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ツァラトゥストラとガルガンチュア

 氷室雹香は真っ直ぐ成功の地下を進んでいた。

 旧分水舎。叢雲が建設した、山の水源を成功島に振り分けていた施設である。成功危機後、学園に入った五菱が浄水施設を作るまで稼働しており、新しい水道施設ができるまでのツナギとなっていたため、浄水施設とも一部繋がっている。

 雹香は地下水路の最後の曲がり角を過ぎて、旧分水舎まで一直線の通路に辿り着いた。このまままっすぐ行けば旧分水舎だ。水をプールする貯水槽もあり、そこにはレジオネアとアメーバを増殖させてある。後はシリンダーキーを使って、プールした水を成功にフローするだけだ。

 レジオネアの増殖度は氷室の悪意をぶちまけるにはまだちっぽけだった。それでも失敗するよりマシだった。

 雹香は通路を三分の一進んだところで立ち止まると、立ちはだかる孝明を見て唸った。

「やっぱりばれてたのね。早めて正解だったわ」

 雹香は薬物で興奮しているようだった。先ほどの恐れを微塵も見せていない。孝明の表情が痛ましく歪む。

「さっきは……悪かった……言葉にして償えるものではないけど、君に酷いことをしてしまった」

 孝明はまず頭を下げた。そして氷室に向かて手を差し伸べる。

「そのキーをこっちに渡すんだ。君の身柄はNETRAにやりはしない。叢雲にもだ。俺達が守り抜いて見せる。だから」

 孝明の声には威圧など微塵も感じられなかった。ただ悲痛な思いで溢れていた。

 超人である孝明には、それが巨人であることを誇負する彼女の感情を逆撫ですることは分かっていた。だが、彼女が気付かない痛みを、今心で感じている彼は、例え最善の策だとしても相手を挑発することなどできなかった。

「奇襲をかけないんだ。超人の余裕って奴? そういうのが一番ムカつくんだ。殺そうと思えば殺せるくせに!」

 雹香は声色に隠しもしない侮蔑といら立ちを乗せる。

「それは違う。殺してしまうんだ。怖くて、恐ろしくて、そうしないと安心できないから。俺は強くなりすぎた。だからそこまで弱くなってしまった。そうなっては『人』としてお終いだ。誰も愛せないし、誰にも愛されない。自分すら愛せなくなるからだ」

「何わけわかんないこと言ってんの!」

「氷室雹香、君は、子供なんだ。終わってしまうにはまだ早い」

「うるさいうるさいうるさい! 私は巨人! ガルガンチュア! そんな誰からも必要とされない出来損ないと一緒にするなッ! 私は成功解放のために生まれてきた! 私はそのために生きてきた! 私はそのために自分を生かさなければならない! あんただってそうだろ、超人!」

 大声で吠える彼女の声尻は絞りだす声に変わり、孝明に問いかける。微かに縋るようなニュアンスが含まれた声に、孝明はかすかな希望を見た。

「人は何かをするために生まれてくるんじゃない。何かを見つけるために生まれてくるんだ。将来の夢だったり……大事な人――帰る場所、そして自分が正しいと思えること」

「へぇ……あんたは何を見つけた」

 雹香がせせら笑うが、孝明は自信に胸を張った。

「ああ、自分を見つけた」

 それを雹香は勘違いして捉えた。

「そうだろう! 超人! あんたはこの状況で自分を、初めて生まれたことを証明できた! 初めて生きる実感を得れた! 初めて自分を生かすことができた! あんたは見つけたんだ! 自分を! 本当の自分を!」

「俺は……超人として……一線を越えてしまたんだ。それで本当の自分を見失ってしまったんだ。だが……寧たちが見つけてくれた」

 父親を殺した感触が手に蘇る。それはやがて自分を包み込み、嫌悪や怨念のこもった呪いとなって全身を蝕んだ。だが、孝明は自らに絶望しておらず、雹香に失望していなかった。確かに超人と常人との間には天地ほどの隔たりがあって、手を伸ばしても届かない関係だ。でも、超人の位置からも、常人を希望として見ることができる。孝明は雹香に希望を見ていた。

