○ 夏のある日の話 後編
完全に意識を失っていた俺、沢井俊夫が目を覚ました時、最初に目に映ったのは見慣れない天井だった。
天井があるということはここが屋内なんだろうな、という当たり前すぎる事しか分からない。
(どこだここは――)
分からない。
体を起こそうと試みたが、体がまるで動かない、だが縛られている訳でもない、ただ異常に全身が重く、そしてあちこちが痛むだけだ、ただ気を失って床に転がっただけにしては体中が痛い。
この体が動かない感覚は、中学の部活時代に始めての本格的な合宿を終えて家に帰った時、疲労のあまり家に帰ってすぐに床に転がっていたら体がこんなに重い感覚を味わった事があるが、それと似ている部分はあるがどうにも異質な感触だった。
頭にモヤがかかっているような、そんな気分だった。
体はまるで動かないが、視線だけはわずかに動かせる。
あの部屋だ。
僅かに見覚えのある部分がある。
先ほど俺が必死に運び入れた荷物は跡形も無いが、部屋の間取りや襖の色などを見る限り、あの部屋にいる事は分かった。
さっきから何回も出入りしているが、天井などわざわざ見上げないからすぐに気付かなかったのだ、それに頭も夜更かしをして睡眠時間が足りてない時のように妙にぼぉっとして働いていない感覚がある、そのせいで本来ならばあそこで倒れたのだからあの部屋にいるかもしれないという考えが浮かばなかったのだろう。
だが、どうして俺は床に転がっているのだろうか?
まさか、あの時異常な恐怖に囚われて、あのまま失神してしまったのだろうか?
いくら怖かったとはいえ、歳は関係ないかもしれないが高校生二年生になる男の俺が、そう簡単に意識を失うだろうか? 学校の体育で柔道をやった時に、柔道経験者なら手加減をしてくれるのだろうが、力自慢の柔道未経験者の同級生に思いっきり畳に叩きつけられて一瞬意識を失いかけた事はある、だがそれでも完全に気絶はしなかった、交通事故にでも遭わない限りそう簡単に人は気絶などするもんじゃない、何か普通とは違う力が働いたとしか思えなかった。
また、そう思わないとなにやら自分の自尊心が傷ついてしまいそうだった、いくら怖かったからと言って意識を失うなんて、友達に話したら間違いなく笑いモノにされるだろう。
それにしても体が動かない。
もしかして、これが金縛りというやつなのだろうか?
金縛り、前にテレビの特番で、あくまで心霊現象とは無関係の現象で、脳は眠っている状態なのに、肉体の感覚だけが残るとか、そんな今思い出しても良く分からない話をしていたと思う。
そういう番組でも、金縛りからどうやって抜け出したら良いのかという話はやっていなかった、次からは対処法も教えて欲しいものだ。
だが、このままここに転がっていたら、誰かが気付くだろうと俺は楽観的に考えた、これがもし人気の無い場所ならば、餓死の心配や、脱水の心配をしなければならないが、とりあえずその心配はないだろう。
この時、俺はやはりまともに頭が働いていなかったのだ、部屋の中の様子が変わっていると言う事は、誰かが部屋に入ったかもしれないと言う事、そしてその部屋に入った人物は床に転がっている俺に対して何もしなかった、助ける事も、意識を確認する事も、誰かを呼ぶ事も……、そういう事をしないなんてありえるだろうか? という事を俺は考えもしなかったのだ。
その時だった。
誰かが玄関の扉を開き、部屋に入ってくる音がした。
さっきまで僅かに視線しか動かせなかった首が動いて、その音の方に顔を向けた。
女の人だった。
年齢は二十歳を過ぎているだろうが、三十歳は過ぎていないように見える、何というか良く分からないが水商売風の派手な印象を受ける格好をしていた。
知らない人だった。
一体誰なのだろうか? 自分が知らないだけで、叔父さんの知り合いという可能性はある、とりあえず誰にせよ自分を助けるか、あるいは助けを呼んできてくれる可能性はある、それにこんな格好の人が泥棒だとは思えない。
だが、声を掛けようにも、俺の喉から漏れるのは声とは言い難い、ただの雑音だけだった。
それでも、その音はちゃんとその人の耳に入ったようで、その女の人はこちらに視線を向けた。
その眼は俺の想像していた目とはまるで違っていた、人が転がっているのを見たら、普通は驚く、その後は駆け寄ってくるか、助けを呼ぶかどちらかだろう。
その人の反応は、驚きではなかった。
ちゃんとそこに何がいるのかを理解していて、そしてなおかつそそれに対しての激しい嫌悪感を隠そうともしない表情だった。
嫌な眼をしていた。
汚らしい汚物を見るような眼。
もしも、道に転がっている犬の糞をわざわざ凝視しなければいけなければ、人はこのような眼をするかもしれないといった視線だった。
俺は何かその眼を見ると、恐怖よりも不安感よりも、何故か哀しいという気持ちが湧き上がるのを感じていた、一体何故なのだろう。
その人はこちらにわずかに眼を向けただけで、すぐに冷蔵庫に向かった、足取りは急いでいるようには見えない、そして冷蔵庫から缶ジュースを取り出して、こちらを無視したままそれを飲み始めた。
冷蔵庫? さっき三人でここに運び入れた時と配置が違う。
それに、あの時、運ぶのに邪魔だというので中身は全て外に出したはずだ、ジュースを入れておいた記憶は無い、それに冷蔵庫の電源プラグをコンセントに差し込んですらいなかった。
何だ? 一体何が起こっているんだ?
