9.それぞれの過去
畳を打つ音が空間に反響する。孝明の背中に衝撃。寧の腕に手応え。舞う粉塵、畳の香りが鼻に抜ける。
「何やってんだ……」
朔夜は畳脇の壁に身を預けながら、二人の組手を見守っていたが、一方的にされるがままの孝明を見て額に手をやった。
ここは一般に開放されたトレーニングセンターの一階。入り口を境に片側が板張り、もう片側が畳張りになっていて、奥の壁にはずらりと、多様な武術の装備が納められた『叢雲製』のロッカーが並んでいた。そのロッカーの中で『柔道』のプレートのささっているものの内二つには、孝明と寧の生徒手帳が差し込まれており、中身が解放されている。
それを今二人は身にまとって組み手をしているところだった。寧は孝明を助け起こすと、もう一度と再び向かい合った。孝明が突っ込んでくる。素人丸出しで、右手を取ろうとしているのがバレバレだ。ただ唯一褒められるのは寧の体に密着しようという下心がまったくないところぐらいか。孝明が袖をとろうとするが、足運びと視線から容易に対処ができる。寧はさっと半身になって目的の右腕を隠し、それだけで完全な無防備となった孝明の袖を逆にとった。そのまま背負い投げに持っていく寧は、「あ……」と急に懐かしさに襲われた。
ふと、孝明の姿が幼い頃の自分と重なったのだ。
寧の祖父は達人だった。『超人』ではなかったが、世間一般に言う『達人』だった。道場を構え、門下を有し、教えを請われるほど。軟弱な機械文明に溺れた父や母と違う。彼らは軟弱ゆえに多忙で、寧をよくよく祖父母の家に預けた。祖父母は寛容かつ賢明だったので、高貴ゆえに厳しい自分たちの生活を押し付けず、軟弱な機械文明を寧に与えた。だが寧はそれに反発した。フリルやピンクを跳ね除けて、時代劇や質素な着物にのめりこんでいった。自分を見てくれない両親より、祖父母が家族と言えたから。だから祖父母色に染まった。両親は激怒したが。
両親は『女の子らしく』あるように言った。だがそれは最早『自分らしく』なかった。両親は祖父母に預けたのは間違いだったと言い、寧を祖父母から引きはがした。寧にはそれを許すことが出来ず、親とは反目したままだ。
当然新しい学校では浮き、まともな交友と言えば地元の道場の仲間ぐらい。それが無かったら寧はグレていた自信がある。ちぐはぐな生活に、満足できない毎日。煩悶と生きていたある日――NETRAが来た。
アルゴー計画。潜入捜査。粛正委員。中二病的だが、ひどく魅力的だ。何より、自分が超人認定されれば、祖父が立派だったと、正しかったと証明できる。晴れて春から憧れの超人たちと肩を並べることになったが――賢人は犬も食わないような人間。偉人は取っつきにくく。超人は善人だが、本当に超人なのか疑わしい。すごく変な気分だ。
これが目指していた超人かと。落胆が目に煙をかけた。
寧はそれらを振り切るように腰を跳ねあげ、孝明を背中から畳に叩き付けた。そこで寧はこの真綿を喉に詰まらせたような妙な気分の正体に気付いた。
(私らしくない。超人なるために何かにするのではない。私の精一杯を超人的だと認めさせねば。それが私の道だ)
その為に何をすればいいか、何ができるのか寧はまだわからない――寧自身は軍人になら認定されるのではないかと思っている――が、幸い競争率の高い成功学園に入学することができた。これからだ。
「肩書に溺れていたか……」
寧はそれを自分に言ったつもりだったが、手の中で孝明ばつが悪そうにした。
寧は尻餅をつく孝明をまた助け起こし、向かい合って一礼すると、ふっと姿勢を崩してスポーツドリンクをあおった。
「受け身は上手いようだが、お前も強くなってもらわんと困るぞ。しっかりしろ」
彼女は孝明にドリンクを投げ渡す。孝明は少し戸惑ったが、そのペットボトルに口をつけて、口に少量含むと、馴染ませるように喉に流した。
「はは、参った。寧は強いな」
ペットボトルを寧に投げ返す。寧はタオルで髪の汗を拭いながら胸を張ると、孝明に指を突きつけた。
「当たり前だ。私は柔道初段、合気道二段、祖父から剣術の手ほどきも受けているからな――お前は何を教えてもらった?」
