1-2 出会い(下)
悪運が強いのか、それともなにか理由があるのか。今日に限っては魔物との遭遇がひどく少ない。曲がり角を適当に右へ左へと暫く走り続け、今まで来た事もない迷宮の深部へとやってきた頃にはさすがにキリカ達三人とも息が上がっていた。
だがその甲斐もあって、視界が良く追っ手の姿が確認できそうな小部屋を見付ける事が出来た。視線で合図する事により三人で部屋へと入る。だがこのままでは休憩場所として役に立たない。慣れた様子でカリムが糸を使った即席のトラップを仕掛け、キリカが結界を張り魔物の出現を抑える。こんな状態で魔物に襲われたらたまったものではないので、虎の子の触媒も使って結界を強化する。
「……はぁ」
作業を終えたキリカが大きく息を吐いた。これで取り敢えず大丈夫。そうは思うが不安は消えない。周りを見回せばカリムは部屋の入り口付近に陣取り辺りを警戒している。ユキは流石に疲労困憊なのか、手にフレイルを持ちながらへたり込んでいる。
キリカも冷たい床の上に腰を下ろした。いつもなら不快な感触が今は冷たく心地よいくらいだった。カリムも出来れば休ませてあげたい。だがこの場に彼女の代わりが出来る人間がいない。
せめて……という事で、キリカは温かいお茶を用意する事にした。
魔導という技術は理論的には万能だ。魔力から物質を生成し、精神を支配し、空間を制御する。だからこそ冒険者達は迷宮などに長時間籠もる事になっても比較的軽装備で潜る事が出来る。食糧などを生成する事は様々な問題があるため難しいが、体積上の問題は無視する事が出来るのだ。
ただこれには持っているアイテムに応じて維持魔力が掛かる。またアイテムによっては魔導の力量も必要になるし、持っている間はずっと術式を制御していなくてはならない。それを補助する、またバックアップする魔具もあるが基本はそういう事だ。
よって冒険者のパーティでは大体一人がポーターと呼ばれるその役割を担う。キリカもその内の一人だ。
虚空から幾つかの道具を取り出し、キリカは手早く温かいお茶の準備を進める。いざという時の為の高級ハーブも使ってしまおう。疲労軽減などの効果があるものだ。高いが仕方ない。先程結界の維持に使った触媒などと合わせれば大赤字も良いところだ。
そんな風に随分と余裕のある思考が出来ることに、キリカは自分の事ながら少しだけ驚いた。
「……まあ感情が麻痺してるだけかも」
小さく独りごちて、キリカは準備を進める。お茶を淹れると簡単に言ってもその内実は錬金術の一種だ。疲労していれば失敗する可能性もあるし、それ以前に作成が不可能な事もある。だが今回は大丈夫のようだ。魔力を込め触媒を使いマナを操作していくと、お茶の良い匂いが薄暗い迷宮の小部屋へと香った。
結界が張ってあるのでこの匂いが外へと漏れる心配はない。キリカは安心してカップに入れたお茶をカリムとユキに配り、自らも手に取った。
カップを口元へと運ぶと、鼻腔に馥郁たるお茶の香りと温かい湯気の感触。そのままキリカはお茶を少しだけ飲む。胃に流れ落ちていく熱い感触を感じる。冷たくかじかんだ身体が芯から温まるようだ。
「……はぁ」
キリカは思わず吐息を零した。見れば二人とも似たような感じだ。流石にカリムは最低限の警戒を崩してはいなかったが、そんな彼女でも随分と表情が穏やかになっていた。
だが事態は何も改善していない。今のうちに方針を決めておくべきだろう。キリカは何から始めようと暫し考えた。
「……しかしまいった」
だが結局口から出たのはそんな言葉だった。
元々キリカは半ば追放のような形でヤイウェンからカナーンへと送られた。それもあってキリカのカナーンでの立場はかなり微妙だ。何の実権も地位もない。だが外交的にはカードになるかも知れないのでそれなりにその立場は保証されている。その癖追放などされたので、それほど役には立たないだろうと思われたのか迷宮探索などの自由はある。一言で云ってしまえば、放任されているというのが近いだろう。
そんなキリカをわざわざ殺そうとする人間。
迷宮を封鎖しているのだ。ただの盗賊や物取りでない事は確かだ。
――どうしても自らの父親の顔が頭から浮かんで離れない。
だけどもしそうじゃないとしたら……?
