第二章
精神の世界から、物質の存在する現実世界へと戻ったナディアは、すぐさま目の前にある『氷柱の眠り人』に注意を向けた。
肉体を離れていた時にでも流れたのか、それとも精神体の時に流した涙が離れていたにも関わらず連鎖を起こして流したのか、ナディアの頬には一筋の涙が流れていた。
それを拭うことも忘れて、ナディアは『氷柱の眠り人』を注視する。
不安ではあったが、同調は成功したのだ。何らかの変化が起きてもおかしくはなかった。
そして、ナディアが待ち望んでいたことが、すぐに起きた。
五千年間、ずっと頑なに沈黙を守ってきた結晶に、突如として亀裂が生じたのだ。
亀裂が生じた瞬間に響いた亀裂音に、周囲から動揺の声が沸いた。
「やったか……」
出入口付近で見守っていたゼネルが、口元を歪めて呟いた。
周囲がどよめいている間にも、亀裂はどんどんと広がり、封印が解けているのが目に見えて分かった。
最大級の亀裂音が生じた瞬間、今まで封印されていた対象者―ルキウス・ブランクスがついに、その姿を外界に曝け出した。
氷の結晶内部では既に封印が解かれていたためか、固体から液体に戻り、ルキウスは水に濡れている状態で姿を現した。
濡れ滴る姿が、性別が掴めないにも関わらず、酷く淫靡に映るのは何故なのか。それは最高の女性という、女神の称号を得るに相応しい肉体であるからか。
息を呑む周囲に、艶かしい対象者の吐息が漏れた。
その吐息は、女―否、女としての機能はないが、一度は女としてこの世に生を受けたナディアの肉体を熱くさせる、性的興奮を覚えるほどの仕草であった。
たかだか吐息をつくだけの行為が、である。
ルキウスがゆっくりと身体を前へ進め、急にナディアの胸に倒れた瞬間、ナディアはこれ以上にないくらいの、至福を感じた。両膝を地面につき、相手の身体を包み込むようにして抱いた。
「あ……、の、大丈夫ですか?」
抱き止めた時、ナディアはルキウスの肉体が女ではないことにすぐに気がついた。
「……僕、は……君は?」
濡れ滴る長い前髪を掻き分け、向けられたルキウスの瞳の色を、ナディアは初めて知った。
萌葱色の優しく、そして何処か哀しげな瞳。生命の美しさと優しさを感じさせる色だった。
「私は、ナディア・メルセスです」
甘く溶けるような声量に、ナディアは歓喜を覚えつつも、努めて平静に声を発した。
「……僕を、呼んだのは、君?」
先ほどの同調のことを聞いているのだと、ナディアは思い、頷いた。
「そうです。ルキウス・ブランクス様……私には、いえ、私たちにはどうしても貴方の力が必要なのです。どうか、私たちを助けて下さい」
「……ルキウス・ブランクス……それが、僕の名前なの?」
覚醒したばかりで、まだ意識が混濁しているのか、ルキウスは自分の名前すら覚えていない様子だった。確かに五千年という時を眠り続ければ、無理ないかも知れないが、寝ている対象者に、果たして五千年も寝た、という感覚があるのかは不明瞭ではあった。
随分長い間眠っていたと思っていても、実際には十分程度しか寝ていないことだってあるし、あまり寝た気がしないようにしか思えなくとも、実は十二時間寝ていたことだってある。
ようは、脳がそう感じているかによるため、実際は五千年も眠っていたとしても、その五千年間を感じていなければ、少しの間しか寝ていないと脳は認識する。
ルキウスの場合はどうだろう。
「そうです、貴方は覚えてませんか? 封印される前のことを」
ナディアがその単語を口にした瞬間、ルキウスはびくりと身体を震わせた。
「……そう、だ。シオル……ねぇ、シオルはっ? シオルは何処にいる?」
五千年もの時を止められていたとしても、対象者がそう感じていなければ、止めていた時から動き出すだけ。
その止めていた時の瞬間を思い出し、ルキウスはナディアの両肩を掴んで、尋ねた。
「僕は、シオルに聞かなくちゃいけないんだっ。どうして、僕を……僕を、封印したのか!」
今度はナディアがその言葉に困惑するしかなかった。
ルキウスが言っていることは、明らかに自分にとっては過去の、それも自分が生まれる以前の、遥か昔のことを言っているのだから。それに、ナディアが答えられるはずがなかった。
「落ち着いて下さい、ね? ルキウス様」
小さな子供を宥めるように、ナディアはルキウスの背に手を回して、その背を擦った。
ルキウスはナディアの仕草に温かさを感じ、目の前の女性が聖なる母、自分を守ってくれる優しい母親のように映った。
「人類の窮地を救う存在にしては、あまりにも情けない姿だな」
二人のやりとりを今の今まで黙って見ていたゼネルが口を開き、いつの間にかナディアたちのすぐ背後に立っていた。
その横にはモルフェオが続いている。
「……ふん、記録に残されていたとおり、普段は男の性別をとっているらしいが……それにしても、そそる身体をしている」
女であるナディアを嘲るような視線で一瞥した後、ゼネルはルキウスに注目を置いて、そう口にした。
「全くです、ゼネル様。私なんぞ、最近はアソコの調子が悪かったにも関わらず、この者の吐息を耳に聞いた瞬間、奮い立ってしまいましたぞ」
肉を震わせて、モルフェオは食い入るようにルキウスに視線を注いでいた。
「貴様の下らぬ愚見を聞く耳を、生憎私は持たない、と言いたいところだが、確かに分からなくもないな」
堅物で知られているゼネルが、ちらりと好色そうな目で、ルキウスを見た。
その視線を感じたルキウスは、身を震わせて、ナディアにしがみついた。
知らない人、覚えのない人。言葉自体は五千年前と変わらない言語で話が通じていても、これでは警戒心を抱かずにはいられないのも詮なきことだろう。
「ソノ神官補佐、ハルドゥ神官様……そんなことよりも、ルキウス様を安全な王都に連れて行かれることの方が先決なのではないでしょうか?」
首都とは言わず、敢えて王都と呼んだことには王の存在を匂わすことで、怪しい二人の視線を、正すための意図が含まれていた。
王の権威を持ってして、この者に不埒な者の手が触れないよう、王もまた、ルキウスという存在を熱望しているのだから。
「……ふん、一介の文官に言われるまでもない。全員帰還の準備を整えろ!」
ナディアの言動に、本来の目的を思い出したのか、ゼネルは聖域から出て、出入口付近で待機していた部下や、ジッグラトの下で待機していた作業員たちに命令を下した。
