● 呻き声の話
夜である。
25歳フリーターの岡田大吾は、暗闇の中、静かに目を開けていた。
時間は深夜零時過ぎ、現代社会においてこの時間帯というのは、必ずしも誰もが床に入る時間ではない、大吾も明日が休日であれば、朝方まで起きてネットを見ていたり、やりかけのゲームをしていたりする時間である。
だが、明日は朝早くから始まるバイトが入っている、その為に大吾は今日は特別に生真面目に23時にはもう布団に入り、眠りに入りかけていたのである。
何しろ、そのバイト先には、歳は30過ぎでやたらと口うるさい男の先輩がいる、ちょっと遅刻したり、誰でもするような仕方の無いミスで、とにかく物凄く怒られる、それも人の今後のためにあえて厳しく怒る、というのとはまったく別で、自分の鬱憤を晴らす為だけのように怒る、最終的にはミスとは関係ない事で怒るのである、それで辞めてしまった者も多い。
大吾の働くバイト先では、フリーターではあるが古株なのでかなりの発言力を持っているのだが、やはり30過ぎでフリーターというものはそれなりにストレスが溜まる物なのかもしれないが、それを他人で発散するのは止めて欲しかった。
どういう訳か先日、その先輩がこの家までやってきた事は思い出したくも無い……
だから早めに眠ろうとしていたのだ、それなのに、深い場所から静かに引きずりだされるように、大吾の意識はゆっくりと覚醒し始めたのである。
一体何故なのか。
尿意を催した訳ではない、幼稚園児ではないのだからそれならばすぐに分かる。
たまに、朝早く起きるというプレッシャーから、起きる時間よりも1時間くらい前に目が覚める時は有る、もちろん、それが眠って一時間しか経っていない時でも、絶対に無いとは言いきれない。
だが――
何か奇妙だった。
どことなく腑に落ちないのである。
異様な事が起こっているのに、それにまったく気が付いていないような、自分の知らぬうちに何かが起こっているような、そんな胸騒ぎに似た物を感じるのである。
大吾は1Kの安アパートで一人暮らしをしている、男の一人暮らしであり、元々几帳面な性格ではない為、部屋の中は適度に汚れている、だがそれでも大吾にとっては部屋の隅から隅まで目が行き届いている空間である、それなのに、今日に限って言えばどことなく妙な気分だった。
(気のせいかな……?)
違和感。 大吾はそう呼んでも言い物を感じているのだが、わざわざ電気をつけてまで、部屋の中を調べる気は無い、布団から一度出たら今は半分ほど覚醒し、半分はまだ眠気を感じている状態なのが、完全に目覚めてしまうからだ、そうしたらまた眠りに落ちるまでにかなりの時間を要する事になってしまう。
それに泥棒が部屋には入って来ているとか、そういう人が部屋にいる気配ではない、そもそもこんな部屋に誰が忍び込んで来ると言うのか、どう贔屓目に見たって金があるようには見えない、泥棒が入ったとしても申し訳なくて逆に金を置いて行ってしまうような、そんな部屋である。
結局、大吾は自分の思い過ごしと言う事で、頭の中でまとめて、再び布団を頭から被り眠ろうとした。
その時だった。
大吾の耳に声が届いてきたのである。
それは、はっきりとした声ではない。
まるで風邪で喉がやられている時に、無理に出したような声に聞こえた、掠れた呻き声である。
一体どこからするのか。
隣の部屋?
いや、違う、そういう感じではない、それに壁が薄いから隣が帰ってきているかどうかすぐ分かる、大吾の部屋は一番端なので、隣の部屋は一つである、それにそもそもこの声の感じからして、壁とかそういう物を隔てて聞こえてくる音ではないように感じる。
あえて言うならば。
この『部屋の中』の、どこかから聞こえてくる声のような――
大吾は思わず、息を呑んだ。
誰かがこの部屋にいる!?
