12.襲撃
その日の夜。日付が明日に変わる時分に、寧は孝明を連れ立って会長室の戸を叩いた。
気だるげな「どうぞ」の声に室内に入ると、今日子はデスクでパソコンに向かい、必死に何かをキータイプをしていた。
彼女の右側の壁には自治日報の草案や、自治会の案件、何かのリストがびっしり貼ってある。それらは整理整頓され、見やすく綺麗に張られている。しかし奥に張られているものは、流麗で均等な文字で綴られているのに対し、手前の新しいものになると醜い走り書きになっていた。寧はその壁の紙に一瞬気を取られたが、すぐ今日子のデスクに手をつくと声を張った。
「今日は捜索に行かんのか? 汚名を挽回したい」
「……それだと名誉返上になるぞ」
孝明の冷静な声に、寧は彼を真顔で振り返る。そして白けた顔をする今日子に再び向き直って胸を張った。
「今日は捜索に行かんのか? 名誉を返上したい」
寧はどうだと孝明を再び振り返ったが、孝明は頭を抱えて俯いた。
「いや……もういい」
「全く……」
今日子はそのやり取りを聴きながら、うっすらと充血した目を擦った。彼女は生物兵器の報告を受けてから落ち着かないようだが、それに自治会の激務という追い打ちがかかっていた。
「随分と仕事が増えたな……やはり何かあったのか?」
孝明が壁に貼られているメモを一瞥する。昨日と比べて格段に増えたメモは、今日大きな動きがあったことを暗に示していた。
「例の不審者騒ぎで衣吹がムダに張り切っているんですよ。おかげで昨日の今日で、苦情がバンバン来ています。じわじわと保安の悪口のネタが増えていきますね」
今日子は自分を励ますよう声に出してへらへら笑うと、手元の滋養強壮剤を啜った。孝明と述が自治会に戻ったころには、電話のベルが鳴りっぱなしで今日子は目を回していたのだ。それも受付終了の八時には治まったが、今日子は今もその処理に追われていた。
「少し手伝おうか……」
「余計なお世話です」
孝明の言葉をきつい口調で一蹴した彼女は、寧を指さしながら続けた。
「こう保安が張り切っていたらしばらく活動は止めといた方が賢明です。しばらくはガルガンチュアも控えるでしょう。それに保安がまともな統率がとれていないため、右往左往しています。戦うには好都合ですが、潜入するには鉢合わせる危険が大きくて危険すぎます」
今日子はエンターキーを叩き潰すようにして押し、残念そうに口をすぼめる寧を睨み上げた。
「いつまで突っ立っているんですか。さっさとヘマしないように訓練に勤しんで下さい」
寧は一瞬歯を見せて目を細めたが、すぐに踵を返すと孝明の手を引いて倉庫へと向かった。
「私はな、どうかと思うんだ。チビと言い、出来損ない阿修羅と言い、人を馬鹿にすることしかできんのか」
肩を怒らせながら倉庫の戸を蹴り開ける寧は、倉庫で大型のヘッドセットを耳にパソコンに向かう述へ侮蔑の眼差しを投げかける。
「責任感じてカリカリしているんだろ。下手したら人が死ぬし、それが自分の手にかかっている。気が気じゃないんだ。会長職も忙しいしな。その点寧は落ち着いてるな?」
「私だって命がけだからな。それにここに来るまでに覚悟は決めたさ。お前はどうなんだ孝明? 生物兵器だぞ、セイブツヘイキ」
寧は孝明の手を離し、例のルームランナーを部屋の隅から引っ張り出しながら、からかうように孝明に聞いてきた。孝明は少し考え込むように頭を掻く。
「生物兵器と言っても、色々あるから。温度調整が難しいし、菌が生きているかどうかも怪しい。それに目的が未だに判然としない。述は明日花と話し合ったんだが……どうも明日花の方が述に喧嘩腰で、上手く話し合えたか分からん。どうなんだ述?」
孝明が述に声をかけるが、ヘッドセットで何かを真剣に聞き入っているらしい。述は二人が倉庫に入ってきたことにすら気付いていないようだった。
「何を聞いてるんだ?」
孝明が述の肩を叩いて注意を促した。述は別段嫌そうな顔をせずに孝明を振り返る。寧が目を丸めてその様子を見ていた。
「馬鹿共の無線だよバーカ。今日子の指示でパトロールの状態や、ちょっとした小ネタを拾っている。委員の上の方は拾われるのを嫌って会談か、俺らの様に暗号化したり独特のプロトコルを用いたりするけど、馬鹿のスキャンダルがたまに拾える。この情報の時代で笑えるだろ。んで、これが無線から割り出したパトロールルート」
述は言うとパソコンを操作してマップを読みだし、嬉しそうに孝明に見せた。パソコン画面には成功島の地図が表示されており、そこに赤と青と緑、そして黒のラインが走っている。述は手元のメモを参照にしながら、そこに新しいラインを増やしたり、情報をかきこんでいった。
