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○ ノックの話 2

 

 会社員、緒方浩次おがたこうじは、食欲の減退を感じながらも、コンビニに向かう事にした。


 周囲に警戒を怠らないようにしている、あのノックをしてきた奴(トイレの事から考えて男には違いないだろう)が、どこから自分を見ているのか分かった物じゃないからだ。

 あのノックだけなら薄気味悪いだけで、直接的な害は無いが、いつ直接的な害が襲ってくるか分かった物じゃない。

 だから、普段は何気なく歩いている徒歩五分くらいのコンビニまでの道のりを、まるで戦時中のように慎重に緒方は歩いていた。

 コンビニに着くとホッとした。

 人がいて、明るい場所はこれほどまでに人を落ち着かせるのかと思った、そりゃ虫にしても灯りに集まる訳だとか思っていた。

 急に食欲が湧いてくるのを緒方は感じていた。

(今日は何を食べようかな? カップ麺か……、いやパスタとか弁当でも良いな、ついでに食後のデザートも買うか)

 など、考えていた。

 でも、食べ物よりも、何故か雑誌コーナーに向かうと、当たり前のように緒方は今日発売の漫画雑誌を立ち読みし始めた。

 不思議な事に、学生時代は毎週買っていた漫画雑誌も、大人になってからは買わずに立ち読みで済ませてしまっていた、その雑誌の中の幾つかだけに興味が有って、それ以外は読まないので金を出すのが割に合わないと考えるようになったからだ。

 いつも見ている漫画は、やはり面白い。

 これと、あと二つほど漫画を見たら夕食を買って帰ろう。

 緒方がそう思った時だった。


 こん、こここん。

 

 ガラスを叩く音が耳に届いた。

 独特な、それでいて既に聞き慣れた音だった。

 思わず手に持った雑誌を落としてしまいそうなほど、緒方は驚いていた。

 そしてすぐに雑誌から顔を上げて、窓の外に眼を向けた、しかし、そこには誰一人として見当たらなかった。

 時間にして二秒もかからずに、顔を上げたというのにどうして誰もいないのか。

 緒方はお気に入りの漫画が与えてくれた高揚感を打ち消すほどの疑問、いや恐怖を味わっていた。

 首には嫌な汗が、運動時に出る爽快な汗ではなく、下痢腹を抱えてトイレにうずくまっている時に吹き出るような汗がにじみ出ていた。

 完全に食欲が失せていた。 

 

 緒方は、逃げるようにして雑誌を放って、コンビニを出て家に向かって走った。

 全力疾走だった。

 脇腹の痛みを感じたが、それはどうでも良かった。

 誰かが近付いてこようとしても追いつけないほどの速度で走らなければならないのだ、誰かの悪戯だとしたらそれは成功している、このような滑稽な姿で走っている自分を見たらそいつは満足するかもしれない、そういう淡い算段も緒方の中にはあるのだが、それはただの言い訳で、本当は怖くて怖くて堪らないのだった。

 走らなければ、体を動かさなければ、どうにかなってしまいそうだった。

 マンションに辿り着いても、エレベーターという密室に入るのが異常に怖く感じ、三階の自宅まで階段を駆け上った。

 息が切れている。

 普段は運動など滅多にしないから、足ももつれている、だがそれでも止まるよりは遥かにマシだった。

 家の前に来て、ドアノブを回そうとした、ちょっとした買い物のつもりだったから、鍵など閉めていない。

 だが――

 鍵がかかっていた。

 これはつまり……

兄貴あのやろう! どっかに出かけやがったのか!?)

 緒方の兄は、さっきまでテレビを見ていたが、良く思い出せば家でくつろぐ格好ではなく、どこかに出かけるような格好をしていた気がする、だがそれにしても、緒方が家を出てからまだ10分も経っていない、それなのにこんなにタイミングよく家を出る物なのか。

 

 もちろん緒方のポケットの中には、家の鍵が有るので問題無いが、こういう精神状態の時に一人で家にいるというのは想像しただけでも耐え難い物がある。

 だが、家の前でジッとしていると、背後から誰かが飛び掛ってきそうで怖い、まるでトイレを我慢していて慌てて家の鍵を開ける時のような必死さで、緒方は家の鍵を開けて、飛び込むようにして家に入った、そしてすぐに鍵をかけた。

 とりあえず、これで安全だろう。

 家は知られていても、これで中には入ってくる事は無いはずだ。

 緒方は思わず、安堵のため息を漏らしていた。

 玄関にへたり込みそうになったが、背後からまたあのノックの音が聞こえてきたら、心臓に悪すぎるのですぐに家の奥に向かって、そして不安を打ち消すようにテレビをつけた。

 いつものテレビ音量よりも5つほど高い音にしていた、その音が家の隅々まで染み渡って怖い物を隠してくれそうな気がしたからだ。

 テレビの中ではお笑い芸人が楽しい空気を発していて、緒方は救われたような気分になっていた。

 今日はもう、熱い風呂に入って、すぐに寝てしまうに限る、そう思った。

 風呂は自動で沸くようになっているので、とりあえず”おいだき”ボタンを押して、またテレビを食い入るようにして見た、テレビに集中すれば、他の怖い事など考える余裕など無くなると、そう考えているように見えた。


