1-19 偽神(下)
月が冴え冴えと蒼い、そんな夜だった事を覚えている。
キリカがヤイウェンから追放される切っ掛けとなった日。
それはキリカにとって、いやユキやカリム、そして多分キリカの父であるマイセンにとっても、忘れられない記憶だ。
後悔と悲嘆。そして痛み。
あの日を境にキリカの日常は変わってしまった。
実際に何かが変わった訳ではない。だが知ってしまった以上、何もせず鳥籠の中で安穏としていた日々には戻れない。それがたとえ十分でなくても、あの日の出来事を悔いるなら、あの日の無知を悔いるなら、知らなくてはならないし、多分戦わなければならないのだろう。
それはキリカの決意であり、誓いでもあった。
あの日、キリカは隠されていた事実を知った。
そう、隠されていたのだ。知らないのはキリカだけだった。
母であるアンナも、ユキも、そしてカリムも。
みなその裏にある事実を知りながら、そして迫り来る破滅を感じながら日常を演じていた。
そんな中、ただキリカだけが何の事情も知らず、体調が悪化していく母アンナの事を案じていた。
見慣れたはずの部屋が、やけに寒々しく感じられる。
今までずっと暮らしてきた家だ。慣れていると云うよりごく当たり前のものとして暮らしてきた。それが、今はやけに冷たい印象を漂わせているような気がする。
基本的に部屋には最低限の物しか置かれていない。それは壁紙のような室内装飾に関する物も含めてだ。おかげで壁や床などは材質の石が剥き出しとなっており、触れると硬く冷たい感触を伝えてくる。ただ嫌な感触ではない。
少なくともそれまでのキリカはその感触が嫌いではなかった。不思議な光沢を帯び、どこか清浄な雰囲気を感じさせる石。何もする事が無いときは、よく床に寝っ転がりその感触を楽しんでいた。
そんな石材で形作られた部屋。そこにはベッドとタンス、そして場違いにも見えるピアノが置かれており、他にはベランダと出入り口の扉が一つあるだけだった。
此処はキリカの母であるアンナの部屋だ。アンナが体調を崩し始めてからは、キリカが此処に来る割合は随分と増えた。今では殆ど入り浸っていると云っても良いほどだ。
「お母さん。大人しく横になった方が……」
キリカが声を掛ける。アンナはベッドに横になり、背だけ起こしてキリカの方を見ていた。その顔には笑みが浮かんでいる。病気の所為だろう。顔色は良くない。只でさえ白い肌がますます白く見える。
だがそこに病人特有の陰惨な色が混じっているかといえば、それは違った。病に倒れ、まともに生活する事も困難な筈のアンナはどこか美しく、崇高なものすら感じさせた。
キリカにはそれがたまらなく怖かった。人生で最も大事な部分を占めている母が自らの手の届かない場所へいってしまいそうで。
「いいじゃない、別に」
だからアンナが口を尖らせ、子供っぽい態度で反論するとキリカはもっと自分の身体を大事にして欲しいと思う反面、少し安心するのだ。アンナが元気な時を思い出し、まだ母は母なのだと思う事が出来て。
「それよりもお母さん、キリカのピアノが聞きたいなー」
そんなキリカの思いを知ってか知らずか、アンナが口を開く。その声は明るい。
「まあちょっとくらいならいいんじゃないですか?」
傍に控えていたカリムが口を出す。部屋にいる四人の内、最後の一人であるユキの方に視線をやれば曖昧な笑みを浮かべているだけだった。
「……はぁ」
キリカはしょうがないと溜め息を一つ吐く。母にピアノを聞かせるのは嫌ではなかった。寧ろ好きだった。素直にそう言えないのはキリカの子供めいた反発心だろう。
――お母さん、キリカのピアノ大好きよ。
まだ幼い頃、上手く弾けなくて癇癪を起こしたキリカにアンナが掛けてくれた言葉をキリカはまだしつこく覚えている。
「じゃあ、小夜曲でも」
そう言ってキリカはピアノの前に座り、その指を滑らす。どこかひょうきんで、だけれども柔らかく暖かい旋律が石造りの部屋の中に響く。
キリカは心を込めて曲を紡ぐ。それはどこか祈りにも似ていた。アンナはそれを静かに見守る。