「君にはこっちに来てほしくないから……」

 バックルに電池を差し込む。通電音にスーツが寂しく鳴いて、地下の壁に反響し響き渡った。

「君が……君でいられるのを見たいから……! 俺はもう君を傷つけない。傷つくのは俺だけでたくさんだ!」

 彼は戦闘の構えをとる。

「……巨人を『粛正』する」

「装身ッ!」

 雹香は即座に巨人――ガルガンチュアへと変装した。そして孝明に肉薄した。

「いざっ、参上ォッ!」

 孝明もエグゼライトに変装しそれを迎えうった。

 ガルガンチュアは姿勢を低くして、矢のように突っ込んでくると、エグゼライトを打ち倒そうと滅茶苦茶に打ち込んできた。

(雹香……君は壊さない……破壊するのは……PB(ガルガンチュア)だけだ!)

 狙うのはスーツの頭脳であるPACP。腹部の電源より遥かに脆弱で、スーツを無力化することが出来るからだ。しかしそれは彼女の背中に隠れている。

 一先ず、エグゼライトはガルガンチュアの拳打蹴撃を全てさばいて隙を窺うことにした。エグゼライトは右頬を狙ったガルガンチュアの拳をするりと躱す。その瞬間、ガルガンチュアはするりとエグゼライトの脇をすり抜けて、旧分水舎へ走り抜けようとした。

(しまった。狙いは俺じゃない。NETRAだ)

 ガルガンチュアにとって、エグゼライトはただの障害に過ぎない。打ち倒さねければならない悪の権化はあくまでNETRAなのだ。だから目標を自分に向けさせるための挑発が必要だった。

 エグゼライトは驚き、慌ててガルガンチュアの脚にローキックを放つ。ガルガンチュアは姿勢を崩したが、無理に姿勢を保とうとせず前に倒れこんで前転する。そして立ち駆けすると、一直線に先へ突き進む。

 ガルガンチュアのその一連の動作が終わった時、エグゼライトはアクティヴ動作で壁を蹴って跳ねていた。ガルガンチュアが前転する間に壁を蹴って天井に這いあがり、立ち駆けする間に天井からガルガンチュアの目の前に降り立った。

 何とか仕切り直せた。しかしもうガルガンチュアを避けることは出来ない。

 ガルガンチュアは再び捨て身の攻撃を無茶苦茶に打ち込んでくる。エグゼライトは仕方なくそれらを拳で打ち払った。

 拳と拳、蹴りと蹴りがぶつかり合いあう鈍い音が、辺りに響き渡る。少しずつ、少しずつ、エグゼライトは旧分水舎側に押し込められていく。

(このままでは……良くない……)

 エグゼライトはいくつか策を立てて、頭部のガードを緩めた。反応が鈍りさもガルガンチュアの拳打に反応しきれなくなったように見せかけて、打ち払いの正確さを失していく。するとガルガンチュアはそこに活路を見た。蹴りによる攻撃を一切やめて、エグゼライトの頭部に攻撃を集中させた。

(こんな安いフェイクにかかるなんて……薬で意識が……早く助けないと)

 エグゼライトが焦る。焦りで手元が疎かになる。エグゼライトの防御を突き破って、ガルガンチュアの拳が捻じ込まれる。エグゼライトは頬に拳を打ち込まれて仰け反った。

(駄目だ。俺が焦ってどうする。気をしっかり持て、超人!)

