13話
軋む踏み板の音と、犬が歩くような、爪が床を引く、軽快で硬い音がする。それに合わせて、楽しそうだがざらついた声が複数。
「人間。いっぱい。おいしい。宴」
「楽しみ。楽しみ。血肉いっぱい」
「血飲める。嬉しい。悲鳴もっと」
木戸の隙間から入って来る光が、表で行き来するそいつらの影でちらついていた。クローゼットの中には、レティアとリーネが隠れ潜んでいる。震える娘の肩を抱き、母は下唇を噛みしめていた。
ハウエンにあの場を任せ、裏道を走っていた二人だったが、しばらくすると前方からも悲鳴が聞こえ、咄嗟に民家のひとつに入り込んだのだった。そしてすぐに後悔した。入り込んだクローゼットの中で、ゴブリンたちの宴を体験することになってしまったからだ。
大人の自分でさえ卒倒しそうな音がする。何度も聞こえる水音と、硬いものを切る鋸の規則正しい音がする。息をのみ、痛みを訴える音がする。何かが折れる音がする。
臭いもする。血は、最初は臭いがしないというのを初めて認識させられた。これまで意識するようなことがなかったからか、今の精神状態がそう錯覚させているのか。時間が経てば経つほど、立ち込めている、どこか生温かくまとわりつくような、いやな生臭さと鉄臭さが増していくように感じられた。
悲鳴も、嗚咽も、吐き気さえ、不思議とわいてこない。命の危険を、まるで身体がわかっているかのように、二人して固まって、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
「布かぶり。呼んでる。殺すな食べるな」
「布かぶり。偉そう。いつも命令」
「ボスの言いつけ。諦める」
ドアを開ける音がして、次いで軋む蝶番の音がしたあと、話し声は消えうせた。ぽたり、ぽたりと落ちる水滴の音しか聞こえない。レティアは目を強く瞑り、震えていたが、自分を包む母が身じろぎしたので、顔を上げた。見れば、母親はしきりに顔の角度を変え、隙間から外の様子を窺おうとしているようだった。
レティアは首を振り、動作をやめるように母へと訴えかけた。しかし、リーネは安心させるかのように、青ざめた笑顔を見せ、ゆっくりと戸へ手を伸ばす。レティアは、やめて欲しいし、やめないで欲しかった。このまま酷い事がなく、そのままが良かったが、それだけでもいけないと頭のどこかで思っていた。だから、怖くとも母の動きを止めることはしなかった。
軋む蝶番の音が嫌に大きく聞こえる。ゆっくりと開いた扉からは、玄関の様子が見て取れた。想像していたような惨状は目の前にはなかった。リーネが音を立てぬよう、まるで空気の層すらも音を出すかのような慎重さで、外へと足を踏み出す。
覗いた先、左右を見れば。右手の台所方面が真っ赤になっていた。実際になっているのは床と一部の机や棚だけではあったが、その光景を冷静に分析できるほどの精神力はなかった。左方面、おそらく寝室がある方向は荒らされた形跡も見えない。少なくとも、この入ってすぐのクローゼットよりは安心だろう、とリーネは考え、娘の手を取った。
「向こう。あっちは大丈夫みたい。立てる?」
「……嫌、ここにいようよお母さん」
小声でのやり取りだったが、レティアには大きく感じられた。自分が震えているのもあって、歯がぶつかりあう音も耳元で響き、気が気ではなかった。
「ここに居てはいずれ見つかってしまう。さぁ、ほら掴って。お母さんに」
「うう」
「声は出さないようにね。大丈夫だから」
弱々しく手を伸ばしてきた娘を抱え上げ、リーネは、ゆっくりと寝室のほうへ足を踏み出す。
「布かぶり。うるさい」
「食べるだめ。わからない」
声が、すぐそばでした。
母と娘は息をのみ、目を見開いた。慌てて、寝室の方へと走る。
「何か音した」
「ここ開いてる? あたたかい」
後ろから聞こえる声が心臓を掴みかかって来るようだった。左に入って曲がった先には、廊下に二つの部屋。リーネは奥の部屋へと飛び込むと、扉を閉めた。娘を下し、入ってすぐの戸棚に回り込むと、肩で押して扉を塞ぐ。
「何かいる。人間?」
「悲鳴。鳴らそう。鳴らそう」
心底楽しそうな、無邪気な声が向こう側から聞こえてくる。扉を塞いだレティアとリーネは、必死に部屋の中を見回した。
寝室には簡素なベッドと、小さな椅子、壁据えの棚板しか見当たらない。隠れられそうなところはベッドの下くらいしかないが、そんなところでは簡単に捕まってしまうだろう。あとは、壁にある採光用の小さな穴くらいしかなかった。
「レティ、良い子だから。あそこから外へ出て」
「嫌、嫌なのよ。お母さんと一緒が良い。一緒が良い」
「良い子だから。良い子だから、一人でお兄ちゃんのところまで行けるでしょう?」
「どうして? お母さんを守れってレティ言われてるのよ。ダメなのよ」
「ここ。ここだ」
「重い。あかない。壊せ!」
声がして、背後の扉を叩く音が響く。娘を守るように抱き、そちらを見るリーネ。扉が衝撃によってこちらへ小さく開き、すぐ戸棚とぶつかって止まった。ガタガタと揺らす音と、隙間から見える真っ赤な手。リーネはしゃがみ、娘へと視線を合わせて、その肩をさすりながら優しく、娘へと語りかけた。
「レティ、さぁ。何も心配することはないわ。あなたは走るのも得意でしょう? よくお兄ちゃんについていっていたものね。だから大丈夫。あなたならやれるわ。お願いだから。ね?」
母の手は震えていた。青ざめた笑顔は、先に見た父親の怖い顔とは似ても似つかないはずなのに、レティアにはどうしてか同じに見えた。
「お母、さん。……わかったのよ。お兄ちゃんと必ず戻るのよ? 絶対だから」
「レティア、あなたはとっても良い子だわ。私の自慢の娘。さぁ、いらっしゃい」
リーネはもう一度娘を抱きしめ、強く笑顔を見せると、レティアを壁に向かわせた。そのまま抱き上げ、手を伸ばして壁の穴へと持ち上げる。レティアが穴へ手をかけた時、背後から板が剥がれるような、軋みと破裂音がした。