13.超人VS巨人
施設入口にあるトラックの消毒場を抜けて、開け放たれた扉から内部に侵入する。検査場や係留場の奥の方にある、屠畜ラインに吊り下げられた不気味な金属光を放つ装置を彼は一瞥した。このスタンニングボルトで牛を気絶させる。装置真下は水捌けのよい構造になっていて、清掃されてはいたがこびり付いた血の匂いが鼻をついた。エグゼライトは装置から目を離して奥に進んだ。神経破壊用のボルト。失血死した牛を吊り上げるチェーン。内臓を搬出するフック。家畜を縦に真っ二つにする背割り用のノコギリ。そして立ちはだかる冷却保管庫の扉。タグ認証は必要ない。いるのは入る覚悟だけだ。
エグゼライトは覚悟など決めていない。あるのは責務。
場合によってはこの屠殺過程の様に、冷酷で速やかに、ガルガンチュアを大人が食べやすいように『加工』しなければいけないという、超人としての責務だ。エグゼライトは自分の理性を知られるのが怖かった。だから通信を切った。
扉を開ける。漏れる冷気が白い霜となり、溢れ出てくる。同時に黒い影がエグゼライトに覆いかぶさってきた。
ガルガンチュア。
遺物は回収済みのようで、彼女の背中には弁当箱ほどのボックスが取り付けられている。
エグゼライトはガルガンチュアの失神を狙った正中線への攻撃をするりとかわして後退する。ガルガンチュアは以前倉庫で見たものと違う切れのある動きに内心驚愕しているようだったが、すぐに攻撃を再開した。エグゼライトはガルガンチュアの拳を躱しながら、冷静に考えをまとめることにした。
(俺と戦うつもりか……まぁ、俺を仕留めれば晒して終わるし、一番弱いと思っているだろうからな。まず戦闘OSを確かめるか)
ガルガンチュアが右腕を振りかぶって殴りかかる。エグゼライトは黙ってそれを受けた。左頬に拳が叩きつけられたが、軽く首を捻っていなす。間を置かず腹部に膝蹴りが入り、くの字に折れ曲がった彼の顎にすくい上げる痛烈なアッパーが入った。
それらの動作は全て、連続する一連の動作ではなく、独立する個々の動作であった。アクティヴ動作なら、スーツが勝手に一連の動作の流れをプログラムされている。しかしパッシヴ動作は操縦者の動きを補佐する仕組みのため、どうしても動作入力期間という区切りができる。
(やはりパッシヴ機動のみか)
確信を得たエグゼライトは、壁に寄り掛かるように後退し、誘う様に膝を笑わせた。ガルガンチュアはそれを絶好のチャンスととらえて、頭部に対して集中攻撃を始める。左右の拳を交互に振るい、エグゼライトの頭をコンクリートと拳で挟み撃ちにした。強烈な打撃と衝撃にもまれ、スーツ内部の孝明は徐々に周囲の知覚を失くしていく。エグゼライトの脚は徐々に力を失い、少しずつ膝を折って地面に崩れ落ちていった。
そして膝がつきそうになる直前、エグゼライトは両足を跳ね上げ拳を突き上げた。その一撃はガルガンチュアの猛攻を跳ね除けて無理やり行われ、彼女の顎をまともにとらえて一瞬宙に浮かせた。ガルガンチュアは背筋をぴんと伸ばして、膝をがくがくさせると、危うい足取りで逆側の壁まで後ずさった。
強烈な、アクティヴ動作による一撃だった。
孝明はアクティヴ機動で振りあがった拳を引っ込めると、ずいっとガルガンチュアに詰め寄った。
これがスーツの応用戦闘法である。アクティヴ機動ならキー動作を満たすことで、殴られてもスーツが無理やり殴り返す。姿勢を無理やり矯正し、定められた動作を繰り出すのだ。この『スーツ』による殴り合いは、どっちかが根負けするか、操作を誤るまで延々と続き、競り合いに勝った方が一時的な主導権を得る。大抵その頃中身は死んでいるが。スーツにパッシヴ機動しか搭載されていない状態で、アクティヴ機動が搭載された相手と戦うことは、無限コンティニューを持つ相手に、ワンコンティニューで戦いを挑むに等しかった。一度主導権を取られたらアクティブで無理やり切り返すしかないのだから。
ガルガンチュアは壁に背中を預けて空を仰いだ。そしてこれ以上戦うのは難しいと踏んだのか、足を引きずって逃げようとする。エグゼライトは必死なガルガンチュアを痛ましく見つめると、優しく語りかけた。