モルフェオもまた、ゼネルに続いて聖域から出て行く。
ナディアは二つの脅威が去ったことに吐息をつきつつ、ルキウスに視線を落とした。
「もう、大丈夫です」
一体、何について大丈夫と発したのか、ナディアは自分でも分からなかった。
それでも、上手く言えない核心が、ナディアの中にはあって、思ったままに口にする。
「さぁ、私たちも行きましょう」
ルキウスには不安があるだろうが、大丈夫。きっと彼は悪いようには扱われないだろう。何と言っても、人類の窮地を救う存在なのだから。
ナディアはルキウスが自分に触れた瞬間に、この人を守らなければという、奇妙な使命感を感じていた。彼が自分にとっても救いとなる存在になるから、だけではない。
そう、まるで我が子を守るような心境に、ナディアはいた。ルキウスは他人に対して官能を働きかける性質だけでなく、愛しく、慈しみを抱かせる能力をその身に秘めているようだった。
何かあった時は、きっと私が守って見せる―そんな感情をナディアは胸に抱きつつも、ルキウスを促して立ち上がり、聖域から立ち去ろうと足を動かした。
「……動くな、それは俺のものだ」
聖域を出て視界に映る、消えない炎の横を通り過ぎようとした瞬間の出来事だった。
長い間待ち焦がれていたかのような、渇望に震え、宿望し、けれどもそこに含まれるものは明らかに純粋な願いだけでなく、欲望―それも、欲心と欲動を兼ね揃えた獣欲に満ちた声音。
それがナディアとルキウスの耳に届き、二人は驚いて歩みを止めた。
変化が起きたのは、そのすぐ後だった。
永遠に消えない炎として知られていた聖域を照らす炎の内、一つが突如としてその火力を増し、荒れ狂わんばかりに轟々と燃え盛ったのだ。
まるで生き物のように踊る炎に、ナディアは呆然とし、まだジッグラトの頂上付近にいたゼネルたちも魅入られたように立ち尽くした。
燃え盛る炎はやがて、蛇のように渦を巻き、渦の中心が次第に広がりを見せる頃、膝をついた状態で炎の中に人が姿を見せていることに、何人もの人間が気づいたことか。
膝をついていた人物はやがて立ち上がり、その姿を昂然と魅入っていた人々に曝け出した。
人を焼き死に至らしめるほどの力を持った炎の熱に晒されてもなお、涼しい顔でいる人物は男であり、ルキウスと似たようなマントを着込んでいた。
今も昔も、決して華美にはならず、楚々としているマントを着れるのは、神官職に就いている人間だけであったため、恐らく炎から姿を現した人物もまた、神官の位を持っているに違いなかった。
炎の中佇む男が指を鳴らした瞬間、纏っていた炎が一瞬にして消え去る。
消えない炎を創り出すために、何らかの細工が仕掛けられた支柱の先にある大皿から飛び降りて、マントが翻るそのさますら、絵になるような男だった。
長身で、線が細く、マントの上からでも痩身だと分かる身体。けれども、少しも弱々しく見えないのは、男のその表情のためか。
光が不足しているため、その肌の色を確認することは出来ず、髪の色も瞳の色すら分からなかったが、その輪郭だけは分かる。自信に満ち溢れた、精悍で、才気ある男の表情。
何者にも従わない誇りと同時に、絶対覇者としての双眸を讃えていた。
鋭利な、刃物か何かを思わせる鋭さ。
そんな男の視線は、ある一点にしか集中していなかった。
「ルキウス……この時を、俺はどれほど待ち望んでいたのか、眠っていたお前には分かないだろう」
他の者など眼中にない様子で、男は歓喜に打ち震えた声を口から発した。
恐らく、声を聞いただけでも分かるほど、男の声音は魅力的だった。ルキウスの吐息が、男たちに対して抱きたいという衝動に駆らせるのと同じように、目の前の男が女の耳元で愛を囁けば、その女は躊躇もなく脚を開くであろう、そんなエロチシズムを含んだ声だった。
しかし、そんな男が声を放った相手―ルキウスは、驚愕の表情を浮かべて、後退った。
「ブラッド……!? どうして君がッ?」
「ここにいるのか、というところか。お前とシオルがここに着ていたことを知った俺は、すぐさまお前の後を追って、神殿に着た。そして、お前が封印された直後に、俺はシオルと対峙していたのだから、お前が知らないのも無理ないが……忌々しいシオル・ジュビリー……俺の野望を邪魔したばかりでなく、お前や、俺自身すら封印した、殺しても殺し足らない、男……だが、流石に五千年も経った今、あいつが俺の野望を阻止することはもはや不可能だ」
愉悦に歪んだ表情で、男―ブラッドは哄笑した。
ルキウスは、その言葉に愕然とした表情を浮かべた。
「五千年だってッ? ……そんな、一体どういうことなんだッ?」
「お前は、表面封印術の他に、永眠封印術を施され眠っていたため、知らないだろうが、俺は知っている。今が、俺たちが生きていた時代から五千年もの時を刻み進んだ世界であることを。…………長かった……実に長い時間だった。奴め、俺には永眠封印術は施さず、表面封印術しか施していなかったからな……お陰で俺は、老化制御術を身に施して、お前が目覚めるのを待たなければならなくなった」
ブラッドは忌々しげに言葉を吐き、既にいないと断言した相手の容貌を思い出しているように、顔を歪めた。
表面封印術は施しても、永眠封印術を施していない場合、中にいる対象者は眠っている状態にはいないため、目を覚ました状況で周囲の様子を窺うことが出来た。だが、その代償というか、術の通り、対象者の時が止まるわけではない。従って、表面封印術の中にいたとしても、老化は進む。
老化が進めばいずれは死に直面することになる。
だからブラッドはその老化を防ぐために自らで、老化制御術を施したのだ。
しかし、封印されている中で、果たしてそのような術を使えるのだろうか? 残念ながら、ごく一般的な魔術技師にはそのような芸当は出来ない。相当に実力がなければ、なしえないことなのである。
つまり、目の前のブラッドは、封印を自分に施した魔術技師と同等の力を持っていることになる。
が、それほどの実力を持っているのなら、自分の力で表面封印術を破れば問題はないと思うのだが……しかし、表面封印術は自分の力だけでなく、第三者の介入を必要として、初めて粉砕することが出来る術であったため、ブラッド以外で、彼と同等の力を持った者がいなければ成功しないことでもあった。
