38話
「うそだろ。ここまで、やったのに。なんでだよ。なぁ、親父」
三人が立ち尽くしたそこには、腕も脚も使い物にならなくなり、腹に短剣が刺さったままのハウエンの姿があった。周囲には力任せに殴り殺したのか、頭が潰れ、大きな眼窩を陥没させたゴブリンたちの死骸。杖代わりにしていた棍棒もどこかへ行ってしまって、両腕ともに斬りつけられたのか千切れかかっており、脚も片方が折れていた。仰向けに倒れた姿は血と泥にまみれ、顔の片面は剣がかすったのか、肉が落ち、白い骨がのぞいている。
「ヘンリー、か? くっそ、両目とも、げほげほ。やられちまって、見えやしねぇ。レティ、レティアは無事、か?」
荒い息の合間に、ハウエンは振り絞ったかのように声を出した。
「ああ、そうだよ。レティアは無事だ。広場にいるよ。母さんは?」
「わからん。だが、まぁ。お前らが無事で、良かった」
「何いってんだよ親父。まだいけんだろ! 立てよ。なぁ?」
「げほ、げほ。あとの。レティアのことは、頼、む」
「……ああ、任せろって。いくら俺でも、こんな時、まで遅刻は。……いや、したのか、今も」
「がは、ははは。放蕩息子は、遅刻が特権だぁな。まぁ、良かった。本当に、お前が無事で良かった。よかっ、た……」
ハウエンはそこまで言うと、か細く、空気が肺から抜ける音だけを残して、動かなくなった。ヘンリーは、右手で自分の左腕を握り、その場へと膝をついて蹲る。
「おや、じ? くそ、なんでだよ。なんでだよ、ちっくしょう。何もできてねぇ俺は。なぁ、オルフ。俺はどうすれば良かったんだ? ぜんっぜんわからねぇんだ。どうすればいいんだよ」
力なく、自棄になったように叫ぶヘンリーに、オルフはかける言葉を持っていなかった。自分も母の死には悲しんだが、こんな目の前で、自分の力が及ばないということを見せつけられるような、そんな事態に遭遇したことはこれまでない。
ヘンリーの脳裏に、ここまでの道中、いや今日という日に起きた出来事が次々と浮かんでいく。ゴブリンの急襲。街の、妹の危機。勝手に出て迷惑かけて、揚句街を救う力を独占してしまったこと。ロナンのこと。そんなつもりはなかったとはいえ、殺してしまったこと。へまばかりで何も出来てやしない。本当に一歩及ばない、遅刻ばかりの自分。そして、そんな中で自分では到底思いつかないことを考え出し、皆を動かしたオルフのこと。
「お前が、使ってくれねぇか? お前なら、俺よりうまく使ってくれるだろ? 兵器としてでも良いから、使ってくれよ。穢し殺すことくらいは、できるからよぉ」
様々なことがヘンリーの中で渦巻き、絞り出す声は震えている。オルフはそこで、うな垂れたヘンリーの、革鎧とシャツの下、少しだけ見える左肩が、黒く染まってきていることに気が付いた。慌てて隣に立っていたマイに視線を向ける。
「オルフ、まずい。形だけでもいい。ヘンリーの言うように、使ってあげて」
「使うって、どういうこと?」
「そう約束して。このままでは呪いに負ける。心が振り回されないよう、敵だけを安心して殺せるようにする。それが必要」
「頼むよオルフ。俺は、こんな身体になったってのに、全然。活かせてる気がしねぇ。街を救うほどの力を、独占してるはずなのに、なんでこんな。どうすりゃ、いいんだ」
「ヘンリー?」
ヘンリーは下を向いたまま、ぶつぶつと何かを言い始めていた。オルフはその姿に動揺し、かつマイとヘンリーからの頼みごとに困惑して考える。なにがどうなって、どうすればいいのか。ヘンリーは父を失って混乱しているだけなのか。ともかく、この穢れと言う奴から友人の心を救わなければならない。オルフは焦る気持ちを抑えながら、事態をわかっていそうなマイへと視線を向けた。
「マイ、詳しく教えて。何がどうなってるの?」
「ヘンリーは全てを呪おうとする力に触れている。その力をどこかに向ける必要がある」
マイは自分の手を見ながら言った。傷のない綺麗な手だったが、そこにこそ血塗られた力が潜んでいるとでも言いたげに。
「アヌラグロワールの矜持は戦って滅ぼしてこそ、我らが誉れ。模範的であろうと思うこと。兵器だから許されると思うこと。心構えが必要」