キリカは首に掛けているネックレスへとちらりと視線をやる。飾り気のない紐に、真珠のような石がつけられている。だがそこに鮮やかな光沢はない。洗練された美しさもない。鈍く、くすんだ灰色に染められたソレは、まるで深い虚穴のように見る者の不安を掻き立て惑わすようだ。それはどこか、生者を深い水底へ引き摺り込むと云う水妖の怪しさにも似ている。
このネックレスはキリカの母の形見とも言えるものだった。だがそれを見るキリカの目はひどく複雑な色を湛えている。薄い青というよりは灰色に近いようなその瞳。それは奇しくもキリカが見詰めている石の色によく似ていた。
「……難儀なことだ」
思わず他人事のように呟いてしまう。だがキリカはすぐに表情と視線を元に戻すと、仲間の方へ向かって声を掛けた。
「カリムはどう思う?」
「……そうですね」
漠然としたキリカの問いにカリムは少し迷うように考え込んだ。その視線は相変わらず部屋の外を向いている。片手でカップを持ち、もう片方の手はトラップの起動などを素早く行うために空けている。普段はどちらかと云えばおっとりといった形容が似合うカリムだが、このような時には鋭利な雰囲気を身に纏う。
……かっこいいなぁ。
いい加減思考がゆだっていたのか、キリカの脳裏にそんな感想がよぎった。そんなキリカに構わずカリムは口を開く。
「正直な話、キリカのお父上であるマイセン様が怪しいのは確かです。ですが今更ここまでの強硬手段を取るというのも……少し納得がいきませんね」
「そうッスね。ぶっちゃけ殺すんだったら私たちがカナーンへ来る前に殺しちゃえばよかったんです。だったら何の手間も掛からなかったのに。気が変わったといえばそれまでですけど、少し今更かよみたいな感じがあるッスよね」
「まあ問題は誰が犯人なのかというよりも、どうやってこの窮地を抜け出すかと云う事だと思いますが……」
「出来ればそこからは目を離したままでいたかった」
「目を離しても問題があるのは変わらないでしょうに。悪い癖ですよ、キリカ」
「……乙女心だから」
今一つ意味の判らないキリカの答えにカリムは溜め息を一つ吐いた。カリムはキリカより少し年上なだけだが、同時にキリカが幼い頃からキリカの教育を任されていた人間でもある。つまるところ一応の主従関係はあるのだが、キリカはカリムに余り頭が上がらないのだ。特にキリカはそれほど勤勉なたちではない。しかられた記憶など数え切れないほどある。
「まあ取り敢えず暫くは大丈夫でしょう。相手の数はそこまで多くはありませんでした。だったら入り口付近を塞いで虱潰しにここを探り当てるまでそれなりの時間が掛かるはずです。もしかしたらその間に向こう側のタイムリミットが来るかも知れません。迷宮の封鎖なんてものがいつまでも出来るとは思えませんしね」
「……カリムが暗殺者側だったら次はどうする?」
「増援を呼びますね」
キリカの問いにカリムは即答した。
「暗殺には質が重要ですが、虱潰しをするのには数が重要です。一山いくらの存在でもいないよりはマシです。まあ迷宮内というのに加えてこの汚れ仕事ですからね、どの程度集まるのかは判りません、が…………え?」
その時だった。
迷宮が鳴動したのは。
「――ッ!」
同時にキリカの身体に衝撃が走る。
身体の内部を圧倒的なナニカで掻き回されているような不快感。キリカは思わず口元を両手で塞ぎ倒れ込む。両手で口を押さえていなければ、何の外聞もなく泣き叫んでしまいそうだった。
「キリカ様ッ!」
心配そうなユキの声が遠くに聞こえる。大丈夫。そんな強がりを言う余裕すらない。焦ったようなカリムの顔も視界の端に映る。ひどく珍しい気がする。だがそんな有閑な思考とは裏腹に身体を走る衝撃は圧倒的にリアルで――。