俺は動揺しながら、もう一度声を発しようとしたが、言葉は出ない、また雑音のような物が口から漏れた。
ガン!
女は苛立たしげに飲み干した缶を台所に叩きつけるように置いて、こちらを睨みつけた。
まるで長年の宿敵を見るような、そんな眼だった。
激しい憎悪がそこに込められていて、それを見るとまた何故か俺は哀しくて胸が痛んだ。
突然、女が何かを叫んだ。
だが、何と言っているのかまるで聞き取れなかった、大声の罵詈雑言のような気がしたが、その言葉の意味を俺は聞き取れなかった、自分の知っている言葉とは違うような、そんな気がした、間違いなく話しているのは日本語のはずなのに。
次の瞬間、何かが自分に向けて飛んできていた。
飲み干したジュースの缶だった、女はそれを俺に向かって投げつけたのだ。
それが見事に俺の顔面を捉えていた、鼻が折れたような感覚だった。
強烈な痛みと、鼻血が溢れる感触がしたが、それでも体は動かない。
動かそうとすると体のあちこちに痛みが走るのだ、それもただの打撲という印象ではなく、少なくとも骨にまで達するような痛みが四肢に走っている、だから体が動かないんだと分かった。
いつの間にか女はすぐ傍にまで近寄って来ていて、俺を見下ろしていた。
口元に嫌な形の笑みが浮かんでいた。
蹴った。
その女は何の躊躇も無く、俺の胴体を平然と、それもかなりの力を込めて蹴っていた。
強烈な吐き気が俺を襲う、しかも俺よりも小柄で細みな体に見えるのに、俺の体は平然と部屋の隅まで転がされていた。
あれ?
何か妙だ。
妙に体が軽い、それに……小さい?
俺は部屋の隅でも何度も蹴られた、その度に俺はもう痛みに対する反応を止めて、ただ衝撃に対して動く人形のようになっていた。
このままじゃ……
そう思った時、俺は体が浮き上がる感触を味わっていた。
女が俺の体を両手で持ち上げているのだ。
(やめてくれ……)
この女が何をしようとしているのか、それが俺には明確に分かった。
決して、何かの遊びで子供にするように”高い高い”をしている訳ではない、女は遊びではなく目的を持って俺の体を持ち上げている。
その目的は――
(助けてくれ!)
