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最終兵器的彼女  作者: 御影志狼
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第一章


 砂塵が舞う中、蜂蜜色の頭髪を靡かせて、少女はゴーグル越しに目標を定めた。

 ゴーグルには遮光グラスが張られていたため、目の色を伺うことは出来なかったが、口元に浮かぶ笑みが、快活そうな印象を与えている。

「あそこ、か」

 風化した遺跡に自らの身を隠して、少女は笑みを深めた。

「エティ……あんま、無茶やんなよ」

 そんな少女――エティ・エメラを窘める男の姿がすぐ後ろ、バイクに乗った状態にいる。

 青みかかった短い黒髪。男は少女と同じゴーグルを首に掛けていたため、その瞳の色は琥珀と知れた。その瞳が今は不安、というよりは心配に染められている。

「分かってるって。そっちこそ、見つかんないように隠れててよ、アル!」

 名前を呼ばれた男――アル・ディールは、へいへいと肩を竦めて応じた。

「――それにしても連中、今更〈レヌ遺跡〉に何の用なんだ?」

 バイク座席で寛ぎながら、アルはボツリと呟いた。

「さぁ? 《西》のすることなんて、あたしらが分かるわけないじゃん。じゃ、あたし行くから」

 遺跡近くにある、風化しかけた岩石に身を隠していたエティは行動を開始すべく、〈レヌ遺跡〉と呼ばれている古い神殿の入り口に向かって、慎重に歩き出した。

 遺跡の入り口には《西》――正式名は《ディオス国》――西部に位置する、首都であり、王都マラン――と呼ばれている連中の警備員が二人、待機していた。

 その周辺には、連中が砂漠の中でも乗り回すことの出来る、小型四輪駆動自動車――ジープが乗り捨ててある。

 それをチラリと横目に見た後、エティはニヤリとほくそ笑むのだった。





 そこは外部に比べて、十度も気温が下がっている空間だった。

 周辺は薄暗く、空気は湿っぽくすら感じられる。

 周囲で目立ったものといえば、ごつごつとした岩肌ばかりで、特に目に留まるようなものはなかった。しかしそれは最初だけで、奥に進んでいく内に遺跡と呼ばれるに相応しい壁画や、物珍しい装飾器具が目に留まるようになった。

 神が宿ると信じられた豪奢な神像の数々。幾体もの神像は昔と変わらぬ神々しさを宿して、自らの時を止めていた。

 五千年の時を経てもあまり風化した様子がないのは、この空間自体に特殊な加工がされているせいなのか、はたまた神の恩恵か。

 この遺跡はかつて神を祀るための神殿でもあった場所のため、各所にその形跡が残っていた。

 たとえば、祀っている神を守護するために造られた銅像。それからは全てその手に武器を携え、厳しい表情で前方を見据えていた。

 遺跡自体がドーム状のままそっくり残っているため、砂に埋もれることなく、五千年前の状態を保ち続けている。塵や埃といったものは積もってはいるが、それは手入れをすればどうにでもなる。

