2.偽装任務
自治会の戸をくぐると、そこは広間になっていた。
中央に応接用のテーブルとソファが置かれ、その奥には大きな事務用デスクがでんと置いてある。天井には証明として蛍光灯が設置されていたが、昼間だというのに点灯している。何故ならこの部屋には窓というものが無いからだ。室内では春の温かみというものが感じられず、異様にじめじめしており、少し癇に障る機械の駆動音が低く響いている。部屋の隅を見ると、除湿器が置いてあった。
「昨夜ぁ。これで全部の盗聴器を処分したぞ。赤外線盗聴の心配もない。窓がねぇからな……そいつらか」
三人を出迎えたのは、小柄な生徒だった。
幼稚園児ほどの体躯、可愛らしい童顔、丸っこい目に拗ねた様なアヒル口。ぼさぼさの黒の長髪は、まるでコートのように着込んだだぶだぶの白衣の上を滑り、地べたに引きずっている。白衣も袖が大分余っていて、大体肘のあたりの布地に彼の手があった。腕まくりをすることが億劫なのか、そのまま器用に物を使っている証拠に、肘の部分の布地は煤汚れていた。
胸には『自治会:賀角述』のプレートがさしてあり、彼は寧と孝明を一瞥だけすると、昨夜の方に向き直った。一方の昨夜は今日子に変わっていて、念を押すように少し述に聞いた。
「本当に大丈夫ですか?」
とたん述の眉が吊り上がった。
「何だそれ……僕を馬鹿にしてんのか! 僕は賢人だぞ! お前の数百倍賢いんだ! ちゃんと確認もした! テメェ! いつかお前の部屋でオゾンを発生させてやるからな!」
怒りを表現する様に、述は袖の余りをぶんぶんと振り回した。
「分かりました、分かりました……盗聴器をください。政徒会に苦情を出しますから。ああ、二人とも喋っても大丈夫です」
今日子は辟易した様子で述から盗聴器を受け取ると、懐から取り出したビニルパックに包む。そして交換に寧の生徒手帳を述に差し出した。述はまだ何か言おうと口を開きかけていたが、生徒手帳を目にした瞬間、口をつぐんだ。
「あの馬鹿マジでやったのか!」
述は嬉々として寧の手帳を受け取ると、デスクに転がっている旧型のノートパソコンに接続した。USBを差し込んだ後、何やら高速でタイピングする。作業後USBを引き抜いて、きひひっと悪戯っぽく笑うと、述はそれを今日子に渡した。
「ほら、ウイルスを駆除し、証拠はログごと出した。これで少しは政徒会も黙るな」
今日子はそれらをまとめて、デスクの鍵付き引き出しに入れると、孝明と寧を述に引き合わせた。
「彼は賀角述。賢人です。今年NETRAに認定を受けたばかりで、今回はバックアップを担当してくれます。こちら成海孝明と御手洗寧。粛正委員会の調査員です」
孝明は、この気難しそうな相手に微笑みかけると握手を求めたが、間を置かず袖の遊びで横に払われた。
「うっせー、近寄んな馬鹿」
孝明にそう吐き捨てると、述は処理の済んだ生徒手帳を寧に放り投げた。寧は述の乱暴な振る舞いに、笑みを引きつらせて頬をひくひくさせたが、気をとりなして握手を求めた。
「まぁ、何だ……同じ女子として仲良くやっていこうではないか」
とたん、述が表情を一変させた。
「黙れ! 僕ァ男だ! どいつもこいつも畜生が! ケツの穴に硫化水素流し込むぞ、この筋肉達磨が! テメェあれだろ! 猿で進化の止まった標本対象だろ! アァン!? 僕が天才だから妬ましいんだろ! このバーカ! バカバカバーカ!」
述は唾をまき散らしながら吠え猛る。そして肩をいからせながら、玄関から向かって右、真新しい壁で区切られたドアから、奥へと引っ込んでしまった。今日子はやれやれと言った様子で首を振ると、ソファに上品に腰を下ろした。
「両性具有です。ジェンダーは男ですがね。気難しいですが良くしてあげて下さい。ほら……戦場では整備士と喧嘩をするなっていうでしょう」
「恨みを買うと、何されるか分からない……か」
孝明の言葉に、寧の表情がさっきとは違う意味で引きつった。
「なんでそんな奴――」
