演じる
「おねぇちゃん。るうとって何?」
テレビを見ながら、サトルが聞いてきた。「るうと」を頭の中で「√」に変換してから答える。
「サトル、掛け算もう習った?」
「うん」
「じゃぁ、二乗は分かる?」
「えぇっと、畳のこと?」
「ちがう。加減乗除の乗」
何でこんなことも分からないんだ、と苛立ちを隠さずにいうと、サトルと一緒にテレビを見ていた母が首を突っ込んできた。
「アキ、小学生にそんなこと言っても分からないでしょ。お母さんでも分からないんだから。相手のレベルに合わせられないのが本当の馬鹿よ」
馬鹿はどっちだ。本音は胸の内にしまっておいて、いつもの良い子演技を続ける。
「――サトル、二乗っていうのは同じ数字を二回かけるってこと。例えば、2の二乗は2×2で4。3の二乗は3×3で9。わかる?」
「うん」
「それで、ルートっていうのは、二乗したらあの記号の中の数字になりますよっていう意味。√2を二乗したら2になるし、√3を二乗したら3になる。わかった?」
「わかった!! じゃぁ、√4は2と同じだね!」
そのとおり。サトルは頭いいね。――思っても無いことを口にしてから、二階の自室へ向かう。
いつまで……一体いつまでこの良い子演技を続ければいいんだろう。もう疲れた。いつからだろう、こんな演技を始めたのは…………
とりあえず、こういうときは音楽を聴く。今日は……「G線上のアリア」そう決めてイヤホンを耳に入れようとしたとき、電話がなった。
電話は親機と子機があって、子機は私の部屋の前の廊下に設置してある。ディスプレイを見ると、ハタノリョウタと表示されていたので慌てて受話器を取る。
「はい、もしもし」一応よそ行きの声で出る。心臓が高鳴っているのは慌てたせいだろう。そうやって自分で自分に言い訳をしている自分が嫌いだ。
「もしもしハタノですけど、アキさんいますか?」
「あぁ、あたしやけど」今気付いたかのような演技をしてみる。
「アキ、あのさ…………」
「何?」
「アキってさ、好きな人おるん?」
「えっ? お、おるけど、それが何?」口の中が乾く。なんで、ハタノは急にこんなことを……。
「あのさ! 俺、アキが好きや!」
……何ていえばいいんだろう。今、幻聴が聞こえた気がするのは気のせいだろうか。落ち着け、落ち着けアキ。お前はクールだって友達にも言われるじゃないか。そうだ、これはきっとたちの悪い冗談だ。本気にしたらからかわれるに違いない。
「……は、ハタノ、人をからかうのはやめた方がいいよ」
「からかってない。本気や」
「……マジ?」
「マジ」
どうしよう。答えが出ない。何が正解なんだろう。どうしようどうしよう……
「…………アキ、付き合ってください!」
「………………ごめん」
耐え難い沈黙。
「その、すっごく嬉しいんだけど、今は、ほら、受験とかでお互いいろいろ大変出し、あたしら家遠いじゃん、それに、その……ごめんなさい」
なんでだろう。心にもないことを言うのは慣れてるはずなのに、涙があふれてくる。
「……せやな、わりぃ、変なこと言った。じゃぁな、おやすみ」
「おやすみ…………」ハタノが切るのを待ってから受話器を置き、涙を拭う。
ハタノのことを意識しだしたのはたぶん、二年ぐらい前から。最初は恋愛感情というより自分には無いものを持っている憧れというか、妬ましさというか……ハタノは明るくて、楽しそうで、いつも輝いていた。それは今も変わらない。変わったのは、私の気持ち。恋愛感情が芽生えてしまった。
たぶん、ハタノが好きになったのは私じゃない。良い子を演じている私。付き合ったらお互いが傷つく。それが私の結論。もしかしたら、ハタノは私の素の部分も好きになってくれたのかもしれない。けど、そんなわずかな可能性にかけて傷つくのは、悲しすぎる。
まだやり直せる。ハタノはもっとステキな彼女が出来ると思う。私のことは忘れればいい。
不安があるとすれば、そのときに私が演技を続けられるか、それだけだ。