「もうやめよう。ガルガンチュア。次はもっと酷い事をすると思う。それはいけない事だ」
ガルガンチュアは歩くのをやめてエグゼライトをじっと見た。
「その……いけない事を……何故私にするの……」
「君がいけない事をしているからだ。暴力には暴力で答えるしかない。じゃないとどちらかが一方的に傷つく。君はこの学園の人間を傷つけようとしている」
ぴくっと。彼女の肩が跳ねた。
「いけない? いけない事……違う……違うよォ! 私悪い子じゃないもん! 良い子だ! 必要な子だもん! 必要な子だもん! 必要な子だもん! 愛されてるもん!」
ガルガンチュアはベルトに手を伸ばした。エグゼライトは彼女がベルトに手をかけた時点で素早く反応した。ベルトに当てた手を即座に蹴り飛ばしたが、そっちは囮だった。
『Injection』
残った腕が背中の方で何かの操作をすると、電子音がして彼女のスーツ内に入っている帯の一つが少し萎んだ。ガルガンチュアは身をふるりと振るわせて、帯の収縮により注入された薬物に酔った。踏みにじられた手の痛みにも気付かないようだった。
Injectionは空圧で着用者に薬物を注入するSEASである。S26に『I』として登録されているが、このような帯状のパッケージは『記録に存在しない』。何故なら機動と共に帯が圧迫され、一度起動すると動く度に薬物が注入されるので危険極まりないのだ。そのため登録されているのはもっと短いパッケージを複数用意するタイプである。薬品は大抵、向精神薬が充填されている。ガルガンチュアのスーツに装填されているのもろくなものではないはずだ。
「お前が悪い奴だ! 死んじゃえ!」
彼女がしっかりした足取りで前に出ると、再び激しい猛攻を開始した。子供の駄々のような無茶苦茶な蹴る、殴るの攻撃だ。エグゼライトは大ぶりなパンチで振り出された腕を薙ぎ払い、彼女の懐に潜り込む。そしてエグゼライトはもう一度アクティヴ機動を行い、今度は強烈なボディーブローを見舞った。その一撃は深く、鐘突きの如くガルガンチュアの腹に突き刺ささり、悶絶は必至だった。しかし彼女は気にせず攻撃を続行してくる。薬剤により痛みが緩和されているのか、興奮状態にあるのかは分からない。神経は削られ、身体は麻痺し、魂は薄れる。しかし彼女は痛みを気にせず暴れまわることが出来る。これで彼女は最悪のアクティヴ機動を獲得したのだ。
エグゼライトは自らもアクティヴ機動で応戦するか戸惑う。だが分かりきっている。先に壊れるのはガルガンチュアだ。
(すべて計算づくで送り込んだな……すべて計算づくで準備したな……すべて計算づくで教育したな)
エグゼライトの中で、複雑な思いが芽生える。
(同じ穴の狢か)
ガルガンチュアの放った蹴りを、エグゼライトはアクティヴ機動の蹴りで打ち払った。ガルガンチュアは大きくたたらを踏み、絶好の隙ができるが取り押さえることは出来ない。装備者に戦意がある限り、例え肉が裂け、骨が砕けようがスーツが動く。
エグゼライトは仕方ないとは思わなかった。やるべきだと思った。
(俺は超人。俺の責務)
エグゼライトは、懲りずに向かってくるガルガンチュアのパンチを真正面から受け止める。とった腕を絡めて、逆間接を取り壁に叩き付けると、ガルガンチュアは壁にはねてエグゼライトに背中を向けたまま棒立ちになった。エグゼライトは隙だらけの彼女を戦意が無くなるまで滅多打ちにしようと、腰を落として姿勢を整えた。
その時、ペンライトの光が二人を照らした。反射的にエグゼライトはガルガンチュアの首筋に手刀を叩きこみ、ペンライト持つものに飛び掛かった。
(しまった!)
エグゼライトは反射的に行動した自分を呪う。スーツと薬物で強化されたガルガンチュアは当然それで倒れなかった。エグゼライトを見限り内臓処理場へと姿を消す。ワンテンポ遅れて、ペンライトの持ち主が反応した。だが、すでにエグゼライトは相手の懐に潜り込んでいた。
「貴様何者――」
(右耳の上! 約2・5センチ!)
