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● ノックの話 1

 

 とん、とととん。 


 独特なノックの音が響いてくる。

 一回叩いて、僅かの間を置いて三回連続で小鳥が木を突付くように叩いているのだろう。

 今年で24歳になる会社員の緒方浩次おがたこうじは、トイレの便座に腰掛けて携帯をいじりながら、その音に顔をしかめた。

 場所は駅の公衆トイレ。

 時間は朝の通勤時間帯である。

 この時間帯のトイレは混雑している、特に個室に殺到する人間は切羽詰っている、少しでも余裕が有ればわざわざ並んでまで駅のトイレを利用しようとはしない、限界ギリギリで他のトイレを探す余裕も無い人がここに集う。

 その中で、一つの個室の中で用を足す訳でもないのに、そこに座っている緒方は明らかなマナー違反だった。

 緒方はひねくれている。

 人が使いたくて堪らない時間帯に、その場所を占有しているという事に優越感に似た物を感じて、楽しんでいるのだった。

 会社では無能呼ばわりされて、蔑まれている自分が座っているこの空間に、入りたくて入りたくて堪らない奴らが外にいるという快感を感じているのだ。

 彼にしても目立ちたくないので、何時間もいるわけではない、それにそんな事をしていたら会社に遅刻してしまう。

 実際、緒方は本来会社に間に合う時間よりも三十分は早く家を出ている、そしてその時間の大半をこのトイレで消費する。

 会社に行く時間を早めてまでわざわざこんな事に時間を費やしているのが根本的な間違いのように思えるのだが、酒も煙草もギャンブルもやらない彼の数少ない憂さ晴らしだった。

 

 それにしても、今まで10分以上も居座っていても誰もノックなんかしなかった。

 もしかしたら、トイレの中で用足し以外の事をしているのがバレたのだろうか。

 いや、携帯のゲームで遊んでいるのだがそれも音も消してやっているし、トイレの扉でボタンの操作音なんて聞こえやしないだろう。

 よほど焦っている奴が外にいるのだ。

 そう考えると緒方は笑みを浮かべていた、あまり人に好感を持たれない笑みだ。

 会社ででかい顔をしているような奴だったら良いのに――

 そう思いながらも、緒方は席を立った。

 用は足していないが、偽装の為にわざわざ水を流して外に出た。

 外には行列が出来ている、一体誰がノックをしたのか?

 緒方はざっと見たが、皆はドアから離れた場所で並んでいる。

 個室は全部で4つ備えられていて、入りたい奴はそのドアの前じゃなくて、少し離れた場所で待って、空いた場所から入っていくという形の並び方だ。

 個室トイレが一つならばともかくこれだけの数があるのに、ノックをするほど限界ギリギリの表情の男は見当たらなかった、緒方は内心がっかりしていた、惜しい物を見逃した……そう考えているのだ、きっとさっきノックした奴は他の個室に入ってしまったのだろう。

 緒方は朝の楽しみを満喫すると、そのまま会社に向かった、今日も一日憂鬱だった。


 緒方は会社のトイレに座っている。

 勤務中なのだが、事有るごとに彼はトイレに入り浸る。

 存在感の薄いほうなので比較的気づかれにくいが、上司も馬鹿ではない、それを全て把握している、トイレに行く事自体は生理現象なので咎められないが回数が多すぎる、注意すべきなのだろうが上司ははっきり物をいう性格ではなかった、だが、きっちり彼の事を見てそして評価をしている、その査定がボーナスにもしっかりと響いている。

 緒方は、自分がトイレに行き時間を潰してサボっている事は、上司に気づかれずに上手い事やっているつもりなので、何で自分のボーナスが低いのか納得できずに憤慨する場面も有ったのだが、上司に食いつくほどの威勢の良さは彼には無く、ただその憂さを別の場所で晴らすだけだった。

 トイレの中で彼は、後5分くらいは時間を潰しても平気かな……とか考えていた。

 その時だった。


 とん、とととん。


 聞いた事のある独特なノックの音だった。

 朝、駅で聞いたのと同じノックなのはすぐ分かった。

 まさか。

 会社の奴だったのか。

 緒方は驚きながらも、それと同時に疑問を抱いた。

 何でノックするのか?

 この会社のトイレには個室が3つある、緒方がトイレに入った時には誰もいなかった、その中で緒方は中央の個室に入っている、だから誰かが隣の個室に入ればすぐに分かる、だが、そんな気配はなかった。

 それなのに――

(こいつは、空いているトイレに入ろうとせずに、何でわざわざ俺のトイレをノックするんだ……?)  

 上司か?

 サボっている事がバレて、「おい緒方、いつまで時間を潰しているんだ?」とか、注意するつもりなのだろうか?

 緒方は、恐る恐るノックを返した。

 少なくとも、トイレに入っていれば、中で何をしていようと小学生じゃないんだから上からとか覗かれたりはしないだろう、だからサボっていた事はバレない、それが緒方の理屈である。

 

 だが。

 応答が無かった。

 緒方は、してもいないのにまたトイレの水を流して、静かにトイレのドアを開けた。

 奇妙だった。

 誰もいない。

 もっと奇妙なのは、左右の個室のどっちにも誰も入っていないのだ。

(何だ……?) 