「ぁ、あ……ア、アアアアアアッッッ――――!!」
絶叫が迷宮中に響き渡った。
まるでその絶叫がキーとなったようだった。
今までの景色がだまし絵だったかのように周囲の様子が一変する。硬く冷たかった石畳の床が、生温かく微かに脈動しているような、そんな不可思議な発光体に取って代わられた。小部屋を覆っていたはずの壁はいつの間にか消え去り、周囲は酷く巨大な空洞になっていた。まるで得体の知れない化け物の臓腑のような空間。
そこには数多の化け物たちが蠢き、そしてただ一点をひたすらに見詰めていた。
キリカたちを、ではない。まるで彼女たちなど視界にすら入っていないようだ。明らかに気付いていなくてはおかしい距離にいる魔物さえ、キリカたちにほんの僅かな注意すら払おうとはしていない。
彼らはただ一点をひたすらに見詰めている。
百メートル程度は離れているだろうか。キリカたちからは僅かにその姿が確認できるだけだ。全身を覆うようなローブを纏い、右手には木をねじり合わせて作ったような歪で長大なスタッフを携えた男。フードで隠しているため、その顔はしっかりとは見えない。
その傍らには男の従僕だろうか、アンデッドが三体控えている。
一体はアビスガード。影が黒いフードを纏っているようなアンデッドだ。柄から刀身まで真紅に輝く直剣と、ローブの中でまるで鬼火のように輝く紅い双眸。それらがまるで何か不吉の象徴のように煌めいている。
一体はアロガンフォース。人間をベースに作られた異形の魔物だ。二メートルを超えるであろう体格と、どんな生物にも似ていない顔。その両手の先には、まるで固まった血の色のような赤黒い斧刃が直接取り付けられている。
一体はリッチロード。ローブを纏ったスケルトンのようにも見える。だがその身から放たれるのは並のアンデッドとは比べものにならない懸絶した魔力。その骨の指に魔具とおぼしき指輪を幾つも嵌めており、そのローブにも奇妙な文様が複数刻み込まれている。
アビスガードとアロガンフォースが前衛を。リッチロードが後衛を。そしてそれらに囲まれるようにしてローブの男が中衛に座している。
「……死霊術士」
小さく掠れるような声でカリムが呟いた。
カリムはアサシンとしての訓練も受けている。だからこそ外法と呼ばれる魔導にもそれなりに詳しいし、死霊術士と呼ばれる人間も見た事はある。
だがあれは違った。
まるで死の象徴のような圧倒的な存在感。それは男本人ではなく従えている存在についてもそうだ。そのどれもが並のアンデッドではない。むしろ死霊術士本人よりも危険なようにすら見える。あれほど規格外の存在を三体も従えている異常。
太刀打ちするとかそれ以前に、恐怖で身体の自由すら効かない。ちらりと視線を横に滑らせれば、ある程度は楽になったようだが今だ苦しそうなキリカの姿がある。その傍らではユキがこちらを見て指示を待っている。キリカが何らかの理由で動けなくなった時の指示はカリムが出す事になっていた。それが自然だったし、これまでもそうしてきた。
だが今のカリムには何をどうすればよいのか、それが全く判らなかった。
かつての記憶が蘇る。
三年前、キリカの母であるアレナ・ライトフォーンが暗殺者に襲われ死亡した時、カリムは同じような無力感を味わった。辺り一面に広がる血の臭い。呆然と見詰めるキリカ。そして――。
あれから自分なりに努力してきたつもりだった。もう二度とあのような事を起こさせないように。キリカを再びあんな事に巻き込まないように。
だがそんな努力は所詮独りよがりの虚飾に過ぎなかったのか。本物の異常に接すれば地金を晒す。その程度のものだったのだろうか。
――恐怖でへたり込んでしまいそうだった。
「……ぁ」
小さく意味のない呟きがカリムの口から漏れる。吐息のようなそれは、誰も聞き遂げる事無く虚空へと溶けていった。