そしてユキとカリムも静かにそれに倣った。結局の所、キリカが曲を弾くのは母であるアンナの為だ。それを邪魔する気は二人には無かった。だが――。
「……?」
曲が半ばまで差し掛かったところで、ユキが訝しげな顔をして立ち上がった。その顔には厳しいものが浮かんでいる。それとほぼ同時、カリムも同様のものをその表情に浮かべ、立ち上がる。
ユキとカリムがお互いに視線を交わし合う。その剣呑な雰囲気に気付いたキリカの運指が止まり、部屋を再び静寂の帳が覆った。
「あら、あなた」
そんな中、部屋へ足音も荒々しく入ってきたのはキリカの父でありアンナの夫でもあるマイセンだった。
アンナやキリカとの間柄を考えれば、マイセンがこの部屋へやって来るのは不思議ではないのかも知れない。だがキリカはこの血縁上の父親の姿を殆ど見たことが無かったし、何よりもその様子が尋常ではなかった。
本来なら精悍な印象を与えるであろうその顔は、今は青白く痩せこけ見る影もない。普段なら理知と鋭さを湛えたその双眼は今では血走りまるで幽鬼のそれのようだ。そこには武断の王として讃えられた風体は欠片もない。
「何の用ですか?」
カリムがアンナとキリカを庇うような立ち位置に移動し問い掛ける。その声は王位にある者に対してのものとは思えないほどに厳しい。
その問い掛けの答えを待たず、ユキもカリムと同じ立ち位置へと移動した。ユキのその手にはいつの間にか主武器であるフレイルが握られている。
「もう待てん」
マイセンの答えは端的だった。キリカがその意を取れない内に会話は続く。
「……貴方は最後まで諦めないと誓った筈です」
「もう時間がない」
「だからといって……。これまでの全てを無為にするつもりですか」
「無為ではない。アンナは救う」
「そのためにキリカを犠牲にすると?」
「ああ」
「……貴方もただでは済みませんよ」
「覚悟の上だ。――人払いは済んでいる。俺を止めたいなら抗う事だ」
……いったい、何を言っている?
マイセンはカリムとの会話を打ち切ると、おもむろに腰に差していた剣を抜いた。部屋の薄暗い照明を反射し、業物であろう剣の刀身がきらりと煌めく。
「……っ」
ユキがフレイルを構え、腰を落とす。その視線はマイセンを注視している。
だがマイセンはそんなユキの方を見向きもしなかった。その視線はキリカを真っ直ぐに捉えている。血走った目。漂う暴力の気配。
「お前……何も知らないのか?」
そんなマイセンの視線がふと訝しげなものに変わる。
「……なにをですか?」
「アンナ」
「技術は教えているわ。何の問題もないわよ」
アンナの声はこの期に及んでも何時も通りだった。明るく朗らかな、キリカの大好きな母の声だ。
「……憐れだな」
マイセンのその瞳に、本人の言葉通り憐憫めいたものが浮かぶ。
「自らが母を死の淵へ追いやっている事も知らずに、快癒を祈るか」
……え?
「マイセン王っ!」
カリムが叫ぶ。だがその声がどこか遠くに聞こえる。
「違うのか」
「それはキリカだけの事でも、ましてやキリカの所為でもありません」
「だが事実は変わらないだろう。ライトフォーンの血族。母が後継者である娘に自らの力を分け与え、同時に自らの命と力を崇めている存在へと捧げる。ただそのためだけに生き、代を重ねる不自然で歪な血族だ」
キリカは弾かれたようにアンナの方を見る。だがアンナは不思議そうにキリカの顔を見返すだけだった。
「それゆえにその当主は代々短命を運命づけられている。それも当然だな。子供が後継者として最低限の技量を得れば、後は身を捧げるだけだ。そんな事を延々と、何百年に渡って。――もう沢山だ。その螺旋はここで断ち切らせて貰う」
「させませんよ」
カリムの声に、マイセンはふんっと鼻を鳴らした。
「貴様も目的は同じだろう。そんなにキリカに情が移ったか」
「私はキリカに仕えるものですから」
一触即発の空気が漂う。
「――母さんっ!」
そんな中、キリカが叫んだ。
「どういう事なのっ? 私の所為なの!? 私が死ねば母さんは助かるのっ!?」