「この五千年もの間、俺はお前を呼び起こそうとする、幾人もの技術師たちをこの目で見てきたが……誰一人としてお前を呼び覚ます者はいなかった。それどころか、月日を追うごとに、魔術技師たちの魔力の質が下がる一方で、もはやお前を覚ますこと、そして俺の封印を解く者はいないのだと、少々諦めかけていたが…………ひとまず、そこの女には感謝しなければならないな」
五千年分の言葉を吐き出すような勢いで、ブラッドは淡々と形のよい唇から言葉を発した。
酷薄に歪められた唇から、感謝という言葉が出てきても、本当にそう思っているようには見えなかった。僅かに弧を描いている唇が、如実にそれを語っている。
「………………五千年……」
いつもより何倍も饒舌なブラッドに対して、ルキウスはひたすら呆然と、そう愕然とするしかなかった。
自分が眠っていた時の間が、五千年という長い隔たりであったことが、どうしても実感出来なかったからだ。否、五千年という言葉の重みがルキウスの身体にずっしりとのしかかる。
「そう、五千年だ。あの忌々しいシオルもいない。これで俺は誰にも邪魔されることなく、お前とつがいになれる」
その笑みはいっそ、清々しいまでに残忍であった。
言葉の意味と、笑みに含まれる残虐性をその肌で感じたルキウスは、我に返り警戒心を露にブラッドを睨み据えた。
「……ふざけるな。僕は認めていない」
唇をきつく噛み締め、ルキウスは搾り出すように言葉を吐き出した。しかし、そんなルキウスの態度すら面白がるように、ブラッドは意地の悪い微笑を浮かべ続ける。
「お前が認める必要などないさ。これは予め定められたことなのだから」
その、定められていたことについて心当たりがあるのか、ルキウスはそれ以上反論することも出来ずに、口を噤む。
「随分長くかかってしまったが……俺は、俺の目的を果たさせてもらう」
壮絶な笑みは、待ち焦がれたものに対しての欲求が込められていた。
身の危険を感じたルキウスは、無意識の内に後ろへと身体を後退させていた。
身体が震えるのは、ブラッドの望みを理解しているからだ。
「ルキウス様」
ふいに、震える身体を慰めるよう、慈しむようにナディアがルキウスの身体を抱き締めた。
「大丈夫です……大丈夫ですから」
根拠も何もない言葉ではあるが、ルキウスはナディアの慰めに、何故か気持ちが落ち着くのを自覚した。そう、当初に感じた、聖なる母のような慈愛に満ちた行為に、震えが止まる。
「……女、先ほど言わなかったか、それは俺のものだと」
ナディアがルキウスの身体を抱き締めた瞬間に、ブラッドの顔つきが変わっていた。
その顔に浮かぶ表情は、紛れもない怒り。
嫉妬という俗な感情ではなく、いや、確かにそれも含まれてはいるだろうが、それよりもはるかに深い、憎悪の念がブラッドからは発せられていた。
「それが俺のものである以上、たとえ女であっても、それに触れることは許されない」
今にもナディアを殺しかねない衝動を、不気味に押さえ込むブラッドに、内心ぞっとしながらも、ナディアはそれでも気丈に、真っ向から視線をブラッドに衝突させた。
「ふん……中々命知らずな女だな……」
面白そうにナディアに目を止めて、ブラッドは再びその唇に笑みを刻んだ。
「―そろそろ、口を挟んでもよろしいかな?」
ブラッドがナディア自身を値踏みするような視線で見つめていた中、ようやくにして口を開いた者がいた。
場の空気を読んでいたというか、口を挟むに挟めない状態にいた状況の中で、やっと口を切ることが出来たのは、この場の責任者とも言える、ゼネルであった。
「よろしくねぇよ。つーか、てめぇ誰だ?」
大して興味もないように、ブラッドがぞんざいに言葉を紡いだ。その態度に、そういったことを言われたことのないゼネルは絶句する。
二の句が継げられず、口と拳を震わせるゼネルに、すかさず部下であるモルフェオがフォローに回る。
「だ、誰だとは無礼な! こちらにおられる方は《ディオス国》、王都にて神官を務める、『ゼネル・ハルドゥ』様で在らせられるのだぞっ」
弛んだ皮膚を震わせて唾を飛ばすモルフェオに対して、汚いものを見るような見下した視線をブラッドは投げ、
「黙れデブ、失せろデブ、死ね、デブ」
端的に言葉を吐いた。
そのあまりの暴言に、流石のモルフェオも言葉が続けられず、ぱくぱくと酸欠状態の魚のように、口を開閉させる。
「……中々、感情の発露が激しい方だな、確かピジョン・ブラッド君、だったかな?」
多少顳顬をひくひくとさせながら、ゼネルが開口した。
「―『ピジョン・ブラッド』―火の神官を務めし者。十代の若さで神官職に就いた、『シオル・ジュビリー』と並ぶ、天賦の才に秀でた方……で、当たっているかな?」
喋っている内に気持ちを落ち着けたのか、終える頃にはゼネルの顳顬には例のひくひくはなくなっていた。
一方、尋ねられたブラッドは、双眸を僅かばかり細めて、ゼネルを注視していた。まるで、どうしてそのことを、こんな奴が知っているのかと、物言いたげに。
「なぁに、私はとある記録を目にしたのだよ。君や、ルキウス・ブランクスのことが書かれている日記を、ね」
ブラッドの視線の意図を察したのか、ゼネルは幾分余裕を持った表情で、言葉を表した。それこそが、彼本来のスタイルだった。
常に余裕を持って、下の者を見下すように。自分の方が博識であると確認するように。
しかし、今回ばかりはそうもいかなかった。
「ふん―なるほどね。国が滅んだことは、俺が封印された後に知ったが……どうして過去の記録をお前らのような輩が知っているのか不思議だったが、これで合点がいった。どういうわけで、残ったかは知らないが、アイツの趣味は日記を記すことだったからな。そういったことが書かれていても不思議はない。国の歴史書は全て焼かれていても、そんなものが残っていれば、お前らが知り得ることも可能というわけか」
むしろ哀れむような視線を、ブラッドは虚空に投じた。
二人のやりとりを黙したまま見つめていたルキウスは、ブラッドの視線の意味に気づく。そして、ブラッドが次にどんな行動に出るかも……。
「駄目だ、危ない!」
ハッとしてルキウスは叫び、咄嗟にナディアとともに地面に倒れ込んだ。
周囲の人間は、その忠告に気づいたものの、対応することは叶わなかった。
「ギャアァァァァッ」
悲鳴はルキウスの目の前、そしてゼネルのすぐ脇で起こった。
