完全無欠のツァラトゥストラ
寧は孝明の部屋の前で立ち尽くしていた。
怖くて中に入ることはできない。でも孝明が部屋を出ようとすれば鉢合わせる事になる。その時どうするべきかは頭の中ではまとまっていない。
「何してんだ?」
廊下を通りかかった述が、寧を睨み上げる。手には数枚の資料と、サンプルの水を持っている。寧は述の責めるような視線に耐えられず、誤魔化すように孝明の部屋の扉を見た。
そこは戸板一枚でしか隔たれていなかったが、天地ほどの隔たりがあった。
「お前も見ただろ。孝明を」
寧の不躾な言葉に、述が手に持つものを全て廊下に叩き付けた。
「馬鹿! だから何だってんだ。それが超人の業だろ。超人の責だろ。寧も特別な子ならわかるだろ。僕達は人間の英知で出来ている。だがそれ自体が問題じゃない。問題があるとすればそれをどう使うかだ。孝明は……あんなことする馬鹿じゃない! 何かあったんだ!」
「述。私はただの女。軍人教育を拒否られる程度のガキだ。分からない。分からないよ。私はお前の言う通り、馬鹿な雌ゴリラだ」
寧が自嘲気味に笑う。
述は寧の言葉に虚を突かれたように驚いた。しばらく信じられないように、視線を彷徨わせていたが、やがて寧を押しのけてドアノブに手を伸ばした。
「次自分で自分を馬鹿にしたら、僕直々に雌ゴリラからチンパンジーに改造してやる。絶対に言うな! 話しに行くんなら、僕が行くぞ」
寧は慌てて述の首根っこを掴み引き留めた。
「お前はここにいろ! 私には……手を出さんそうだから……」
「そんな言い方よせよ!」
「それは謝る! だがここは私に任せてくれ! 頼むよ……頼むから……」
寧は述の両肩に手をかけて、しなだれかかる。述は強気に攻めようとしたが、寧が俯いて涙目になっているのを隠しているのを悟り、溜息を吐くだけに終わった。
「せめて連れて行け」
述は寧の胸元にピンマイクを差す。そして廊下に散らばった資料とサンプルを拾い上げると、自治会長室に行かず、倉庫への道を戻っていった。
「寧。寧が常人のバカヤローだとしても、寧は僕を助けてくれた。それ、自慢に思えよ」
述はそう言い残した。
寧は意を決してドアノブを引いた。中は電気が灯っておらず、寧がドアを開けたことで、廊下の光が室内に溶け込むことで僅かに照らされる。酷くこざっぱりとした部屋で、無駄なものは何もない。孝明はベッドに腰掛けていた。腰から上だけがまだ闇の中にあり、瞳だけが鈍い光を放ち、寧をじっと見つめている。
寧はまず何を言うべきか迷った。
言いたい事はたくさんあった。だがそれは今いうべき事ではなかった。寧は数秒悩んだ後、しこりとなっていた物事を解きほぐすことに決めた。
「その……謝りたいことがある」
「いいよ別に」
孝明はどうでも良さそうだった。頭の中ではガルガンチュアをどう捕まえるかの算段をしているのだろう。寧は確信していた。それはエグゼライトによる一方的なものになると。
寧は必死になって言葉を紡いだ。
「粛正委員として……身の丈に合わない……その……お前独りに無理をさせてしまった。苦も無く成すべきことを成した訳でもない。それなのに見合わぬ玩具に浮かれて、その……友人の苦悩や苦難に気付かぬまま勝手を……」
寧はそこで言葉を切った。これで救われるのは自分だけだ。孝明は何一つ救われない。寧は一気に核心に踏み込むことにした。
「何が……あった? 私に、その苦しみを分かつことができるか……」
一瞬だが、孝明は嘲笑するように息を吐くのを寧は聞いた。貴様に何ができる。その吐息はそのような音を立てて寧の耳に届いた。
「寧。俺は君にたくさんの嘘をついている。優しい嘘も。汚い嘘も。たくさんたくさん。俺が見せかけの俺を創るための、嘘をたくさん。その嘘をこれから話すよ。だから、君も嘘をつかないでくれ。ちゃんと俺を怖がってくれ」
孝明はベッドから立ち上がり、光の当たるところまで進む。
「俺はNETRAの出身だ。勉強なんてしていない。ずっと悠里島で過ごし、この作戦を待っていた。岸部は俺に選択肢を与えないため、急にこの話を振ってきたが、願ったり叶ったりだった。その道しか俺にはなかったから。俺は超人だ。超人たるために超人教育を受けた。だから超人として生きることしか出来ない。寧……見てくれ」
孝明は制服に手をかけると、ゆっくりと肌蹴ていった。
「俺の体には……人の悪意が詰まっている」
孝明はよく見えるように両手を広げて見せた。
腕には薬物注入の注射跡があり、生々しく紫色に変色している。手首にはリストカットの傷痕が幾つか走り、右の上腕には肉を毟られたかのような痕跡があった。右の胸には獣の爪が溝を作り、左腕はなぜか薄緑に変色している。そして孝明は口から作り物の奥歯を八つも吐き出し、傷跡に偽装した糸鋸や、身体に埋め込まれたカプセルを次々に取り出した。
