1-13 接敵(下)
マターファの街並みは随分と賑わっていた。学生や冒険者、商売人、果ては旅行者らしきものまで様々な姿が見える。そんな街並みをゆっくりと歩きながら、タリスはカリムにこの大陸の社会知識などを教えて貰っていた。昨晩の事もあってかカリムも最初は少々ぎこちなかったが、今では普段通りか、普段より少し明るいくらいだ。昔キリカに教えていたというし、他人に何か教えることが好きなのだろう。
そんなカリムの話を聞いたところ、元の大陸とこのガイベルク大陸の差異というのはそれほど無いようだ。この大陸から他の大陸へ行くことは出来ないが、時折外部から内部の大陸へとやってくる物などがある所為かも知れない。
だがタリスがこのマターファの街並みに何の違和感も感じなかったと云う訳ではなかった。タリスはそう云う文化的な差異よりも、もっと根本的な違和感を感じていた。
平和な街中の喧噪。それがどうも遠くに感じられて仕方がない。どうにも身の置き場に困るというか、ガラスの向こうの世界のように感じられてしまうのだ。
かつてはこんなでは無かった気がする。下らない理由で故郷を離れ、騎士団に入り国のために戦った。その時はこんな街中の光景を誇らしく楽しいものと素直に感じられた筈だった。今のタリスではそれを思い出すことさえ上手くできない。
「――あれ?」
そんな事を思いながらタリスが街を歩いていると、隣を歩いていたカリムが声を上げた。キリカやユキの姿はない。二人は別行動を取っている。
「どうしました?」
タリスはカリムの方へ視線をやった。
カリムは信じられないモノを見るような目線で何かを見詰めている。その尋常ではない様子のカリムの横顔に、タリスの精神状態も自動的に警戒態勢へと移行する。
タリスの武器であり呪具である宿り木の杖が、主の意向を受けてローブの下でざわりと震えた。
タリスは視線をカリムと同じ方へと向ける。特に怪しげなモノは見えない。商売をしている屋台の人間。それを冷やかしている学生らしきカップル。アクセサリーなどの魔具を販売している露天。そしてその横の裏路地の近くに冒険者風の女――。
どうやらカリムの視線はその女に固定されているようだ。
「あれは……エリシュカ?」
尋ねようとしたタリスの機先を制する形でカリムが呟く。その名前はタリスも聞いた事があった。面識は無いが、確か迷宮に閉じ込められた際に死んだ冒険者の女だった筈だ。タリスは死霊術士の目で女を見る。だが隠蔽しようと思った場合、それが生者かそうでないかを見破るのは一目では出来ない。本格的に解析すべきかと考えたところで、エリシュカらしき女は脱兎のごとく路地裏に駆け出した。
――どうする?
タリスはちらりとカリムの方へと視線をやる。これがキリカとユキならば話は簡単だ。追いかけなければ良い。二人は危地に飛び込むほど自衛能力に余裕がある訳ではない。だがタリスとカリムのコンビならば違う。
「……行きましょう」
カリムが低く抑えられた声で言う。タリスもそれに一つ頷いた。
エリシュカらしき女を追い、路地裏を駆ける。表通りから一歩足を踏み入れるとそこは薄暗い全く違う光景だった。狭い通路が続き、据えた匂いが漂う。両脇に立ち並ぶ建物の所為で日当たりは悪く、まだ夕刻だというのに既に薄暗いと言っても良かった。その所為か人影は殆ど見えず、時折見掛ける浮浪者などは駆けるカリム達を不審そうに見詰めてくる。
恐らく意図的なものだろう。最初にそれなりに距離が離れていたのに、エリシュカらしき女を見失う事は無かった。狭い路地裏を右へ左へと駆ける背中は付かず離れずを保ち、カリム達を徐々に人気のない方へ誘導していた。
「……誘われてますね」
「ええ」
タリスの呟きにカリムは頷く。その態度に迷いは見えない。ここで引き返すつもりはないようだ。
どのくらい路地裏を駆けただろうか。行き止まりになっている空き地でエリシュカらしき女の動きが止まった。そして振り返り、此方を見遣る。その目線には何の感情も浮かんでいない。少なくともまともな状態ではないようだ。その事にカリムが気付き息を飲む。その内心は付き合いの浅いタリスには窺えない。
「……エリシュカ」
カリムが小さく呟く。
路地裏の空き地にはもう一人、人影があった。
黒いスーツを少し崩して着こなした若い女。軽くウェーブの掛かった髪を肩当たりまで伸ばしている。まるでどこかの商会の事務員のようでもあるが、そのしなやかで隙のない身のこなしは正式に暴力を学んだ者特有の剣呑さを漂わせていた。
「へえ……本当に来たの」
黒いスーツの女――リージヤが感心したように呟き、壁にもたれていた背を起こした。
それと同時だった。
周りの建物の屋上から弓矢による一斉射撃が行われるのと、タリスの影から異形のアンデッド――アロガンフォースが現れそれを薙ぎ払うのは。
ごくあっさりと一瞬の間に行われた攻防。薙ぎ払われた弓矢が路地裏に散らばり、軽い落下音を立てる。
だが、それはそれほど容易いものではない。気配も感じさせず、完全に無音で放たれた矢の雨。それを放った伏兵の練度も、そしてそれを見抜き、その刹那で召喚を成功させ自らと同行者を守ったタリスの召喚士としての技量も。
「…………」
それを認識したリージヤが、現れたアロガンフォースを厳しい目線で見詰める。
