1.ふたりは出会う
まだ年若い騎士団員は、死を覚悟していた。
眼前には、先輩団員を噛み殺した白銀の狼がいる。血に染まった口元は、威嚇するように低いうなり声をあげていた。
(ただで死んでやるものか)
案内を務めていた農民はとうの昔に逃げ出していた。安全な場所まで辿り着いていればいいが。
(着いていなくても、大丈夫。こいつはここで、私が仕留めてやる)
騎士として名を馳せた、ゴッペリア王国の中央騎士団団長を務めた父の子として、紅の双頭蛇を抱く騎士団の末席として、獣如きに徒に喰い殺される訳にはいかなかった。腰元に差した剣にそろりと手を這わす。
狼が、一歩前に進みでる。大きな体躯に見合った牙から、涎混じりの血が滴った。深緑の瞳は血走り、ぎらぎらと光っている。
(連れ立って死んでやる)
殺されてもいい。しかし、血狂ったこの獣も、殺す。自分は、先輩ジークは、人々を苦しめる獣を連れて雄々しく死んで逝ったのだと、証明してやる。
「来い。逃げ惑うと思ったら、大間違いだ」
背中を見せたらそこで仕舞である。視線は一瞬でも外してはいけない。相手の呼吸に合わせ、僅かな動きも見逃してはいけない。
父の教えを何度も思い返し、団員はゆっくりと短剣を抜いた。跳びかかって来たと同時に、柔らかな喉を刺し貫いてやる。
実用的な、飾り気のない刃物が光を浴びてかちりと光る。と、それに反応して、獣がピクリと動いた。一瞬、視線が意思を持って動く。
(こいつ……やはり)
狼の正体を確信したが、剣を掴んだ手は離さない。正体がわかったからとて、命の危険は変わりないのだ。
目の前の生き物がどんなものでも、私がやるべきことは変わらない。殺された仲間の敵を取り、この獣を道連れにするのみだ。
「さあ、来るがいい。まさか、こんな小童に怖気づいてるのかな?」
団員は、まだ入団を許されたばかりの、齢十三であった。結い上げた金髪に縁取られた顔はまだ幼さが残っており、纏った団服もぶかぶかで借り物の様相である。子供が父親の服をこっそり着ているかのような、愛らしさがあった。
しかし、狼に向けた視線は子供のそれではなく、戦士のようにぎらぎらしていた。
「噛み殺して見ろ。さあ。さぞかしあっさり殺せるんだろうね?」
剣の切っ先を狼に突き付け、挑発する。形の良い唇の口角を無理やりにでも上げて笑って魅せれば、狼は苛立ったように唸り声を上げた。
「さあ、来い」
震えないわけではなかった。あの牙が、ジークの喉元に沈んだのを、間近で見ていたのだ。あれが次は自分に向けられると思うと。足先から力が抜けていく思いだった。
けれど、それを上回るプライドがあった。
「さあ。獣の王ならば、私一人くらい、容易に殺せるだろう。それとも、恐ろしいのかな」
くすりと笑って見せる。と、狼が跳んだ。太い足で地を蹴り、向かって来る。団員は剣を構え、喉口だけを見つめた。頭を狙ってきた牙に、左腕を差し出して身を屈める。腕に食い込む感触に歯を食いしばり、切っ先を奮った。
「があああっ!!」
狼の右頬を霞めれば、血飛沫が降りかかる。視界が奪われ、団員は剣を手にした右手で目元を乱暴に拭った。咆哮を上げて後方に跳んだ狼と間を取るように後ずさる。
「まだまだ、私は死なない! さあ、来なさい、愚かな獣風情が! 騎士アラン・エクスリーンが末子、クレア・エクスリーンが命を懸けてお前を屠ると誓おう!」
穿たれた左腕からは血が滴り、だらりと下がる。激痛が襲っていたが、それでも団員――クレアは声を高らかに宣言した。
私は、父の名において、無様な死だけは迎えない。一騎士として、恥じぬよう振る舞うのだ。
震える手で剣の唾を握り直し、切っ先を狼に向ける。
奥歯をぐっと噛んで、臨戦態勢を取ろうとしたクレアだったが、ふ、と力を抜いた。
目の前の獣が、急にへにゃりと座り込んだのだ。
『クレアって……、お、おんなぁ!? お前、女なのかよ!?』
大きく裂けた口から、クレアよりも幼いと思われる、少年の叫びが漏れたのだ。
「貴様、やはり人狼族か!」
初めて、噂に聞く人狼族と相まみえたことに、クレアが驚愕の声を上げる。
『ああそうだよ、だから何だ!』
前脚で頭を乱暴に掻いて、白銀が投げやりに言った。
人狼族は、通常の狼よりも体躯が大きいと聞かされていたが、なるほど。この大きさであっても、クレアよりも幼いと言うのか。成体であれば、どれだけの巨体になるのだ。
自身よりも一回り大きな白銀を見やって、クレアは感嘆の息を吐いた。
しかし、今はそんなことを考えている暇はない。クレアは剣を構え直し、目の前の白銀との距離を取るようにそっと後ずさりした。そんなことには気づいていないのか、白銀は甲高い声で続ける。