ゼネルが視線をそちらに向けると、そこに立っていたはずのモルフェオが膝を崩し、腹部を押さえて座り込んでいた。
そこから大量の血液が流れ出し、地面を濡らしていく様を見た瞬間、ゼネルは再びブラッドへと視線を投じていた。
気づけばブラッドの手には、一本のナイフが持たれていた。残された炎に照らされて、そのナイフは鈍い光沢を発する。身幅が広く、長いブレード。鋭く、反り返ったクリップ状のポイント。装飾自体は簡素なものだが、使い込んである年季のようなものが、そのナイフからは感じられた。しかしそのナイフには、血は付着していない。
そう、ブラッドが投じたナイフ、否ダガーはまだ、モルフェオの腹部に突き刺さったままだった。
「貴様……」
いつブラッドがダガーを投じたのか、分からないから恐怖したゼネルは、幾分蒼ざめた唇を動かし、驚愕の眼差しをブラッドに注ぐ。
「やはり、デブの肉は厚いな……肉が邪魔をして、致命傷には至らなかったか」
ブラッドは少しも面白くなさそうに、言葉を吐いた。人を人とも思わず、人を殺しても、人が死んでも大したことと思わないような、そんな感情が滲み出ているような声音だった。
手にしたナイフを、玩具のように手で操りながら、ブラッドはそのナイフとは別の、一体何処から出したのか全く分からないダガーを再び投擲した。
そして、今度もゼネルは動くことが出来なかった。
「…………あ…………」
脂汗を浮かべ、腹部を押さえ込んで俯き、痛みと格闘していたモルフェオはふいに何かを感じたのか、顔を上げた。
瞬間、まるでそれを狙っていたかのように、ブラッドが投じたダガーが、モルフェオの喉元を深々と刺し貫いた。
モルフェオ自身にも、一体何が起きたのか分からなかったに違いない。モルフェオは、腹部の痛みも忘れたかのように呆然と、喉に刺さったダガーへと手を持っていき、そこに感じる確かな感触を実感した瞬間、絶叫しようと息を吸い込んだ。
しかしそれは塞き止めていた血の流れを勢いよく巡らせる結果になり、声を吐き出そうとしたモルフェオは、声音とは別の、血を口元から大量に吐き出した。
自分の死に恐怖したまま、喉元に刺さるダガーに虚しく触れた後、モルフェオはそのまま身体を崩して絶命した。
誰もが、動けずにいた。
傍らに立つゼネルも、地面に倒れてその様子を見ていたナディアもルキウスも、ゼネルやモルフェオの護衛についていた数人の男たち、ジッグラトの階段を降りかけていた作業員たちも。
全員が、凍りついたように動けなかった。
「……ブラッド、お前……」
最初に我に返ったのは、やはりブラッドと一番時間を共有していた、ルキウスだった。
蒼然としながらも、ブラッドのした行為に関して、非難の目を向け、相手の名を呟く。
「秘密を知っている者がいるのなら、口を塞がなくてはな。俺は当然のことをしたまでだ。ここにいる連中はどうせ、五千年以上も人類を苦しめている『アルテミス』から逃れる解決の糸口をお前に求めているのだろう? お前も嫌だろう、もう身体を弄られるのは。だからその粛清も兼ねて、俺がここで片づけてやる。……アイツも自分の恥部が書かれていたものが残っているのをよくは思わないはずだ。ま、死人でいるある以上、そんなことはどうでもいいかも知れないがな……それに、俺はデブやゴミみたいな連中が嫌いだ。だから、これは憂さ晴らしでもあるんだろうな。五千年も封印されていたお陰で、俺はストレスが溜まっているんだ。ストレス発散にもなる」
言い終えるや否や、ブラッドはその場から身を翻してジッグラトから飛び降りた。
もちろん、普通の人間がそんなことをすれば、地面に叩きつけられて死ぬのがおちだ。
けれどもブラッドは魔力を持つ神官であったため、普通の人間ではなかった。
飛び降りたと同時に、手に持つナイフを媒体として、魔術を構成する。
魔術技師たちは通常、術を行なう際に、媒体となる魔力とさらに、物質の補助を受けて、力を発動させる。それは手に馴染む杖であったり、剣であったりと様々ではあるが、ブラッドの場合は、今手にしているナイフがそうだった。
頭で想像した魔術の練成を、そのまま形に―練成陣にして、発動させる。
緑色の光が陣を繰り出し、その光の強さが増す時、ブラッドは静かに地面に佇んでいた。まるで地上に降り立った、神の如き印象すら与えるほどに。
しかし、ブラッドは神ではない。敢えて神という表現を与えたとしても、それは人に慈愛を与えるような優しい神ではなく、全てを破壊する、破壊神だ。
「さっさと、死ね」
そこには、上の惨状を知らぬまま、帰還のための準備を整えていた作業員たちが二十名いた。
人が突如、上から降ってきたことに驚いた作業員たちは、あんぐりと口を開いたまま、死を受け入れていた。
風のような速さでブラッドは、二十名いる作業員たちの間を潜り抜ける。
一陣の風が去り終えた時、全ての作業員たちが喉元を押さえたまま、地面に倒れた。
大量の血を噴出させて。
「おいおい、本当にトロいな。魔術を練成するまでもない」
あまりの歯応えのなさに、ブラッドは失望も露に上を見据えた。
自分がたった今いた位置に視線を投じて、ニヤリと愉悦に歪む笑みを刻む。
「アンタは少しぐらい、俺を愉しませてくれよ」
ジッグラトの頂上から、下方へと視線を落としていたゼネルは、その言葉に慄然とする。
既に下にいた者たちは、ブラッドの手によって全員、事切れている。残りの生存者は自分を含めて、十人程度。その内に彼が手にかけないのは、ルキウス一人と言えた。
つまり、どう足掻いても残りの九人は確実に殺されるのだ。自分を含めて。
ゼネルはブラッドに、勝てるとは思わなかった。否、思えなかった。
神官としての能力を、たとえ戦闘で投入したとしても、あの男の動きは明らかに常人から遺脱している。その事実が、ゼネルを慄然とさせたのだった。
「……逃げて下さい」
恐怖が全身を支配し、動くに動けなかったゼネルは、すぐ背後で声がするのを耳に聞いた。
ぎこちなく首を動かして視線を向けると、そこにはルキウスが凛として立っていた。
「ブラッドは僕がここで足止めします。だから皆さんは一刻も早く、ここから逃げて下さい」
決意を露に、ルキウスが前に進み出す。
「ま、待って下さいっ。ルキウス様こそが、逃げるべきです」
地面に座り込んだまま、ナディアが言葉を発した。
