1.現着
理性を失くしたものが狂人になるのではない。
理性以外全て失くしたものが狂人になるのである。
ギルバート・チェイス・テスタートン
『新入生のみなさん。成功学園へようこそ。ここで青春を謳歌し、勉学に勤しみ、その過程で自らの可能性を解放しましょう』
灯台に付属するスピーカーが、カモメの鳴く声を切り裂き甲高く吠えた。
灯台の根元では防波堤が港をぐるりと囲み、湾内では今日限り学徒輸送に扱われる客船がゆったりと停泊している。
孝明は例の学生服を身にまとい、同じ制服を着る同期たちの流れに沿って船から降りると、手でひさしを作り、眩しい太陽の輝く蒼天を見上げた。
今日は晴天。空に濁りはない。その灼熱の太陽光に照らされ、成功島の近代的な建築物群がきらめいている。建造物はどれも白を基調としたものだが、区画ごとに看板の色が異なるらしい。ここ一帯は黄色の看板で、奥の漁船が並列する港には青の看板が掲げてあった。
孝明はその煌びやかな情景に見とれながら、他の入学者と共に桟橋を渡って船から降りる。桟橋の終わりには紺色の制服を着た学生が待ち受けていて、入学生が綺麗な列を作るように誘導していた。
成功学園の委員会は、制服で視別できるようになっている。紺色の制服は保安委員。成功学園の治安維持を担う委員会である。桟橋脇には臨時で作られた保安委員会のテントが張ってあり、そこで待機している保安委員たちも、じっと入学生の列に目を光らせていた。
余りじろじろ見ていると不審に思われるので、孝明は保安委員を一瞥だけするに留めると、港の景観の方に改めて視線をやった。
港には倉庫と流通センターがあり、駐車場では島土交通委員会所有の輸送トラックが並んでいる。だが孝明は流通センターの間に、『叢雲建設』の竣工記念碑を見つけると、少しだけ表情を厳しくした。
『新入生のみなさんは、このまま政徒会役員及び保安委員の先導に従い、一年宿舎に向かって下さい』
そのスピーカーからの音声に、孝明はにわかに慌てた。
成功学園は活動の生業化を実現したエキスパート人材育成学校である。ここの学生は一年生で自らの希望進路を模索しながら普通教育に勤しみ、二年で部活や委員会活動として職に手を付けることとなる。三年になると後継を育成し、職業訓練を施しながら自らの技量を高め、卒業船に乗り社会へと旅立つ仕組みだ。
自治会員として配属先が決まっている孝明は、来ているはずの迎えを探して、ひとまず一年宿舎へと向かう列から離れようと人波に抗った。
「こら。列を乱しちゃ駄目じゃないか」
丁度列から出たところで、孝明の腕がグイと引かれた。孝明は反射的にそれを振り払ってしまう。内心しまったと後悔の念を抱きながら、腕を引っ張られた方を見ると、そこでは一人の女生徒が、少し不快感を露わにしながら無線で応援を呼んでいるところだった。
彼女は他の生徒と違い、肩に青いラインの入った白い制服を身に着けている。白の制服は委員長クラス。政徒会構成員だ。胸のプレートには学年と所属が記されていて、それによると彼女の名は『3年:三上衣吹』。所属は『保安委員会:委員長』だった。
遠くから複数人の足音が、速足で近寄ってくる。孝明は急いで笑顔を取り繕うと、丁寧な口調で言った。
「すみません。実は今回新設されることになった自治会への加入が決まっているんです。ですから、どこに行けばいいのか教えてくれませんか」
孝明の言葉を聞いて、衣吹は口の端を歪ませて微かに笑う。
「じちかいィ? 聞いていないぞ。保安権限を執行する。生徒手帳を出せ」
「え……どういうことですか? ちゃんと説明してください」
孝明は必死で弁明するが衣吹は聞く耳を持たず。慣れた手つきで孝明が持っているものと同じ生徒手帳を取り出すと、表紙を開いてタッチパネルディスプレイに指を走らせた。
成功の生徒手帳は特殊で、多機能通信端末となっていて、身分証明はもちろんある程度の個人情報が詰まっている。他にも図書のレンタルや給与受け取り、サービスの利用には必須で、これが無いと島内では活動できない。通信機能も備わっており、学内での電話もこれを使っている。
その生徒手帳の情報を開示しろと言うのだから穏やかではない。情報を洗い、データベースで徹底的に調べるつもりだろう。
「いいから生徒手帳を出せ」