いや、だが誰かが隠れられるほど広さがあるわけではない、押入れの中とか、そこから聞こえてくる感じでもない、だが間違いなく部屋の中から声がするのである。
思わず、大吾は起きて灯りを点けた。
そして部屋を見渡したのだが、どこにも異常は無い、だが声は聞こえてくる。
隙間風? 機械の駆動音? 家鳴り? どれも断言は出来ないが、違う気がしてならない、もっとそういう種類とは違う物のような気がする。
じゃあ、何なのか?
大吾は恐慌状態に陥る寸前だった。
元々が気が小さい、物陰から急に何かが飛び出してきたら、女のような悲鳴を上げてしまう性格なのである、中学校時代に友達とお化け屋敷に行った時は失神してしまい、お化けに介抱される始末だった。
そんな大吾だから、もうこの部屋で朝まで眠るという選択肢を選ぶ事は出来なかった。
「で、呼んだ訳?」
場所はファミレスである。
名前を聞けば誰もが知っているし、大抵の街に探せば一軒はある、そういう店に二人の男が向き合って座っている、一人はたった今恐怖の呻き声のせいで、部屋から転げるようにして逃げてきた男、岡田大吾である。
向き合って座っているのは、線が細い印象を受ける男であるが、その目付きは岡田には有る甘さというか、そういう物が無い、強引な押し売りや宗教の勧誘でも平気で断れそうな、そんな意志の強さが窺えた。
その声から感じるのは、苛立ちと怒りである。
「あ、ああ……」
大吾の声には力が無い。
さすがに、こんな時間に突然、携帯で友達を呼びつけた事に対しての、引け目を感じているようだった。
「こんな時間に……、あのな、俺とお前は小学校以来の親友だよ、これは間違いない、お前が事故ったりしたら、こんな時間だろうとどんな時間だろうと、すぐに駆けつけるさ、でもな、だからと言って零時過ぎにいきなり呼びつけられて、慌てて来てみたら、その理由が部屋で『変な声がする』じゃ、誰だって怒るさ、家が近くても関係無くな」
かなりの正論を一気に言っていた。
この男の名前は真壁駿という。
大学を卒業し、今は一部上場企業に就職をしている、もちろん明日は平日なので仕事は有る、それでも友達からの電話一本で駆けつける辺りは、かなり友達思いというか、面倒見が良い性格なのだろう。
だが、それでもやはり怒りは見せている。
真壁は、注文したロイヤルミルクティーを飲んでいるが、かなり砂糖を入れているのに、まるで苦い物でも飲み込んでいるような表情を浮かべている。
「悪いかったよ、でもさ、頼れるの、お前しかいないし……」
大吾は消え入りそうな声で言った。
本当に心の底から申し訳ないと思っている口調である、それを見て、真壁はため息を吐くと上着とレシートを手に無言で立ち上がっていた。
「あ……」
大吾はまるで捨てられた子犬のような目をした、全てに見放されたようなそんな眼である。
もっとも頼りにしていた相手が、怒って立ち上がった、もう自分には頼るべき相手がいない、そんな絶望感が漂っていた。
「おい、行くぞ」
「……行く?」
「お前の家だろうが、とっとと行って、さっさと疑問を解消すれば良いんだろ、こっちも朝早いんだから」
「本当か!? ありがとう!」
大吾は本当に嬉しそうな表情をしていた。
真壁はやれやれと言った雰囲気で、それでもやはり長い付き合いの友達は見捨てられず、速く大吾の不安を取り除いて、そして帰る、そう決めたようだった。
誰もが出来る事ではない、大抵は怒りを呼びつけた相手にぶつけて、そのまま絶交になるか、あるいは上辺だけの心配をして、気のせいだよと諭すか、もしくは電話で呼び出されても出ないか、あるいは来ないか、まぁこの位だろう。
「じゃ、行こうか」
真壁は、頼りがいの有る声でそう言った。
大吾は、自分と同い年のこの男が、世界中の誰よりも頼もしい人間であると確信していた。
