4.悪夢
入学式から一週間が過ぎた頃だった。
真夜中に孝明は急に体が重くなるのを感じた。
(か……金縛りか)
まずい。孝明は直感する。身体が動かないと、決まってあの記憶が蘇るから。
脳の奥からあの忌まわしい記憶が闇となって溢れてくる。その闇が辺りに広がっていく。それが群れて人影になった。その人影も二人、三人と群れを成し、いつの間にか横たわっていた一人の女性に群がっていった。
(か……母さん……)
女性が何をされているのかは知っていた。知らされた。その女性がどんどんケダモノと化していく様を、嘲笑と共にぶつけられた。
狂いそうだ。
ぐるぐると脳の奥が蕩けていく。ここは地獄だ。続く。いつまで続く?
(父さん。助けて。母さんが。母さんが)
不意に黒い男が室内に入り込んでくる。黒はスーツの黒。酷く無骨な旧式のDRSだ。彼は母に群がる影を次々に手に持つ銃で撃ち殺した。最後に孝明には目もくれず、ぐったりとする母に近寄っていく。
(やめろ……やめろ……やめろ……)
どっちを? どっちが?
笑い声。母親の狂った笑い声。言葉を男に吐いて、抱き付こうとする。
男は、銃を取り出し、彼女の額に――
「やめろォ!」
孝明は布団を跳ね除けて飛び起きた。真っ先に目に入ったのは無邪気に笑う明日花の顔だった。彼女は布団の上から孝明に跨り、ワサビのチューブを握った手をワキワキさせている。だが飛び起きた孝明と目が合うと、チューブを後ろに放り投げてわざとらしい大声を出した。
「イィィィイエェェェェェェイッ! 初任務! 初任務ゥ!」
「誤魔化すな」
孝明は明日花のオデコを軽く指先で弾くと、明日花をベットの上から退くように手で指示した。彼女は大人しくベッドから降りると、後ろ足でチューブを蹴って机の下に隠し、いつものいやらしい笑みを浮かべる。
「こ~んな美少女に起こされるなんて孝明は果報者だねぇ~」
「ああ。おかげで最悪の目覚めだったよ――初任務?」
孝明は寝ぼけた頭の霧が晴れて、聞き逃しそうになった単語を反芻するように呟く。すると明日花は今日子に急に変わった。身体は起きてはいたが、人格は眠りに沈んでいたのだろうか。今日子は一瞬酔っ払ったように、ふらりと姿勢を崩し、慌てて孝明が差し出した腕に抱きかかえられる。今日子はその腕に抱かれながら、しばらく目を瞬かせて、意識が体に慣れるのを待っていた。そして自らの二の脚で身体をしっかり支えられるようになると、彼の腕から離れて部屋から廊下に出た。
「入学式直後の一年が生活に慣れるまで敷かれる警備強化週間が解かれて三日が経ちました。頃合いでしょう。遺物調査を開始します」
孝明は寝間着から制服に着替えなおすと今日子の後に続く。その時ワサビのチューブを今日子に渡すと、少し苦々しい顔をしながら言った。
「それにしても明日花はどうにかならないのか? 少し悪戯が過ぎるぞ」
孝明は今まで明日花が仕掛けてきた悪戯を反芻する。資料を隠したり、指示にいらない情報を書きこんで困惑させたり。酷いものでは仕事現場に来て、引っ掻き回していったこともあった。良く言って純粋、無邪気。悪く言えば子供過ぎるのだ。
「分かっています。でもある程度それで明日花が無茶しても通るアドバンテージがある事を忘れないでください。悪戯の方は私からきつく叱っておきますから――それにあなたは述や寧に比べたらマシですよ」
今日子は話の途中で明日花の蛮行を記憶から拾いあげ、そこに忸怩たるものがあったのか顔を少し赤らめた。
「え? 何が――」
孝明が問いかけた所で、寧が呻き声をあげながら部屋から飛び出てきた。
「う~! うっ! うっ! うう!」
寧はタンクトップに下着という軽装で床についていたらしい。髪を振り乱し、肌にうっすらと汗を滲ませた彼女は、さるぐつわを噛まされ手は後ろ手に手錠で拘束されていた。今日子が自室である会長室に逃げ込むと、寧は夜叉の形相で孝明を押しのけて、その部屋になだれ込んでいった。
「あふふぁ! ほふぁえはろほへへはっは! は!? ふひふんんはほはぁ!」