「ヤク中なんだ。母さんが悪い奴らに捕まった時、俺も一緒に注射されたんだ。連中は母さんが壊れる様を俺に見せつけた。一番のトラウマだ。だからあらゆる薬を父さんに打たれて快楽に対する免疫や対抗意識を植え付けられた。命の大切さとか、それを維持するために怠惰してはいけないとかも繰り返し教えられた。手首を切られて、どくどく血が溢れるのを失神するまで見せられたり、飼っていた鶏を屠殺させられたりしたんだ。いきなり殴られたこともある。俺が抵抗するまで。暴力にはそうやって身を守る他ないって教えてくれた。詐欺については痛くなかったから楽だったかな。でも……俺は身一つで街を一か月彷徨うことになった。ペットにされたこともある……はは、人の尊厳を教えられた時だ。皿で飯を食い、オモチャのように使われたな。戦場にも行ったことがある。人がボロ屑みたいに死んでいくんだ。そこで人が死んだら肉になること。人が肉になる瞬間は殺そうと思った時だって叩き込まれた。いつ俺を肉にしようと誰が来るか分からないから――この辺にしておこう」
寧の奥歯が鳴る音、彼女の眦を濡らす滴に気付き、孝明は言葉を切って話を締めくくりに持っていった。
「父さんは何より、お前にそんなことをした奴を絶対に許すなって……でも……父さんだぜ……俺の……父さんなんだぜ。俺を一生懸命愛してくれたんだ……俺を……教育が終わると父さんは、独り部屋に籠った。そこでむせび泣くんだ! 母さんの名前を呼びながら! どうしていいか分からない! 助けてくれって! 助けてくれって! やり残したことはたくさんあるけど、俺ももう長くないって! 戸板一枚隔てただけでも、そこは天地ほどの隔たりがあって! 俺はそこに行けなかった! 父さんもこっちにこれなかった! 俺は……俺たちは超人だから!」
孝明は制服を再び着る。
「その苦しみを背負ってやるなんて傲慢……口にできないから……もう超人として、自分が強くなるほかないから」
孝明が嘲笑するのも頷ける。寧は彼が全てを吐き出すまでに押しつぶされてしまったから。
(こんな人間がいるのか……)
もう、寧にとっても彼は超人だった。それだけの体験をして、『ここ』に理性を保ったまま立っていられる彼は、間違いなく人を超越していると思ったから。それ以外の不純物を一切持たない彼は、超人以外の何物でもないから。
「この島に来たのは父さんになるためさ。俺は空っぽだから……自分で価値なんか作れないから。目標が欲しかった。俺にも許された道が――生き方を歩みたかった」
孝明はそこで息を大きく吸い込んだ。
「父さんは俺が殺した」
「自殺……だろ……」
「嘘だ」
孝明はきっぱり言った。だがそのあとの言葉は、自分の体を切り刻み記憶を穿り出そうとやけになった様に、強い調子だが途切れ途切れの言葉を出した。
「十二歳の時、父さんがいきなり血を吹いて……がくがく震えて……助けてと言った。だけど……もう助からないって……いや、助けることは出来る……殺せば……超人になりかけてた俺には分かった。後はじわじわと死を待つだけだって。ドアが……ドンドン……奴らが来たんだ……特報だよ……監視されていたから。父さんもそれを分かって言ったんだろう……首の骨をへし折って……殺した。認めたくないけど……生きているかもしれないって自分を騙してきたけど……殺した。死体は……大人たちが持って行って……俺は逃げた。特報と、旧帝國と、叢雲と戦った。それしかなかった。その時俺は……超人認定された」
寧はそこではっと顔を上げた。寧が軍人教育の受講を申請した時にあった、女の話を思い出したのだ。寧の恐怖がより強くなる。孝明がどんどん異質なものに思えてくる。当の孝明は寧が自分を恐れるのに、逆に安心しているようだった。
「その後、俺はNETRAに拘束された。そこには全てがあった。科学、化学、哲学、数学、美学、法学、倫理学、文学全てを修めることができた。だけど……俺は何をすればいいのかわからない。俺は何処にも行けない。あらゆる悪を経験した俺は、それらの場所を汚してしまう。俺は誰とも付き合えない。あらゆる悪を経験した俺を、皆は恐れ憎み嫌悪すべきなんだ。俺は帰ることすらできない。父さんも、母さんも、もういないんだ! 俺が悪と戦うほかに何がある! それ以外に俺の悪をどう使えっていうんだ!」
孝明が心の闇をぶちまけるように次第に声を荒げていく。
「俺の中には悪しか詰まっていない! その悪でさえ取り除いたら何も残りはしないんだ! どぎつい嘘、人の傀儡化、殺さない痛み! 知ってるし使えるよ! だけど――それじゃ普通に生きられないんだ。俺は……何もできないんだ」
孝明は拳で壁を殴りつけた。孝明は壁を殴りつけた手を、そのまま壁を伝わせてだらしなく下げていった。全てを吐き出し終えて満足そうで、もう寧の事を赤の他人を見るような目で見ていた。