衣吹は自分の手帳にコードを繋げ、高圧的に反対側の端子を孝明に突き付けてきた。応援として駆けつけた保安委員が二人、孝明を取り囲む。そして遅れてきた一人が、現場に留まりだした野次馬たちに前進を促した。
「どうした? やましいことがないなら出せるだろ」
衣吹が鼠をいたぶる猫のような笑みを浮かべて、孝明に詰め寄ってくる。出し渋る孝明を応援の保安委員が押さえ込み、衣吹は彼の体をまさぐり始めた。そして懐の中から生徒手帳を取り上げる。
その瞬間――
「ヤッホー!」
唐突に場違いな声が上がった。無駄に明るく、無邪気な声に、その場にいた人間は皆声のした方へ振り向く。衣吹に至っては驚きのあまり生徒手帳から手を離して、尻を叩かれた猫のように身を飛び上がらせながら振り向いた。
「明日花……」
衣吹は声の主を目にして口をいの字にし、嫌悪感を隠そうとせずに呻いた。
孝明の視界に、袖が深く折り曲げられた黒い生徒服が飛び込んできた。彼女は短いボブカットの下に、丸い目をキラキラ輝かせ、口元にはわざとらしい笑みを浮かべている。胸元には『自治会長:橘今日子』のプレートが指してあり、孝明は安堵に相好を崩した。
彼女は、ずかずかと孝明と衣吹の間に割って入ると、二人を引き離してずいっと衣吹に詰め寄った。
「駄目駄目ダメェ! いくら学園監視部が嫌いだからって、成功議会で決定したことなんだから。活動の邪魔しないでよぉ~」
衣吹は先程での高圧的な姿勢は何処へやら、歯切れの悪い返事をしながら後ずさった。
「邪魔なんて……ただ今は一年宿舎に――」
「ほ~、じゃあ衣吹ちゃん無能なんだ~。連絡いったよね? 自治会員は到着次第預かるって。私したもんね? ん~?」
「あんな汚い手書きの――」
無能という言葉に敏感に反応した衣吹は、キッと明日花を睨み返すが、明日花は指先で彼女の胸をどんどんとつつき更に詰め寄った。
「え? じゃあ見たんだ? 見たのに? 見たのに? うぅ~ぅ?」
意地悪い笑みを浮かべながら、煽るように鼻抜け声を出す明日花に、衣吹は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「行け!」
衣吹の大声に孝明を押さえていた保安委員の手が緩む。孝明は保安委員の手をやんわりと振り払うと、明日花に軽く手を上げて挨拶した。明日花はいやらしい笑みのまま右手を上げて、ぶんぶん振りまわしそれに応えると元気な大声を上げた。
「はぁい。私、橘明日香。当自治会の会長にして成功学園のアイドルでぇす!」
「ど、どうも、俺、成海孝明。当自治会の事務員にして成功学園の学生だ」
孝明が明日花のノリに合わせると、彼女は嬉しそうにさっきよりも大きく両腕をぶんぶん振り回す。
「お~っ! 君ノリい~ねぇ! い~ねぇ! 述君って怒鳴りまくるし、すっげぇ気に食わないから~。クソッタレ!」
「述って、賀角述? 自治会の一人の?」
「そ~。一週間前に私とともに現地入りしたの~。もう怒鳴って喚いて大変だったのよ~」
「お前のせいだろうが」
衣吹は頭痛を堪えるように、こめかみに手を当てながらそう吐き捨てた。そして孝明たちから少し離れた場所で、新入生の進行を阻害するようにでき始めた人だかりに向かっていった。
「それでね~それでね~――」
明日花ははしゃぎながら、孝明の両腕を掴み会話を続けようとするが、急に彼女の瞳から色が消えた。呆けたように少しの間ぼうっとしていたが、一瞬で弛緩していた表情が硬く引き締まり、双眸に冷たい光を灯した。
「残念ですが、もう一人を確保しなければならないので急ぎましょう」
先ほどとは打って変わって、彼女は厳粛な雰囲気をまとい、冷気にも似た場を圧倒する威圧感を持っている。あまりの明日花の豹変ぶりに孝明が驚いていると、彼女は強引に孝明の手を引っ張って、衣吹の後を追って人混みの中へ突っ込んでいった。
「説明は後です。この調子だと御手洗寧の方も捕まっています」
とにかく孝明は橘に引かれるまま人混みをかき分けていくと、雑踏の中に埋もれていたある女生徒の声が、次第に大きくなってくるのを聴きとった。
「ええい! 離せと言ってるだろうが! 私は自治会に選ばれてるんだぞ!」