涙で歪んだ視界。今までずっと堪えてきたものを吐き出すようなキリカの声に、アンナは少し困ったような表情を見せた。
「キリカ……」
「ああ。少なくともお前が死ねばアンナの容態がこれ以上悪くなる事はない」
「あなた」
僅かに責めるようなアンナの言葉に構わず、マイセンは言葉を続ける。
「そもそもライトフォーンは神を作るために用意された一族だ。魔導師の結社『シュールバニパル』の総帥ラスムスにな。だがそんなものが容易く作れる訳もない。だから形から入った」
特殊な権能を持ち、自らに従うものに加護を与え、逆に力を受け取る超常の存在――神。
その力は正に圧倒的だ。だがそれ故に、成り上がるのは不可能に近い。ましてや意図的にそれを作り出そうなど。
「偽りの神に力を込め、崇め、自らの身を捧げる。国という基盤。そして王家の正統による人身御供。そして数百年の月日。それら丸ごと一切合切かけての壮大な実験だ」
「…………」
「なあ、我が娘――呆れるだろう? うんざりするだろう? アンナは、お前の母は自らを得体の知れない化け物の贄とするためにお前を生み、育て、そうして育てられたお前はまた同じ事を繰り返す。アンナの母も、そのまた母も同じ事だ。こんな事をライトフォーンはもう何百年もやってきたのだ」
「私を殺したら……どうなるんですか?」
「さあな。だが正当な継承方法は崩れる事になる。そうすれば術式の粗も見付けやすい」
マイセンは軽く肩を竦めてそう言った。
「キリカを殺したところで、事態の根本的な解決が計れる訳でもないでしょう。そんな手段があるならもっと他にやりようがあるはず」
カリムの問いにマイセンはあっさりと頷いた。
「そうだが。だがキリカへ受け継がれれば偽神の力は大きくなる。そうなれば効果がある方策さえ効かなくなってしまうかも知れない」
「その程度の論拠でっ!」
「じゃあこう言い直そうか。――俺はキリカよりもアンナに生きていて欲しい。愛した女を死へと近づけていく娘がずっと憎くてたまらなかった、とな」
「貴様っ!」
激高したカリムがその指を滑らす。だが――。
「ふんっ」
機先を制して放たれた飛礫。
「……っ」
カリムが苦悶の呻き声を上げる。ついで放たれたマイセンの蹴り。肋骨を狙って放たれた抉り込むような一撃は、あっさりとカリムからその戦闘力を奪った。
「鋼糸は確かに有用な技術だが、決定力と初動の速さに欠ける。それが判っていればやりようは幾らでもあるさ」
そしてそう言い放つ。
そんなマイセンに、ユキがフレイルを構えて立ち塞がった。
「その腕前は流石ッスね。一兵卒から成り上がり、姫様に見初められついには一国の王とまでなった戦場の英雄」
その言葉とは裏腹に、ユキの声にはどこか嘲るような色があった。
「……何が言いたい?」
「無様ッスね。惨めッスね。憐れッスね」
「…………」
「娘も妻も救おうとしてそれが果たせず、その挙げ句に土壇場での手の平返し。それだけならまだしも、この期に及んで問答するなんて覚悟のなさ。ええ、そのどっちつかずの優柔不断さは醜いなんて言葉を通り越して嗤えてくるッスよ」
「何とでも言うがいい。だが――」
マイセンがその剣をユキに真っ直ぐに突き付ける。
「どうであれキリカは殺させてもらう」
「はっ。私はキリカ様に仕える犬ッスよ。それを大人しく認めると思うッスか」
「死ぬぞ」
「犬が犬死するなんて、当たり前の事すぎて脅しどころか交渉材料にすらならないッスよ」
「……そうか」
その言葉と同時、マイセンの姿が掻き消えた。少なくともキリカの目にはそう見えた。次に気付いたのはユキの倒れ伏す音。視線を滑らせれば、マイセンはいつの間にか倒れ伏すユキの傍らに立っていた。
音も気配も感じ取れなかった。だがそこには既に攻撃を完了させ、キリカの方を真っ直ぐに見るマイセンがいた。
その視線は相変わらず血走って不気味にぎらついている。その顔は青白く痩せこけ、幽鬼のようだ。
だがキリカはマイセンの迷いに気付き始めていた。
「……父さん」
ふと呟く。
マイセンの視線が僅かに揺らぐ。