エグゼライトは親指の根元を尖らせてその男の側頭部を一撃する。くるんと男が白目を剥いて前向きに倒れる。エグゼライトは彼を抱きとめると、前のりに倒れさせ一度頭をコンクリートに叩き付けた。そして彼の靴紐をほどき、さも躓いて倒れたように細工をした。
「ごめんよ。本当にごめん」
詫びを入れた後、エグゼライトはすぐにガルガンチュアの後を追った。エグゼライトが侵入した入り口の方から物音がする。すぐに現場に赴いたが、その頃に彼女は屋根に飛び乗り、すぐ近くのE4地区――山林地帯に疾走し始めた。エグゼライトは工場脇の柵を蹴ってガルガンチュアに並走すると、遮るように横から屋根に飛び移る。
そして戦闘の構えをとった。肘を胸から30度に折り曲げた中途半端な構えだ。それをアクティヴ動作の起点にすると、脇をすり抜けようとするガルガンチュアに攻撃を仕掛けようとした。
『No-Data』
「なっ!?」
エグゼライトの挙動が一瞬止まる。それはアクティブ機動が実行されなかったからだった。エグゼライトが硬直する間、ガルガンチュアは脱兎のごとく走り去り跳躍すると、E4地区の森の中に消えていった。エグゼライトはエラーによる硬直が終わるのを待つと、すぐに追撃を試みたが、今度はHMDにメッセージが流れた。
『Error Please install-Last will and testament message of Narumi』
HMDの中央に最重要メッセージとしてそのような表示がされる。
「遺言データ……? と……父さんの? そんなものがあるのか」
エグゼライトの動きが完全に止まる。次いで彼のHMDの右上に、情報が警告と共に表示されたからだった。
『Project-Zarathustra No.19 『Ultimate Goodman』 map data-on -YU-RI PRISON-』
それは孝明が一度訪れた悠里島の成功管理施設――NETRA学園監視部の地図だった。
「これは悠里島の地図か……何故? 悠里監獄? どういうことだ……?」
戸惑う間にガルガンチュアの足音と葉の擦れる音が消えてしまう。エグゼライトは追跡を断念すると、ひとまず屋根から降りて、倉庫から離れた路地に身を隠し、HMDの地図をじっくりと見た。
「悠里島のNETRA学園監視部の地図か。地下構造は避難所と地盤強化の鉄骨のはずだが……」
地図には子細な内部情報が記されており、悠里島エアポートのタグ応答を待っているようだった。だが、タグの認証が無いまましばらくすると警告が消えた。
『Data Encryption-Log delete』
HMDの右端でその情報が明滅して消えると、孝明は変装を解いて深いため息をついた。そして妙な脱力感に頭を抱えると、壁にしなだれかかった。
「父さんが? 俺に遺言……NETRAに捕まっているのか……? でも確かにあの時俺は……死んでいるのか? 生きているのか? 俺にどうしろと……まさか!」
孝明は胸から下げたカードキーを取り出した。古びたカードキーで、印刷された文字の羅列は劣化により虫食いになり、証明写真のところは綺麗に、そして丁寧に、かつ神経質なまで削られている。なのに、カードキーの磁気テープのところは真新しいままだ。孝明が爪で磁気テープを軽くこすってみると、保護テープがめくれ上がる。孝明は確信を胸に保護テープを貼り直し、隠すようにカードキーを胸元に入れた。
「お……おい? 大丈夫か」
誰かが支えるように孝明の肩を持った。孝明が驚く間もなく、すぐに寧の顔が覗き込んでくる。彼女は息も絶え絶えになりながら、汗で張り付いた前髪を払うと、無事を確認するかのように孝明の体をべたべ触り始めた。
「こっちに出たと聞いて飛んできたんだ。連絡も取れなくて……述が喚いていたぞ。『通信切りやがったあのスカポンタン』ってな」
やがて孝明の体に異常がないことを知ると、両肩に手をかけて、孝明の胸に頭を当てた。
「よかった……無事だったか……話は後で聴く。今はここから離れよう」