部屋に着くと、呻き声は聞こえない。
大吾は、また申し訳無さそうな顔をした、怪異が起こっていない事は喜ばしい限りだが、気のせいの類で真壁を呼びつけてしまったのだとしたら心苦しい――そういう矛盾にも似た苦悩を味わっているのである。
「音は、今はしないか?」
「あ、ああ……」
か細い消え入りそうな声で大吾はそう言った。
「そうか、とりあえず上がらせてもらう」
だが、真壁はほとんど気に留めていないようだった。
「どうぞ、適当に座ってくれよ」
そう言いながら、大吾は真壁を部屋に招きいれた、先ほどまではとても落ち着ける空間ではなかったのに、真壁が一緒というだけでこれほど違う物に感じられるのか、と大吾は思っていた。
真壁は静かに部屋に入り、そして部屋を見渡した。
小学校の時からの腐れ縁の大吾の事は、真壁は良く理解している、温厚、小心、生真面目、はっきり言ってどこにでもいる性格である、だが人を裏切ったり傷つけたりするのを極端に嫌う性分と、その根っこに有る優しさには時折真壁も助けられている、だからこそ真壁は自分が大吾を支えているのではなく、持ちつ持たれつの関係であると思っている、だからこそ深夜に急に呼ばれても駆けつけるし、こんな誰も相手にしないような話にも付き合う、逆に真壁が深夜に急に呼び出したら、この大吾も同じように駆けつけるだろうという確信も有る。
真壁は、元々、大吾の言う『呻き声』というのが、大吾の錯覚の類であると思っていた。 それが大吾の精神的なストレスな心因的なものからの来るのか、あるいは実際に部屋のどこかから何かの音が聞こえてきて、それに過剰に反応している、それだけの話だと思っていた。
なにしろ、会う度に今のバイト先の先輩に対する愚痴ばかりを溢していた、他人に対してそれほど悪意を持たないこの男にこれほど言われるとは一体どういう人間がいるのかと興味を持ったくらいである。
恐らくそれが原因の幻聴なのではないだろうか、と真壁は思った。
それを丁寧に説明してやり、落ち着かせてやれば自分の仕事は終わりだ、そう考えていた。
だが――
それは部屋に入るまでは、である。
「……」
真壁の表情は固まっている。
部屋に一歩入った時から、立ったまま動かない。
「なぁ、何か変な感じしないか?」
「あ、ああ、そうだな……」
先ほどとは打って変わって、真壁の口調には歯切れが悪い、それでもようやくもう一歩、二歩部屋に足を踏み入れ、散らかった床にゆっくりと腰を下ろした。
「一つ聞きたいんだが、お前がおかしいと思っているのは、『呻き声』がするって事だったよな?」
「ああ……、今から考えたら何日か前から、そんな声が聞こえていたような気がする、ずっと気のせいだと思い続けていたんだと思う」
「そうか……、とりあえず寝ろよ」
「え?」
「俺が傍にいる、また『呻き声』がしたら声を掛けてくれ、俺が近くにいたら安心して寝られるだろう?」
真壁の声にはどこか人を安心させる作用がある、大吾は常々そう思っていた。 まるで子供をあやすように真壁にそう言われても悪い気分がまったくしないのが不思議だった。
「でも、お前は明日会社があるだろう?」
「そうだな、まぁ、普段は滅多に有給は使っていないし、最悪休めば良いさ」
大吾は感激したような顔つきになっていた、いや実際に深い感激をしているのである。
自分のためにこれほどしてくれる友人はいるだろうか? 居るのならば、絶対にそういう友人を大事にすべきである、酒を飲みながらじゃないと会話が出来ないような相手、いつも上辺だけの会話で同じような話ばかりをして相手の内面にまったく触れない、そんな関係は本当の意味では友人ではない、大吾はそう確信した。
「悪いな、本当に。 今度なんか奢るよ」
「良いから横になれよ、耳栓があるならそれをすると良い」