それは異形と云うしかないようなアンデッドだった。二メートルはあろうかと云う巨体。その巨体に相応しくその体格も筋肉質に盛り上がっており、その太腿は子供の胴回りほどはありそうだ。剥き出しになっている肌は禍々しい紫色をしており、所々に赤黒い硬質な物体が直接身体に埋め込まれている。
その両手の先には、巨体のアロガンフォースと比較してもなお巨大な斧刃が手の平の代わりのように取り付けられており、それは身体に埋め込まれているものと同様、まるで凝り固まった血のようにどす黒い赤で塗り固められていた。何よりその異形を強く主張しているのはその顔だ。小さな眼球に大きな口。のっぺりとした平坦な顔。それは子供が作った玩具か落書きにも見えたし、蛸か何かの両生類を無理矢理に人間の顔に変形したようにも見えた。
――強い。
リージヤは現れたアンデッドの戦闘力を推し量る。その単純な力もそうだが、何よりもその身のこなしが桁外れだ。今も立っているだけでまるで隙が見当たらない。知性のまるで感じられないその姿。だがそこから感じるのは間違いもなく武を修めた者の気配。それも信じられない練度で。
「どうやら問答無用という訳ですね」
先程の攻防をまるで何とも感じてないのか、タリスが何でもない事のように云う。いや、寧ろその声はほんの僅かだが弾んでいた。
「エリシュカは生きているのですかっ?」
タリスの態度に不穏なものを感じたのか、カリムが慌てた様に声を上げる。
「さあ。自分で確かめてみたら」
だがリージヤにまともに会話をする気はないらしい。興味なさそうにそう返すと、リージヤは懐から警棒を取り出した。黒塗りの金属製の警棒だ。持ち手の部分には滑り止めを兼ねているのか縄が巻かれており、打ち合いにおいて手が傷つかないようにだろう、頑丈そうな鍔が付けられていた。
「サモン・リッチロード」
辺りに張り詰めた緊迫感が漂う中、タリスが謳うように呟く。
その言葉と同時に、タリスの背後にまるで控えるように現れたのはローブを纏ったスケルトンだった。基本的な造形自体は只のスケルトンと変わるところはない。だがそのがらんどうの眼窩の中には紅く鬼火のように輝く炯眼が灯り、禍々しくも確かな知性を感じさせた。そのローブには不思議な文様が刻み込まれており、身体の各所には魔力を秘めた一級品の魔具が幾つもちりばめられている。そして何よりその身に纏う膨大な魔力が、凡俗のスケルトンとは異なる懸絶した魔導の使い手である事を示していた。
「サモン・アビスガード」
続いて同じような調子でタリスが呟く。リージヤも、そして控えている伏兵も何も手が出せなかった。リージヤは下手に手を出せば控えているアロガンフォースにあっさりと殺されていただろうし、弓射による狙撃も同じくアロガンフォースに防がれただろう。結果カリムを含めた全員が何も出来ず見守る中、『腐肉の王』タリス・マンチェスの側近とも云えるアンデッド、その最後の一体が姿を現した。
影が直接形を持ったようなその姿。フード付きのローブに覆われているが、その中身は黒くぼやけており判然としない。いやそれどころかそのローブ自体すら明確な境界が見当たらず虚空に溶け出しているようだ。リッチロードのソレとは違う粗末にも見える薄暗いローブと相まって、まるで影絵のように存在感がない。ただそのフードの暗闇の中で不吉に輝く紅い双眸と、手に握った淡く紅に煌めく直剣が不気味な存在感を発していた。
「上へ行き、邪魔な弓兵を殲滅してきなさい。アロガンフォースはカリムさんの護衛を」
自らの主人の言葉を受けて二体のアンデッドが音も無く動く。虚空を舞うように動き、あっという間に視界から消えていく。
「……カリムさんは下がっていてください」
タリスが振り向きもせず告げる。ねっとりとした、粘着質なナニカを感じさせる声だった。
カリムがその声に圧せられるように後ろに下がる。判っていた。自分が今下がったのは決して理性的な判断なのではない。ただ怖かっただけなのだと。身体が微かに震えているのが判る。あの時も――。
カリムは自らの情けなさと臆病さに泣きそうだった。だがそれを歯を食い縛る事で堪える。
「へえ。良いの?」
従僕を別の場所へと配し身一つで対峙するタリスに対し、揶揄するようなリージヤの口調。応えたのは、どこか冷たい、そして嘲るようなタリスの笑み。
「ッ!」
リージヤが飛び退く。一瞬前までリージヤの身体があった場所。そこにナニカが突き刺さっていた。木だ。黒ずみ所々に腫瘍のような瘤が出来ている酷く不気味な樹木。それがタリスの袖の内部から突き出ていた。木はまるで生き物のように蠢き、やがて寄り合わさり一つの長大なスタッフとなっていった。
タリスは慣れた様子でそれを身体の前で構える。その構えは随分と堂に入ったものだ。武人の持つ洗練された気配ではない。禍々しくおぞましい魔力が辺りを包む。
リージヤが腰を低く落とし、警棒を突き出す形で構えた。それは警告のようにも牽制のようにも見えた。
「丁度良い。貴方達には色々聞きたい事があったんですよ」
だがタリスは全く意に介さず、一歩足を踏み出す。
「今この場で死者となって全てを囀って貰いましょうか」
張り詰めた緊迫の中、タリスの口元は歪んだ弧を描いていた。