もしかしたら何とか説得できるかも知れない。そう思い、キリカは言葉を継ごうと口を開き――。
「はぁ。しょうがないわね」
声がした。
母の声だ。説得を手伝ってくれるのかも。キリカは目指すべき着地点も判らないのに、無邪気にそう思った。
「アンナっ!」
結局の所、キリカは父ほどに母を理解してはいなかったのだろう。
マイセンが何かを察しせっぱ詰まった声を上げるのを、不思議な気持ちで聞いたのを覚えている。
「継承はなった。――喰らいなさい」
ぞわりと、空気が変わった。
何時も母の首に掛けられていたネックレス。それが不気味に明滅する。
そして漂う獣臭。
「止めろっ!」
「もう遅いわ」
キリカはそんなアンナをただ呆然と見守っていた。
何も考える事が出来ず、だが自然と足は動く。アンナの方へと一歩二歩と進んでいく。
アンナはベッドに背だけ起き上がらせた体勢のまま動いていない。白いワンピースを着たアンナの肢体。そこに墨か何かを垂らしたように、ぽつりぽつりと黒い影が覆っていく。
寝間着としても使えるけれど、普段着としてもそんなにおかしくない服がいい。そんな風にアンナが我が儘を言っていた事をキリカはふと思い出す。
黒い影は大きくなる。それはまるで深く底のない穴を覗き込んでいるような――。
キリカは酷く心がざわめくのを感じる。あれはよくないモノだと、その本能が叫んでいた。
だが事態は止まらない。
影はますます大きくなり、その色を濃くしていく。それに応じてそれの発する気配も濃くなっていく。どこか不安を掻き立てられるような、そしてどこか不吉なその気配。
「……ぁ」
キリカがアンナの方へと近づき、手を伸ばす。アンナはそれを止めるでもなく普段通りの笑顔で見守っていた。そこに苦痛の色はない。そして逡巡も後悔の色も見えなかった。
もう少しで届きそう。
アンナの顔へ伸ばされたキリカの手がその頬へ触れそうになったその時――。
影から黒いナニカが溢れ出した。それはあえて言えば『犬』だろうか。肌も毛も舌も瞳も、全て黒一色の獣。その外面は微妙に波打ち、そこから新たな黒い獣がまるで戒めを破り飛び出そうとでもするように時折顔を出し、沈み込んでいた。
そんなものが広がった影の中から複数顔を出していた。その瞳には理性の欠片も窺えず、みなその瞳を獣欲にぎらつかせている。
……なに、これ?
キリカが呆然と見守る中、獣たちは一斉に首を伸ばす。それは普通の獣が首を伸ばすのとはまるで様子を異にしていた。まるで蛇か何かのようにその首が伸びていく。上方へ、天井付近まで。
獣の身体はまだ影へ縛り付けられているように離れていない。なのに伸びた無数の首。そしてその先端にある獣の顔。それが天井近くの高さから不気味にぎらついた瞳で、ただアンナだけを見詰めていた。
「母さんっ」
「大丈夫、キリカなら」
「何言ってるのっ!? そんな事より――っ!」
「私の自慢の娘なんだから」
そう言ってアンナは首からネックレスを外す。飾り気のない紐につけられた灰色の石は、もう何時も通りの落ち着いた色合いを取り戻していた。アンナはそれを伸ばしていたキリカの手に握らせる。
硬い石の感触。そしてひんやりと冷たい手の感触。
キリカは自らの手を握る母の手を見た。青白い肌。細い手首。だが不思議と美しい。それは生者の美しさではない。死者の壮麗さだ。その事に改めて気付いたキリカの瞳から止めどなく涙が零れる。だがその瞬間――。
アンナの手首。そこに無遠慮に黒い獣が喰らいついた。上方からまるで矢のような速度で次々と。
獣はアンナへと喰らい付いていく。
手首。肩。首。頭。胸。足。腹。
影が覆っていないあらゆる場所へ獣は喰らい付く。それはまるで獣が自らの身体を喰らっているように見えた。だが実際に喰われているのはアンナだけだ。真紅の血が噴き出し、白い肌を赤く染める。
キリカはそれらをはっきりと憶えている。
頬に掛かる温かい血の感触を。
最後に見せた母の泣き笑いを。
そして――母を貪り喰らったあの獣の歓喜の声を。
「きゃはっ!」




