1-16 策謀
辺りは既に暗くなっていた。
いつもはもう少し早く帰れるのだが、今日は色々とあって遅くなってしまった。まあ門限がある訳でもないし、構わないだろう。そんな風にイグナーツは内心で独りごちながら慣れた道を歩く。
ズナーニエ学園を拠点に学生相手の情報屋をしているイグナーツだが、当然ながら居を構えているのは学園ではない。スラムに程近い場所に安い部屋を借りて、そこに暮らしている。
元々はもっと良い場所に住んでいた。と云うのも、イグナーツの生まれはマターファでも裕福な商家の生まれで、その上に一人息子だった。跡取りとしての教育は受けていたし、本人もそのつもりでいた。だが両親をとある事故で亡くし、その隙に商家を乗っ取られスラムに逃げ落ちる羽目になったのだ。残飯を漁る日々だったが、孤児院の人間に拾われ何とか食いつなぎ、結局は今のようなプロとアマの中間のような情報屋稼業を営んでいる。
マターファに限ったことではないが、冒険者などが多い場所では情報屋という職業の需要は多い。そして果たす役割も。
狩り場の魔物の動向。依頼の背景の調査。儲け話に様々な伝手の斡旋等々。
ある程度の冒険者となると必ず一人は贔屓にしている情報屋がいるものだ。その情報屋は依頼のあらゆる局面を通してサポートする事になる。そもそもその依頼を受けるべきなのか、受けるとしたら幾らで受けるべきなのか、依頼者は嘘を言っていないのか。そういった事柄を実働戦力としての冒険者に成り代わりサポートするのが情報屋の主な役割になる。
尤も冒険者と云ってもそのタイプは様々だ。
決まった魔物を狩る事を専門にしているような冒険者はそこまで情報に過敏になる必要は無いし、まだ駆け出しの場合はそもそも情報屋に対する伝手も無いのが普通だ。そのような場合は冒険者の斡旋を請け負っている酒場のような場所が情報屋の役割を果たす事になる。
イグナーツの場合、繋がりの深い冒険者としてキリカ達三人のパーティがいる。
イグナーツとキリカ達との関係はそれなりに古い。キリカ達が三年前にマターファに来た当初からの付き合いだ。冒険者の斡旋を引き受けている酒場のマスターであるホシアと共に、このマターファでは最もキリカ達との付き合いの深い人間の一人だろう。
そうなった理由は大した事では無い。多分恵まれた環境から突如として追い出されたと云うキリカ達に共感めいた感情を抱いた事が一つ。もう一つはイグナーツが拠点としていたズナーニエ学園にたまたまキリカ達が入学してきた事がある。後は成り行きだ。
かつて世話になり、今では逆に世話をしている孤児院。そこの人間とキリカ達の仲が良いのもそれを後押しした。キリカは余り他人に自らの楽器の腕を聴かせる事は好きではないようだが、子供達には甘いらしく、時折やって来て何曲か弾いたり楽器を教えたりと割合面倒見がよい。カリムとユキも似たような感じだ。
今日学園でイグナーツがキリカ達に肩入れし、少し危ういレベルの情報を渡したのはそんな背景あっての事だった。
「……?」
見慣れた道を進み、自らのねぐらを視界に収めるとイグナーツは訝しげに眉を顰めた。自らの部屋の前の廊下に人影が見える。
……誰だ?