「そんなのって」
「自分だけの判断では迷いが生まれてしまう。考えず力を振るわせてくれる、信用できる者が要る。その点、ヘンリーは運が良かった」
少しだけ目線を伏せたマイがそう言った。その顔から、どこか陰りを感じたオルフは、マイをまっすぐに見て、はっきりとした口調で返す。
「よくないよマイ。何も考えないで殺すだけで良い? そんなわけないじゃないか!」
声を荒げたオルフは、更に続けて何か言おうとしていたが、自分が冷静さを欠いているのを自覚し、開いたままの口を閉じた。そして何度か息を整えて、興奮を冷ましてから続ける。
「兵器だとでも思わなきゃ背負いきれないで壊れてしまうような、そんな想いを? マイもずっと、そんな気持ちでやってきたの?」
「そう。そうでもしなければ、力にも、力が起こした結果にも、耐えられなくなる。だから、鹿波舞は」
問いかけに淀みなく答えるマイに、オルフは思わず手を伸ばしていた。動じていないマイの、その肩を掴み、顔を近づけて思ったことを言う。今度は止められなかった。
「やめなよ、それ。そうやって、自分の名前を他人みたいに言うの。わざとなんでしょう? それ。君が、自分で耐えられないから……」
オルフは、強く肩を握りすぎていることに気づき、手を離す。
「そこまでして、一人が背負うほどの何があるのさ。わかってるんでしょう? 兵器だから許されると思うことって、マイは許されたいんじゃないか」
いつからか自分がとっていた逃げの姿勢を、はじめて指摘されたマイは、何か言い返そうと思ったが言葉に詰まり、結局そのことについては言い返せないことに気がついた。オルフの言う通り、自分は敵の虐殺と自らを殺すという痛みを、自分じゃない鹿波舞の身に起きていることだと、そう思うことで済ませていたらしい。
ウォルターに言ったように、多少自覚的にやっていたことではあったが、それはビジネスライクなスタンスのつもりだったのだ。それが、オルフの指摘で、都合よく忘れていた逃げの姿勢から始まったことだというのを思い出してしまった。マイはその衝撃からも逃げるように、思わず話をそらしていた。仕方のないことだとでも言いたげに。
「我々はアヌラグロワール。アヌラ、エルフの古い言葉で人を示す。グロワールは栄光。もともとのアヌラは薬指のこと。自身たちを中指にたとえ、それより低い身分という、蔑んだ言葉。甘んじて我らはそれを受け入れ、彼らでは犯せない禁忌を犯し、皮肉を込めてこう呼ぶ。アヌラのグロワール。これこそがヒトの栄光だと。こうでもしなければ人は他種族の蔑称のまま滅んでいただろうという、当て付けも込めて。鹿波舞は、そういう業の存在」
「そんな理屈はどうでもいいよ。たった一人の女の子にそんな事を押しつけるような奴らは滅んでしまえば良かったんだ」
オルフの正面からの言葉に、マイは自分でも気づかぬ理由で困惑していた。それが何なのかはわからなかったが、自分のこれまで信じてきた存在理由を否定されているのに、反論しようという気にもならない、ともかく奇妙な感覚だった。
「言ってることが無茶苦茶」
「僕は怒ってるんだ。こんな仕組みを作った奴を。人が背負えないものを、自分ならともかく、他人に背負わせて指示を出すなんて。許せない」
「……オルフは、やっぱり変」
「普通だよ。ともかく、マイもヘンリーもどうにかしなきゃ」
「どうにか、してくれるの?」
「する。そう決めた。さぁヘンリー立って」
オルフは確固とした意志を持ち、立たないヘンリーのそばへとしゃがみ込んだ。使ってくれと言われた時はどうすればいいかわからなかったが、今ならはっきりと言える。
「ヘンリー。僕が、ヘンリーを使うよ。だから安心してその力を使って欲しい。こんなふざけた力に呑み込まれることなんてない。絶対になんとかする。だからそれまでは、二人一緒に背負おう。二人の我儘なんだろ? 考えるのは僕がするから」
未だぶつぶつと何かを呟いていたヘンリーだったが、それを聞いて落ち着いたのか、蹲ったまま静かになっていく。肩口に見えていた黒い染みは、そこで止まっていた。オルフはそれを確認して、ほっと一息つくと、立ち上がって強い視線を、にらみつけるようにマイへと向ける。