寧は孝明の腕を強く引いた。
「ごめん……取り逃がした」
「何を言っている? 戦闘は私の領分だろ。今日のは今日子のミスだ」
孝明はまるで孝明は母親に連れられるように道路側へと寧に引っ張られる。
「待て!」
現場から立ち去ろうとする二人に、剣の様に鋭い声が斬りかかった。孝明と寧が声の主を見ると、衣吹が歯をむき出しにしてこちらを睨んでいた。寧同様汗だくで、息も荒い。彼女は銀色の肌にフィットするスーツを着込んでおり、そで下に仕込まれたノズルを構えて、筒先をこちらに向けていた。
「ここで何をしている」
ドスの利いた声で衣吹は詰め寄り、油断なく右手を上げるとそれに呼応して数名の保安委員が翼状に展開し孝明と寧を取り囲んだ。
「お前がE2地区にいたのは知っている。それが急に駆けだしたから追ってきたんだ。もう一度聞く。ここで何をしている」
寧は衣吹を睨み返して押し黙る。それを見て気分よさそうに衣吹は笑った。
「まあいい。タグログを洗えばわかることだ。連行する」
衣吹は寧の服を掴み、そのままコンクリートの壁まで突き飛ばした。
すっと、孝明の瞳から感情の色が消えて、彼は幽鬼のように動いた。寧は何がどうなったのか、全く分からなかった。
「ぐがっ……」
悲鳴は一瞬だった。それはすぐに苦悶のうめきとなる。瞼が目を潤す刹那の瞬間に、孝明は衣吹を後ろ手に抑えると彼女を盾に取り他の保安委員たちと向き合っていた。
「こいつらを拘束しろ!」
衣吹が苦し紛れに吼えるが、孝明はそれをまるで命乞いのようにせせら笑った。
「罪状は……?」
孝明が衣吹の耳元でささやく。
寧に緊張が走る。まるで金属の刃を首筋に押し当てられたかのようにぞくりと鳥肌が立った。孝明がまるで品定めをするように、じっと衣吹を見つめている。最初、寧は彼を別人だと思った。それは寧の知る孝明とあまりにもかけ離れて、威圧的で、強迫的で、権威的だった。寧はその自信の根拠を――要するに孝明がそこまで攻撃的になれる立脚点を無意識のうちに探っていたが、それは今まで過ごしてきた中に見ることは出来なかった。
衣吹も気圧され、焦りと不安に喉を詰まらせていたが、遠方より保険委員と警備部のサイレンが聞こえてくると、強気になって言った。
「保安執行妨害、保安侮辱、暴行! 後は自分の胸に聞いてみるんだな!」
「そうか」
孝明は誰にも聞こえないほどかすれた声で(ならもう見込みはないな)とつぶやくと、押さえつけた衣吹の背中のある部分を押そうとして――
「よし。それまで!」
大声が剣呑な雰囲気を吹き飛ばす。
現場に速足で一人の男子生徒が割り込んでくる。彼は政徒会関係の白の制服を着ていて、目の高さでザンバラにされた短髪からは芯の強い目が覗いていた。中肉中背の体は健康的に引き締まり、挙動には一切の無駄が無く、見惚れるほど洗練されていた。
岸部から何度も写真を見せられたので、孝明にも寧にも彼が誰かはすぐにわかった。
要注意人物。超人:間優秀。
優秀は保安委員をひとまず下がらせると、衣吹を孝明から引きはがした。孝明は押さえつけていた腕をあっさりと離す。
孝明の手から逃れた衣吹は、早速彼に掴みかかろうとしたが、今度は優秀に腕を掴まれて止まらざるを得なくなった。衣吹は状況が呑み込めず、混乱しながら優秀を振り返るが、優秀の責めるような冷たい瞳に気圧されてようやく大人しくなった。
「衣吹。自治会は私が呼んだ。君がE5地区に専念できるようにね。で……いい知らせを伝えに来たのか」
優秀が言った。
孝明は慌てて寧の横腹を強めに突いて、不審げな表情をさせた。優秀が問いただしている衣吹の方に顔を向けながら、視線は孝明と寧を品定めをするように見ていたからだ。さっきの寧のように「ザマァ見ろ」と顔で語っていたら嵌められる。衣吹はそれにも気付かないほど、緊張し首を横に振ると、蚊が鳴くように言った。
「今当直の生徒を事情聴取中です……」
「それは何より、で? 君はここで何をしている?」
