● 夏のある日の話 前編
それは、とてもとても暑い日の事だった。
俺の名前は沢井俊夫、今年で16歳、高校2年生になる。
今はまさに夏休みの真っ只中で、中学時代こそ真面目に部活に打ち込んでいたもんだが、その反動か高校に入ってからはそういう物の面倒臭さが骨身に染みて、今は夏休みをコンビニのバイトか、学校の課題をやっつける以外は基本的に自由時間が与えられるお気楽な身分となっている。
受験でひいこら言うのは来年だし、今年からどんなに頑張ったとしても良い大学に入れる頭なんて残念ながら持ち合わせていない、せいぜいが3流と呼ばれるような大学に入ることになるだろう、もちろん受かったらの話だが。
だから、今年はゆっくりと高校生活最後の夏休みを満喫するつもりだった。
そんな暇な俺は、父親の兄の家、つまり叔父さんの家が老朽化したので、その建て直し工事をするというので、その家の荷物を建て直しの間の仮住まいに運ぶ手伝いに光栄にも指名されたのだった。
子供の頃から何度も遊びに行き、お年玉を貰っている身分では断れないし、断る理由も思いつかなかった、友達との遊びの予定でもあれば丁重にお断りするつもりだったのだが、そういう予定もたまたまその日は無かった。
まぁ、たまには引越しの手伝いくらい無給でやってやろうじゃないかと、俺は父親と二人で、その家に向かったのだった。
と言っても、歩いても一時間かからずに行ける場所なのだが。
その時、まだ俺は、この後自分がどのような目に合うのなんて考えもしなかった。
あんな想像を絶するような、恐怖を味わう破目になるなんて。
・
汗が止め処なく流れてくる……
人の体のほとんどが水分で出来ているというのは、紛れも無い事実だとこの時ほど明確に理解できたことはない。
こういう事態を想定して、汚れても構わないシャツを着てきたのだが、もう汗を吸い込みすぎて濡れ雑巾のようになっている。
普段、学校の体育以外でまともに運動をしていない身としては、炎天下での作業は過酷を極める、クーラーの利いた室内のコンビニのバイトとは大違いだった。
適度に水分を補給しているとはいえ、まるでゴビ砂漠を遭難しているかのように、飲んだ量の倍以上の水分が体から排出されているようだった。
この作業を甘く考えていたのを俺は後悔していた。
叔父さんの家から50mほどの場所が仮住まいで、建て直しが住むまでそこに住むというのだが、これがもう少し離れている場所ならば業者に頼むのだが、なまじ近い為に台車を借りて、タンスやらソファーやらをこうやって運ぶ破目になっている訳だ。
さすがに一人ではないのが救いだ。
だが、60を過ぎている叔父さんには無理をさせられない、もう一人は俺の親父でこちらも足腰がしっかりしているとはいえ50の後半で、腕力に自信がない俺がこの作業の主力という予想外の出来事で、それでもひいひい言いながら俺は荷物を運んでいたのだった。
実際に、タンスなどは引き出しの中身を出して、一段一段分解して運べば重さ自体はそれほどでもない、だがそれを何往復も繰り返すというのは拷問に近い、それに元々腕力に自身があるほうでもない。
先に大物の冷蔵庫やタンスの本体などの数人がかりじゃないと動かせない物を運び終えただけで、大人2人はもう自分の仕事は終わったように休んでいるし、それに文句を言う訳にも行かずに俺は黙々とバイトよりも一生懸命に働きながら。
(こりゃ、どー考えても時給で計算すると間違いなく、いつものコンビニの830円よりは上だよなぁ……)
と心の中でぼやいていた。
今日手伝っても、せいぜいが夕飯に何か外に食べに連れて行ってくれる程度だろう、というセコい事も考えてもいた。
そんな事を考えながらでも、身内の手伝いと言う事で、しかもほとんど自分しか労働力の無いこの状況では、手を抜く事も出来ずに、ひたすらに荷物を運び続けていた。
日差しがじりじりと皮膚を焦がし、手の筋肉は突っ張り、足にはずっしりとした疲労感がまとわりつき始めた頃、ようやく後2〜3往復するだけで荷物の全てが運び終わるまでになっていた。
「ふぅ〜……」
時間にして、もう二時間近く経過している、自分のペースで仕事をしている分、へんに張り切ったせいか体力がもうほとんど尽きかけていた。
それでもまた、中身のないタンスの引き出しを一つ、抱えて運んでいた、重さはそれほどではないのだが、単純作業を繰り返したツケが回ってきたのか、腕に痛みが走り始めていた。
(でも、あとちょっと……、あと少しで終わるんだ……)
そう考えて、もうさっきから何往復もしている引越し先の部屋に向かった。
そこはアパートとマンションの中間程度の建物に見えた。
それほど綺麗なわけではないが、家の建て直しの間だけの仮住まいならば充分だろう。
部屋の間取りは、2LDKで60過ぎの夫婦が住むには狭すぎるほどではないと思う。
日当たりはそれほど良くないし、若干汚れている感が有るが、我慢できないほどではないだろう。
確か、叔父さんが「近所の不動産屋に頼んだら格安で紹介してくれてねぇ」と喜んで言っていたから、叔父さんたち夫婦は充分に満足しているのだろう。
さっきから何往復もしているが、その間に毎回鍵をかけていては面倒すぎるので、日本の治安の良さを信じて鍵は開けっ放しである。