 そんな神秘を凝縮した場所に、ナディア・メルセスはいた。

 薄桃色の髪を背に流し、眼鏡のフレーム越しにある紫の瞳は、不安と渇望に震え、身体は今にも泣き崩れんばかりの危うさを保った状態にいた。

 ナディアの他にも数十人の作業員が遺跡内におり、今回の目的である巨大な氷の結晶の周囲に、儀式用の紐を張り巡らせている最中だった。

 もちろん、そんな仕事をするのは下っ端の役目であり、それよりも優位の位置にいる人間は、偉そうにふんぞり返っているだけでよかった。

 ナディアはそれでたとえると、中途半端な中間管理職辺りであったので、準備が進むのを黙ったまま見届けていた。

「ふん――今回はよほどの成果が上げられると踏んでおっての任務だといいのだがな」

 五十代半ばの顔に皺を刻み、更に眉を寄せた状態で、今回の仕事の指揮をとる、ゼネル・ハルドゥが誰にともなく呟いた。

 年齢の割には精悍な顔立ちは生気に満ち溢れ、そのためか年齢よりずっと若い印象を他者に与えていた。

「ご安心下さい、ハルドゥ様。今回は問題のあれと波長の合うよう、『同調者』が同行しておりますので」

 いかにも上司に胡麻を擂るような態度で(実際ゼネルの部下である)、モルフェオ・ソノが弛んだ唇をぶるぶると震わせて口添えした。

 ゼネルに対してモルフェオは、四十代という年齢ながらも、でっぷりと太り、今にも脂が滲み出さんほど、肥えていた。

 健康に気を遣うゼネルとは正反対に、その身体はまったく健康を顧みていない身体であった。

 そのモルフェオが、自分に関しての言葉を発したので、ナディアは顔を強張らせた。

 『同調者』――つまり自分のことだ。

 ナディアはゼネルとモルフェオの視線を感じ、思わず俯きそうになる。しかし、それでもなんとか取り繕った表情を浮かべ、深く頭を垂れた。

「……『同調者』、相手の精神と繋がり、波長を合わせる能力者か。確かそれにより、対象者の力を増幅させることも可能、だったな……補助(サポート)中心となれば、確かに適任者かも知れん」

 ゼネルは、品物を見定めるような視線でナディアを一瞥した後、視線を氷の結晶の方へと向けた。

「五千年もの間、封印されていた神官……か、よもやこの古代人に頼らねば、我々の未来は約束されぬとなると……人類の行き着く先は決まったようなものだな」

 翳りを帯びた笑みを浮かべて、ゼネルはもう一度、ナディアの方に視線を向けた。儀式の準備が整ったのを見届け、ナディアに仕事をするよう促すためだった。

「――ナディア・メルセス、儀式を始めたまえ」

 大仰にゼネルが言い放ち、ナディアは黙したまま静かにその場を移動した。




 氷の結晶の周囲に張り巡らせた紐を潜って中に入ったナディアは、静かにその前に立ち、冷たく凍結した結晶に右手で触れた。

 何面もの壁面を持つ結晶は、中に閉じ込めた者の姿を幾つも作り出し、相手を定めて見るためには目を凝らさなければならなかった。

 眼鏡の奥にある双眸を細めて、ナディアは氷の中で閉じ込められている人物をじっと凝視する。

 血の通っていなさそうなほど白い肌。それは冷たい氷に閉ざされているせいなのか、青白くすら見える。 

薄紫の髪は前髪の部分が異様に長く、目のある部分を完全に隠してしまっている。そのためか、性別はおろか、年齢すらも判別し難くかった。

 古風な衣装は、今とあまり変わらない神官職の格好で、長い、白いマントが印象的だった。フードを被ってはないのは、頭を見ただけで分かる。

 全ての時を止め、永遠とも呼べる時を眠り続けた者――〈レヌ遺跡〉にある、この『氷柱の眠り人』は、ナディアの住む国では有名な、古代人として知られていた。もっとも、この〈レヌ遺跡〉は一般人が入ることを禁止しているため、実際に目の前の『氷柱の眠り人』を拝めることが出来るのは、ナブ神を信仰している人間の中でも官吏職を持っている者――それも高官だけであったが。

 五千年もの間、身体に何のダメージもなく封印されていた肉体。老いも死もなく、眠るために凍らされた存在。

 この中にいる者を封印した者は、よほどの使い手であったらしく、五千年経った今でも、封印が破られることはなかった。

 それが今、ナディアの手によって、破られようとしている。

 いや、実際問題として、それが出来るとはナディアは思ってはいなかった。ただ、自分が他人よりも目の前の古代人と波長が合うらしいというだけで、ナディアはここに連れて来られたのだ。

 出来るなら、眠りについた者を起こすことは忍びないと思った。けれど、どうしても、そうしなければならないことを、ナディアは知っていた。

 無意識に空いた左手を、首に下げたペンダントに伸ばし、握り締めていた。

 《ディオス国》に住む女性にとってはもはや必需品となっている、【月の雫】と呼ばれている石が嵌め込まれたペンダント。本来は純白の光沢である光は、薄暗い世界の中、たった二つだけ灯されていた炎に反射して、ゆらゆらと陽炎のように紅く光っていた。

 ジッグラトと呼ばれている、神殿内に存在する、天と地を結ぶ巨大な塔。その頂上には小さな聖域が設けられている。

 その聖域にこそ、問題の結晶が安置されていた。

 そして、その結晶を見守るようにして灯された炎は、この五千年もの間消えたことがないとされている、曰くつきの炎であった。

 聖域の出入口にゼネルとモルフェオは待機して、静かにナディアの様子を窺っている。その視線を感じたナディアは、ペンダントを握り締めていた左手を解き、氷の結晶へと伸ばした。