カリムは自らの視界が滲んでいるのが判った。何もかも捨てて泣き叫びたかった。
――だがそれは出来ない。
「……ッ!」
思い浮かべるのは倒れ込んだキリカの顔。そして三年前のあの情景。
カリムは歯を食い縛り、強引に精神を平常へと戻す。何度も何度も繰り返し修練してきたマインドセットの技法。厳しい修練が実を結んだのか、この状況下でも何とかそれは成功した。
「……ふう」
カリムはその事に安堵の吐息を一つ漏らす。そして状況を確認するため改めて辺りを見回した。取り敢えず自らも含めて三人ともまだ無事だ。異界化の原因はキリカが疑われるが不明。あの男の正体も依然として不明。
――今できる事は取り敢えず事態を静観する事くらいか。
悔しいが今こちらに注意を払っていない魔物のレベルはカリム達が相手取るには危険すぎるレベルだ。
カリムはユキやキリカの傍へ近寄ると糸で結界を張る。魔物達が攻めてきたら正直気休めにしかならないが、隠蔽の効果と流れ弾を防ぐ効果はそれなりにある。視線をちらりと横へ向ければキリカを抱えているユキの姿が見える。
本格的にキリカを治療するなり原因を調べるなりしたいが、流石にこの状態では無理だ。ユキに「静観しつつ、いざという時はキリカを頼む」という指示を黙示で送る。それだけすると後は何もする事がない、もっとはっきり言ってしまえば何も出来る事がない。そんな状態になるとカリム達二人の視線は自然と死霊術士の男と魔物達に向けられた。
男と魔物達はカリムの大体百メートル先でお互いに対峙していた。その合間にカリム達がいなかったのは幸運というしかないだろう。そうしたら両者が見逃してくれるのに命を賭け、その場を全力で離脱しなくてはいけなかった。幸いキリカが倒れていた場所あたりには魔物はいない。流れ弾に気をつければ両者の争いに巻き込まれる事は無いだろう。
「……逃げなくていいんすか?」
小さく抑えられたユキの声。視線をちらりとやれば、魔物の方を油断無く見詰めているユキの姿がある。右手にはフレイルを持ち、左手はキリカをいつでも抱き抱え逃げる事ができるように空けていた。
正直な話、カリムにもどうすべきかは判らなかった。だがこのレベルの魔物が跋扈する異界を踏破できるとは思えなかったし、何よりこんな急な異界化には原因があるはずだ。ならばそれを解除すれば取り敢えず元の状況へと戻す事は出来る。
そういった事を伝えようとカリムが口を開こうとしたところで――雄叫びが轟いた。
まるで濁流のようにただ一点へ。死霊術士の男の方へとモンスターの群れが押し寄せていく。だが――。
魔物たちの戦意を示す雄叫びは、すぐに困惑を示す声へと取って代わられた。散発的に出される威勢のよい声もすぐに不自然に掻き消える。攻撃魔法による爆音も、武器を打ち合わせる音も、悲鳴も、呻き声も、まるで吸い込まれるように掻き消えていく。
原因はもちろん死霊術士の男とその従僕たちだ。
前衛を務めるアビスガードもアロガンフォースも敵と武器を打ち合わせようとはしなかった。自らへの攻撃はその圧倒的なスピードと冗談のような身体捌きで避け続け、敵へは回避も防御も許さない急所への一刀でその息の根を止める。
アンデッドと呼ばれる存在は、大抵の場合は生者への恨みに狂い知性の感じられない動きしかしない。リッチやヴァンパイアなどの高度な知性を持つものもいるが、それらはあくまで例外だ。そしてそんな高位アンデッドも武技に優れている事は殆ど無い。だがあのアビスガードとアロガンフォースは違う。
大抵の人間はおろか、一流の戦士よりも優れた身体能力と特性。そして何よりもそれらに振り回されず使いこなす技量。多数を相手にしても逡巡する事すらない戦術眼。それは武の極限とすら言えるのかも知れない。