情報屋と云ってもイグナーツはそれほど危ない事に手を出しているつもりは無い。だから命を狙われるような覚えも無い。第一殺すつもりなら部屋の前で待ち伏せなどしないだろう。
だが万一という事もある。イグナーツは懐からナイフを取り出すと、警戒しつつ死角から近づいていった。
「……はぁ」
ある程度近づき、人影がはっきり見えるようになるとイグナーツは力を抜き息を吐いた。見知った顔――孤児院で世話をしている孤児の一人だったからだ。名前はダニー。年の頃はまだ十二程度だった筈だ。
「おい、どうしたんだ?」
取り敢えずナイフを納め、近づく。声に気付いた人影が、弾かれたようにイグナーツの方を振り向いた。
「……?」
イグナーツはそれを見て再び目線を厳しくする。振り返ったその顔が涙に濡れていたからだ。
「……何かあったのか?」
しゃくり上げるようにしてダニーが答える。
「アンとコリンの二人が、さらわれて……これを渡すようにって」
そう言って差し出された紙を、イグナーツは慎重な手付きで受け取った。
偶然かも知れない。だがどうしても今日キリカ達に渡した情報の事が頭を掠める。
それはどこか不吉な予感を伴っていた。
時刻は既に夜半過ぎ。
キリカはベッドでまんじりもせずに横になっていた。辺りは闇に覆われ、痛いほどの静寂が満ちている。
酷く嫌な感じだった。
今日カリムとタリスを襲ったという連中も、そして学園で教えてもらった冒険者が襲われ実験体にされているという噂も。
その所為かどうか判らないが、目が冴えてしまい眠れない。身体は疲れているのに神経だけが高ぶってしまっている。
「……はぁ」
キリカは軽い溜め息と共に胸元にあるネックレスを慎重な手付きで触る。
飾り気の紐にくすんだ色合いの石が付いただけの装飾具。それはキリカにとって親の形見とも云えるものであり、同時に仇とも云えるものでもあった。
どこか束縛の首輪にも似たソレをキリカは指で漫然といじくる。その時――。
「……?」
扉の外に人の気配がした。どこか慌ただしい足音も聞こえる。そして一拍おいてノックの音。
「キリカ、起きていますか? イグナーツさんが急な用と云うことでやって来たようです」
「……イグナーツが?」
意外な名前だった。
イグナーツはキリカとはそれなりに長い付き合いだが、わざわざ屋敷までやって来た事など殆ど無い。ましてや事前に知らせる事もなく、この時間に。
キリカの中で嫌な予感が膨れ上がる。
「判った。今行く」
扉の外へ声を投げると、カリムが遠ざかっていく足音が聞こえた。
キリカは眠くない癖に酷く重く感じる身体を起こし、手早く着替えた。そして扉を開け、一階へと向かう。
「……こんばんは、かな」
扉を開けそんな声を掛けると、厳しい顔をしたイグナーツが此方を向いた。部屋にはカリムとユキがいる。どうやらタリスはいないようだ。気付いていないと云う事はない筈だ。ならば多分イグナーツが同席を拒んだのだろう。
イグナーツの前にはお茶を淹れたカップが置かれている。だが口を付けてはいないようだ。それもまあ当然だろう。イグナーツの顔つきはキリカの目から見ても非常に厳しい。どこか鬼気迫ると云っても良いくらいだ。
「ああ、こんな遅くにすまないな」
「それはいいけど……何かあったの?」
キリカはイグナーツの対面に座りながら、尋ねる。イグナーツは一つ頷いた。
「俺が昔世話になっていた孤児院を知ってるな」
「え、ええ。私たちも時々お邪魔してるしね」
そんな事はイグナーツも百も承知の筈だ。キリカは訝しげに小首を傾げる。
「アンとコリンが浚われた」
「……っ」
キリカの、そして傍に控えていたユキとカリムの視線が厳しくなる。
「犯人は判っているんですか?」
「ああ」
横から尋ねるカリムの言葉にイグナーツは頷いた。
「だれ?」
簡潔なキリカの問い。
「――フエルテだ」
イグナーツも簡潔に答えた。
「……え?」
意外な名前に思わず声が漏れる。
イグナーツはそんなキリカの反応を半ば予想していたのだろう。構わずに言葉を続ける。
「フエルテ・ツンバオ。お前も知っての通り冒険者たちの顔役だ。お前と共に迷宮に潜り全滅したヴェークとの関係も深かった」
「……でも」
何かを言おうとキリカは口を開くが、それは明確な意味を持った言葉とはならなかった。
イグナーツはそんなキリカをちらりと見ると口を開いた。
「フエルテはタリス・マンチェス以外の、お前達三人が指定した場所へ来る事を要求している」
――どうする?
そう尋ねる声がした。
それがイグナーツの声か、それともキリカ自身の内心の声か。
今のキリカにはそれすらはっきりとは判らなかった。
どうも難しい。後半は内容は変わりませんが、文章は修正するかも知れません。




