちらもそれ相応のもてなしをしなくては、な」
振り向いた先にある相手の表情は、自分と同じように余裕に満ち、戦いの悦びを知る者が浮かべる笑みを滲ませていた。
「へぇ……そこに寝っ転がってるヤツと違って、アンタは俺を愉しませてくれそうだ」
殺しがいのあるヤツだと、胸中に歓喜を満たして、ブラッドは再び動いた。
ナイフの刃を一旦引くと同時に、すぐさま飛び退いて相手の斬撃を躱す。
ナイフと刀という互いの武器が違うため、そのリーチの差は歴然としていた。
刀の場合は、その間合いに入るまで苦労し、相手の懐に入ってしまえばこっちのものだった。
ナイフの場合は、間合いに入るまではそう難しくはないが、その分、相手の身体を傷つけようとすれば、反撃を食らう確率は非常に高くなる。
もっとも、二人とも武器の他にも攻撃の仕方は幾らでもあるため、武器のみの攻撃に縛られることはなかった。
ブラッドは飛び退き、地面に着地したと同時に魔術を素早く練成させる。
練成陣がブラッドの眼前に生まれ、紅く光る文字が浮かび上がった。
「『冥王指揮下の元、破却せよ』!」
観客と化した遠巻きの人間たちは、神官の魔術を目の当たりにして感嘆の息を漏らした。どよめきが生じる中、燃え盛る無数の炎の球が出現し、それが一斉にアガンめがけて飛来する。
「…………『アクア・ウォール』」
小さく呟いた瞬間、周囲一帯に水色の淡い輝きが生じる。
それら全てが飛来してきた炎の球を遮り、相手の攻撃を無効化させた。
だが、その時には既にブラッドは新たな攻撃手段を選択していた。
アガンの造り出した防護魔術に練成した攻撃魔術を一点集中させ、水の壁に穴を開ける。
そこを潜り抜け、魔術練成途中のアガンに踊りかかった。
「…………」
またしても金属音が響き渡り、周囲の人間は二人の戦いに魅入られたように陶然としていた。血肉を削る戦いが、まるで剣舞を演じているような錯覚を覚えるほど、美しかったからだ。
それは、ルキウスもまた同じことで、暫く立ち尽くしていたのだが、二度目の刃の交える音にハッと我に返って、今度こそ、アルの傍に駆け寄った。
太腿からはかなりの血が流れ出てはいるものの、命に別状はないようだった。ただ、痛みと血を失い過ぎたため、アルは気を失っている状態にあった。
「……酷い……」
血の弱い人間ならば直視出来ないような傷の状態に、ルキウスは眉根を顰めた。
魔術を繰り出す際に媒体となる道具はなかったが、アルをこのままの状態にしておくと、間違いなく先に待っているのは、死だ。
迷っている暇はなかった。
「―止した方がいい」
覚悟を決めて、両手を傷口に翳した時だった。
背後に気配を感じたかと思うと、すぐ耳元で声が聞こえ、ルキウスは驚いて後ろを向いた。
「…………………………ラキルト師匠!?」
驚愕がルキウスを襲った。
他者を安心させるような優しい、耳に心地のよい低音の声音。銀の、流れるような美しい髪。《ディオス国》ではない、《セネト国》の民の証である褐色の肌。そして刻まれた、奴隷の証であった頃の名残。
いるはずのない相手の姿を目撃し、ルキウスの思考は停止した。
けれども、そんな状況ではないことをすぐに思い出し、ルキウスは背後の相手ではなく、倒れているアルに視線を向けた。
「大丈夫だ。私が治す」
再び耳元で囁かれ、ルキウスは泣き出しそうになった。
深い安堵感がルキウスを襲ったからだ。
「師匠……どうして……」
相手に身体を預けそうになった時、初めて気がついた。ラキルトの肉体が存在していないことを。
「……肉体がなくとも、魔術は使える」
端的にラキルトは語り、治癒魔術の練成を開始した。
途端、アルの左太腿が青白く発光し、傷口が見る間に塞がっていった。
そして完全に傷が癒えた頃、女性の悲鳴が右耳から届いた。
次いで、一発の銃声音が轟き、ルキウスは驚いて音のした方向に視線を向ける。
するとそこには、ナディア、エティの他に、新たに出現した第三者が、銃を手にしたナディアを押さえつけて、エティを解放しているところだった。
銃声は、ナディアが手にしていたものから発生したようだ。
「……イファル?」
硝煙が漂い、何処か呆けたようにエティが第三者の名を呼ぶ。
「話は後だ。それよか、さっさとズラかった方が得策だぜ?」
ナディアを押さえつけた状態のまま、イファルがエティをちらりと見た後、ルキウスの方へと視線を投げた。
イファルの視線に頷き、立ち上がったのはルキウスではなく、ラキルトの方だった。
イファルはそれを確認すると、ナディアをしょっ引いて、ルキウスたちの方へと歩き出した。その後を、エティが慌てて追う。
「……知り合いですか?」
イファルと面識のないルキウスが、確認のためラキルトに尋ねると、軽く目線を伏せ、ラキルトが応じた。