特にアロガンフォースの方は凄まじい。カリムが今までに見た全ての武人と比べてもその技量は隔絶している。国一番の使い手を決めるとされた御前試合。その決勝を争っていた両者よりも目の前の異形のアンデッドは優れた武技を持っているように見える。
「……すごい」
思わずと言った感じでユキが呟いているのが聞こえる。その視線はアロガンフォースの動きに魅入られるように吸い寄せられている。
その気持ちはカリムにもよく判った。だが、カリムの視線は寧ろ死霊術士の男自身に引き付けられていた。
後衛のリッチロードのやっている事は単純だ。敵の魔導や飛び道具を防ぎ、相手を牽制する。敵の動きを封じ、鈍らせ、前衛へのサポートと護衛に徹する。
そういった意味ではあの死霊術士の男も、やっている事は単純なのかも知れない。倒れた敵を即席でアンデッドへと仕立て上げ、戦場をコントロールする。言葉にすればそれだけだ。だがそれがどれだけ人外の業か。
アンデッドにすると一言で云っても、ただ作ればそれが自分の思い通りに動く訳ではない。ましてや意思を持って作り主に味方してくれる訳でもない。制御下のアンデッドならばラインを維持する必要があるし、自分に従うようにするのならば制御の術式も組まなくてはいけない。
あの死霊術士の男は、配下の三体のアンデッドに魔力を供給し指示を出しながら、どのような制限でどのような場所でどのようなアンデッドを作成するかを選択しながら、この荒れ狂う戦場を限りなく正確にコントロールしていた。どれだけの死線を潜り抜ければここまでの技術が得られるのか。力の量などの問題ではない。その技量と、それを身に付けるに至ったまでの過程。そしてその結果。それはまさに人外の業というのに相応しい。
結果、濁流のごとき勢いはせき止められ、魔物達はまるで順番を待っているかのように棒立ちになった。
殺された存在がいつアンデッドとなり自らに襲いかかるのか。そんな不安は伝染し目の前の敵への対処がおろそかになる。それは知性の薄い魔物でも同様だ。いや寧ろ本能に忠実な分、そのような魔物ほどその不安は強いのかも知れない。だがそのような中途半端な引け腰では、死霊術士の男が従える前衛二体と対峙する事すら出来ない。鎧袖一触といった風に次々と、まるで草でも刈り取るかのようなあっけなさで殺されていく。
エレメンタルがその魔法の矛先をどこに向けてよいのか判らず中空を漂い、ただ次々と核を破壊されていく。
ハイオークがその戦斧の置き場所を迷うように戸惑い、辺りを見回す。その様子はとても戦場にいるようには見えない。それでは駄目だ。案の定、次の瞬間にはアビスガードの紅く煌めく剣に喉を切り裂かれ、血溜まりの中に倒れ伏す。周りのハイオーク達はそれを為したアビスガードよりも、たった今倒れ伏した仲間に警戒の視線を送る。酷い場合は死体に向かい戦斧を振るい叩き潰す。
狂乱。
正しくその言葉が相応しいだろう。少数対多数の戦場はいつの間にか乱戦のような態を呈している。
ひどく現実味のない光景だった。
やがて魔物達は死霊術士相手に向かっていく事もしなくなった。張り詰めたような静寂の中、倒れ伏すモンスターの音だけが規則正しく聞こえてくる。そんな魔物達の姿はまるで断頭台に上るのを待っている死刑囚の群れのようにも見えた。
怖いのかさえ、カリムには判らなかった。死にたくなかった。キリカを助けたかった。それがずっと仕えてきた自分の役目だと思ってきたし、その事に嘘はなかった筈だ。
だが、今自分が同じように考えているのか、考えられているのか、それがカリムには判らなかった。圧倒的な死の気配。それはどこか蠱惑的で抗いがたい甘さがある。
だが、魔物たちは違ったようだ。