言葉にならない叫びを喉の奥に生じながら、その願いは空しく女は俺の体を床に目掛けて叩きつけていた。
俺は床に叩きつけられ、そしてその衝撃でバウンドしていた。
信じられなかった。
俺の体重を持ち上げたのも信じられなかったが、人の体を手加減抜きで床に叩きつけるという神経も信じられなかった。
もう痛みも何も無かった。
ただ、激しい絶望と、そして底なし沼のような恐怖が全身を支配していた。
「があっ!」
その瞬間に俺は眼を覚ましていた。
気が付くと、辺りにはあの女の姿は無く、自分が何度も荷物を運び入れた部屋に戻っていた。
体も自由に動く、痛みはどこにも無い。
ただ、異常な汗を掻いていた、決して健康的な運動では掻かない種類の粘ついた汗だった。
俺はさっきまでのあの体験が夢だとはとても思えなかった、荒い息は数秒経ってもまるで収まる気配はない。
体が小刻みに震えている。
当然だ、夢にしても、あれほどの悪夢を見た経験は無い、自分がもう少し子供の時に同じ体験していたら、間違いなくズボンを汚す結果となっていただろう。
その時だった。
いきなり玄関の扉が開かれたのだ。
「うわぁっ!」
俺は思わず叫んでしまっていた。
玄関には驚いた表情の叔父さんの奥さんが立っていた。
「ちょっと、どうしたの? そんな驚いた顔して」
確かに俺の顔は恐怖のあまり引き攣っていた。
「いっいえ、その、ちょっと……吃驚しちゃって……」
「驚かしてゴメンなさい。でも、今日はありがとうね、俊夫君のお陰で助かったわ」
俺はこういう何気ない会話ですら、さっきの恐怖体験で体が凍り付いてしまっている体を解凍してくれるようで嬉しかった。
「もう、後は叔父さんにやらせるから、俊夫君は向こうでお父さんと休んでいて良いのよ」
おばさんの優しさが染み渡るように感じた。
俺は、震え出しそうな体をどうにか持ち上げて、玄関に向かった。
正直言うと、もう一人でこの家に入るのは願い下げだった、また荷物を運べと言われたら、高校生で恥ずかしいという気持ちを殺して父親を無理にでも引っ張ってこようと覚悟していたくらいだ。
「あ」
玄関に行き、靴を履いていた俺におばさんは。
「そうだ、スイカを冷やしてたんだったわ、これ持って行ってくれない? 向こうで切って皆で食べようね」
「あ、はい」
おばさんは冷蔵庫からスイカを取り出して、それを俺に渡した。
ずっしりとしたスイカだった。
手から冷気が伝わるほど良く冷えている。
「落としちゃ駄目よ」
おばさんは笑いながらそう言った。
腕がかなり酷使したせいで重いが、スイカの一つや二つくらいならばまだ運べる。
「それじゃ、先行ってますから」
そう言って、俺は数歩歩いた所で一つの疑問に直面していた。
冷蔵庫?
電源も入れてなかったのに……
そう思った瞬間、手のスイカの感触が硬いものからゴムのように柔らかい物へと変わっていた。
まるで巨大な芋虫を手で抱きかかえているような、全身に鳥肌が浮かび上がるような感触だった。
俺は悲鳴を上げて、その時にはもうスイカを地面に落としてしまっていた。
それとほぼ同時に、背後の部屋からけたたましい笑い声と、部屋のあちこちを何かで殴打しているような、そんな音が何度も何度も何度も響いてきた。
俺は言葉を失っていた。
本当ならば、俺は一目散に恥も外聞も無く走り出してしまうところだったのだが、俺はその部屋から響いてくる怪異よりも切羽詰った状況に陥っていた。
地面に落としたモノと眼が合ってしまっていたからだった。
スイカは完全に別のものへと変貌していた。
それは、かつて人であったモノだ、顔中、体中にアザどころではない怪我をして、骨が見えている部分すらもある、そして異常なほど痩せていて、骨と皮しかなかった。
産まれたばかりの胎児が、体の大きさだけ小学生くらいになったような、そんな不気味なモノが地面に転がっているのだ。
それなのに、眼だけはしっかりを俺を見据えていて、何か言いたげな表情で、プルプルと震える手が俺のズボンの裾を細い指先で掴んでいた。
その瞬間に俺は全てを放り出して逃げた。
これまで生きてきた人生の中で最大級の恐怖が俺を貫いていた。
これから先、どのように生きて行ったとしても、これ以上の恐怖は味わえないだろうという確信があった。
その地面のモノは、唇を小さく動かして。
「落としちゃ駄目って言ったじゃないか……」
そう言った。
・
俺の精神が耐えられたのはここまでだった。
その後、俺が帰らないのを不審に思った父と叔父が、階段の所に腰をかけるようにして意識を失っている俺を発見したのだった。
熱中症だろうという事で話は落ち着いたが、俺はそれが熱中症による幻覚ではないと確信を持っていた、だがそれと同時にそんな事を言っても誰も信じないという考えもあり、そのことは誰にも言わずじまいだった。
後で聞いたのだが、あの部屋の以前の住人は母子家庭で、母親は小学生3年生の息子に虐待を続けていたという、そして息子をついに殺してしまった後、あの部屋で自らの命も絶ったそうだ、近所に住んでいる叔父さん夫婦は間違いなくこの事件を知っていたはずなのに、この部屋に住めるその寛容さには敬服するしかない、元から幽霊とかそういう類をまったく信じていない夫婦なのだ。
だが、俺はあまり安い物件には気をつけたいと心から思った。
きっと、あの部屋では何かを叩きつけるような音が響いているのだろう、今でもまだ。
少なくとも仮住まいの間、俺が遊びに行く事は死んでも無いと断言出来る。
とりあえず俺は、引越しのアルバイトを今後一切しないと心に決めた。
理由は二つ、一つは仕事が過酷だから。
そしてもう一つは、何が部屋で何が待っているか分からないからだ。
完