強気で芯のある、凛とした声だ。現場までの距離が半分まで縮まった時、長身である声の主がちらりと見えた。健康そうな褐色の肌。筋肉で引き締まった肉体。猫のような釣り目にきつく閉じられた口元。長いポニーテイルは、ピンとした彼女の背中を川のように流れている。彼女からはここからでも、溢れ出る自信や荒々しい気品を感じ取ることができた。彼女が御手洗寧だろう。
寧の目の前には衣吹がいて、明日花が来る前に事を済ませようとしているのか、早口で何かをまくし立てていた。
「保安権限執行。生徒手帳を改めさせてもらうぞ」
保安委員に数人がかりで押さえつけられた寧は、悔しげに衣吹を睨み付けるも、なす術もなく体をまさぐられ、あっという間に生徒手帳を取り上げられた。
それと同時に孝明たちも現場につく。
「げっ……今日子」
またもや衣吹は橘を見て顔をしかめる。しかし今度のは先程の嫌悪の表情とは違い、蛇に睨まれた蛙そのものだった。彼女は急いで寧の生徒手帳を自分の物に接続し、何らかの情報を吸い出し始めた。明日花――もとい今日子と言い直された女子生徒は、その作業を静観している。諦めたのか、騒ぎを大きくし、自らに累が及ぶのを恐れているのかは、孝明にはわからなかった。ただ情報の吸出しが終わり、衣吹がそのまま寧をどこかへ連れて行こうとすると、そこでようやく衣吹の方に詰め寄っていった。
衣吹は、明確に怯えの色を見せてたじろいだが、今日子は意に介さずそっと耳打ちした。
「私は明日花と違って、貴女の権威を大衆の目の前で打ち砕こうとは思っていません――」
そこから先は孝明にも聞こえなくなる。だが、今日子が話し終えて二人が離れると、衣吹は苦虫を噛み潰したような顔をして、生徒手帳を腰から吊り下げた機器に接続して操作し始めた。
「騒擾。保安執行妨害で罰券だ」
機器から用紙が吐き出され、そこに判を押した後、今日子に手渡される。今日子はそれを無言で受け取った後、まず衣吹に深々と首を垂れて謝罪した。そして周囲の野次馬に腰を折ると、孝明たちにもそれに倣う様に軽く足で小突いた。
「すいません私の管理不足です。お騒がせして大変申し訳ありませんでした」
今日子に合わせて孝明は頭を下げる。寧は表情を厳しくして、鼻で荒い息をついただけだったが、周りの視線に負けて軽く首を垂れた。
周囲の一年生たちはぽかんとしていたが、保安委員たちに促され行進を再開する。一方の孝明たちは、衣吹の先導で一年の列から離されると、倉庫の方に連れられて行った。倉庫の敷地の奥には、港と島内を隔てるフェンスがあり、その非常口から孝明たちは島内へと入れられた。
「これで終わったと思うなよ」
精一杯の虚勢の捨て台詞を残して、衣吹は保安委員と共に一年の警護にもどっていった。
今日子はその後姿をしばらく見送っていたが、すぐに島内の方に視線を戻すと、すたすたと大通りに向かって歩き始めた。
「行きましょうか。もたもたしてると報道部に絡まれます」
今日子は二人を連れて大通りに出ると、生徒手帳を使って何処かに連絡を入れた。すると港の入口で待っていたのか、港の方から一台の車が走ってきて彼らの前で停まる。運転しているのは大人の職員で、彼は乗るように後部座席を親指でさした。
今日子は向かい合う後部座席の運転手側に腰を下ろし、戸惑う二人に対面側へ座るよう促した。そして三人が車に乗ると、ゆっくりと車は動きだし、第一島路と呼ばれる直線道路を、島の中心に向かって走り出した。
今日子は不機嫌そうにきつく口元を結び付ける寧、彼女に配慮してか大人しくして何も言わない孝明を交互に見やった。
「まず、エキスパート教育学園、独立成功学園入学おめでとうございます。本学園で、皆さんには粛正委員会員として活動していただきますが、任務外では自由に活動してもらって構いません。好きに自らの将来を考慮し、お望みの学校教育を受けてもらって結構です。私の名前は橘今日子。三重人格で、昨年NETRAより『偉人認定』を受けています。粛清委員会及びに自治会の指揮及び管理を任されています。よろしく」
今日子はまず孝明に握手を求めた。孝明は少し迷った後、それに応じる。次に寧の方へ握手を求めるが、彼女は厳しい目つきで今日子の手を見ると、親指を後ろの方――成功港へ向けた。