正直に言うと、盗られて困るような高価な代物は無い、例えば冷蔵庫にしても何年も前の物で使うのには支障は無いが、それを売ろうとするとかなりの安値になってしまうだろうというような物ばかりだった。
叔父さんには、荷物を部屋に運んだら中にそのまま置きっぱなしにしてくれれば、後はやるから。と言う事だったので、さっきからかなり乱雑に部屋の中に荷物が散らばっている、叔父さんと親父はそろそろ酒を飲み始めている頃だし、こりゃ後でおばさんが苦労するなぁと思いながら、タンスの引き出しを部屋に置いて玄関から出る寸前。
唐突に背後から激しい音が響いてきたのだった。
どう考えても、部屋の外の音が部屋にまで響いてきたというよりも、部屋の中での音だった、何しろクーラーをつけているから窓は閉めているのだ。
それにしても今の音……、何かの事故という音とも違う。
さっきから何度も運んだ荷物が崩れた音とも違う、それに崩れるほど積み上げるような置き方はしていない。
それにしても今の音、それなりに重みが有るが、だが石のような堅さを持つ物ではない物を叩きつけたような……
例えるならば、ドロドロのセメントの入った袋を思いっきり叩きつけたような音に近い。
慎重に部屋に入って、その音の元を探ったのだが、まったく分からなかった。
侵入者の気配はまるで無い。
部屋には何の異常も無い。
きょろきょろと部屋を見渡すが、どこも変わったところは見当たらない。
それが逆に不気味な静寂を保っていた。
部屋は明かりが付けっぱなしにして、クーラーまで付けっぱなしの状態である。
全身を熱気が包んでいて、さっきまでは心地良いと思えたその冷気が、今はどこか不気味な感触のように思えた。
(……何の音だったんだろう?)
冷静に考えれば、本当にこの部屋の中から聞こえたのだろうか?
聞き違いというのは無いかも知れないが、その音の出所を間違える事は良くある事だ、それに今は結構疲れているし、聴覚も当てにならないかもしれない。
そうやって、自分を納得させて、とっとと作業を終わらせようと玄関に向かった時。
ばむん!
さっきと同じような音がした。
はっきりと聞こえた。
嫌な音だった。
さっきよりも近くで聞こえたからだろう、今まで一度も聞いた事が無い音のはずなのに、吐き気を催すような音だった。
一体どうやったらあんな音が出るのだろう。
そして今の音、どう考えても押入れの中から響いてきた。
押入れの中はさっきから一度もいじっていない、それにわざわざ人の家の(まだ住んでいる訳じゃないけれど)押入れを覗く趣味は無い。
だが、今は事情が違う、この音の正体を確かめないといけない。
案外、どこかから猫でも迷い込んでいて、それが押入れで暴れているだけかもしれない。
そう思ったのだが、心の中では。
(猫がどうやって暴れたらあんな音がするんだよ……)
とも思っていた。
喉がからからに渇いていた、暑さで水分を失ったのもあるが、今は間違いなく緊張のせいだろう。
少なくとも今の自分には幾つか選択肢が有る。
一つ。
ここは自分の家じゃない訳だし、この音は聞かなかったことにして、さっさと残りの荷物を運び終えて休憩する。
これはかなり無責任だが、ある意味じゃ事なかれ主義の日本人らしい考え方かもしれない。
だが、夜中にこの音の正体が気になって寝付かれないかもしれない。
もう一つの選択肢はもちろん、勇気を出してこの音の正体を探る、だ。
だが、何か、本能的な警報が鳴っているような気がしてならない。
開けてはいけない、そう言われているような気がする。
好奇心は強い方だ、子供の頃から行った事の無い場所に行くとわくわくする性格だったし、ホラー物の映画も色々と見ている。去年などは友達と幽霊が出るという廃墟に心霊写真を撮りにいったりもしている(その時は結局何も起こらなかったが)、そういう時とは異質の感覚がさっきから俺を包んでいるのを自覚している。
その葛藤を嘲笑うように、もう一度さっきと同じ音が確実に押入れの中から響いてきた。
真夏でクーラーが効いている部屋だとはいえ、今の頬を伝っている汗は紛れも無く冷や汗だった。
唾を飲み込もうとしたが、唾液がまるで湧いてこず、軽い痛みだけが喉に走っていた。
猛烈に帰りたかった。
だが、もう引き返す事は出来ない、このまま背を向けて部屋を出たら、永久にこの恐怖が付き纏ってくるようなそんな気さえする。
開けなければならない。
開けなければいけない。
それがまるで強迫観念のように働いていた。
「ちくしょう……」
誰にともなく俺は呟いた。
そして俺は、恐る恐る押入れの襖の取っ手に手を伸ばしていた。
果てしない時間が流れたように感じるが、ようやく手が取っ手に触れた。
次の瞬間、俺は意識を喪失していた。
まるで透明で、それなのに重苦しい液体に頭から放り込まれたような感覚が襲ってきたのだ、そしてそれは俺を包み込み、意識をどこかへと吹っ飛ばしていた。
まるでそれは暗い海にダイブしたようであり、また四方八方から真っ黒い風船に押し潰されていくような、そんな気分だった。
(気持ち悪ぃ……)
重力の感覚も消えていた。
暗転――
後編へ続く。