● 炎の人の話
会社員、伊藤浩平は短気だった。
昔から短気で、そしてそれは今の42歳という歳になってもまるで変わらなかった。
歳とともに丸くなるという常識は、彼にはまるで無縁の話のようだ。
伊藤は産まれて来る時、母親の胎の中に寛容さを置き忘れてきたのでは無いか、そう思えるほどの男だった。
部下に注意する時は、優しく指導するのではなく、頭ごなしに怒鳴る、怒鳴りそして徹底的に貶す。
相手の非を正すというよりも、自分の正しさを武器に相手を叩き潰すように怒鳴り散らす。
男女平等の精神の持ち主のようで、女子社員にも平気で怒鳴る、そのせいで何度か女子社員が泣いているのだが、彼はほとんど気にしなかった。
さすがに手こそ出さなかったが、まるで言葉で殴りつけるように怒鳴るのが彼の特徴だった。
正義は我にある。
そういう歪んだ意思が有るように思えた。
自分が正しいのだから、相手には何を言っても構わない、そのような歪んだ理論が彼の中で成立していたのかもしれない。
仕事場だけではなく、日常生活でも瞬間湯沸かし器のように、すぐにカッとして、そして胸の中の物を吐き出すように怒鳴るので、一応結婚していたが、結婚して一年と経たずに離婚が成立している。
別れ際の妻の台詞は。
「ペットでも飼って、そいつを怒り続けていれば良いわ、それがあんたにはお似合いよ」
だった。
その言葉にも怒り狂っていた彼だが。
今日はやけに機嫌がよいように見えた。
やった。
やった、ついにやった。
飲み会からの帰り道、伊藤は、思わず小躍りしたいほどに喜んでいた。
今働いている支社から、本社への栄転が正式に決まったのだ。
これを喜ばずして何を喜べというのか。
元々、自分の能力ならば本社でバリバリと活躍しているはずだったのだ、それなのに……
つまらない事件で支社に異動させられたのだ、言うなれば左遷だ。
何故、と思った。
自分はこれほど会社に貢献しているのに。
自分ほどの優秀な人材を左遷させた人事の正気を疑った。
それからは筆舌に尽くしがたい苦労があった。
まず支社の連中は、やる気が無い。
仕事は遅い、要領は悪い、態度も悪い、それが気に喰わずに何度も何度も注意をした。
若い奴に何かをやらせるには、徹底的に怒鳴りつけるしかない、そうやって『教育』していかないと、何も覚えない愚図ばかりだからだ。
何をやらせても2流以下の仕事しか出来ない職場の連中を、俺がそれなりの仕事が出来るように鍛え上げてやったのだ。
それは根気の要る作業だったがそれをやり遂げたと伊藤は思っている。
だからこそ、この職場の実質的なリーダーの栄転を喜び、皆は今日の飲み会で心からの笑顔を見せていたのだ。
「良かったですね!」
「おめでとうございます!」
まるで自分の事のように喜んでいるようだった。
それを見れただけで伊藤は自分の仕事が、家庭を犠牲にしてまでやる価値のあるものだったと誇りに思っている。
伊藤本人はそう思っているが、実際のところは事情が違う。
短気ですぐ怒鳴り。
そして感情的に怒ってみたが、実際には伊藤自身のミスであった場合ははぐらかす。
強引な手腕で、部下の功績は自分の物にし、面倒事はすぐに部下に転嫁する。
そのような上司が信頼されるかどうかは、ちょっと考えてみれば誰にでも分かる事だ。
伊藤は本人としてはその支社の実質的リーダーと思い込んでいたが、誰もが心の中で伊藤のことを煩わしく思っていた。
職場の同僚だけではなく、掃除のおばちゃんにまで嫌われている、ここまで嫌われるというのも一つの才能と思えるほど嫌われていた。
今回の栄転についても、自分達の周りからいなくなるから喜んでいるのであって、決して出世した事を喜んでのことではなかった。
本人の自己中心的な思考は、本当にリーダーの資質を持った人間ならばそれが許されるが、実力の無い人間が勘違いでそのような思考に至った場合は始末が悪い、そして往々にしてそのような考えを持つ人間は、自分が周りからどう思われているかを深く考えたりしない物だ。