 熱いシャワーを浴びて、その熱が全身に染み渡ると、今日一日あった事が嘘のような爽快感を緒方は感じていた。

 そして冷静に頭を働かせ始めていた。

 多分、気のせいじゃない。

 勘違いの類でもなければ、ちょっとした悪戯のレベルでもない、でもじゃあ何なのかと考えるとまるで想像が付かない。

 あっ、と緒方は一つの考えを思いついていた。

 これはまさか――

 会社で働きの悪い自分を、こうやって追い込んで精神的なストレスで自主退社させようと、そう考えた会社の連中が仕組んだ事じゃないのだろうか。

 緒方が勤めている会社は、そこそこ大きい。

 聞いた話じゃ、会社と言う物は会社自体が経営を存続できないほどの状態か、あるいは社員に著しい問題が無い場合以外は解雇を言い渡せない物らしい、会社側からのそういう要求は色々とややこしい問題が付き纏うのだという。

 だが、自主退社となれば話は別だ。

 本人の希望なので、会社側は、それまで勤めてきた分の退職金を支払ってサヨウナラだ、それで済む、今後何年も無能な社員を飼って、バカ高い退職金を支払うよりはずっと安く済む。

 そういう考えではないだろうか。

 よく考えれば、今までの全てがほとんど害が無い、これは例え見つかったとしても、悪戯でしたとか言い訳する為じゃないのだろうか、実害が無いのだから訴えようも無い。

 ということは、そういう無能社員を辞めさせる為の部署があって、それが動いているのか?

 とか、漫画染みた事を緒方が考えていた時だった。


 とん、とととん。


 その音が風呂場のドアを叩いた。

 一瞬、熱い湯が冷水に変わったような気分を味わっていた。 

 これは――、違う……。

 会社絡みとか、そんな次元じゃなく、もっと異質な何かだ。

 会社がここまでするとは考えられない、明らかな不法進入である。

 何なのか、一体何が自分の身に降りかかっているのか。

 少なくともノックしてきた奴は、鍵のかかったこの家に入っている事になる。

 それは堪らなく恐ろしい。

 しかも、ノックだけで、声も聞こえなければ他の一切の行動が無いのも逆に恐ろしい。

 結局緒方は、風呂場で怯えながら、1時間近くもそこで息を潜めるようにしていたが、最初のノックの音から一切のリアクションが無かった。

 兄が帰ってくるのが理想だったが、平気で朝帰りをする兄である、当てには出来ない。

 もうこうなったら、ヤケだ、と言う事で思い切って外に出たが、誰の気配も無ければ家の中が荒らされた形勢も皆無だった。 

 何がどうなっているのか。

 その得体の知れなさに、益々深い恐怖を抱きながらも、緒方は濡れた体をバスタオルで拭き取って、衣服を身に着けていた。


 家はもう、落ち着ける場所ではなかった。

 誰かが、家の中にいるかもしれないと思いながら、布団に潜ることなんて出来っこない。

 緒方は、護身用に手に調理用の包丁を握っている、気休めくらいにはなるだろうし、相手に対しての威嚇にもなる。

 家の隅々をくまなく探した、時には息を呑むほど恐ろしかったが、それでもあちこちのドアを開け、ふすまを開け、ベッドの下まで覗き込んだが、どこにも誰の姿も無い、そもそも人が隠れられるような広さの家ではない、誰かが隠れていればすぐに分かるはずだ。

 窓の鍵を見たが、どこにも破られた形跡も無い、玄関も同様だ。

 緒方は奇妙に思いながらも、全てが自分の思い過ごしではないかと思っていた、いや、そう思いたかったのかもしれない。

 僅かにホッとしたら、緒方は急に喉の渇きを覚えた。

 冷蔵庫に向かって、その扉を開こうとした時だった。


 とん、とととん。


 冷蔵庫の中から音がした。

 冷蔵庫は、人が入れるようなスペースは無い、少なくとも緒方の家の冷蔵庫には無い。

 母が買い置きをする性格なので、中には他の物がぎっしり詰められているはずだ、それなのにノックの音がする……

「うわぁあっ!」 

 緒方は悲鳴のような叫びを発しながら、その扉を開いた。

 だが――

 やはり、何も無い。

 緒方は、眩暈がするほどの恐怖を味わっている。

 自分は今まで、人為的な物ばかり考えていた、誰かの悪戯だとか、会社の策謀だとか、だが、それらは完全な思い違いだったんじゃないのか。

 完全に考える視点が違うのだ。

 これは、人為的なものじゃなくて、あるいは――

 そう考えると怖さが倍増しそうなので、緒方は必死にその考えを打ち消そうとした。

 恐怖とはすなわち想像力である。

 想像力の無い人間には恐怖など無く、自分が生み出す無限大の想像の恐怖を打ち消すほどの勇気を持っていれば、あるいはそれを防げるかもしれないが、残念ながら緒方にはその恐怖に抗うほどの勇気など持ち得なかった。

 逃げ出したかった。

 家から逃げ出し、どこか人のいる場所へ行く。

 だがどこへ?