「赤が保安。青が警備部。緑が風紀のパトロールルートだ。黒が僕たちが確保できる地上のルート。付属する時間は使える時間――警備の空白時間だな。でも今の保安は統率がガバガバで赤はあんまり安定していないんだ……それで今粘着している」
「仕事が速いな……」
孝明が言うと、述は「当たり前だ」と孝明の腰をじゃれるように叩く。
「所詮バカが作った暗号だからな。いつの時代でも馬鹿に説法するより、馬鹿の話を聴く方が楽だという事さ……ん……何か騒がしいな……すげぇ喚いている……」
述はヘッドセットに手を当てて呻いた。孝明も寧もその様子を注視している。
「保安が襲われた?」
述は緊張に固い言葉を吐くと、椅子を蹴って立ち上がった。そしてパソコンを抱えると倉庫を出ていった。孝明もすぐに後を追おうとするが、寧が孝明の腕を引いた。彼女は口をあんぐり空けて、信じられないように述の背中を指した。
「どうやって取り込んだんだ?」
「その考え方がすでに間違いだ。述にもそれを分かって欲しい」
孝明はそこまで言うと、口を手で覆って瞼をきつく閉じた。
「悪い。生意気なことを言った。行こう」
二人が会長室に行くと、述がパソコンの画面をペン先で叩きながら今日子と話している最中だった。
「今日子。保安委員が襲われたらしい。場所はE5地区。南西だ」
述が丸印をつけた地図の南東は、近くに漁港と養殖施設のある水産区だ。今日子はわたわたと生徒手帳を取り出すと、捜索対象のリストを確かめた。
「捜査対象の冷凍庫がありますね……恐らく潜入中だったんでしょう。そこには絶対遺物があります――行って取り押さえて下さい! 追って指示します!」
今日子は髪を振り乱して立ち上がると、孝明と寧に言った。
「今日子……今はまずい。さっきお前が言った通り、保安がうろついている。それに警備状況も上手く把握できていないんだろ。鉢合わせたらどうする? 最悪孤立するぞ」
孝明は厳しい表情で今日子を抑えるように肩に手をやったが、今日子はそれを振りほどくと冷徹に言い放った。
「選ばれた人員なら何とか対処して下さい。ガルガンチュアは生物兵器を回収しているに違い有りません。ここで押さえないと、ここで押さえないと大変なことになります!」
今日子は孝明の背中を出口の方へ押すと、両手を打ち鳴らした。余程力が籠っていたのか、手の平が真っ赤になっている。寧が不安と疑念に顔をしかめるが、孝明が彼女の手を引いて会長室の外に連れ出した。
「情報は後から送る。気張れよバカども」
廊下に出た二人に、述がベルトを投げつける。孝明は何処か覚悟した面持ちでさっとベルトをまいたが、寧は未だに気持ちを切り換えることができず、ベルトをまくのに少しだけ手間取った。
「表から出るぞ」
倉庫に向かおうとする寧の肩を引いて、孝明は玄関の方へ変装しないまま向かった。
「どうしてだ? アリバイがなくなるぞ」
「騒ぎで外に出た……というアリバイにしておいた方がいい。もし見つかっても言い訳が立つし、変装を解いて群衆に紛れこむ事もできる。だからログに自治会から出たことを残しておこう」
寧はこくりと頷き、スカートを翻して玄関から外に出る孝明に続いた。
初任務を思い起こさせるような夜の帳。澄み切った空。ただその日と違い、雑踏と雑音が辺りに満ちている。夏の蝉の様に遠くから喧騒が響いていて、そこから明滅する赤のパトランプが物々しさを語っている。自治会の壁沿いには、寝間着姿の学生が何人か寝ぼけ眼を擦りながら、遠くで鳴るサイレンや、明滅する赤のランプに目を細めていた。
E5地区に向かうには中央から放射状に延びる大通りの1つ、南西を走る第4島路を通る必要がある。二人足早に喧噪の方に駆けていったが、第4島路は半ばまで進んだところで、保安委員に封鎖されていた。保安委員はバリケードを背に島路を封鎖しつつ、集まる野次馬に厳しい視線を投げかけている。
風紀委員も現着しており、彼らは交通整理や野次馬の対処をしていた。
「対応が速いな」
寧が感心したように、それでいてやり難そうに複雑な声を出した。
「躍起になっているんだ。今回は身内が襲われてメンツにかかわるから当然か。しっかり準備していたんだな。手際もいいし、封鎖は出来ている。衣吹が委員長になった理由が分かったよ」
いずれにしろこのままでは手の出しようがない。孝明は寧を連れて近場の建物の影に潜むと、変装して無線を飛ばした。
「エグゼハインド。保安はどう動いている?」