 両手が結晶に触れ、冷たい感触が指に伝わる。そこから更に自身の頭を近づけて、額を結晶へと当てた。

 身震いをするような寒さを感じつつも、ナディアは意識を集中させた。

 頭の中で、下から上へと突き上げるような力を印象(イメージ)しながら、氷の中にいる古代人へと呼びかける。もちろん、呼びかけは心の中で行い、口には出さない。

(お願い……目を覚まして……)

 それは、ナディアにとっても切なる願いであった。

 《ディオス国》全土に広がる、 あるウイルスにより、人類は滅亡の危機に瀕していた。

 そのウイルス――正式名称『アルテミス』は、雌雄を持つ生命――それも雌だけに感染する性質を宿しており、この『アルテミス』に感染すると、種を残すことが出来なくなってしまうという、恐ろしい病原菌を持っていた。

 この『アルテミス』は更に悪質なことに、そのウイルスを含む空気を吸い込んだことで、感染する。つまり、一息でもそのウイルスを吸い込んでしまえば、殆どの確率で感染してしまうのだった。

 そのため、『アルテミス』に感染した女性は、生殖能力が著しく低下し、結果、子供が産めない身体となる。卵子はあっても、卵巣から排出されず、排卵が起きなくなったり、月経自体が来なくなる。成長期に生理が来なければ身体の発育が遅れ、自然乳房は小さいままに留まることもあり、女性としての丸みを帯びた身体とは程遠い姿をした女性が国の中では目立つようになった。

 運よく生理が訪れ、女性としての柔らかい身体を手に入れた女性がいても、その後のウイルスの進行により、女性の肉体は妊娠の準備を行わず、結果排卵も行わなければ、今まで整えていたはずの子宮内膜が剥がれ落ちることもない。従って生理も訪れず、次の妊娠の準備も出来ない。

そのため、愛しい夫の子供を宿すことも、可愛い我が子を抱くことも出来なくなるのである。

 それでも、子供を産める女性は少なくともいた。

 生れ落ちる前から殺菌室の中にいて、一生その中で暮らす女性がそうだ。恐ろしい病魔の魔の手から逃れ、子を産める身体を持つ女性は、国の人間からは奇跡の身体と呼ばれ、女神と崇められていた。

 しかしここ数年、その女性たちが妊娠、子供を産んだという噂は聞かない。

 それはそれだけ、国が切迫している証拠であった。

 既に目の前の古代人が生きていたとされる五千年前と比べて、現代の人口は四十三%も減少していた。

 動物や植物だけであったなら、まだ望みはあった。人間に比べて遥かに知能の低い生物は、そんなウイルスが充満している世界の中でも、必死に生きる糸口を見つけ、日々進化していくのだから。

 ウイルスに対する抵抗力を見つけ、自らを対抗力持つものへと進化させていく、生物の逞しさ。

 そんな中で人間だけが、為す術もないままウイルスに蹂躙されていった。いや、たとえその術を知っていても、人間の身体はそう易々と他の生物のように作り変えることは出来なかった。少なくとも自然のままでは。

 だから人間は科学――あるいは医学の力に頼るのである。

 長い時間を待つことが出来ない生物は、科学の力により、進化しようとした。しかし、その科学の力を持ってしても、そのウイルスに対抗出来る術を見つけることは出来ずに、現在に至っている。

 そんな時だった。切迫している自国の神官の一人が、ある書物を発見したのは。

 その書物は、五千年前に神官職についていた者が記していたとされる、日記であった。

 ナディア自身はその日記を読めるような地位にいないため、詳しい内容は知らないが、何でも、五千年前から既にそのウイルスは存在し、日々その猛威を振るっていたということ。けれども、当時の最新医療により、そのウイルスに感染しない、最高の肉体を持つ女性を作り上げたということ、などが記されていたらしい。

 実は、現在の医療に比べて、五千年前の医療技術の方が進んでいたことは、『喪われし技術』時代によって、明らかになっていた。

 それは過去の遺跡を調べれば一目瞭然のことであり、《ディオス国》の南に位置する《テクノ》を見れば無理なきことだった。

 今から丁度五千年前。現在のナブ神ではなく、ナブ神の父、偉大なる『マルドゥク神』を信仰していた時代、医療技術及び科学技術、魔術技術は栄華を誇っていた。

 世界にはなんの乱れもなく、調和が均等に取れ、体制も安泰としていた時代。人々は自ら創り出した技術に溺れることなく、常に向上心を胸に抱いて、国を発展させていった。

 問題のウイルスが発見されるまで。

 栄華を誇っていた国も、やがては滅びの憂き目を見ることとなる。絶対の保障などない世界は、時には甘く、時には厳しい試練を人に与えるものなのである。

 その試練を与える者こそが、神であった。

 神の与えた試練に人は、二者の選択を選ばされることとなる。即ち、為す術もなく滅び去るか、神の与えた試練に立ち向かうべく、ウイルスと戦うか。当時の国家は当然、後者の道を選んだ。