その言葉に、ゼネルはハッとする。本来の目的を危うく忘れて、ルキウスの言葉に従うところだったからだ。
戦意を失っていたゼネルは表情を厳しいものへと改め、呆然自失としていた部下たちを叱責する。
「何をしておる。我々の目的を忘れたか! あんな若造に臆するな!」
まるで、自分自身に言い聞かせているようだと、ゼネルは内心で思ったが、表には出さなかった。
すぐさま魔術を繰り出すために、使い慣れた杖を手にして、魔術を練成する。
「ナディア・メルセス―お前にこれから任務を命じる。お前は、己の命に代えても、その者を我らの王の前に連れて行け。そのために、全力でこの場から脱却するのだ。いいな。残りの者たちは私とともに、ピジョン・ブラッドの抹殺を行なう」
後ろを振り返ることなく、ゼネルは言った。
ナディアはそのゼネルの言葉を聞き、静かに頷き立ち上がり、ルキウスの身体に触れた。
「さ、行きましょう……ルキウス様」
「…………君たちは……」
言葉が続かず、ルキウスは口を噤んだ。
馬鹿であり、愚かであると、ルキウスは思った。けれど、自分の命を投じてまで、何かを成し遂げようとする人に対して、その言葉はあまりにも失礼だった。事実ではあったが、その精神は汲んでやるべきなのか、それとも命を粗末にするなと言いたいのか。
否、彼らは別に命を粗末にしようとしているのではない。自分自身を守るために戦うのだ。それは、生物にとっては当たり前のことであり、行為であった。
けれども、あまりにもそれは無謀であった。
「彼は、やると言ったことは必ず成し遂げます。そして、彼は僕を殺さない。だから、皆さんが命を投げ出してまで、彼と戦う必要はないんです」
無駄死にして欲しくなかった。たとえ、自分の身体を利用するのが目的で、自分を呼び覚ました者たちであっても。人が死ぬのは嫌だった。
「残念ながら、君の言葉に従うわけには行かぬのだ」
寂しいような笑みを浮かべて、ゼネルが言った。その間にも手に持つ杖が、魔術の練成を終え、技が発動される。
気づけばブラッドが、目の前に出現していた。
「コイツらが戦う意志がないとしても、俺は逃がさないけどな」
ゼネルの繰り出した魔術―攻撃魔術を難なく避けて、ブラッドは嫣然たる笑みを刻んだ。
場に佇むブラッドの周囲には、ゼネルの部下である、四人の男たちの骸が転がっていた。
ルキウスが気づかない手際のよさで、ブラッドが片づけたからであった。
「行けッ」
ゼネルが叫び、ナディアが弾かれたように反応した。ルキウスの手を掴み、ジッグラトの階段を駆け降りる。
それを尻目に、ブラッドは面白そうな視線をゼネルの方に向けた。その手にあるナイフを弄びながら。
「それで、アンタはどうするんだ?」
まるで仕掛けてくるのを愉しんでいるかのように、ブラッドは尋ねる。
「……貴様をここで、永久に近いと言わず、永遠に葬り去る!」
それが合図だった。ゼネルは素早く魔術を練成し、練成陣を目の前に繰り出す。
白色の光が満ち溢れ、練成の中に組まれた文字が浮かび上がるのを見つめ、ブラッドが口を開いた。
「―なるほど。マルドゥクからナブに信仰が変わっても、文字の形態は変わってないのか……さしずめこれは『シャマシュの光に身を委ねよ』というところか」
練成陣に浮かぶ文字を読み取り、ブラッドは愉しそうに笑った。
「いいねぇ……アンタに一つ教えといてやるよ。俺はデブや親父は嫌いだが、俺に刃向ってくる奴は嫌いじゃない―そっちの方が、殺し甲斐があるからな」
残虐性に満ちた口元を歪めて、ブラッドが言い放つ。ずっと遊んでいたナイフを左手に持ち、素早く動き出す。
相手が繰り出した攻撃魔術を、走りながら練成した攻撃魔術―『ネルガルの炎に焼かれるがいい』を発動させ、互いの魔術を激突させ、相殺させる。
ブラッドのような人間は、たとえ不利な状況に陥っていたとしても、決して防護魔術のようなものを練成しない。どんな時でも攻撃を主体として繰り出すのである。
攻撃こそが、最大の防御。まさにその言葉を体現させていた。
魔術が相殺されてもゼネルはまだ諦めていなかった。すぐに魔術の練成を繰り出し、発動させる。
しかし、それすらも避けられた瞬間、ゼネルはブラッドの姿を、自分の身体のすぐ下で見た。
ハッとした時にはもう遅かった。脳を突き上げるような痛みがゼネルを支配し、意識が混濁し始める。痙攣を起こす両手は、杖を握ることが出来ず、緩められた指から滑り落ちていった。
「駄目だな」
ブラッドはナイフでゼネルの喉頚を刺し貫いたまま、つまらなさそうに呟いた。
ゼネルの喉頚からは血が滴り落ち、ナイフの刃を伝って、ブラッドの手へと流れ込む。
「足を止めたまま、魔術を練成するなんざ、三流以下だ。懐に入られればそれで、終わりだ」
分かったか、と言われても、ゼネルは答えることが出来なかった。
霞ががかる視界に映ったのは、暗い世界。そして、僅かに暗闇を灯す紅蓮の炎。
その炎に、死んだ妻の姿が映る……そんな幻を見たまま、ゼネルは命を失った。
活動機能の失った身体から無造作にナイフを引き抜いたブラッドは、その血糊を払った。初めは手を振って血を飛ばしたが、それで全ての血が払えるわけでもなかったので、地面に転がったゼネルの身体を使って、血糊を拭う。正確には、ゼネルが着ている服を使って、だが。
血で汚れていない部分で、ナイフに付着した血を拭い、ナイフの具合を確かめるため、炎の近くで翳して光沢を確かめたブラッドは、ベルトに引っ掛けておいた鞘を取り出して、ナイフの刃を収めた。そしてそれを再びベルト部分にある留め具に引っ掛ける。
それからブラッドは何事もなかったかのように歩き出し、ジッグラトの頂上から下の方へと視線を落とした。
ルキウスを捜すためだった。
ルキウスは、ナディアとともに出入り口付近の辺りまで移動していた。
それを見届けたブラッドは、実に有意義な動作で、再びその場から飛び降りる。
二度の往復であったが、ちっとも苦にならなかった。どうせ邪魔者は、ないにも等しい。
これで心置きなく、ルキウスを自分のものに出来ると、ブラッドの心は達成感に満たされていた。
先ほどと同じように、魔術を練成して地面に着地しようとしていた時だった。
まるで着地するぎりぎりを狙っていたかのような銃撃音が轟き、ブラッドは仰け反った。
鈍い痛みが顳顬から伝わり、ブラッドは無意識に手を伸ばして、そこに触れた。ぬるりとした感触に、もしやと思う。