『お前なあ、何で女なんかが騎士団の恰好してるんだよ! ママゴトでもしてやがったのかよ!』
その台詞が、クレアの足を止めた。今、こいつは言ってはいけないことを言った。
「クーデリア騎士団に性別の垣根はない! 私はれっきとした騎士団員である。女と言うことを人狼に愚弄される覚えはない!」
人狼の住まう国と土地続きのゴッペリア国。その国境を任されているクーデリア騎士団は、実力こそが全ての叩き上げ集団である。中央では重要視されている、性別、年齢、家格などは何の意味もない。力のあるものは入団できるし、昇格してゆく。ない者は淘汰されてゆくだけだ。
そんなクーデリア騎士団に、実力で入ったというのがクレアの矜持であった。女だからと、軽視されるのだけは許せない。
ぐっと膝を落とし、斬り込む体制に入った。白銀は何故か、戦意が削げ落ちてしまっている。これは、大きなチャンスだ。今なら、殺れるかもしれない。
爪先に力を籠め、駆けだそうとした瞬間だった。
『お待ちくださいませ!』
叫んだのは白銀でも、クレアでもない。第三者だった。
新たな狼が、二人の間を遮るように現れたのだ。漆黒の毛並みが美しい、白銀よりも遥かに巨体の狼は、クレアではなく白銀に真向い、諭すように短く唸り声を挙げた。それに対し、血塗れの狼が声を上げる。口論しているらしい様子に唖然とし、クレアは一瞬剣から手を離した。と、黒狼が振り返り、クレアを見る。
『姫よ、どうか剣をお納め下さい』
大きく裂けた口から発せられたとは思えないほど、流麗な言葉だった。
声音は、年嵩の男のものであり、獣のそれではない。
『互いに傷を負った様子。ここは痛み分けにしてもらえますまいか』
「私の仲間はその狼に噛み殺された! そう言うわけにはいかない!」
考える間もなく、クレアは叫んでいた。
二匹と向かえば己の死は明らかであったが、譲れなかった。
黒狼は驚いたように、毛並みとおなじ漆黒の瞳を大きく見開いた。問うように白銀を見やれば、白銀がぶっきらぼうに言葉を吐いた。
『先にしかけてきた。だからやったんだ』
叱られた子供がスネたような、そんな口ぶりだった。やはり、こいつは自分よりも幼い。騎士団が善意で開いている剣術教室に通ってくる男の子たちに良く似た、少し甘えを残した声に、クレアは確信した。
しかし、そんな子供が何故あんな無残な真似をした?
「そこにいる白銀が罪なき領主たちを殺したという報告を受けたから、私たちは来たのだ。無為に命を奪ったのは、そっちが先であろう」
屋敷に狼が乱入し、領主、数名の家人を喰い殺したと言う報告が、クーデリア騎士団の駐屯地に入ったのは数日前の事だった。その駆除の為に遣わされたのが、先輩騎士のジークとクレアであった。逃げ込んだという森に、地元の農民たちと踏み入った。狼一匹位ならと気を抜いたつもりはなかったが、突如現れた狼に不意を突かれ、ジークは体制を整える間もなく噛み殺されてしまったのだった。
『なんだと!? どのツラさげて!』
白銀が牙を剥き、咆哮する。それを制したのは黒狼だ。白銀を牽制しつつクレアを見る。
『それは、事実と異なります。ゴード男爵は、我らの種族を殺戮して喜ぶ外道です』
「な……。他国の者を理由なく殺めるのは戦の発端にもなりかねないこと。それは正しく事実であるのか⁉」
『ええ、神に誓って。先日も、奴らは数名の仲間と共に我が国の領地に侵入し、まだ幼い子供に毒矢を射かけました』
「毒矢?」
『ええ。奴が使うのは特殊な毒でしてね、それを受けた者はじわじわと時をかけて弱り、最後には発狂して死ぬのです。その様子を観るのが趣味だという集団の長が、ゴード男爵でした』
「なんと下劣な」
金の眉を顰めてクレアが吐き捨てる。生活の糧としてではなく、ただの遊興で生き物を屠るなど許されることではない。ましてや、死の旅路に向かう様を肴にするなど、貴族の品位すら問われる。そのことが明るみに出れば、ゴード男爵は野蛮人と蔑まされたことだろう。
「その子供は、今はどうしているの?」
『今も死の淵を彷徨っておりますが、現世に戻ることはできますまい。幼い妹が憐れで、この者は報復にむかったのです』
白銀が低く唸った。
(妹……。ではまだ童か)
白銀は十になるかならずか、と言ったところだろう。その妹となれば、まだ頼りない幼子であることは容易に想像できる。
「仇討ならば、我らが無粋だったな」