実際に、会社の人達に言わせれば。
「あの偉そうにして、仕事は全然しないオヤジが、いなくなってせいせいしたわよねぇ」
「ああ、昇進みたいな感じで出て行くのが気に入らないけど、近くにいないだけで仕事の能率が違うからね、助かるよ」
「あれで、自分は有能とか思ってんでしょうね、何も出来ない癖にね」
「ははは、憎まれっ子は世に憚る、とはよく言ったもんだよね、まぁあいつは勘違いしているだけだけどさ」
「本社に行って一体何をするんだろうね、問題起こすのは分かっているけど、もう戻って来ない事を祈るよ」
というのが本音であった。
そうとは知らずに伊藤は電車に揺られ、家路に向かっていた。
その顔には笑みが浮かんでいる。
だが、その笑顔が僅かに曇っていた。
車内が妙に暑かったのが原因だ。
今は、1月である。
だから暖房を利かせ過ぎなのだ、と伊藤は苛立たしく思った。
後で、この鉄道会社に投書してやろうと固く決意した、伊藤は不満に思ったことは必ずそれを訴えるようにしている、以前は現場の人間に当り散らしていたが、幾ら言っても変わらないので、その会社自体に投書するのが習慣付けられていた。
テレビを見ていても、不愉快に思ったことはすぐに投書か電話をする、泣き寝入りなどしなかった。
それにしても暑い。
伊藤の首筋にはじっとりとした汗が滲んでいた、額にも晴天の真昼に外を歩いている時のような汗が流れ始めている。
他の乗客も暑苦しそうにしている。
もわぁっとした空気が、周囲に淀んでいるように見えるほどだ。
段々伊藤のイライラが高まってきた。
危うく誰彼構わず怒鳴り散らしたくなっていたが、丁度伊藤の停車駅に停まったので、降りられた。
もう少し乗っていたら蒸し風呂状態のあの中ではとても耐え切れなかった。
せっかくの栄転の喜びにケチが付けられたようで、伊藤は不機嫌だった。
伊藤が降りた直後。
その車内には、今までの熱気が嘘のように、ごく普通の温度が戻っていた。
乗客は皆一様に首を傾げたが、その原因は誰にも分からなかった。
伊藤は人通りの少ない裏道を歩いている。
いつもこの道を通る、表通りを通ると5分も余計に時間がかかるのだ、それに若い奴らがたむろしている姿を見るのも嫌だし、礼儀知らずな奴が自分にぶつかってきたりしたらと思うと、とても表通りを通る気にはなれない。
そもそも世の中には馬鹿が多すぎる。
伊藤は常々そう思っている。
自分を見習え! そう叫びたくなる。
自分のように身を粉にして、会社の為、社会の為に尽くせ、そうでなければ何の為に生きているのか分からないだろうが。
テレビを見て思うが、遊んでいるようにして自分の何倍も稼いでいる連中は、あれはどうしようもない連中なのだ、所詮は堅実な自分には遠く及ばない下等な仕事をしているに過ぎないのだ。
若いちゃらちゃらしている奴らは女の尻にしか興味が無いのか、もっとしっかりとした安定のある仕事をするべきなのだ!
働く為に人は生きているのだ。
働いて金をしっかり稼いで、世の中に貢献するのが常識なんだ!
そう伊藤は常々思っている。
その時、伊藤は喉の渇きに気が付き、ポケットの財布から小銭を取り出し、近くにあった自動販売機にコインを投入した。
コインが、投入口から転がる音が聞こえた。
だが――
何の反応も無かった。
金額の表示も無ければ、商品のボタンに明かりが点る事も無かった。
「何だ!?」
伊藤は機械に文句を付けるように怒鳴ったが、当然機械が反応する訳も無い。
何で、金を入れても機能しないんだ、この機械は!
こうやって小銭を稼いでいるのか、この機械をここに置いた奴は!
伊藤はそう思った。
こうやって、人通りの少ない場所に自動販売機を設置しているのは、そういう魂胆が有るからなのか!?
日本人の大半は、こういう場合は泣き寝入りだ。
わざわざ120円の為に、苦情を言うのを面倒臭がる奴らが多い。
それを見越しているんだ、この自販機を設置した奴は!