触れた手を戻し、目を落とすと、そこには予想通りに紅い血が、付着していた。
ブラッドは黙したまま、視線を左前方に投じる。銃撃音は、そちらから聞こえてきたからだ。
そこには、一人の少女が立っていた。
警護に当たっていた《マラン》の警備員二人を、そこから遠ざけるために、車に白煙筒を投げ入れたエティは、慌てて持ち場を離れて車の方へと向かう二人の背後から、左手首に嵌めた銀製の腕輪―正確にはそこに取り付けられている麻酔針を構え、そのまま撃ち込んだ。
背後ががら空きの二人は避けることもエティに気づくこともなく地面に突っ伏して、すやすやとお昼寝タイムに突入する。目を覚ますのはずっと後のことだから、これで出入り口は確保したと、エティは意気揚々に遺跡の中へと足を踏み入れた。
光が届かなくなった途端、外気の温度が変わり、エティは思わず身震いした。
遮光するために装着していたゴーグルはもう役に立たないと判断したエティは、それを外して、どんどんと奥へと進んだ。
今回、この遺跡に潜り込んだ理由は二つあった。一つは、《西》である《マラン》の連中が、今更この〈レヌ遺跡〉に、何の目的があってやってきたのかを知るため。もう一つは、ただ単に、『遺跡荒らし(・ハント)』を行なうためだ。
なんと言ってもここは遺跡なのだから、眠っているお宝がわんさか出てくるに違いない場所だった。特にこの〈レヌ遺跡〉は、ずっと曰くつきで通っているほど有名で、腕自慢の『遺跡探検者』たちが攻略出来ずにいた場所だった。
そんな場所に身を乗り出したのも、ただ単に、腕試しがしたかったに過ぎない。
厄介ごとが嫌いな相棒のアルは、最後まで渋っていたが、なんのことはない。いつもいざという時になって、厄介ごとを背負い込むのはアルの方なのだから、エティを諫めることを、彼は出来ない。
エティはと言えば、流石に命に関わるような状況になったり、自分の身に余るようなことであれば、潔く身を引くし、わざわざその渦中に飛び込むような馬鹿な真似もしない。
だから、身に余るようであれば、さっさとズラかればいいのだ。
結構楽天的に構えながら、エティはどんどん奥へと進んでいった。
周囲がゴツゴツした岩肌などではなくなり、古めかしい壁画や、装飾具なんかがちらほらと置かれ始めた頃、エティは耳に人の声を聞いて、立ち止まった。
どうやら、そろそろ最深部へと到着するようだったからだ。
「あっち……か」
声のする方に足を進めていき、相手に気づかれないようにと、息を潜めて身を隠す準備を行なう。
念のため、護身のための武器の準備も忘れなかった。右脇のホルスターから片手で操作出来るとは言っても、子供の手には無骨な銃を取り出し、安全装置を外す。
銃身後部に蓮根状の弾倉を持つ回転拳銃で、引き金を引くと撃鉄が起き、弾倉が回転するダブルアクション・タイプだ。三十八口径と、一介の女―少女が持つにはいささか大きめな武器と言える。
しかし、エティにとっては使い慣れた相棒でもあった。いざとなれば、自分の身を守るために、人を殺す覚悟もある。ずっとそうやって生きてきたのだから。
そうした準備を整えてからエティは、再び足を前へと進めた。慎重に音を殺して、風化した岩に身を潜めて、ゆっくりと視線を奥へと投じる。
そして、エティの瞳は大きく見開かれた。
目の前では二十数名の人の身体が転がっていたからだ。
吃驚して口元を押さえたエティは、誰一人動かないのを遠目で確認した後、意を決したように、倒れている人の方へと歩き出した。
しゃがみ込んで、相手が生きているかを確認する。どの身体も、その活動を停止していて、事切れていた。
「一体何が……」
凄惨なこの状況に、エティは眉根を寄せつつも、聳え立つジッグラトの存在に気づいて、そちらに視線を向けた。
光の根源が少ないため、暗がりに浮かび上がるように聳え立つジッグラトに人がいることを確認するのに時間がかかった。
視力はいい方だったから、一目で一体何人の人間がいるのかを確認する。
頂上にいる人までは見えないが、階段に立っている人は見えた。
しかし、その者たちが唐突に階段から転げ落ちる様を見て、エティは再び眉根を寄せる。
何か、異様に動きが早いものが動いているのが分かった。
それがなんなのか、エティは最初分からなかったが、それが階段から消え、頂上付近から声が発せられた時、エティはその正体を知った。
どうやら、あの動きは人間のものであるらしかった。
エティは視力の他に、耳もよかったから、男の声が「抹殺する」と発した声を聞くことが出来た。
そして、女の声が聞こえ、どうやらこちらに降りてくるらしいことを理解したエティは、再び自分の身を隠すために、岩場に身を
潜めた。
声を押し殺し、それでも聴覚は最大限に広げて、聞き耳を立てると、足音はどんどんとこちらの方に近づいてくる。
それと同時に遠くの方、ようするにジッグラトの頂上では何者かが争っているような気配が伝わった。
エティは意を再び決して、姿を現すことにした。岩場から身を乗り出すと、そこに丁度二人の人間が姿を現した。正確には、上から降ってきた人間と鉢合わせたわけだが。
「貴女……」
驚いたように、女性が口を開く。
しかし、エティはそんな女性は視界に入っていなかった。
ハッとしてジッグラトの頂上を見上げた時には、一人の人間が飛び降りているところだった。
普通なら、そのまま地面に激突して死ぬ。
けれどもエティは、得体の知れない恐怖を感じ、銃口をその人間に向けた。
向こうはまだ気づいていない。撃つなら今だと、危険を察知している自分が囁く。
どうしてそんなことが分かるのか、エティには分からなかった。だが、エティの近くにいる女性ともう一人、判別し難いが恐らく男が恐怖や、揺るぎない決意を露にした表情を浮かべて、地面に降り立とうとしている人間に視線を注いでいた。二人は、エティが視線を投じた際に、その存在に気づいたのであろう―それを見た瞬間、エティは引き金を引いた。
息を切らしながら、それでも全力で階段を降りながら、ルキウスは舌を噛みそうになりながらも、口を開き言葉を紡いだ。
「ねぇ、待ってよ! あの人たちを放っておくの!?」
放っておくわけではないが、ナディアには使命があった。だからルキウスの手を握って階段を降りながら声を発する。
「私の任務は、貴方を《マラン》にお連れすることですから!」