 国で選りすぐりの技術者たちは自身の髪の毛を掻き毟り、このウイルスに立ち向かった。

 そして、医療による治療が秀でた結果を齎したのだ。

 しかし、その医療が日の目に出ることはなかった。

 解決の糸口を見つけたにも関わらず、現代になおもその猛威を振るっているウイルス。それは、五千年前に勃発した戦争に関係があった。

 主神であるマルドゥクを信仰していた王都が、その主神の息子とされているナブを信仰している一族の手により滅ぼされてしまったためであった。

 マルドゥクの築き上げてきたものを悉く破壊し、自らが王であると、神であると主張した一族は、五千年経った今でも、神の座にいる。

 戦渦の中に消えていった医療技術……科学技術の一端は、現在も《ディオス国》の南にある《テクノ》によって、受け継がれていた。魔術技術もまた、国の首都マランや国の北方に位置する魔術技師たちの隠れフェルスレントたちの手によって、その形を留めている。

 しかし、医療技術だけはその先を進めることなく、五千年前の、戦争の混乱の中、闇へと消えてしまったのであった。

 故に現代人は、そんな技術があったことすら知らなかった。けれども、その神官の見つけた日記により、そのことを知った者たちは、是非その技術を現代に甦らせようと今現在、躍起になっていた。

 そして、その日記に細かく記された女性の特徴を分析した結果、偶然にも〈レヌ遺跡〉に存在する『氷柱の眠り人』こそが、その女性であることが判明したのであった。

 この偶然に、神官たち一同が狂喜したのは言うまでもなく、《ディオス国》を治める王もまた、歓喜した。当然だ。子孫を残すことの出来る術を発見したのだから。

 そして直ちに『氷柱の眠り人』を目覚めさせるべくための動きが、開始された。

 しかし、その行動は早くも壁にぶち当たることとなった。

『氷柱の眠り人』の、氷柱である部分――氷の結晶は分析した結果、ただの氷でないことが判明し、それが高度な魔術技術で構成されたものであることが分かったのだ。

 しかも、その施された魔術は、五千年経った今でも、解かれることのない封印術であり、この封印を解くとなると、相当な時間を要してしまうことが分かった。

 簡単に言ってしまえば、五千年前の古代人に匹敵する力を持った魔術技師が、現代に存在しない、ということである。

 まさに身も蓋もない事実ではあったが、そこで立ち止まるわけにはいかない自国は、ならば先に中にいる古代人を目覚めさせて、内側から封印を破って貰うという方法に出た。

 『氷柱の眠り人』には二重の封印が施されており、一つは、氷による表面封印魔術――つまり、氷を長きにわたって固定化させ、中のものを閉じ込めておく術。もう一つは、その閉じ込めたものを老いることもなく、眠りにつかせておく、永眠封印術である。

 この永眠封印術は、表面封印魔術に比べてはまだ比較的、解決の糸口があった。それは、表面封印術は、施した術者(技師)が自ら封印を解く以外で行なう場合は、他の術者は己の力のみを直接、対象にぶつけて封印を破らなくてはいけないためであった。けれども、先に述べた通り、この封印を破ることの出来る術者は、この国には今現在、存在しない。たとえ、魔力自慢の術者が束になったところで、この結晶はぴくりとも動きはしないのである。

 しかし、永眠封印術は、眠っている対象者を呼び起こすことが出来さえすればいい。そうすれば、表面封印術は、内面に閉じ込めておく対象物を失い、その効力を自然に失い、解けてしまうからである。ただ、この永眠封印術を解く方法は、眠っている対象者をどうやって起こすかにかかっている。

 普通に呼びかけていたのでは、もちろんその封印が解かれることはないし、振動を与えて起こすことも不可能である(というか、振動を結晶に起こさせること自体、至難の業である)。

 そこで『同調者』の出番になる。

 『同調者』とはその名の通り、対象物に対して、同調(シンクロ)することによって、相手の力を増幅させたり、補助を行なったりすることの出来る能力者を指して呼ばれる名であった。