「暫く、私の補助をしてくれるように依頼した。何せ、五千年もの間の空白が私にはあるため、この辺りの土地についてもよく知らないからな……色々と学ばなければならないため、彼に協力を求めたのだ。私が何故こんな状態にあるのかは、後々説明することになるだろうが、それよりもまず、お前やブラッドが何故今ごろになって……それも、肉体も以前と変わらず手にしているかが、先に考えるべき命題だ。そこで私はある一つの仮説を立ててみた。お前やブラッドがいるにも関わらず、シオルの姿が見当たらないこと。そして、そのシオルにあまりにも酷似したこの青年……似てはいるが、異なる存在からして、推測されるのは、彼がシオル・ジュビリー、もしくは彼の血縁者の子孫であるということ―さらに、シオルという名を出した瞬間生じた、お前の表情の劇的な変化……以上のことから、お前とブラッドはシオルの手によって、五千年もの間、封印術を施されたと予想される……訂正すべき点はあるかな?」
ひたと、黄金の眼差しを向けられ、ルキウスは見られることを避けるように俯き、小さくありませんと答えた。
「…………師匠には、シオルの真意が何処にあったのか、分かりますか?」
全てを見透かしたような師の聡明な瞳に、もしやと僅かな期待を抱いて、思いを口にする。
「―いや、それは私にも分かりかねる。ただ、シオルは誰よりも知識の探求に貪欲だった……それ故に、知りたくもなかった事実を知ってしまったのかも知れない……」
その瞬間、人の中で何と言う感情が生み出されるだろうか?
それは恐らく、絶望だ。
自分の中で築き上げてきたものが一気に瓦解されたような喪失感を味わうに違いない。
だが、そこで終わってしまうほど、シオルという人間は弱くはないはずだ。
「それを知るために、お前は行動を起こすのだろう?」
確認するようにラキルトは聞き、ルキウスは揺るぎない決意の元、静かに、だが力強く頷いて肯定した。
「おいおい、話は後だっつったよな? あんま、厄介なことまで手伝わせないでくれよ? 取り敢えず、この女をエティ、お前が見張ってろ。オレはそこで死んでるアルを担いでいくからよ」
第三者の介入によって話は中断させられ、今の現状を思い出したルキウスは、慌ててエティや、ナディアの方に視線を向けた。
「ちょっと、死んでるって縁起が悪い言い方しないでよ!」
ルキウスの視線と目の合ったエティが、すぐさまそれを拒むように視線を逸らし、イファルが口にした台詞に怒気を現し、噛みついた。
けれども、そんなエティの様子を軽くあしらう素振りで、イファルはアルの身体を軽々と担ぎ上げ、ラキルトの方を見た。完全無視である。
歯軋りをして黙り込み、苛立たしそうにブラッドによって飛ばされた自分の銃を拾いに、エティは肩を怒らせて憤然と歩き出す。
それを尻目に、イファルが口を開いた。
「で、目下のところ、どうすんだ? アンタがそっちの美人さんにつくんなら、コレもセットになるだろうし……取り敢えず、あっちで殺り合ってる二人から離れればいいよな?」
「ああ……ひとまず、ここから離れることが先決だ」
そう言いながら、ラキルトが厳しい眼差しを例の戦っている二人の方へと向けた。
その一方で、エティが銃を取りに行っている間、ナディアを自然と見張る役を仰せつかった形で、ルキウスは黙したままナディアを見つめた。
彼女は視線を下に伏せたまま、動こうとはせず、心なしか肩を震わせているようだった。
「…………ナディア、君も、僕たちと一緒に行こう……?」
そっと問いかけると、彼女は肩を震わせ、恐る恐るルキウスの顔を見上げた。
「……私が……ルキウス様のお傍に?」
驚いたように見つめられ、ルキウスは安心させるように大きく頷いて続けた。
「うん。今の君を、僕は放っておくことが出来ない……だから、一緒に行こう」
ナディアに向けて手を差し伸べると、彼女はルキウスの手をじっと凝視した後、ぎこちなく手を伸ばす。
ルキウスはそれをただ黙って待っていただけだった。
それだけでよかったはずだった。
「させるかよ!」
声だかに宣言し、それを実行するのが、ピジョン・ブラッドという男だった。
次の瞬間、ルキウスの手を取ろうとしていたナディアの身体に衝撃が走り、前のめりになって倒れる身体をルキウスは受け止めていた。
抱き留めた際に、ナディアの背中に腕を回していたルキウスは指先に痛みを感じて、片腕だけで彼女の身体を抱き直し、恐々、自分の手に視線を落とした。
痛みが走った他に、生温かい液体の感触が、ルキウスを支配したからだ。
ゆっくりと視線を落としたルキウスは、その瞬間に心臓が止まったかのような錯覚を覚えた。
手には鮮烈なほどに紅い液体が、べっとりと付着していた。