あのゼネルが、命を捨ててまで命令したことだ。ナディアはあの男が好きではなかったが、その意志は尊重したいと思った。
誰もが、ルキウスが大事であるのだから。
「けどっ……ブラッドには叶わないッ……無駄死にするだけだ!」
「たとえ! たとえそうだとしても! ゼネル神官が私に命じたことが、今の私の任務です。だから、貴方も無駄死になんて、仰らないで下さい!」
ナディアにも、ルキウスの言っていることが分からないではなかった。
だが、それを認めてしまえば、ゼネルは本当に無駄死にしてしまう。
階段を降り終えたナディアは、息が乱れるのも厭わずに、足を進めた。
しかし、その歩みは思い止まったかのように止まった。
ルキウスはてっきり、これから引き返してゼネルの元へ向かうのかと思った。が、そうではなかった。
ナディアの前方には、一人の少女が佇んでいたからだ。
「……貴女」
この場に不似合いの少女に、ナディアは驚きの声を発する。
けれども、少女はナディアに一切興味がないように、視線を別方向へと向けていた。
その視線の先はジッグラト―ハッとして、ルキウスとナディアはジッグラトの方へと視線を投げた。
そこには、先ほどと同じ要領で魔術を練成して、ジッグラトから飛び立っているブラッドの姿があった。
まだ、着地し終えていない、飛び降りている最中―ブラッドが、そうしているということはつまり、ゼネルは既に死んだということになる。
ナディアは、上司の死という衝撃に打ちひしがれたように硬直し、驚愕と恐怖を彩る表情で、その場に立ち尽くした。
ルキウスもまた、人が死んだという事実に動揺を隠し切れずに、ブラッドに視線を注ぐ。
彼が、人を人とも思わず、簡単に人を殺せる人間だということは、よく分かっていた。
そして、それを止める力があったのに、止められなかった自分の不甲斐なさを呪うかのように、ルキウスは唇を噛み締める。
彼がもしナディアと、現れた少女まで手を掛けようとするのなら、今度こそ、絶対に止めてみせるとルキウスが決意した刹那―耳を切り裂くような銃声が、轟いた。
音のした方向に視線をやると、つい先ほど現れた少女の手に、銃が持たれていることに、ルキウスは気がついた。
それが銃であると認識出来たのは、五千年前にも全く同じ型のものが流出していたからだった。
その銃が向けられている先、それがブラッドのいる方向であることに気づいたルキウスは、驚いて視線を再びブラッドの方へと投じる。
するとそこには、無言のまま、自分の皮膚から零れ落ちる血に触れ、手に付着した血を眺めているブラッドの姿があった。
黙したままブラッドが顔を上げ、その視線の先に少女の姿が映る。
ルキウスはそれを見て、ブラッドが何かを仕掛ける前に、少女の元へと駆け寄った。
そして、少女を庇うようにブラッドの前に立ちはだかる。
それを見たブラッドは、何故か唇の端を吊り上げて、ゆっくりとルキウスの方へと歩き出した。
「なかなかいい腕だな、子供?」
感心するような口調でブラッドは言い放ち、少女は挑むような目で、ブラッドを睨み据えた。
「子供、名前は?」
「…………人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るべきじゃない?」
挑発的に少女は言い、ルキウスやナディアはゾッと肝を冷やした。
しかし、言われた本人は大して怒ってはおらず、それどころか珍しいものでも見るような顔つきになった後、その端整な顔に笑みを刻み、
「それもそうだな―俺はピジョン・ブラッドだ。で、お前は?」
と尋ねた。
「……エティ・エメラよ」
警戒心を込めたまま、少女―エティは自分の名を明かした。
「ふぅん、いい名前だな。……もっとも、もういなくなる者の名前になるわけだが」
懐にしまっておいたナイフを取り出しながら、ブラッドは無造作に言い放った。
その意図を、誰よりも早く察したルキウスは、少女を抱いて、ブラッドの攻撃を受けないように自分の身体で包み込む。
突然男に抱き締められ、エティは驚いた表情で、ルキウスを見た。
「……もう、これ以上、お前に殺される人を見たくない」
搾り出すようにルキウスは声を漏らし、ブラッドは眉根を寄せた。
「で、何? お前が俺を止めるとでも? 忠告しておくが、お前じゃ俺は殺せない。お前はシオルと同じ臆病者だからな」
何処か嘲笑するかのように、ブラッドは言った。
「……ブラッド、お前はシオルに封印されたと言っていたな? それはどうしてなんだ?」
聞かれたブラッドは、ちょっと考えた後、口を開く。
「奴は、どういった理由かは知らないが、お前を封印した。それは、お前自身も知らないのだろう? アイツが、お前を封印した理由だよ……ともかく、俺はそれを解かせるために、アイツを殺そうとしたんだよ」
その言葉に、ルキウスは憤怒を浮かべて、ブラッドを睨み据える。
その視線に苦笑しつつも、ブラッドはナイフを持ったまま、肩を竦めた。
「ま、実際はこれで刺すしか出来なかったけどな。お前の封印を解くためには、アイツ自身で解かせるか、アイツをすぐに殺さなければならないと思ったからな……残念ながら、アイツが死んだ後、解けるようなヤワな代物でもなかったが。で、アイツを刺した俺は、一瞬の隙を突かれて、逆に返り討ちにあった。正確には、こうして封印されるに至ったというわけだ」
理解出来たかと、尋ねるブラッドを無視して、ルキウスは俯いた。
「俺が煩わしいなら、あの時殺せばよかったのさ。そうすれば、万が一にもこの封印は解かれることなく、俺はお前に触れることも叶わぬまま、それこそ永遠に眠るお前を見つめて、歯噛みするしかないのだから。そして、アイツに封印される寸前に、俺は連動封印解除術―即ち、お前の封印が解ける際、俺の封印術も連続して解けるように施すことが出来た。つくづく、爪の甘い男だよ、アイツは」
心底おかしそうに、ブラッドは顔を歪めて笑みを深めた。
「……黙れ。これ以上、シオルを侮辱するな」
俯いていたルキウスが突然顔を上げ、ブラッドを睨みつける。ずっと溜めていた怒りが爆発したかのように、ルキウスの瞳には純粋な怒りが宿っていた。
そんな視線を向けられて、ブラッドは面白くなさそうに、鼻で息をした。
「お前を裏切ったような男を、お前はまだ信じているのか?」
その言葉が、ナイフのようにルキウスの胸に刺さった。