 この能力者は、たとえ対象物が眠っていたとしても、波長さえ合えば、相手を呼び起こすことも可能のため、『氷柱の眠り人』を起こすには、まさに打ってつけの能力者ともいえた。

 ただ、問題の『氷柱の眠り人』と波長が合うかどうか、それが最も重要視される部分であって、波長の合う人間が(それも同調者の能力を持っている者の中で)、いない場合、『氷柱の眠り人』を目覚めさせることは永遠に不可能となってしまうだろう。

 幸いに、その適任者がナディアであったため、取り敢えず危機は瀕したといえた。

 しかし、紙の上の記録と、実践段階では実質問題、全くの別物と言えた。幾ら、紙の上の記録が、『氷柱の眠り人』との波長が合うと訴えていても、実際に行なってみるのとでは、明らかに話は違うのである。

 触れてみて、初めて分かる、頑なな意思。

 まさに今触れている氷のように、冷たく、凍結していた心に、自らの心で触れる感覚。

 それは言葉では言い表せられないほど、胸に詰まるものがあった。

 視覚のみで『氷柱の眠り人』を見た時、ナディアはその容姿が女性なのか、男性なのか判別し辛いことを確認していた。日記で女性と記してあったのだから、当然女性であるはずなのに、ナディアは女性と断言することが出来なかったのだ。

 前髪で覆った瞳が何を映していたのか、最後に見たものはなんなのか、それは分からないが、対峙した時にナディアが感じたものは、深い哀しみだった。

 そして、心で触れて見て、その思いを改めてナディアは強くした。

 ナディアの切なる願い、訴えに、氷に閉ざされた心は頑なに拒絶を見せる。

 嫌だと、触らないでくれという心がナディアの中で響き、それでも懸命に相手の逃げる心を追いかけた。

(哀しい、哀しい……)

(そう、私も哀しいのだ。子供が産めなくて、子供を授けることの出来ない身体が、哀しくて、哀しくて仕方がないの)

(どうして? どうしてそれが哀しいの?)

 初めて、相手から反応が帰ってきた時、ナディアの心に哀しみの他に温かなものが流れたことを感じた。

(ああ……だって、子供を産むことが、いいえ、愛しい人の子供を産むことこそが、私の喜び。それが今は出来ないから、だから哀しい……)

 いつの間にか、ナディアは閉ざされた氷の中にいた。同調が成功した証拠であった。

 そして、目の前にはその対象者が佇んでいる。いや、実際は何もない空間に漂っているような印象があるから、佇むという表現は的確ではなかったが。

 やはり、波長が合った今でも、その性別を判断することは難しかった。

 そんな相手が不思議そうに、ナディアを見つめている。

(子を産むだけが、女性の幸せじゃないのに……)

 困惑する相手に、ナディアは静かに首を振った。

(それは、国が豊かで、人々が溢れ返っている時に言える言葉。今では言えない言葉。今は子供を宿せない女性は、家畜よりも劣る存在……種のない男性を不能、無能というように、子を宿せない女性は、女ではないと言われているわ)

 そう、それはナディア自身を指している言葉でもあった。

 文官としての職務に就いていても、自分が男性たちから影でなんと呼ばれているか、ナディアは知っていた。『宿なし』と。

 肝心の子宮が機能しなければ、卵巣が働かなければ卵子は育たない。

 いくら結婚をしていても、宿がなければ子は生まれない。だから『宿なし』。泊める客はいても、泊めることが出来ない、使えない女――否、女の姿をした男だと、影で罵られた。

 今でも影で笑っていた男たちの声が、耳に残る。

 そして、そんな女と結婚をした男と、夫が嘲られることが、ナディアは自分が言われている以上に悲壊(ひかい)なことだった。

 夫が悪いのではない、全ては子を宿せない自分が悪い。いや、本当に悪いのはウイルスなのだ。

 何故神は、こんなにも辛い試練を人にお与えになったのかと、痛切に思う。 

 しかし、今を生きる以上、ナディアはその現状を何とかしなければならなかった。

 何もしないまま終わるのか、抗うか。そしてナディアもまた、当然のように後者を選んだ。

(お願い……貴方の力が必要なの。どうか、手を貸して……)

 切に訴えるナディアに、それでも困惑したまま、対象者はその輪郭を揺らした。同調が、途切れかかっているためだ。

(待って、お願いッ……いかないでッ!)