『襲撃現場から徐々に包囲網を縮めて、襲撃者を海岸側に追い詰めようとしている。この中に突っ込むとまず見つかるぞ。ほっとけば捕まるが……政徒会が危ないオモチャを持つことになるな。状況を報告してくれ。それから判断を仰ぐ』
エグゼハインドが諦観しながらも呟くと、エグゼライトは淡々と状況を説明した。物陰から窺った保安の様子をじっと眺め、周囲の人の流れや保安の赤いパトランプの位置を子細に伝え始める。
エグゼライトは報告を続けながら、自分も脳内であれこれと推測を立てていた。
正直――自治会員はアテにしていない。寧も、述も、今日子もそんなには……それにアテにしてはいけない。彼らは子供だから、無理をさせてはいけない。先の一戦で分かったことがある。ガルガンチュアは躊躇いなく人を殺す。あの情け容赦ない攻撃、感情を交えぬ判断、そして並ならぬ戦闘の知識。工作員として訓練を受けて、それを生き甲斐とするような教育を施されている。
子供がする相手ではない。自分が何とかしなければならない。
「囮かもしれん」
一抹の不安にエグゼライトが独りごちると、寧がどういうことだと顔を寄せた。
「こんなことで捕まるほど間抜けじゃないはずだ。他を当たった方がいい」
エグゼライトは生徒手帳を開いてマップを映し出す。
「向こうは俺らを鬱陶しく思っている。だからわざわざこんな大事件を起こして、不審者騒ぎを俺らにひっ被せようとしているんだ――エグゼハインド。今空白地帯になっているのは何処だ? 通信濃度で分かるだろ」
『成程……どれどれ……E1地区、E2地区。北側だな。後南端のE7地区も手薄になっている』
「南端はサービス業で、建設は成功危機後だ。という事は北側だな。そこの建造物で冷凍庫を抱えた調査対象は?」
『E1地区。牧場部精肉課の食肉加工センターがそうだ。成功危機中に既に一部機能していた。今、ルートを検索する』
しばらく間が空き、述は続けた。
『ルートは二つある。少し遠回りだが安全な地下道と、早いが幾つかマンホールを経由しないといけないルートだ。到着に前者は二十分。後者は十分ぐらいかかる』
「何でそんなに時間が違う?」
『E1地区は丘陵にのっているから地下水路が別の枠組みなんだ。繋がっているっていっても、むかぁし成功学園の水道を管理していた旧分水舎で無理やり繋げているだけだし。だから大きく迂回しなきゃならないんだよ』
「最初保安が襲われてからもう十五分たっている。ガルガンチュアにはバックアップがいないから、少しでもリスクを下げるために旧分水舎を経由する地下ルートを使い移動するはずだ。向こうにつくまで二十分。遺物探しには五分くらいか。俺たちが追い縋るにはギリギリの時間だ。これ以上時間は使いたくないから地上から追う」
『よし、許可が下りた。だがエグゼブレイドは念のためE5地区に留まってくれ』
「どういうことだ?」という寧の言葉を、エグゼライトはエグゼハインドに伝えた。
『E5地区の方が危険度が高い……そうだ。ブレイドは残れ』
歯切れの悪いエグゼハインドの言葉に、孝明はその真意を悟った。今日子がそう仕向けている。
(決着をつけろという事か)
エグゼハインドからの情報転送。HMDに目標までのルートが三つ表示される。
「**(寧の名前を呼んだため雑音化された)……あ、エグゼブレイド。ここを頼む」
「気をつけろよ」
寧は口ではそう言ったが、引き留めるように手を伸ばした。そして自分でその矛盾に気付くと歯痒そうに口をいの字に広げた。
「俺の分のログを頼む」
寧に生徒手帳を渡してエグゼライトは近場のマンホールの中に滑り込んだ。足が水たまりに波紋を作る。孝明はエグゼハインドが提示してくれたマップをずっと先まで確認すると、まるで獣が駆けるように進んでいった。パイプの走る壁面を滑り、大きく空いた穴に落ちて、錆の浮いた梯子を上る。三度マンホールを出入りした彼は、予定より少し早くエグゼライトは現場の建物の近くに辿り着いた。マンホールを少し持ち上げて辺りを確認すると、四角い灰色の建造物が見える。食肉加工センターだ。
そしてセンターの入り口の戸は開け放たれていた。エグゼライトは警戒してマンホールから這い出ると、エグゼハインドに連絡を入れた。
「現着した。扉が開いているから……いるな。叢雲の建造物だからマスタータグを持っているかも知れない」
『可能性はあるな。分かった。今すぐエグゼブレイドを現場に向かわせる。それまで警戒しろ』
「了解」
しかしエグゼライトは、寧を待たず食肉センターに足を踏み入れた。