「他に当てがないからですよ。定期の物資以外はほぼ孤立無援。大人の手も借りることができません。装備も偽装できるギリギリの範囲。最悪の材料、最悪の環境を覆すために最高の人員を集めたわけです。私としては述より頼りにしたいのでお願いしますよ」
最高の人員と聞いて寧の顔が僅かにほころび、額に手をやって謙遜するように首を横に振る。今日子は人心掌握術に長けているようだ。ベタなやり口だが、流石偉人である――と孝明は感心したように今日子を見ていた。だが同じような眼差しでこちらを見ていた今日子と目があった。今日子はたとえベタでも子供を騙すのにはあれで十分だと思っていたのだろう。彼女は小馬鹿にした眼つきで寧を一瞥した後、孝明を試すように瞳をじっと覗き込んできた。
孝明もほぼ無意識だったが――いや、だからこそかもしれないが――彼の瞳からすっと感情が消えた。そして逆に今日子の瞳を覗き込むように瞳の中の闇を広げた。
それは、底知れない闇で、得体の知れない何かが潜んでいた。
「……ッ!」
今日子は狼狽えるように硬直する。静まり返った部屋内の異変に気付き、寧が顔を上げようとした。そこで、デスクに乗った電話が唐突に鳴った。
今日子はその電話に救われた素振りをおくびにも出さなかった。冷静に電話対応し、目をぱちくりさせる寧、ひいては少しだけ威圧を放つ孝明に対しても毅然と振る舞った。彼女は電話先でまくし立てる相手に、相槌だけで対応すると、デスクのパソコンを立ち上げた。
「早速ですが仕事です。保安委員会から援助要請です。迷子が多くて対応できないだそうです」
寧が目を剥いた。
「まてまてまて! 我らは粛正委員だろう! 迷子の相手よりすることがあるのではないか!?」
「かといってカモフラージュを疎かにするわけにはいきません」
今日子は平然と答えて、二人に生徒手帳を起動するように指示した。孝明と寧は彼女の指示通り生徒手帳を開き、あらかじめインストールされていた自治会の職務アプリケーションを起動する。画面には職務欄に、緊急度が高い順で要請一覧が表示されており、そのどれもが数秒前――今日子がパソコンを立ち上げたときに追加されたらしい。画面端には小枠でミニマップが表示されており、その成功島地図には赤、青、黄の斑点が散らばっていた。
「こ……こんなにか……!」
「さ、一番上の項目から順繰りに処理して言って下さい。私はここで情報を処理しますから。それに報道部のインタビューもありますので」
寧はわたわたと手帳を操作すると、足をもつれさせながら自治会から出ていった。
しばらく孝明はその後を追わず、黙って今日子を見ていた。彼は今日子が何か言うのを待っていたみたいだが、彼女がだんまりを決め込んでいると、自ら口を開いた。
「今日子……俺は試されるのは嫌いだ」
「みたいですね」
それから孝明はいつもの調子に戻り、寧の後を追って自治会から出ていった。
今日子は全身の力を抜いて、どっかりとデスクの椅子に座り込むと、深い嘆息をついて眼の辺りを手で覆った。
「寧を上手く使えと言うことですか……」「めんどくさいねぇ~」
明日花に変わった彼女は椅子から飛び起きると、パソコンに向かって黙々と作業を始めた。
*
「いいか! 傷をつけないでくれよ! 絶対だ! 絶対だからな! これはフリじゃねぇぞ!」
喧しく怒鳴りつけるその学生の胸には、成功学園の薬品関係部活「化学部」のプレートがついていた。名は新庄今則、二年生らしい。
「分かりました。分かりましたから……少し静かにしてくれませんか。十中八九あなたに怯えてると思うんですよ」
孝明は今則を落ち着かせようとして、どうどうと宥めすかす。だが、今則は孝明を押しのけると木の梢に噛り付いて、一つの枝を見上げると悲鳴に近い声で喚いた。
「喧しいぞ阿呆が! ミーコォ! そこを動くんじゃないぞォ! 今日は大事な実験あるんだぁ! 抗体があるのはお前だけなんだよォお!」
その木の枝では一匹の猫が大きく伸びをした後、露店の売り物だった焼き鳥を幸せそうに頬張っていた。
そこは中央校舎から北西。研究施設が軒身を連ねる、E1地区にある小さな公園だ。洒落たベンチに花弁を散らす桜が、小さな木陰を作っている。地面は無機質な石畳だが、つもった花弁が薄紅色に彩り、春の温かみを見せていた。