 ファミレスに行くにしても、コンビニに行くにしても、あるいは漫画喫茶に行くにしても、友達の家に行くにしても……

 外に出るという事が堪らなく怖い、暗闇が自分に牙を剥いて襲い掛かってきそうな予感すらする。

 だが、家にいるのも怖い、物陰に潜む”何か”が、自分を狙っている視線を感じるような気がする。


 では、どうするのか。

 寝てしまう。

 全ての考え、思考、想像を停止させて、夢の中に逃げ込む。

 それが緒方に出来る、数少ない恐怖に対抗する術だった。

 布団を頭から被って、一切の世界との断絶を試みた。

 祈るようにして、次の日が来るのを緒方は願った。

(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……)

 緒方は、全てに向けて謝っていた。

 自分が何をしたのか、何故こんな目に合ったのか、理解できないがとりあえず相手の気が済むのならいくらでも謝る、謝るだけで済むのならば土下座だっていとわない、哀願に近い感情を緒方は布団の中で念仏のように唱え続けていた。

 その時だった。

 布団が押されたのだ。

 力一杯ではない、軽い力だ。

 その押す力が、何というかリズミカルで、というよりも、それは今日だけでもう何回も体験した――


 とん、とととん。


 という感触のような……

「ひぃいいいっ!」

 情けない悲鳴を緒方は発していた。

 だがもう恥も外聞も無い、その押す力は、一つの部分だけではなく、布団のあちこちで同時多発的に発生しているのだ。


 とん、とととん。      とん、とととん。   とん、とととん。               とん、とととん。      とん、とととん。   とん、とととん。      とん、とととん。      とん、とととん。    とん、とととん。  


 発狂してしまいそうだった。

 そのように追い詰められた時、人の行動のバリエーションは極端に少ない。

 拒否か、あるいは――

 緒方は後者を選択した。

「ふざけんな! そんなにノックしやがって! 入りたいなら勝手に入りゃ良いだろうが!」

 緒方は叫んでいた。キレたという表現が正しいのかもしれない、人が追い込まれた時、その状況を破壊してしまうような衝動的な行動、緒方が取ったのはまさにそれだった。

 叫びながら布団を蹴っ飛ばして、外に飛び出すようにして布団からその身を出した。

 そして辺りを見渡した。

 だが、まるで今までの全てが嘘のような静けさに包まれていた。

 誰の姿も無い、何の姿も無い。

 ただのいつもの自分の部屋だ。

「は、はははは……、ははははは……、はは……」 

 緒方は思わず笑ってしまっていた。

 あれだけ怯えさせといて、こっちがちょっと強気に出たら消えてしまう、そういうモノなのかと思った、それだけのモノだったのか。

 そんな物に自分は怯えていたのかと思うと、もうこれは笑うしかない。

 緒方は全てが消え去ったように安堵した。

 その時だった。


「うん、そうする」 


 どこからかポツリと声が聞こえた。

 それは耳元で囁かれたようであり、また遠くから聞こえたようでもあり、幼い女の子の声のようでもあり、年老いた老爺のようでもあり、またそのどれでもないような声だった、ひどく抽象的な声で、まるでその言葉が記号として頭に放り込まれたような印象すら感じる声だった。

 その言葉の意味、緒方には理解できなかった。

 まさかそれが、咄嗟に自分が言った「入りたいのならば勝手に入れ」の答えだなんて、思いもよらなかった。


 とん、とととん。


 またノックの音が響いた。

 どこからでもない、緒方にとって地球上で最も近い場所からのノック音である。

 耳が聞こえなくなった人でも、頭蓋骨に直接音を響かせると声が届くという、まさにその振動が緒方に響いたのである。

 それはつまり――

 そして…… 

 扉は開かれた。

 

                      ・


 翌日、酒を飲み朝帰りをした緒方の兄が見たのは、異様で無残な弟の死体であった。

 その死体は、どういう事をされたらそうなるのか、いや、難しい事ではない、単純な事だというのは分かるが、その方法がまるで見当が付かなかった。

 そう、もっとも適した表現があるとするならば、”引っぺがされて”いるのだ。

 緒方は、布団に顔をうずくまるようにしていて、その後頭部のみが兄には見えるのだが、その後頭部の一部分がまるで小さなドアがこじ開けられているようにぱっくりと開いていて、中身が見えるのだ。

 それだけでもう弟が二度と自分と口を利く事は無いだろうと悟った。

 それにしてもこんな事は特殊な器具でもなければ出来ないだろう、それに少なくとも玄関に鍵はかかっていたし、窓が破られた形跡も無い。

 さっきまで飲んでいた酒の酔いが、一瞬で覚めていた。

 一体、何が起こったのか。

 その時だった。

 完全に言葉を失っている緒方の兄の肩を誰かが叩いた。


 とん、とととん。


 

 完。

 






 予想より、ちょっと長くなってしまいました。

 途中の文章、携帯ではちょっと読み辛いかもしれませんが、すいませんです。

 

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