 エグゼライトはここでアクティヴ機動を実行。本来ならもう少し応酬して、もっと大きな隙を作るつもりだったが、やむを得ない。エグゼライトはガルガンチュアの腹を、足の脛で蹴りあげた。ずしりと脚に重い手ごたえがかかると同時に、右腕に外部からの負荷がかかる。エグゼライトの脚が振り切られた瞬間、彼は右腕をガルガンチュアに捕まれ大きく姿勢を崩した。

 壁に叩き付けられるガルガンチュア、地面にもんどりうって倒れるエグゼライト。

 ダメージは単純な蹴りを受けたガルガンチュアより、固いコンクリートにろくな受け身もとれず叩き付けられたエグゼライトの方が大きかった。

 スーツ内で孝明が一時的な呼吸困難に陥り、苦痛の声と共に浅い息を吐いたが、すぐに体を鞭打つと、通路の奥に行こうとするガルガンチュアに追い縋った。

 ガルガンチュアの地面を蹴ろうとした足を掴み引き留めようとしたが、横っ面に凄まじい衝撃が走った。ガルガンチュアがすかさず空いた右足で蹴りを見舞ったのだ。

 エグゼライトの中で、孝明の残った作り物ではない奥歯が砕け、口の中に生暖かい血が溢れた。だがエグゼライトは決してその足を離さなかった。唾に絡めて血と歯を吐き出しフェイスガードに収納させると、足を掴んだまま彼は通路を逆行し始めた。

「離せぇ!」

 ガルガンチュアが全身を使って跳ね回り、彼の手から逃れようとする。その瞬間エグゼライトは、背負い投げの要領で彼女を逆行方向の空中に投げだした。

 「へっ?」と、ガルガンチュアが頓狂な声を上げる。彼女の体は跳ね回ったため、人工筋が無茶苦茶に機動し、一瞬だが制御不能に陥った。

 その隙を見逃す超人ではない。すかさずタックルを浴びせて、水路を更に逆行する。エグゼライトはガルガンチュアの脇の下に頭を潜り込ませて、彼女を持ち上げたまま押し返すが、今度は腹部と首筋に衝撃が走った。ガルガンチュアの肘打ちと膝蹴りだ。だが、パッシヴ機動しかできないドールガンでは本来の威力が発揮できず、エグゼライトを怯ませることは出来なかった。

 ガルガンチュアは焦って上半身で肘打ちを続け、下半身を足の踏み場を求めてバタバタさせた。

「離せって言ってんだろぉ!」

 絶叫に近い声で叫ぶ彼女を、エグゼライトは足がつかないように背中から地面へ押し倒した。

 背中が地面についた瞬間、ガルガンチュアはエグゼライトと自分の間に足を捻じ込んで、巴投げの要領で蹴り飛ばす。エグゼライトはあっさりと旧分水舎とは逆の方向に飛ばされ、床を転がった。

 ガルガンチュアは素早く跳ね起きると、旧分水舎まで一気に駆けた。通路の先は袋小路のコンクリートで固められた四角い部屋で、分水舎である小さな建物がある。その脇には貯水槽がぽっかりと大きな穴を空けており、水が大量に貯められていた。

「やった……これで認めてもらえる……私を証明できる……ははぁ……やった! やった!」

 ガルガンチュアは縋りつくようにして分水舎内の配水盤を掴んだ。擦り切れて読めなくなった文字盤の上のスイッチを次々に操作し、成功島全域にここの水が流れるようにする。だが、中央校舎に行く水を多めにすることを忘れない。そこがメインターゲットだ。最後にガルガンチュアは腰に手をやりシリンダーキーを取り出そうとして、はっとした。

「あ……え……? 無い……」

 ガルガンチュアは確信を胸に振り返る。エグゼライトがシリンダーキーを指でつまんで、ガルガンチュアに見せつけていた。

「さっきのタックルの時だ……旧式はオプションをAUXに接続して管理しないからな」

 彼は悠々と腰のアタッチメントにシリンダーキーを吊り下げて保持した。まだ壊さない。逃げられては困る。

 雹香は幽鬼のようにゆらりと揺れて、エグゼライトの方に歩み寄る。

「カエセ……」

 彼女は悲鳴に近い声を上げた。

「カ      エ      セ    ェ    ェ   ェェ   ェ !! !!!」

 ガルガンチュアは素早く腰の後ろを操作する。

『Branch』

 SEASが起動。スーツの四肢に埋没していた、予備の飾り紐が展開された。

 即座に孝明も二本目の電池を取り出すと、ベルトのバックルの左側に差し込んだ。

『X-Late』

 ガルガンチュアは飾り紐をはためかせ、エグゼライトに殴りかかった。エグゼライトは落ち着いて、前の戦闘と同じように飾り紐の方を狙う。エグゼライトが飾り紐を掴んだ瞬間、紐が硬化する。エグゼライトはそのまま紐を握りしめて、地面に抑えつけようと腕を振った。