「ああ、お言葉に甘えて眠らせてもらうよ」
そう言って、大吾は真壁の言う通りに、耳栓を両耳に詰めて、そして布団に潜り込んだ。
数分後。
大吾は、近くに人が、それも自分の為にわざわざ会社を休んでくれるとまで言ってくれた親友がいるという安心感からか、すぐに眠りに落ちていた。
真壁はそれを静かに見詰めている。
その眼は、友人を見るというよりも、何かを観察しているように見えた。
そう、確かに真壁は観察していた、肺の動き、胸の上下する間隔、呼吸を吸い込む音、つまり大吾が本当に寝入ったのか、それともまだ眠っていない意識がある状態なのか、それを冷静に見極めているのである。
何故か。
とりあえず、真壁は大吾が完全に眠った事を確認すると、すぐ傍の押入れに向かった。
何しろ、今の真壁には『そこ』から『呻き声』が聞こえているのであった、くぐもったような声、明らかにそれは人の声に聞こえた。
自分の動きで、大吾が眼を覚まさないように、かなり慎重に動いている。
そして、ゆっくりと、その押入れの襖を開けた。
そこには――
男が一人転がっていた。
それを見た直後、真壁はすぐに大吾の家を出て、携帯電話で警察に連絡を入れた。
そして約15分後、警察がやってきて、眠っていた大吾を起こし、そして逮捕したのだった。
真壁がその家に入って、すぐに感じたのはその『呻き声』では無く、明らかな異臭であった。
何かが腐ったような悪臭、人の糞便やら、何やらが混ざり合ったような、嗅いだだけで吐き気を催す、そんな臭いである。
だから部屋に入ってすぐに尋ねたのである「異常なのは呻き声の事なのか」と。
確かに部屋が汚い人間は、自分の部屋が臭ってもそれに頓着しない場合も有る、嗅覚が麻痺してしまうのだろう、だがこの部屋の臭いはそんなレベルの物ではなかった。
だから、真壁はすぐに異常なのはこの部屋ではなく、長年の親友であるはずの『岡田大吾自身』なのだと気が付いた。
その為、大吾を安心させ眠らせて、その間に部屋を探ろうとしたのだ、そして予想通りというか何というか、押入れに一人の男を発見したのである。
その男は、大吾の通うバイト先の先輩であった。
どういう理由か知らないが、大吾の家に押しかけて、そこで何かの揉め事が有ったのだろう、その際に大吾がその先輩の自由を奪い、押入れに放り込んだのだろう、大の大人だろうと一対一であれば隙があればいくらでも昏倒させることは出来るし、自由を奪うにも家の中を少し探せばいくらでも道具は有る、先輩はこの押入れで糞便を垂れ流し続けていた、大吾はそれでもそれを忘れてしまいたい一心で無意識的にそれを頭の外に除外していたのだろう。
それでも、罪悪感との鬩ぎ合いやら、良心の呵責やらが『呻き声』となって大吾に聞こえていたのかもしれない、そしてとうとう真壁に電話をして助けを呼んだのだろう。
あくまで全て推察の域を出ない話である。
そしてもう一つ、付け加えるのならば奇妙な事が有る。
それは、警察が駆けつけて、その先輩を発見した時、その時にはもう既に先輩は死亡してから三日は間違いなく経過していたという。
良く考えれば、大吾が先輩を殺して、そして押入れに放り込んで隠したと考える方がどこか筋が通っている気がする、ただ相手を気絶させてそして押入れに入れっぱなしにしておくよりは、少しは、という意味である。
どちらにせよ、その時に何が起こったのか、それは大吾自身も完全に記憶を失っているそうなので、後で聞いても分からない、殺人なのか、それとも偶然が産んだ事故だったのか、それすらも分からないのである。
こうして、どうにも釈然とせず、後味の悪さだけが残る事件が幕を下ろした事になる。
それにしても、死後三日も経過しているとするならば、真壁が聞いた『呻き声』は一体なんだったのだろうか?