「それはそうと。なんであんな辱め受けねばならんかったのだ? お前は私が安心して身を預けられる力を持っているのか?」
今日子は軽いため息をつくと、差し出した手を下げて膝の上で組んだ。
「今回の自治会は成功議会で――ああ、成功議会とは、学園の教育委員会でもあるNETRAと成功学園の外務委員会間で執り行われる学校運営協議会の事です。成功が国立でも私立でもなく独立たる由縁ですが――成功側から保安委員会、風紀委員会でも取りこぼすような案件を扱うために新設を提案しました。しかしNETRAは自治会の初期構成員にNETRA側が選定した人員を起用することを条件に提示したのです。創設教導員。そして潜入調査員としてね」
彼女は自分の胸にさされた自治会長のプレートを指でピンと弾く。
「私と述は自治会創設作業で入学式より早く入島し、保安とちょっとやりあっていましたが、貴方がたは学迎船枠に押し込められてしまいました。成功学園はこのままうやむやにしてNETRAの影響力を削ごうとしたのでしょう。下手に騒ぐと保安のリストではなく、政徒会のリストに載せられます。あれがあの段階で私ができる精一杯でした」
「そんなに強い自浄作用と、成功に対する帰属意識があるのか」
孝明が驚きの声を上げると、今日子は神妙に頷く。
「ええ。一個の疑似的自治国家。それが成功学園です。国民は子供。政府機関を委員会が、企業を部活動が担っています。仮想敵国はNETRA。肥大化しNETRAでも手を焼いている上に、成功危機の一件で非常に嫌われていますからね」
寧はしばらく納得いかない面持ちで腕を組んでいたが、それをムスッとしたものではあるが、柔らかく変化させると、自分から今日子に向かって手を差し伸べた。
「わかった。よろしく頼む」
ようやく寧と今日子が握手を交わす。今日子は懐からプレートを取り出すと2人に手渡した。それぞれの名前と、所属である『自治会』の名が書かれたそれを、各々は受け取り胸にさした。
「ああ。それから朔夜が一言いいたいそうです」
今日子は一周意識が遠のいたかのように、目線の焦点をぼかした。だがすぐに獣のような雰囲気にぎらつく眼光を放つと、正していた姿勢をだらしないものに変えた。
「あたしが橘朔夜。あんたらの戦闘指導を行う。早速だが寧。あんたの生徒手帳をこっちに寄越すんだ」
「な……何で」
初めて橘の人格変化を目にした寧は瞠目して、少しだけ身を引いた。だが朔夜は構わず彼女の懐をまさぐると生徒手帳を取り上げた。
「衣吹はとんでもない馬鹿だからさ。車から降りたらいいと言うまで黙れ。述が盗聴器を調べている」
丁度のその時、車が止まった。気が付くと、窓から見える景色が、白とカラフルな装飾に囲まれたコンクリートに変わっていた。車は島の中心にある円柱状の巨大な建物の前で停車していて、運転手は「無理だけはするな」とだけ言うと、後部座席のドアを開けた。
三人が降りると、車はそこから少し離れた場所にある門をくぐり、この巨大な建物の中に入っていく。おのずと孝明と寧の視線は車の入った建造物へと移り、滑らかかつ緩やかな曲線を描く巨大な壁を上へ上へと眺め、やがて中央から真っ直ぐに天を刺す電波塔を見上げた。
中央校舎はバームクーヘンのような造りをしていた。三重の円形の建物で構成され、中央部の円柱形の建物から電波塔が真っ直ぐ伸びているのだ。円形構造物のそれぞれは空中通路で連結されていて、透明な通路からはエスカレーターで電波塔に上っていく大人の姿が窺えた。
朔夜は「さっさとしろ」と二人を急かしたが、都会に感心するように呆ける彼らを見て、ふっと肩の力を抜いた。
「ここが成功学園の中枢、中央校舎だ。教室、政徒議会、委員会庁舎、特別駐在成人〔教師、技能教師、スクールカウンセラー、そしてインフラ管理員の総称〕などの施設がここに集中している。さ、とっとと入れや」
朔夜は目の前にある、古びてはいるが頑丈な木造の両開きのドアを開き、2人に入るよう促した。扉の上には真新しい『自治会』のプレートが二人に覚悟を問う様に貼られている。
寧は少し緊張した面持ちで、生唾をこくりと飲んで、室内に足を踏み入れた。孝明は比較的ゆったりした足取りでそれに続く。最後に昨夜が乱暴にドアを閉めると、扉の上に張られたプレートが衝撃で剥がれ落ち、『物置』のプレートが露わになった。