 エグゼライトの腕は、大きく空ぶった。見るとガルガンチュアの飾り紐がしなだれていて、エグゼライトの手からすっぽ抜けていた。

 愕然とするエグゼライトを余所に、ガルガンチュアの拳はしっかりとその頬をとらえる。腕が振り切られた際、エグゼライトに触れた飾り紐も、次々に硬化していきその身体を打ち払った。その時、飾り紐はエグゼライトの体に触れ続けているにもかかわらず、一瞬だけ硬化してすぐにしぼんだ。

 エグゼライトは何が起こったか理解する。

(最初のBranchはただの通電硬化。予備のBranchでパルスによる瞬間硬化。ハードの面で仕組んでいたか。完全に虚を突かれた)

 ガルガンチュアはエグゼライトに密着して、舞のような攻撃を続ける。拳を振るい、足を掲げ、腰を振り、身体を回す。エグゼライトの体に飾り紐が触れるたびに、彼の身体には衝撃が走った。ガルガンチュアの拳が振るわれた後に、アクティヴ機動で切り返そうにも、飾り紐が絶え間ない攻撃を仕掛けてくるので無理だった。それに今度は飾り紐を狙う事もできない。

 文字通り、エグゼライトは滅多打ちにされていた。

 ガルガンチュアの猛攻に、やがて体の重心がズレる。立て直しが難しくなる。エグゼライトはしれっと筆箱を落とすが、ガルガンチュアはそれが地面に堕ちる前に遠くへ蹴り飛ばした。

 やがてガルガンチュアはエグゼライトの足を払うと、その上に馬乗りになって、ひたすら殴り続けた。エグゼライトはアクティブ機動でガルガンチュアを蹴りあげる。しかしそれは飾り紐にあっさりと弾かれてしまった。それからも切り返しを図るが、ことごとく飾り紐によって弾き返されてしまう。連撃が続くにつれて、エグゼライトが押さえつけられたコンクリートが欠けて粉を散らし、細やかな亀裂が走った。

 エグゼライトのHMDが、緑の基調色から危機を知らせる赤色に代わる。

『Warning!-Overheat』

 スーツのセイフティがON。コンピュータが変装解除を推奨しつつ、スーツの四肢を繋ぎ止める繊維を焼き切る準備に入った。スーツが熱を帯び始め、身体が痛みとは異なる熱気に包まれつつある。

(死ぬ……? それはまずい……この小娘を殺して……生き延びなければ。絶対に生き延びなければ)

 孝明の中で、超人がそう囁く。だが孝明はその考えを打ち払った。

(殺すのはいつでもできる。誰にでもできる。そうじゃない……俺が俺として、俺のできることを!)

 咄嗟に、ある策が浮かんだ。

 エグゼライトは腰の後ろからシリンダーキーを外し脇に放る。ガルガンチュアがつられて余所を見る。その隙にエグゼライトはガルガンチュアを横に蹴り飛ばし、現状から脱すると放ったシリンダーキーを取りに走った。

 ガルガンチュアが間髪入れず再び襲い掛かって来る。エグゼライトはシリンダーキーを拾わず、上に蹴りあげた。ガルガンチュアはエグゼライトの鳩尾に蹴りを入れて、それを踏み台に飛び上り、宙を舞うシリンダーキーに手を伸ばす。

 背中ががら空き。エグゼライトはガルガンチュアのPACPに狙いを定める。彼女の蹴りにより崩れた姿勢を、無理やりアクティヴ機動で補正しながら飛びあがった。

 ――――砕けろぉぉぉオオ――――

 背中に人の気配を感じ、ガルガンチュアは身をよじろうとしたが、それより早く腰に衝撃が走った。エグゼライトの矢のような一撃により、ガルガンチュアのPACPがへこんで割れる。外装の破片が飛び散り、ガラス片が雪のように降り注いだ。