寧が孝明に聞く。その問いかけは高圧的な態度ではなく、真摯なものだった。孝明は畳の脇に腰を下ろし壁に寄り掛かると、タオルで頬を伝う汗を拭った。寧が小首を傾げて孝明の顔を覗き込む。孝明は何処か寂しげな顔をして、真っ白なタオルの表面を焦点のぼけた目で見つめていた。
「さぁ?」
ぼそりとつぶやく。寧は少し表情をむっとさせて、孝明の隣に立つとさっきよりも強い調子で孝明に迫った。
「そんな事はないだろう。何か長所があるだろう? 親に教えられた……得意分野が。何というか……今朝の会議で助けてくれただろ。私一人では何も出来なかった。だから……その長所を生かして……上手く二人でやっていこうと思うんだ」
その時、孝明はタオルで顔を覆った。デスマスクの様にタオルの面に顔を浮かばせて、口をパクパクさせる。寧は孝明の態度に険しい顔をした。
「おい……人がせっかく礼を兼ねて――」
寧が言い切る前に孝明はタオルから顔を離した。その頃には孝明の顔はいつもの柔和なものに戻っていた。
「知らない。子供の頃。自殺したから」
トラウマをほじくり返すような孝明の途切れ途切れの声に、寧は出かけた言葉を生唾と共に飲み込んだ。
「これだけ残っていた」
孝明は柔道着の下に、肌を見せないよう黒のアンダースーツを着ていた。その胸元を軽く肌蹴ると、首から下げた一枚のカードキーを寧に見せた。それはネームプレートを兼ねた青色のカードキーで、『NETRA:悠里学園教育部 超人科教育生 成海宗次』と書かれていた。
一瞬、朔夜の瞳が揺れて、今日子へと変わる。彼女はカードキーを注意深く観察し、唇軽く噛んで思案した。
(古い……成功学園建設前の悠里学園の物。権限はD。メモリは無し。特に有用な情報はなさそうですね。それに特別な物だったら岸部が回収しているはず)
彼女はそう判断すると、二人に気付かれない内に朔夜へと意識を譲り渡し、寧の戦闘分析を行わせることにした。
一方の寧は申し訳なさそうに首にかけたタオルの両端を握って立ち尽くしていたが、孝明はそんな彼女の脚を励ますように軽く叩き、自分のこめかみを指で突いた。
「述程じゃないが、知識はある。寧、さっきの説明でわからない所があったろ」
寧はハッと顔を上げて、こくりと頷く。
「そ……それは……うむ……恥ずかしいことだが」
「恥ずかしいのは分かった振りをすることだと思う。今の寧はカッコいいよ」
孝明は快活に笑った。
「S26は基本的なSEASをアルファベットに割り振ったものだ。寧のメタモルフォシスはM。手の平の探査機器類はS。俺の補助SEAS、クロスレートはXという風にね。危険度や有用性の高いもの。コスパの良いものが名を連ねていて、よっぽど専門性の高いスーツを作らない限り、S26のSEASが採用される。つまり述は高い可能性から洗ったが、該当するものが無かったということだ」
「お……お? おう、成程――良く分からん」
本来なら任に就く前に教えられているはずだが、完全分業で述や今日子に説明を一任していたに違いない。実動員の暴走を防げるが、情報格差でいじめが生じる。述が教えるわけもなく、今日子が口を閉ざせば彼女は情報的に孤立するだろう。
「後でもっと詳しく教えるよ……専門性が高くなると、それだけ脅威が高い上に、推測もしにくく対処も難しい。俺たちで協力しないとな」
孝明は立ち上がると、ロッカーに混じって配置されているタオルの回収ボックスに、汗をたっぷり吸ったタオルを入れて更衣室に向かった。すれ違いざまに寧が浅く首を垂れた。
「悪かった。ヘタレとか言って」
「いや、俺が悪いんだよ。頼りないから心配になったんだろ。実際戦闘ではお荷物になるしな」
「得手不得手を考慮せず、意気高に振る舞った私が悪い。本当にすまん……その……こんなこと初めてで不安でな、自分を見失っていた。強くあろうとしたが、強く見せかけるだけで、迷惑をかけた」
孝明が振り返ると、寧が顔を僅かに赤くして、そっぽを向きながら手を差し出していた。
「そう何度も謝るなよ」
「いや、禍根は残さんようにせんと……これからよろしく頼む」
寧が差し出した手を、孝明は強く握り返した。