孝明がその姿に釘付けになっていると、誰かが彼にぶつかる。
「の……述」
振り向くと、頭からバケツを被せられた述が、鼻っ柱をバケツの内側に打ち付けて蹲っていた。述は何にぶつかったのか確かめるため、軽いパニック状態になりながら孝明の体にべたべたと触り始める。そしてそれが孝明だと気付くと、怒りに声を震わせた。
「馬鹿! バーカ! バーカ! 僕がそんなにおかしいか!? 廊下に突っ立てんじゃねーよ! このバーカ! バーカ!」
「あ~述……。今取るから静かにしてくれ」
孝明はべこべこにへこまされて、述の顔の凹凸にがっちり食い込んだバケツをとるため、バケツを回したり、隙間に手を入れたりした。その際、述と少し密着することになったが、彼の胸にはわずかな膨らみがあった。孝明は別段気に留めなかったが、述は違った。孝明を突き放そうと乱暴に腕を振り回す。それは女性の恥辱ではなく、男性としてのプライドだった。孝明が述に突き飛ばされると同時に、バケツも抜けて孝明と共に廊下に転がった。
述は罵詈雑言を浴びせようと息を吸っていたが、尻餅をついて陽気に頭を掻く孝明に毒気を抜かれてしまい、腕を組んで彼を見下すにとどめた。
「馬鹿にしては上出来だな」
フンと鼻をならす彼に、孝明は腰をさすりながら立ち上がった。
「ああ。男同士助け合わないとな。明日花と寧は……どう接したらいいか……その……困るから。しばらくここで時間潰そう。女同士の争いに男が関わってもいいことはないからな」
「口の利き方も知ってるんだな」
述は孝明に顔が見えないようそっぽを向きながらぼそりと言った。
「まぁな」
孝明もくすりと笑うと、述とは逆の方を向いた。
会長室から寧と今日子の言い争う声が聞こえてくる。述と孝明は会長室の壁に寄り掛かると、その騒ぎが収まるまで、しばらく会長室の騒ぎに耳を傾けることにした。
「ふぁっふぁ! あふられらはら!」
「今外しますから! その蟹バサミを止めて下さい! 何故言われてから締め付けるんですか! 猿語じゃないと分かりませんか!? うっきーうっきうき……ほきゃ? うきゃきゃぁぁ!」
今日子の悲鳴が甲高くなった。椅子が倒れる音と同時に、肉が床を転がる音がする。それから床を這いずる擦過音に、今日子と寧の苦しげな吐息が重なった。孝明がふと隣を見ると、述が顔を真っ赤にしながら俯いていた。
「この……雌ゴリラ……ァ……!」
今日子はどうやら朔夜に交代したらしい。会長室から発せられる熱気が倍増したように感じる。孝明は背中を預ける壁が高熱を発したかのような錯覚に、慌てて壁から離れた。述もそれにならうと、そのまま倉庫の方に逃げていってしまった。
「おいおい……大丈夫か……」
会長室では今日子と朔夜が互いに馬鹿力を発揮しているのか、熊の唸りとも、猪の奮起とも、猿の呻きとも取れる、奇妙な押し殺した声が響いてくる。
孝明が踏み込もうかどうか迷い始めた時、事態が動いた。朔夜が寧に押さえつけられながらも、寧の束縛を外したらしい。寧の荒い息遣いが鮮明な声に変わり、彼女は新鮮な空気を吸うため二度三度大きな深呼吸をすると、割れんばかりの罵声を放った。
「貴様怯懦にも寝込みを襲うか! この卑怯者! それでも上に立つものか!?」
「仕方ないだろう! 明日花がやったんだから! あいつはまだガキなんだよ!」
朔夜の弁明は多重人格者にとっては当り障りのないものだったが、常人の寧にそれが理解できるはずもない。先程よりも強い調子で怒鳴るのが聞こえる。
「明日花だって『貴様の内の一人』だろうが!」
その言葉に、性格ゆえに強情ながらも、すまなそうにしていた朔夜は態度を一変させた。
「ンだとッ! テメェ! もういっぺん言って――」
朔夜が寧に掴みかかったのが壁越しの孝明にもわかった。間合いを詰める素早い足音、服が引っ張られる布の悲鳴。寧が臨戦態勢を整えるため浅く息を吸う音。
孝明は仲裁しようと部屋に飛び込もうとしたが、それより早く今日子の声が響いた。
「待って!」