ベンチには野次馬として新入生が数人と、関係者である他の科学者が死んだ時の備えのためか、携帯冷凍庫を手に待機していた。孝明は科学者たちの無礼を、特に気にしていなかった。だが寧の方は、いらいらした様子でこちらと時計を交互に見やる科学者の横っ面を、張りたくて、うずうずしているようだった。
孝明は頭を掻きながら今則を梢から引き離そうとするが、不意に背後から声をかけられた。
「あの……焼き鳥……私の……お金……」
おずおずと孝明に近寄ってくる女生徒――『食品購買部:三年 井村美由紀』は、丁度そこから見える小さな屋台を指さした。大通りに面している屋台はなかなか繁盛しているようである。新しく入島した新入生が長めの列を作り、彼ら相手に食品購買部の部員たちが店をきりもりしていた。美由紀は怯え、相も変わらず喚き続ける今則を流し目で見ると、哀願するように孝明を見つめてきた。
「立て替えておくよ」
孝明は彼女にこの島の貨幣である『線』紙幣を渡すと「もう一串くれ」と注文して、ひとまず現場から追い払った。
線は学園内に貧富の差を持ち込ませず、かつ現実社会との関わりを完全に断つために用意された代理貨幣だ。線の紙幣には透かしやホログラムが入った本格的なもので、肖像には昭和の超人たちが描かれていた。
「あのミニ述はどうにかならんのか。今すぐ手討にして自治会の前に飾ってやりたい……科学者の類はみんなああなのか?」
孝明が話を終えて寧の元に戻ると、渋い顔でそのやり取りを見守っていた寧は、同意を求めるように言った。
「まぁ大目に見てやれよ」
孝明は苦笑すると、美由紀が持ってきた肉の刺さった串を受け取る。
「毎度です」
美由紀は一礼してお釣りを渡すと、すぐに露店には戻らず、心配そうに公園の隅の方に留まった。
「よーし……これを餌におびき寄せるぞ。肩車をしてくれるか?」
「普通お前が下だろ。女子に何やらせる気だバカモン」
寧は憮然として言い返すと、孝明から串を奪い取った。同時に孝明の背後に回り、肩を掴んで抑え込むと、有無を言わせぬままその上に乗っかった。
「おいおい……スカートだろ。ちょっと待てよ。梯子をとって来るから」
孝明が慌ててスカートの中に頭が入らないように布を払う。だが寧は構わず孝明の肩に跨ると、立ち上がるように孝明の背中を叩いた。
「見られて減る程大層なもの持っとらん……ったく。何で私がこんなことを……おい梢に引っ付いてるそこの変態。少し黙れ。打ち首獄門に処すぞ」
ぶつぶつ文句を垂れながら、寧は串の持ち手を口に咥えて、孝明に肩車された。彼女は枝の前まで持ち上げられて、顔が猫の真横まで来ると、誘うように咥えた串を上下に振りながら手を伸ばした。
「ひょーし、くぉのニャンくぉう……あはらしいえさらぞぉ」
猫は寧に気が付くと、尻を持ち上げて威嚇の姿勢をとるが、寧は気にせず串をプラプラさせた。すると猫はそれにつられたように、寧の串めがけて飛び込んできた。
「はにィ!?」
驚きの声を上げる寧の太腿が締め付けられた。万力のような力に締め付けられ、孝明の首の根元が悲鳴を上げる。
「寧! タップタップ! 落ち着け!」
孝明は出来るだけ寧を揺らさないように耐えていたが、締め付けは強くなり、息が詰まっていく。一方の寧は胸元で暴れる猫を抑え込もうとして、手を遮二無二振り回し全身をくねらせた。やがて寧を支えきれなくなった孝明は、ぐらりと大きくバランスを崩した。
孝明たちが倒れる音に、今則の悲鳴が重なった。
寧は地べたに大の字になって横たわり、青い空をぼうっと見上げると低く唸った。
「一体……私は何をしているんだろうな……」
彼女は制服の上に落ちた串を摘み上げると、豪快にかぶりついた。
「そうでもないけどな……やることがあるだけマシさ」
孝明は転倒する際抱え込んだ猫の首根っこを摘み上げて、寧に無事を知らせるために掲げて見せる。
「みぃぃぃぃこぉぉぉぉぉおおおお!」
