切り裂きジャックの遠謀
幸せなのはここでやめて終え。夜霧に出歩くものは死者しかおらぬ。
夜。そう、今は夜。待宵が頭上に昇り、傾きかけている。
腐乱の肉に蛆が湧こうが肉であるのは事実であるが人、富を貪る輩には塵に同じ。
スラム街では状態にもよるがデザートになる。
二者に違いはない。育った違いであるが死ぬのが嫌い。この点において二者は同じ。
倫理観に違いはない。見方は違うが死体を踏むには嫌ではあるが帝都と名を付けたこの街の石畳の下に骸はある。帝都のものは毎日死体を踏んでいる。南無体、南無体。
夜に骸の上を歩く男は聖職者である。古くからある金一グラムルに銀三グラムルの十字架を枝ほどの首からぶら下げ右手に聖書、壊死した小指を抱える左には男の背と同じの棒を握っている。
棒は男の臍あたりで材質が変わり、上部は鉄。下部は木。鉄は筒で小さな穴が境目より親指の第一関節の間を持ち空いている。
用途は今現在不明だが杖として使っているだろう。外見に若さはなく、年齢として三十四が妥当であろうか。
しきりに揺れる左手から銀貨が漏れた。
石畳とぶつかり合う金属音に男が呟く聖書一文が街に響く。
「餌故に恵とせず聖母は世に従順にして国に順ぜず、地に眠りて、一切を楽園とし天に眠りて、一切を安楽とした」
胸部前で崇拝するブリテン聖教特有の十字を聖書を持つ手で切る。深く遠方の聖地に向け礼を二回。壊死した小指の発する痺れ、不快感がカタカタと杖を揺らした。揺らして尚も男は前に進む。
片目は虚ろで白内障を患っている。白濁はひどく半焼の魚のようだ。
首に一周巻かれた綾杉模様の貝紫色に染められた亜麻布の両端が不気味にカサカサと音を立てた。麻を首に巻く奇怪な姿は漆黒の大外套と十字架がなければ夜周りをする衛兵に疑われていただろう。
露出された踝に夜風が這い寄った。彼は素足だ。ヒタヒタと石畳に吸いつく足裏は肉刺だらけで太く硬い木板の層を足裏で形成していた。
「罪人は生まれ、悪の枢軸は消さねばならぬ……。湖の女神よ。我に彼らを罪人の因果からを解放してあげられる御力を」
十字をまた切り今度は十字を切った手を月に向けて掲げた。
掲げた手は弱弱しく浪々。血と肉が透けてすら見えるだろう。
「おい、そこの黒の外套を纏った奴。死にたくなければ金をよこせ」
男の前に一人の隻腕の盗賊が立塞がる。鍛え上げられた肉体と古傷だらけの体からして軍人崩れ。さしずめ、腕がなくなり軍から除隊されたのだろう。
盗賊になり果てるとは落ちたものだ。
男は魔法陣を展開しそのままで聖職者の頭に指向性を持たせていた。魔法陣からして風を操る系統。
「ドウラン。ドヲラン」
聖職者の彼に笑みが浮かぶ。其の笑みはどこまでも悪質で陰湿。腹の底を覗かれているかのようだ。
「イカレてんのか? それとも白痴かぁ? どちらにしろ今日はついて――」
最後まで言わず両ひざから盗賊が崩れ落ちた。力が入らない。
聖職者が消え、位置が入れ替わってしまったかのように盗賊の背後、家一軒分の距離を開けて聖職者が現れた。
数秒。盗賊の頭部が二回転半を決め石畳に着地する。目は開いたままで瞳孔は開き絶命している。
ここでやっと聖職者は声を出した。快楽に満ち満ちた体は海綿体に血を流し生殖器をたたせ、体が仰け反る。目は焦点を定めず涎が流れた。
鋭利な物で切られたのはわかるのだが聖職者の持ち物で刃物はなく、血の付いているのは聖書だけであった。
「クックク、ギィハハハッ――ハハハハ、ドウラン。ドうらン。深淵に迷うは我か主か、どっちなりや」
日が昇り、首を切られた死体が朝早く入った麻売りの旅商人によって発見されまで人目につくことはなかったという。
無論、聖職者はその場を離れており事件は変死として片付けられた。どこかの町で起こった事件が皮切りなのかは不明である。
聖職者は次々と人を殺し五人目を殺したところで偶々逃げれた者が犯人の姿を告げるまで犯人が聖職者と知る者はいなかった。
聖職者は若い男と女を特に狙い。首と体を引き離すのが殺しの手段となっていた。
いつしか、名無しの殺人鬼に名称がついた。
ジャック・ザ・リッパー。≪切り裂きジャック≫と。