 エグゼライトは地面に着地すると、落下するシリンダーキーをキャッチして、残心の意味を込めて虚刀技身の構えをとった。

『Safety-ON Break-Down』

 電子音と共に、スーツをつなげる炭素繊維が焼き切れる。孝明の体からエグゼライトスーツが剥がれ落ちていき、皮がめくれるようにしてスーツ内部の孝明を露わにした。彼は目を閉じ、口をきつく結んでいた。だが、口の端から血の糸が垂れるのと同時に、ゆっくりと目を見開いた。

 迷いの晴れた、美しい目だった。

「粛正完了」

 孝明はシリンダーキーを床に転がすと、踵で一撃し中央を折り曲げて使用不能にした。

 一方のガルガンチュアはPACPを一撃された――と感じる間もなく今度は全身が地面に叩き付けられて、衝撃に震えた。彼女の目の上ではライン上に配置された唯一のディスプレイが、非情な報告を始める。

『system down action data / signal-lost―――error ***delete-command execution [MURAKUMO]***――――――NO-DATA』

 装身が解けていく。

 彼女は仰向けの状態で呆然と旧分水舎の苔の生えた天井を眺めていた。

 だが、負けたという現実が、じわじわと脳に染み込みだすと、きつく唇を噛みしめた。やがて唇が切れて、血と泡が口角から滲み、顎全体がぶるぶると震えだす。そして、目の下に溜まった涙が頬を滑り落ちると、彼女は爆発した。

「う……うわぁぁぁぁぁあぁぁぁああ!」

 雹香は赤ん坊のように泣き喚いた。仕方ないことだ。一度自分を壊されてまで植えつけられた『絶対強者の巨人』である自分を、またもや壊されたのだから。定められた理性を執行することができず、エラー報告を繰り返すコンピュータのように、彼女は全身を駄々こねるように暴れさせて気が狂ったように喚き続けた。

「あーっ! あ~っ……あっ、あっ、ああー……あうあああうああああーーーーっ!」

 彼女は床をずりずり這いずりながら、ガラスの散乱する場所まで行くと、散らばっているガラス片の中からナイフ状のものを掴んだ。そして自分の首筋に押し当てると、喉を切り裂こうとした。

 血飛沫が舞った。

 ガラス片は咄嗟に飛び出し、ナイフと首の間に孝明が滑り込ませた腕を切り裂いた。孝明はそのまま羽交い絞めにする形で彼女を抱きしめると、ガラス片を持つ腕を叩きそれを手放させた。

「もういい……終わったんだ……もう無理することはないんだ!」

 孝明は彼女の耳元で叫ぶ。とたん彼女の中で例の記憶が呼び起され、急におとなしくなった。

「あ……あ、あっああーっあ……あー……あー……」

 孝明は下半身がしっとりと濡れ、鼻先をアンモニア臭がつくのを感じた。氷室が恐怖のあまり失禁していることをに気付くと、声色をできるだけ優しいものに変えた。

「大丈夫だ。君は、ここにいる。俺が見つけた。君はもうここにいる。だから、自分でもちゃんと見てやれよ。悲鳴を上げてるじゃないか。疲れきっているじゃないか。こんなに……傷ついているじゃないか」

「あ……あ……」

「逃げるぞ」

 孝明はPACPを操作して、剥がれ落ちたスーツ片に繋がるメインの配電線を巻き上げて腰に纏め上げる。そして蹴り飛ばされた筆箱を回収し、彼女を抱きかかえて旧分水舎を後にした。

(あ……あたし……ここにいていいのかなぁ)

 雹香は孝明に抱かれながらそんな事を考えていた。

(なんか……すごく……つかれた……)

 そして孝明の背中から伝わる振動をまるでゆりかごのように感じながら深い眠りに落ちていった。

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