「マイもだよ。これまでがどうかは知らないけど、そんな使い方は間違ってる。僕が絶対なんとかするから、それまでは滅ぼすことが誉れなんて、そんな考え方で力を使おうとしないで。そんなの十分呪われてるよ。だから、僕が二人を使う。そう決めた」
「黒沼の力を超える何かを見つけるということ?」
「手段はあとで考える。ともかく今は、敵が態勢を立て直して戻ってくる前に移動しよう」
「確かに」
周囲の、ゴブリンが退いたことで呆けている捕虜たちを見て、マイも同意した。ここでいつまでも呆けていては、せっかく作った時間が無駄になってしまう。ヘンリーの心のタガが外れるくらい、現場に転がる何十人もの人々は目の毒だったが、それでも。まだ生き残っている人がいるのだから。
「ほらヘンリー。行くよ」
オルフは少し乱暴に、蹲っていたヘンリーの肩を揺らしていた。数回揺らすと、ヘンリーから寝ぼけたような返事があがる。
「え、あれ? 俺、何を……。すまねぇ。一瞬、気を失ってたみたいだ。そうだよな。まだ母さんがどっかに居るかもしれねぇしな」
「そう。ここは男性しかいない。女子供が見当たらない」
マイに言われて、改めて二人は周囲を見回した。そうやって軽く見ただけでも、この場にはいずれも身体に欠落のある男たちしかいないということがわかる。こんな事にも気づかなかったとは、とオルフが起き上がった捕虜たちの集まりを見ていると、そのうちの足を引きずった男と目があった。男はオルフたちを見て何か思うところがあるのか、片足で跳びつつオルフたちのもとへとやってくる。
「あんたら、どこの誰だかはわからねっけど、俺らぁゴブリン戻る前に移動するべ」
「わかりました。あの。僕ら、母を探しているんですが、ここには?」
「捕まってんのか?」
「多分、そうだと思います」
「生きてんなら、今頃北の壁沿いに、東を目指してるはずだぁ」
「……なるほど。囮、だったんだ。だからあんな身体でみんな。僕らは、すみませんが、そちらへ向かいます」
「その方が、いいべな。若いのに死ぬこたぁない。んじゃ、また会えたら、よろしくぅな」
男が再び片足で跳びつつ捕虜たちの元へ戻ると、オルフは大きく頷いていた。
「ハウエンのおじさんも、囮に志願したんだ。おそらく、捕まった女子供、もしかしたら居る奥さんやヘンリーたちのために」
「そっか。そう、だよな。へへ、この親父、変なところ、いっつも頑固で……」
ヘンリーの言葉は続かなかった。続いたのは、鼻をぐずる、すすりあげる音だけで、目を潤ませたヘンリーは、唇を噛みつつ、鼻をこすった。
「じゃぁ、行くか。母さんがいるならそこだ」
「うん。向かうけど、保護はあと」
「え?」
「え、じゃないよ。敵の大将を殺そう。僕ら三人で何十人も保護なんてそもそも無理だし」
「えっと、倒すのは先生たちに任せたはずだろ? 居場所だって俺らにはわからねぇぞ」
「いいよもう。ヘンリーの力を使おう。マイの力も使わせてもらう。居場所は、本当に僕らが考えるような、頭の回る指揮官だったとしたら、だけど。反乱した捕虜たちの様子から、北に動いてる可能性があると思う。そりゃ先生たちが倒せてるならそれでいいけど」
「ど、どうしたんだよオルフ」
言動に困惑するのは今度はヘンリーの番だ、とでも言わんばかりのオルフの強気な態度に、ヘンリーは訊きかえす。それに対するオルフの返答は素っ気なかった。
「使ってくれって言ったのはヘンリーとマイだよ。だから使うんだ」
「まって。鹿波舞は言ってない」
「マイ、次からその他人事みたいに言うフルネームは禁止ね。使うとお仕置きということにするから」
「え?」
目を丸くしたマイは小首をかしげる。お仕置きとは一体。
「えじゃなくて、僕は怒ってるんだ」
「へ、変態オルフ……」
「いいよ変態で。それじゃ行くよ二人とも」
全身を痛め、ゴブリンの剣で傷つき、脚におそらくヒビが入っているマイと、左胸を貫かれているヘンリーを置いて、オルフは先に進み始めていた。マイとヘンリーは顔を見合わせ、顔をひきつらせている。
「揺るがない魂、本領発揮?」
「俺、やばいこと言っちまったのかな。オルフの変なスイッチ入れたのかも……」