 呼び止めるナディアの声が震えていた。

 瞬間、胸元にある【月の雫】がナディアの心に反響するかの如く、発光した。

 同調の能力を行なう際、それは精神体のみで繋がるため、その輪郭は酷く不安定なものがあった。

 そんな中でもナディアはしっかりと自分を保ち、対象者に触れていたため、対象者の少しの異変にも敏感に察することが出来ていたのだ。

 更に、精神のみの繋がりであるため、通常の肉体を離れた精神体は、まさに心で触れるに相応しい状態にいる。簡単にいえば、全裸であることと何ら変わりない状態でいるのだ。

 そして、今のナディア自身も全裸でいた。

 が、不思議なことに、ナディアが肉体である時に手にしていたペンダント、それが物質であるにも関わらず、精神のみの世界にもその姿を保ったまま、存在していたことだ。

 それは、ナディアの心の奥底で既に、そのペンダントも身体の一部と認識していることに他ならなかった。

 そんな乳白色の光を見つけて、対象者は、思い留めたように視線を向けた。

(それ……は……?)

 対象者の視線を受けたことを喜ぶかのように、乳白色の光は何かに反応するかの如く、その輝きを増した。

(これは、【月の雫】と呼ばれている、私のお守りよ)

 留まった対象者に心のまま、喜びを表して、ナディアは言った。

(月の、雫……………………そう、だ、僕、僕の名前……)

 【月の雫】に反応して、対象者は言葉を紡いだ。

 名前、名前、自分の名前。

(分からない、思い出せない、僕の名前。それは、どんな名前? 確か、彼も呼んでいた、僕の名前……)

 対象者の思っている言葉が、直接ナディアに流れてくる。混乱している対象者を宥めるため、そして目覚めさせるきっかけにもなる意図口があることに、ナディアは気づいた。

 それは、対象者の名前を教えることだった。

 対象者の言う、彼が誰のことを言っているかは分からなかったが(同調している彼自身が知らないのだから、ナディアに知りえるはずがないからである)、ナディアは、この対象者の名前だけなら知っていた。

 それは、五千年前に書かれた、ある神官の日記に記されていたからであった。

 自分の名前が思い出せず、泣きそうに震えている対象者にナディアは、ゆっくりと触れた。温かく、包み込むように。

(私は知っているわ、貴方の名前を。…………貴方の名前は『ルキウス・ブランクス』よ)

 瞬間、視界は光に埋もれた。




 頭上はるかに広がるは、『天』のアーチ。眼下に広がるは、『地下世界』の深淵。それらに挟まれた『海』と、その真ん中に浮かぶ『大地』。時に穏やかに流れ、時に恐ろしい洪水を齎す『川』に、想像を絶するほど高く、神秘的な『山々』。

 規則正しく、永遠に天を巡り続ける『太陽』に『月』。そしてその他の『星々』。

 その世界を自分は知っている。

 不可思議な『植物』の発芽と成長と、謎に満ちた『動物』の成長と繁殖。

 時には有用で、時には災いを齎すとされる神秘的な『火』。

 不可解な『愛』の欲望と、不意に勃発する『戦争』と……。

 それら全ての現象を自分は知っている。

 銀色に輝く鎌が振り下ろされ、審判は下る。

 『遠い日々の運命を決める』力。故に、審判者とも呼ばれた自分。だから自分の名は、間違っても『ルキウス・ブランクス』という名前でないことを、自分は知っている。

 ならば、自分は誰なのか? それを自分は知っている。

 自分は『神』だ。

その神である自分の所業を阻止したのは誰か? 自分はそれを知っている。

 そして、その阻止も、永遠には続かないことを、自分は知っていた。




 何処か遠くで、声が聞こえた。

 何を言っているのかは聞き取れなかったが、その声は自分が今までに聞いた中で、最も荘厳な声質を持っていた。

 自分が仕えていた王よりも、ずっと。

 自分が仕えていた……そこでふと、思い出す。

 仕えていた王の容貌。そしてそこから連鎖して浮かび上がる仲間たちの顔。目を閉じて思い出す。

 他国から奴隷として連れてこられて、神官にまで上り詰めた、異国の容貌を持つ二人。自国でも有名な魔術技師の一族に生まれた、才能ある神官……自分の親友であった、男の顔を。

 その男の顔を脳裏に描いた瞬間、記憶の波が怒涛のように押し寄せて、潰される恐怖を感じた自分は、頑なに瞼を閉じるのではなく、夢から覚めるために、目を見開いた。




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