ふ、とクレアは息を吐く。ゴッペリアでは、仇討は事情によっては許される。クレアの知識と合わせみて、今回の狼の所業は仇討を叶えても処罰の対象にはならない。成人していない家族を不当に殺められた場合、一族は相手に仇討を行う権利が与えられるのだ。
剣の切っ先を下げ、ついとジークの亡骸に視線を流す。
「しかし、仇討なら仇討と、意趣を残しておくのも礼儀でしょう。そうすれば、ジークは死ななくても済んだ」
『貴様たち人族が、オレたち人狼族の話を信じるっていうのかよ!?』
人と狼の二つの姿を使い分ける人狼族と、ただの人である人族の間には、長きにわたって深い溝が横たわっている。今でこそ国交を断絶し、互いをいないものとして振る舞っているが、二百年も遡れば、血で血を洗う殺戮の過去がある。
今も、人族は人狼族を憎んでる、恐れている。そんな人狼の言うことなど、人族の誰が信用してくれると言うのだ。
牙を剥いた白銀に、クレアは視線を向けた。
「信じるよ、私は。いや、クーデリア騎士団の者なら、きっと皆信じる」
『どうしてそんなこと言えるんだよ!?』
「人狼族も我ら人族と同じ、心持つ仲間。優しい者は沢山いるはず。ましてや殺戮を楽しむ野蛮な輩ばかりではない。私は団長よりそう教えられている」
クーデリア騎士団を総括するアルフレッド・タイラー団長は、クーデリア騎士団のシンボルと讃えられる程、部下に慕われている男である。剣術は比肩する者がないと称されるほどの実力があり、且つ仁徳者である。公爵家の出でありながらそれに奢らず、実力さえ認めれば平民出の者とも盃を交わすような人だ。その高潔さから、聖騎士の二つ名を王家から与えられている。
クレアはこの団長を誰よりも――父よりも――尊敬し、慕っていた。
『ああ、クーデリア騎士団ですか。そうですね、彼ならば、そう言うでしょうね』
黒狼が、声音を明るくして言った。クレアが反応する。
「黒毛の方よ、団長を知っている?」
『ええ。彼は面白い人だ』
笑ったのだろう、深くえぐれた口角を持ち上げる黒狼。ぬらりとした大きな牙があらわになった。恐ろしさを覚える様子ではあるが、口調には親しげな色すら感じられた。
あの団長のことだ、人狼族と何かしらの関わりがあってもおかしくないか、とクレアは妙に納得する。
『貴女が彼の部下でよかった。話がうまく進みそうだ』
安心したような口ぶりに、クレアも安堵した。団長のことを好意的に語る彼ならば、命の危機はもうないだろう。
剣を鞘に納め、クレアは不機嫌そうに瞳を細めている白銀に向き直った。
「今回の件は、全面的に人族が悪いようだ。そのような事情があれば尚更人族を信じられないだろうに、こちらの勝手なことを言ってしまった。すまなかった」
血を流したままの、痛む左腕を庇うように右手を添え、頭を下げると、白銀が小さく声を漏らした。
面を上げたクレアは、団服の内側に手を入れ、がさがさと何かを探し始めた。胸元から引っ張り出したのは銀細工の小さなケース。それの蓋を開けて中身を確認したクレアは、「これを、貰ってもらえないだろうか」と突き出した。
『なんだ、それ』
「エクスリーン家の秘薬だ。解毒作用がある。遅効性の毒ならば、まだ効くかもしれない」
『な!?』
「毒ではないので信じて欲しい。ああ、私が一つ、口にしてみせよう」
ケースの中には数粒の丸薬が入っている。その中の一つを摘み上げ、クレアは自身の口に放った。ごくんと嚥下してみせる。
「ほら、ね。大丈夫でしょう」
『な、なんでそんなモンくれるんだ?』
戸惑うように、緑の瞳が動いた。クレアの差しだす解毒剤に心が動いたようだったが、真意を測りかねているのだ。それを察し、クレアは痛みで歪む顔に無理やり笑みを浮かべてみせた。
「私にも兄がいる。兄様たちも、私が同じ目に遭えば仇討をしたと思う」
幼少時、クレアが体調を崩せば兄や姉が細々と世話を焼いてくれた。好物の果物を持ってきてくれ、歌を歌って気を紛らわせてくれた。クレアが回復すれば、笑顔で喜んでくれた。
そんな心優しい兄姉たちの顔が、白銀の険しい顔に重なる。人狼とはいえ、まだ幼い少年がどれだけ必死な思いで妹の仇討をしたかを思えば、胸が痛んだ。
「早く持って行って。助かるかもしれない」
ケースの乗った右手を差し出す。白銀が逡巡するように視線を彷徨わせる様子が、クレアには霞んで見えた。
「早く……」
『リヴァ! 姫がもたない!』
血を失いすぎたんだ、黒狼がそう叫ぶ声が遠くに聞こえた。安堵したせいか、緊張の糸がぷつんと切れたクレアは、左腕の痛みと血を失っていく薄ら寒さに耐え切れず、膝から崩れ落ちた。
前のめりに倒れ込むクレアの視界の隅で、白銀の狼が駆け寄ってくるのが見え、それを最後に意識が途絶えた。