優秀は語気を強めて言う。
「え? その……それは……今すぐ聴取に戻ります……」
「程々にな。君は違反者よりも世論に気を配ったほうがいい」
優秀は納得いかないように退散する衣吹たちを見送った後、再び孝明たちに向き直った。
「数分前、ここ担当の警備部員の連絡が途絶えた。それで自治会に支援を要請したのだが、流石仕事が速いな」
寧が慌てて生徒手帳を確認すると、メールが一件入っている。内容には確かに優秀の言った案件が登録されていた。
「衣吹の事は気を悪くしないでくれ。少し気張っているだけなんだ。む? 御手洗。怪我をしているようだ。保健委員を呼ぼう」
優秀は寧の肘に、血が滲んでいるのを見つけると、生徒手帳の無線機能で近場の保健委員を呼んだようだ。寧が大したことはないと首を振ったが、すぐに白と赤の制服の生徒が駆けつけてくる。彼女はまず寧の傷を確認し、急を要するものでないことを確認してから、優秀を親の敵のように睨み付けた。そして制服の背中についている、コットンの羽飾りを引きちぎるように引っ張った。
「会長……この羽の制服化は――」
「選挙の公約にあったんだ。う~む、正に白衣の天使、ビューティフルだ」
「だからってアンタ頭おかしいんじゃないの!? 邪魔でしょうがないし、キモい目で見られるのよ!」
「胸の谷間に十字型のメッシュを取り付ける案もあったんだぞ。それを退けるので精いっぱいだったんだ」
「それアンタの発案でしょーが!」
優秀はしばらく黙り込んだ。そして目をそらして、寧を保険委員の前に連れ出した。
「傷が残ったら大変だ。早く治療を。乙女の柔肌だから気を付けてな」
保健委員は一瞬悔しそうに、羽の一部を毟り取ったが、すぐに寧を救急車へ連れていく。残った優秀は心配する孝明の肩を抱いて下がらせると、彼に顔を寄せた。
「怒るのは分かる。だがそれはやり過ぎだ。それとも貴様は女の悲鳴が好きな変態なのか?」
顔は直接見えなかったが、怒気が空気を震わし伝わって来る。孝明は恥じるように俯くと、優秀はあっさりとその敵意を下げた。
「ほう、恥てるのか? 根が悪人という訳ではなさそうだな。結構。今日子に約束は守ったと言ってくれ。今日はあの子を連れて帰れ。明日の昼一時、E7地区の開発予定区に来い。建設中のホテル前で待っている。互いのためにもすっぽかさん事だ」
それだけ言い残して、優秀は警備部の方に向かった。
時同じくして、寧が逃げるように救急車から出てくる。彼女は肘に貼られた絆創膏を引きはがしながら孝明のところに走ってきたが、すぐに保健委員に後ろから襲われた。
「天誅! 怪我したままで帰れると思ってんの!?」
保険委員が寧の頭にさすまたを振り下ろし、救急車の中に引きずり込む。しばらくして再び寧が逃げるように救急車から出てくる。今度は肘の絆創膏の他にも、頭に包帯が増えていた。寧は孝明の方に走りながら救急車の方に中指を突き立てた。
「怪我が増えたじゃないかこのヤブ医者!」
すると先ほどの保険委員が車両後部に仁王立ちになり、挑発的な笑みを浮かべた。
「馬鹿ねぇ。痛みこそが至高の傷薬。人は痛みを知って、二度と味わうまいと必死に怪我を避けるようになるの。保健は怪我を治すんじゃない。怪我をさせないものよ! 覚えてきなさい。私の名前は三年――え? もう車出すから座れって? ちょっと待ってよ、まだ名乗ってないの! 私の名は――」
そこから先はサイレンの音と、タイヤが地面にこすれる音にかき消され、謎の保険委員が悲鳴を上げて、救急車の床に倒れるのが辛うじて寧には見えた。
寧は救急車が完全に消えるのを待って頭の包帯を取り除くと、俯いたままの孝明に声をかけた。孝明はそれには答えず首を振って両の手を強く握りしめた。
「俺は……最低だ」
「な……何を言っている。助けてくれただろ。それとも警備部の事か? いずれにしろまずは戻ろう。さ、行くぞ」
寧がもう一度孝明の手を引いて自治会へと向かう。孝明は彼女の歩調に合わせて走る。
それだけで、孝明は幸せだった。