その言葉に、全てが止まった。部屋から漏れる険悪な雰囲気、寧の闘気、朔夜の怒気。何より、飛び込もうとした孝明の動きすらも。
無理やり朔夜を押さえつけて表出したのに相当な無理があったのか、壁越しに聞こえる今日子の息遣いは短く速いものに変わっていた。
寧が気勢をそがれて呆気にとられているのが孝明にもわかった。だが彼女はすぐに先程の激情を取り戻すと、喚き散らした。
「な……何だ? 自分が多重人格を強調しているのか!? 己の弱さを強調し、それを盾に取るっていうのか!?」
寧の声尻が震え声になっていく。明らかに侮蔑と不安による震えで、明日花が上司である不満と不安と不信が徐々に募りつつあるようだった。
そんな寧を余所に、今日子はゆっくりと息を整えると深く一息をついた。そして安心感のある、はっきりした、聞き取りやすい声色で言った。
「寧。明日花が貴女にしたことは謝ります。ですがこれから任務なのは事実で、こんな下らない事で統率を乱したくありません。任務は任務、私情は私情で処理しましょう。今回明日花が任務に私情を持ち込んだことは、いまだけは大事の前の小事と片付けさせてください。後で一大事として処理することを約束しますから」
「だが! 貴様――」
「頼みますよ……第一回遺物調査です」
寧の声を遮り、静かだが子供に似つかわしくない、迫力と重みのある声で今日子は念を押した。
しばらく。静寂が辺りを支配した。
やがて一人分の足音が会長室から出て来た。足音の主、今日子は自らの痴態を見られたからか、恥ずかしげに顔を俯かせながら孝明の脇をすり抜けて、倉庫に小走りで行ってしまった。
その際、少なからず憎しみのこもった眼で、自分を一瞥していったのに孝明は気づいていた。心当たりがあり過ぎる(・・・・・・・・・・)孝明は、顎に手を当てて物思いを始めたが、すぐに誰かに頭を叩かれ、意識を現実にへと引きずり戻された。
「盗み聞きは感心せん。行くぞ」
見ると寧が頬を膨らませながら、孝明の隣に立っていた。彼女は棘のある口調でぶつぶつ言いながら孝明の袖を引っ張り、倉庫へと連れ立って行こうとした。
廊下を半ばまで進んだところで、寧はぴたりと足を止める。その背中から、哀愁に似た何かを感じ、孝明は顔を引きつらせる。そのまま寧は振り返らずに、ぽつりとこぼした。
「貴様が一番まともだ」
絶望と失望に沈んだ声。孝明は寧の異様な雰囲気に息を飲んだ。
「ど……どうも」
「なのに一番頼りない。最悪だ……最悪だ……」
寧は腹の底から絞り出すように言うと、孝明の袖から手を離す。そして孝明を置いて一人で倉庫の中に入っていってしまった。
誰もいなくなった廊下で、一人孝明は少しの間ぼうっとしていた。
『最悪だ……最悪だ……』
寧の残した言葉が頭から離れなかったのだ。夢のせいだ。それだけではなく、見た夢に無情にも重なり、あたかも母の言葉のように脳内で再生された。ぶわっと、孝明の前身を悪寒が駆け抜ける。冷や汗が一気に吹き出、心臓が荒馬のように怒り猛った。自分で自分の胸を鷲掴みにして抑え込む。
まるで荒渦に飲まれるかのごとく、孝明はある記憶の海に沈んでいった。あの記憶。忘れられない、あの記憶。強烈な眩暈に孝明は自分を支えきれなくなる。孝明は壁にもたれかかった。
「大丈夫だ……大丈夫。大丈夫……俺は……超人だ……もう負けない。全員殺してやる。大丈夫。もう守れる」
孝明は壁に当てた手の爪を立てて、そのまま抑えがたい衝動を処理するように、壁を強く引っ掻いた。コンクリートの壁はカリカリと鳴り、孝明の爪を削った。だが孝明は構わずにそのまま握り拳ができるまで力を籠め続けた。
「何してんだバカヤロー! さっさとしろよノータリン!」
述の怒声が倉庫から聞こえてくる。その頃には孝明を飲み込んでいた波は引き、彼はまるで燃えカスのようになって壁に寄り掛かかっていた。
「似過ぎなんだよ……クソ……慣れるのには時間がかかるな」
孝明は衣服を整え、息を正した。そして子供のような無邪気さを取り繕うと倉庫の中に入っていった。