すかさず今則が孝明の手から猫を奪い去り、控えていた化学者と共に撤収していった。寧は見守っていた美由紀の差し出した手拭いを受けとり、制服についたタレを拭った。そして生徒手帳を開くと、先ほどの一件のところに完了の判を押す。本来なら依頼者が押すものだが、寧はあの白衣を追いかける気にはなれなかった。多分追いかけたら追いかけたで、明日の新聞に悪い意味で載る自信が寧にはあった。
寧は気だるげに次の項目に目をやる。そして気の抜けた息を吐いて脱力した。
「次……また迷子か! 私は今日島に来たばっかりだぞ!」
『衣吹ちゃんの嫌がらせだねぇ~』
職務注釈欄に明日花の書き込みを見つけて、寧は辟易したように言葉を失う。
「俺が行ってくる。地図の使い方はもう慣れた」
孝明は生徒手帳を開いて現場の位置を確認すると、寧には反対方向の処理を頼んで、自分は現場の方へ走っていった。
現場はE1地区の最北――工場地帯である。ギザギザ屋根の古い工場が立ち並び、それに混じって正方形の新しい工場が分在している。道路にはレールが敷かれていて、それは関係のある工場同士を繋げていた。
工場は入学式の日は休業中。その上関係者全員が入学生の応接に当たっているので、工場区は静けさに満ちていた。その中でポツンと、取り残されたように佇む人影があった。彼女は不安そうに四方八方を落ち着きなく見渡して助けを待っているようだ。そして孝明の姿を目に止めると、少し不安げな声を上げた。
「あ……あれ? 保安委員会じゃないんですか?」
女子生徒は期待外れの助けに不安を煽られたのか、新品のパリッとしたオレンジ色の制服の裾を、落ち着きなく引っ張っていた。ちなみにオレンジ色は無所属を意味している。
女子生徒はミドルヘアを三つ編みにした活発そうな娘だった。人懐っこい眼に、柔和な笑み。誰にでも好かれそうだ。胸のプレートには一年:無所属 氷室雹香とある。
孝明は胸の自治会のプレートを強調するように指でさしながら彼女に近寄ると、生徒手帳を開いた。
「ああ、自治会。でも君をちゃんと案内することは出来るぞ。まず生徒手帳のマップの見方を教えよう。それが分かればもう迷わなくて済む」
雹香は孝明が見せてくれる生徒手帳を覗き込みながら、自分もそれに倣ってマップを開いた。マップには現在地が表示され、孝明が目的地のアイコンを工場区から出口にドロップすると、そこまでのルートが点線で表示された。
「わぁ、便利ですね」
「生徒手帳にはICタグがついていて、それが島中にある読み取り機と通信しているんだ。自分がどこにいるかちゃんとわかる」
それは同時に、生徒が四六時中学園監視部にすべての活動、居場所を監視されているということになる。さらには、このICタグには個人情報が記録されており、レンタル、給与受け取り、身分証明に使われているので、どこで誰が何をしたのかはもちろん、何にいくら使い、その物品は何処に流れたかすら把握できる。それらは克明に学園監視部にあるホストコンピュータに記録されることになっている。発行は2004年。成功協定の一つで学園に盛り込まれたものだ。
「どうしてこんなところにいたんだ?」
二人で並び、出口に向かって歩きながら、孝明は雹香に質問した。すると雹香は困ったような顔をして孝明を見上げた。
「一年生の部活見学ツアーに行ってたんですよぉ~。工業部関連が簡単な職業説明をするって……私そこでアクセサリーを落としちゃって、取りに戻ったらはぐれちゃったんです」
「それは大変だったな……ちょっと待ってくれ――ああ、重工部の説明会か?」
孝明が生徒手帳で広報の欄を見ると、掲示板にそのような書き込みがあった。
「はい! それです!」
雹香が嬉しそうに笑う。
「だったらまだ間に合うな……急ごう」
孝明は彼女を先導し、工場地帯から出た。そして工場区付近の製作所から、三年生と思しき学生が熱弁を振るっているのを見つけると、彼女の背を押した。
「ほら、頑張れよ」
「ありがとうございます!」
彼女はにこりと笑い、腰を大きく曲げて屈伸のようなお辞儀をする。そして孝明が見送る中夕日の赤に溶けていった。
こうして初日の日が暮れた。