性根が腐ってやがる。
伊藤は心の中で毒を吐き散らした。
俺は違うぞ。
そう思った。
必ず後日、きっちりこれを設置した奴から金を取り返してやる。
そう誓って、そのまま腹立たしげに、自動販売機に蹴りを入れた。
ごっ、という鈍い音がしたが、それで何が変わる訳でもない。
だが、伊藤はすぐに顔の向きを変えたから気が付かなかったが、伊藤の足が当った自動販売機の部分から、何故か煙が立ち昇っていた。
酒を飲んだからか、喉の渇きがいっそう酷くなっている。
ちっ。
そう舌打ちして、伊藤は別の自動販売機を探した、ちょっと歩けばすぐに別のが眼に入る。
伊藤は気が付いていなかった。
その異変に。
伊藤の全身から、まるで機関車が蒸気をあげるように湯気が立ち昇っているのだ。
いくら寒いと言っても、伊藤から立ち上る湯気は、まるで冬のマラソンで、選手が完走した直後の何倍もの量が昇っていた。
だが、その異常事態にもかかわらず。
(今年は暖冬だと言っていたが、それにしても暑いな……、飲みすぎたか?)
伊藤は、そう考えていた。
今の自動販売機の件で、伊藤の怒りは段々と増していた。
その怒りは自分が支社に異動させられた事件を思い出させていた。
(笹塚め……!)
伊藤は胸の中でそう呟いた。
あの野郎、俺の部下の癖に何かに付けて俺にケチ付けてきやがって。
だから、何かミスをした時にはその苛立ちを何倍にもぶつけてやったんだ。
俺に意見するのが悪い。
俺の半分も仕事を出来ない癖に、人に何かを言える立場か。
だから厳しくしごいてやったのだ、こっちとしては善意でやった事だ、わざわざあんな教育もまともにされていない奴を教育してやったのだ、それも教育費など会社から支給されるわけじゃないから、奉仕活動みたいなものだ。
それなのに、あの精神薄弱な恩知らず野郎が、遺書を残して自殺しやがったのだ。
そこには俺に対しての恨み辛みが延々と書き綴られていたのだ。
それで俺は本社から支社にトばされたのだ。
何故だ。
何故こうも世の中は理不尽なのだ。
努力しようとすれば足元をすくわれ。
人に善意を施したら裏目に出る。
こういう世界が許されるのか。
また、財布から小銭を取ろうとしたとき、指先に信じられない感触が当った。
一瞬酒のせいで感覚が鈍っていたせいか、硬い感触ではなかった。
まるで、溶けかけのチョコレート片に触れたような――
「は?」
ドロドロだった。
財布の中の小銭入れの中には、伊藤が知っているコインの形状の物が一つも存在していなかった。
さっき、自動販売機に入れる為に、指を財布に突っ込んだ時には間違い無く百円硬貨が幾つか有ったはずだ。
それが無い。
あれ――?
熱いな。
もう、暑いじゃなくて、熱かった。
子供の頃から、何かに付けて怒ると、このように体が熱くなった。
それは当たり前の現象だと思っていた。
漫画で有るように、頭から蒸気を出して怒るような、そんな感じの感覚。
それが、今の伊藤は何倍も、いや何十倍もの熱を感じていた。
胃が熱かった。
アルコール度数の高い酒を一息で飲み干したように熱い。
こんな熱は体験した事が無かった。
インフルエンザで高熱を出した時、これに近い熱を感じた事が有るが、普通に道を歩いていて多少は腹が立ったとはいえ、こんなにも体が熱くなる事なんて普通は無いはずだ。
熱かった。
熱かった。
胸が熱い。
いや、体全体が熱いのだが、特に体の中心部には火球が存在しているように熱い。
吐き出してしまわなければ死んでしまいそうだった。
胃の中の熱い物を。
伊藤は、自分の右手の中指と人差し指を、喉の奥に突っ込んでいた。
これが正しい方法か分からない。
ただ、それをしなければもう自分がこの熱に耐えられないという、根拠は思いつかないが実感があったのだ。
「がああああああああああああああああああああああああ!」
獣が吼えるように、伊藤は叫んでいた。
何かが胃の奥から迫り出して来るのだが、それが伊藤の想像を遥かに超える熱量を持っていたのだ。
こんなモノを吐き出したら一体どうなってしまうのか――
そういう不安が伊藤を貫いていた。
だが、もうそれは止まらない。
止められない。
次の瞬間。
人の形をした炎がそこに出現していた。
それは、数秒の間、水中に落ちたカナヅチの人間がもがくように、手をバタバタさせていたが、しばらくすると前のめりで倒れ。
そしてそのまま二度と動く事は無かった。
発火能力者の話を書きたかったのです。
ちょっと路線がズレました。
激しい頭痛の中書いてました。