裏切った―それは紛れもなく、あの時の自分が思ったことと寸分違わぬ言葉だった。
親友の裏切りが信じられず、ひたすらどうしてと聞き返すしか出来なかった自分。それでも答えてくれない親友―シオル。そして自分は、今も信じられずにいる。
「……彼は、裏切ったんじゃない。そうしなければならない理由があったんだ」
「ハッ、おめでたい奴だな。―もっとも俺はそんなお前が嫌いじゃないがな。どうしようもなく愚かで、馬鹿なお前が、俺は愛しいんだ。いつまでも死んだ奴のことを思っていても始まらないだろう? さっさと諦めて、俺とつがいになれ」
「お前こそ、僕がお前を好きになることなんか、僕が死んだって在りえないことをいい加減理解しろよ」
心底うんざりしたように吐き捨て、ルキウスはブラッドから視線を外した。
「…………けど、お前がもうこれ以上、人を殺めないと誓うのなら、僕は、お前の願いを聞き入れるかも知れない」
搾り出すような声音で、ルキウスは告白し、ブラッドは怪訝そうに眉を顰めた。
「聞き入れるかも、ねぇ……随分あやふやだな。そんなにそいつらが大事か? 滅多にしないお前のおねだりを聞き入れないほど、俺は冷酷ではない……が、言っただろう? 俺とお前がつがいになるのは、予め定められたことだと。これは必然なんだ。必然であることを改めて約束をする必要はない。そして、秘密を知る者には口止めを―従って、お前の願いは俺の中で却下される」
言い終えるや否や、ブラッドは再び行動を開始する。
ルキウスに抱かれたエティよりも先に、無防備なナディアを殺した方が楽と判断したのか、一瞬の内にナディアの背後にブラッドは回った。
そしてそのまま、手にしているナイフを振り下ろすだけだった。
ヒュンッと、風を切るような音がして、ナディアが驚いて後ろを振り向いた時、またしても銃声が轟いた。
気づけば振り向いた先にいたはずのブラッドが、身軽にその場から飛び退いているところだった。
「チッ……」
舌打ちして、ブラッドはギラギラとした双眸をルキウスに抱かれている―エティに向ける。
やはりあの銃声は、エティの手にしている銃から発砲された銃弾によるものだった。
エティは敵意剥き出しの厳しい表情のまま、ルキウスの腕を解き、そのままその手を取って、出入り口の方へと駆け出す。
「ちょ、ちょっと、君っ……!」
手を引っ張られながら、ルキウスは戸惑いの表情で前方を駆けるエティと、置いて行かれたナディアとブラッドとを交互に見遣る。
「何か分かんないけど、あんた、あいつに貞操奪われそうなんでしょっ? あたしもよく分かんないけど、あいつが気に喰わないし……助けてあげるから、さっさと走って!」
と、再び走りながら標準をブラッドに合わせて、エティは早口に捲くし立てた。
混乱するルキウスを尻目に、ブラッドやナディアから二人は、どんどんと離れていく。
「……あの銃は、どうも厄介だな」
ルキウスを追うはずのブラッドは、逃走する二人の背を見つめながら、つまらなそうに呟いた。
そしてマントの袖口で、撃たれた左頬と左顳顬部分から失血する傷口を乱暴に拭うと、今気づいたかのように、ナディアの方へと視線を向ける。
置いてきぼりを食らった形で取り残されたナディアは、呆然とルキウスとエティの背を見つめていたが、ブラッドの視線に気がついて、ハッとして逃れるように後退った。
それを、有無を言わせない圧力をもってして押し留め、ブラッドはナディアに近づくと、その顎に手をかける。
「殺してやろうと思ったが、まだ使い道がありそうだからな。生かしておいてやる。俺をアンタの住んでいる王都だか、首都だかに案内しろ」
「だ、誰がっ……」
ナディアが嫌だと告げようとした時、ブラッドは先手をとって、相手の首を片手で易々と締め上げた。
息が詰まり、ナディアは真っ青になってブラッドを見上げる。
「下手に反抗しない方が身のためだぞ? こっちはアンタなんか楽に殺せる立場なんだからな……」
恐怖に顔を歪ませるナディアを、優しい微笑で、優しく語りかけながら、ブラッドはナディアに言い聞かせてやる。
そして、既にないルキウスたちが駆けて行った方向に視線を投じて、これから狩りに赴く狩人のような、心底愉しそうな笑みを唇の端に刻んだ。
「五千年も待ったんだ……ゆっくりと狩りに興じるのも悪くない」
そうブラッドは締め括った。
背後から追ってくるのではないかという恐怖を感じつつも、エティはルキウスの手を引いて、遺跡の出口へと走り続けた。
入った時は簡単に奥へと進むことが出来たはずなのに、いざ出ようとすると、中々外の光に辿り着くことが出来ないもどかしさに、エティは苛立ちの情を胸中に沸かせる。
「ねぇっ、待ってよ! まだ、彼女がっ……」
折角連れて出てやった男は、何やら後ろを気にして、しきりに立ち止まろうとするのが、またエティの苛立ちに拍車をかけた。
「うっさい! 今戻ったって、どうせ殺られてるわよッ」
残っているあの女性には悪いが、あの場合、二人も連れ出す余裕なんかなかった。
本当は一人でだって逃げ出すのが大変だと分かってはいたが、自分を庇うようにしてあの男―ブラッドの前に立ちはだかった見知らぬ男を捨ててはおけないと思ったから、連れ出してやったまでだ。
しかし、こうも煩い男なら、置いてきたほうが正解だったかも知れないと後悔しつつも、エティはようやく見え始めた光に、胸中に安堵を募らせた。
「ほらっ、出口!」
後ろを走る男に視線を投じて、エティは励ますように言葉を発した。
ずっと暗いところにいたため、外に出た瞬間、目が眩んだ。
さんさんと照りつける太陽の暑さが、妙に懐かしいとすら思える。
「あ、よう、エティ。なんか収穫はあったか……って、そいつ、誰だ?」
遺跡近くの岩場に待機していたはずのアルが、出入り口にバイクを止めて、そのバイクに寄っ掛かりながら、のんびりと片手を上げ、怪訝そうに眉根を寄せた。
見知った男の顔にエティは安心しつつも、唇を尖らせる。
「アル、なんであんた隠れてないの?」
言われたアルは肩を竦めて、
「いや、だってこいつら当分起きないだろ」
と、足下に転がっている警備員たちを指差して、言った。
「で、そいつ誰?」
そんなアルに苦笑を漏らしつつ、エティが答えようとした時だった。
「―シオルッ……!」
悲鳴のような声が、ルキウスの口から漏れた。