耐えきれぬように魔物の内の一匹が叫び声を上げる。するとそれは瞬く間に集団に伝染した。あちこちで上がるその叫び声。それは決して戦意を示す雄叫びではない。暴力に酔った叫声でもない。叫んでいる魔物達が感じているものはただ一つ――恐怖だ。
圧倒的な恐怖。本来あるはずの序列も、暴力への期待も、少数から無様に逃げ出すと云う屈辱も、全てを塗り潰すほどの圧倒的な恐怖。
そうなってしまっては崩壊は早かった。その場にいる魔物達が我先にとその場から逃げ出す。潰走。まさしくその言葉が正しい狂態だ。あれほどいた魔物達があっという間に殆どいなくなる。
残ったのは三者。
カリムたちと死霊術士の男たちと、そして魔物の集団の頭目であったであろうミノタウロスの変種。その身長は二メートル程度はあるだろう。手には巨大な戦斧が握られ、雄牛をかたどったその顔には憎悪と憤怒が渦巻いていた。
それも当然だろう。基本的に魔物はその配下を暴力によって縛る。ボスの目の前で配下が命令を無視して逃げ出すというのは、ボスよりもその敵の方が上だと考えたと云うことだ。怒りに我を失うのも自然な事だ。
だがカリムの目には、怒りに猛ったあのミノタウロスがどこか自らを誤魔化しているように見えて仕方がなかった。
「お、おおお――――っ!」
何処か戸惑いを含んだ雄叫び。自らを奮い立たせるようなそれと同時にミノタウロスは飛び出す。その動きはその巨体に似合わず素早い。恐らくカリムでは止める事は出来ないだろう。それだけの力強さと速さがある。
だがあの死霊術士が従える前衛は違う。
アロガンフォースが前へ出る。固まった血のような、そんなどす黒い赤色一色に染められた両手の斧。それらを使い敵の戦斧の一撃を完全に受け流してみせる。それはその異形の姿に似合わず柔らかく洗練された動きだった。受け流されたミノタウロスの戦斧が虚空を切り、重低音の風切り音を辺りに響かせる。
そこに無音でアビスガードが滑るように駆ける。影が黒いローブを纏ったような姿。その動きは全くの無音だ。ただ紅く煌めくその双眸と剣が、どこか不吉な輝線を描く。アビスガードはまるでそこに見えない坂道があるように中空を駆け上がり、ミノタウロスの背後へと回り込む。
ミノタウロスの瞳に困惑と、そして怯えの色が混じった気がした。戦斧を再び振るおうとしてもそれはアロガンフォースが許さない。素手で対峙しようにもそれほど甘い相手ではない。自らの運命を悟ったのだろう。ミノタウロスが息を飲む。だがアビスガードはそのような事を全く意に介さない。まるで死神のような冷徹さと正確さで、ミノタウロスの首を一刀のもとに刎ね飛ばした。
血が噴水のように勢いよく噴き出し、ミノタウロスが大きな音を立てて崩れ落ちる。
そんな中、アビスガードは勝利を喜ぶでも殺戮に酔うでもなく、ただ静かに地面へと降り立った。
「――戻れ」
カリム達が息を飲んで事態を見守る中、ふとそんな声が聞こえる。若い男の声だ。考えるまでもない。あの死霊術士のものだろう。その声はこの惨劇を作り出し、死霊術という外法を修めた人間にしては不思議なほど上品で穏やかなものだった。
その事にカリムは恐怖にもおぞましさに似た違和感を胸中に抱いた。
だがその言葉に嘘は無かったようだ。従えていた三人のアンデッド達がその言葉とほぼ同時に掻き消えるようにいなくなる。他のアンデッドたちは既にいない。場にはカリム達三人と、死霊術士の男一人だけになった。
「さて――」
男が身体を反転させ、カリム達に向き直る。フードを脱ぎ、自らの顔を露わにさせる。まだ若い。整った眉目をした男だ。その顔には場違いにも穏やかな笑みが浮かんでいる。
「私の名前はタリス・マンチェス――出来ればお話しを聞かせて貰えませんか、お嬢様方?」
どこか甘く蠱惑的な腐臭が漂った気がした。