 誰かが走り去る気配も無かった。

 一体誰がノックしたんだろうか。

 緒方の頭はその疑問で一杯になった。

 だが、解決する事も出来ず、奇妙な疑問を抱えたまま終業時刻を迎えていた。


 帰りの電車の中でも、緒方は今日の事を考えていた。

 緒方は、混雑気味の電車の窓際に立ち、外の景色を見ながら今日のことを思い返していた。

 一体何がどうしたのか。

 考えを整理してみた。

 まず一つ。

 駅のトイレでノックした奴と、会社のトイレでノックした奴は同一人物か否か。

 確証がどこにも無い。

 ノックの音は独特だったような気がするが、今から考えると本当に同じようなノックだったのか曖昧だ、ただ似たようなノックだったのかもしれない。

 仮に同一人物だとしたら、一体誰なのか考えたが該当する奴はまるでいない、そんな悪戯心を持った人間はいないし、それほど手の込んだ事をしそうな粘着質な奴も思い当たらない。

 駅のと、会社のとが別人だとしても、会社でのノックは奇妙だった。

 あれはどう説明する?

 自分が注意深く聞いていなかっただけで、ノックだけしてトイレを出たのかもしれない。

 何の為に?

 理由は思いつかない。

 緒方の頭の中がこんがらがった。

 その時だった。


 とん、とととん。


 誰かが緒方の背中を叩いた。

 指で突くようにして。

 緒方は、心臓が跳ね上がるのを自覚した、そしてそれと同時に確信した。

 これは……、間違いなかった。

 緒方の頭の中で全てが繋がった。

 朝のも、会社のも、同じ奴だ。 

 そういう確信が今持てた。

 そいつが今、自分の後ろに居るのだ。

 緒方は振り返ったが、知った顔は一人もいない。

 混雑しているので、誰かが自分の背中を叩いて身を隠そうとして動いたら、逆に目立つ。

 そんな奴は一人もいなかった。

 一体どうなっているのか。

 緒方の予想では、振り返ったら会社の同僚がいて、「驚いたか?」とか言うのを予想していたのに、会社の奴どころか見たことある顔が一つも無いとは――

 だが、誰かが、この中にいる誰かが間違いなく今自分の背中を突付いたのだ。

 害は無いが、気分が良い物ではない。

 悪戯を越えて、もう嫌がらせに近い、しかも駅や電車の中だけならともかく、会社のトイレにまで来るなんて異常のレベルに達している。

 緒方は誰とも分からないので、視線に映る全員に睨みつけるような視線を向けた。

 乗客は、皆が一様に疑問符を頭に浮かべているようだった。

 電車は普段とは奇妙な空気を乗せたまま、黙々と目的地に向かっている。


                         ・ 


 緒方は、家族とマンションで暮らしている。

 父は他界し、母とそして1歳上の兄と同居しているのだ。

「ただいま」

 暗い声でそう言うと、家の奥の方から「おー、おかえり」という兄の声がした。

 今日はおかしな一日だった。

 何か人に恨まれるような事をしただろうか?

 そりゃあ、朝のあの時間のトイレをちょっとだけ長い時間使ってはいるが、その程度の事で嫌がらせをされる筋合いは無い、緒方はそう考えている。

「兄貴、メシは?」

 兄はテレビを見ながら。

「母さん旅行でいねぇんだから、外で食って来いとか言われただろ?」

 と答えた。

「聞いてねーよ」

「そりゃお前が悪い」

「はいはい」

 とりあえず、家にある物を食べようか、外で買ってこようか緒方は一瞬迷ったが、今日はコンビニでも行って、何か適当に食べる物を探そうと思った、金は多少ある、コンビニで財布の中身を気にしない程度には、だが。

 とりあえず着ているスーツを脱いで、私服に着替えてまたすぐ緒方は玄関に向かった。

 わざわざ行ってきますも言わなければ、兄も弟に対して行ってらっしゃいとは言わない。

 ドアノブに手をかけようとした時だった。


 とん、とととん。


 誰かがドアを叩く音がした。

 一瞬、身が竦んだ。

 飛び上がりそうな恐怖が緒方に突き刺さっていた。

 誰かが、ドアのすぐ前に……いる。

 しかも、それは駅で自分の背後に立っていた奴であり、それはつまり――

 家の場所まで知られていて、わざわざ家までやってくるようなそんな異常とも言える行動力を持っていることを表していて……。

 ドアを開けるべきか否か、 あるいは、今ここですぐにドアを開けて、「誰だ!」と叫べばそれで済む事かも知れない。

 ただ、怯えてドアを開けないという行為を選択すると、これから何日間も同じような体験をしなければならないかもしれない。

 どうすべきか。

 もう、こんなモヤモヤした気分で過ごすのはまっぴらだった。

 緒方は、迷いながらも普段は滅多に見せない勇気を振り絞って、その扉を勢いよく開けた。

 

 だが――


 そこには誰の人影も無かった。

 またエレベーターも近くにあるがそれも稼動しておらず、誰かの足音も聞こえなかった。

 確かに、死角はいくらでもある、足音もゆっくり歩けば聞こえないだろう。

 だが、どうにも釈然としなかった。

 緒方は、奇妙な恐怖に生唾を飲み込んだ。






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