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● 夜道の話

  私、水野みずの未来みくは一人、会社帰りの夜道を歩いていた。


 いつも通る、駅から自宅までの道は人気ひとけが無くて寂しい通りだ、今の所まだ誰か襲われたりしたという話は聞いた事が無いが、自分がその第一の被害者にならない保障なんてどこにも無い。         

 送ってくれる彼氏でもいれば良いのだが、残念ながら今年で24歳になる私に彼氏はいなかった。

 以前はいたのだが、性格の不一致というありきたりな理由で別れたのだ。

 今思えば、少し惜しい事をしたというような気分もするのだが、そのような事を考えるとどうにも自分が浅ましく未練がましい人間のように思えてしまうので、なるべく考えないようにしている。

 ちょっと気を抜いたら、寂しい時に別れた彼氏にメールを送ってしまいそうだから、もう完全にメモリーから削除している。

 出来るだけもう昔の事は考えないようにしている。

 後ろ向きな事ばかり考えていても仕方ないし、気分も沈むだけだし。

 それに出会いはまだこれからいくらでもある……はずだし。


 それにしても本当に、この道は人の通りが無い。

 誰かいたらいたで怖いが、誰もいないというのも怖い。

 一応女の一人歩きと言う事で、防犯ブザーを持っているのだが、これが非常時にどれほど効果を発揮するのだろうかと考えると疑問だ。

 そもそも、その音で相手が驚いて逃げなかったらどうにもならない、どれほど激しい音が響いた所で、それを聞く人間がいなければ誰も助けになど来てくれないだろう。

 日本の治安は良いとは思うけど、それでも犯罪者はまったくいない訳じゃない、用心に越した事は無いが、それだったらもっと明るい大通りに面した場所に住めば良いと気軽に言う人がいるかもしれないが、物件が無いのだからしょうがないじゃないと思うしかない、会社から近くて家賃がこれほど手頃な家は他にはそうは無いのだ。 

 それに最近は安月給の割りに仕事が忙しく、満足に新しい家を探すほどの時間すらも無い、引越しする為の時間もそれに関係する役所への届けとか、そういう事を考えると眼が回る。


 もちろん、自分の身を一番に考えるのならば、すぐにでも有給でも取って新しい家を探すべきかもしれないが、人は常に最善の行動が出来るとは限らない。

 もしも、人が全て最善の行動を取れるのならば、世の中の全てが上手く行くだろう。

 だが、そう上手くは行かないのだ。

 食べ過ぎが良くないと知っていながらも、好物が出たらそれが体に悪かろうと食べてしまう。

 飲み会で、楽しすぎて飲み過ぎが良くないと知りつつも、がぶ飲みして二日酔いに悩まされてしまう。

 早朝のランニングをすれば健康が保たれると思うが、睡眠とどちらが重要かの天秤に掛けたら、圧倒的に睡眠が勝ってしまうだろう。

 そう言う物なのだと思う。

 実際に、一度でも怖い目に合えば考えが変わるかもしれないが、幸いにして今までそのような体験はした事が無い。

 だから、まだ引越し計画は未定だ。


 そこで私はようやく気が付いていた。

 いつの間にか背後から足音が響いてくるのだ。

(誰かが……尾けてきている)

 いや、それはちょっと過剰反応かもしれない。

 たまたま同じ道を歩いているだけの人かもと思ったのだが、どうにもその視線を首筋辺りに感じてしまう。

 自然と歩行速度が少し上がった。

 後ろの人(男だか女だか分からないが)が、もしかして自分の事を怖がって早歩きになったんじゃないか? とかちょっと気分を害したとしても、それよりも遥かに自分の身の方が重要だった、名前も知らない人にそこまで気を使っている余裕の有る場面でもない。

 さらに未来みくの歩行速度が、小走り程度に速まった。

 すると――

 後方の足音も、僅かにだが早まったように聞こえた。

 これは勘違いの部類なのだろうか?

 いや……

 仮にそうだとしてもそう考えてはいけない気がする。

 トイレや急用で急いでいるなら最初から走る、私が走ってからその速度を上げたのは間違いない、そうなると考えられる事はそう多くない。

 私は失敗したと思った、こういう道だと携帯電話で話しているフリをしながら歩けば、襲う方も躊躇うと聞く、そうしておけば良かったと思った。 

 だが、全てが後の祭りだった。


 私は、咄嗟にポケットに潜ませている防犯ブザーに手を伸ばしていた。

 まだ、鳴らすべきかどうか分からない。

 勘違いならば大恥だ、それに自分だけでなく周りにも迷惑がかかる。

 これがもしも、もう少し治安の悪い国であれば、彼女は当たり前のように防犯ブザーを鳴らしていただろう、いや、そういう国ならば危ない場所には近付かず、近付くにはそれなりの武装をして行くだろう。

 平和な国と呼ばれている日本だからこそ、か弱い女性でも、身の危険を感じていながら防犯ブザーを作動させるのさえ躊躇われたのだ。

 走って逃げられるのならばそれに越した事は無い、そう思ってしまっていた。 

 一種の思考の麻痺であり、明らかな判断ミスであるのだが、良いように考えれば、これだけ走って追いかけてくる相手が、防犯ブザーの音程度で怯むかどうか、逆に興奮して酷い眼に合わされる可能性もあるかもしれない。

 その点だけ考えれば、逃げる事が得策かもしれなかったが、防犯ブザーを鳴らしながら走っても良かったのだ。

 背後から迫ってくる足音は、どんどん自分に近づいて来る。

 怖かった。

 何で自分がこんな目に合うのかと思った。

 買い物途中に、車に撥ねられた主婦が、宙を舞っている間に考えそうな事を考えていた。

 背後からは、とうとう足音だけでなく鼻息まで聞こえてくるようだった。


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……


 女の物ではない。

 明らかに男の息の吐き方だった。

 もうかなりの距離を走った、もっともかなりの距離と言っても、まだ1kmには全然届かない程度の距離だ、だが普段運動していない女性にとっては気の遠くなるような距離を走っていた。

(も……、もう走れな、い……) 

 息が切れ、吸う息も吐く息も荒い。

 汗も恐怖と運動により大量に流れ、ファンデーションも汗で流れ始めていた。

 足が縺れて、そのまま転んだ。

 その時に、膝を軽く擦って、小学生の時によく経験するような傷を負っていた。

 一度転んで、もう一度起き上がって逃げ切れる自信なんて無かった。

 背後から迫ってきた人物を見上げた。

 

 夜道なのでほとんど輪郭しか顔は分からない。

 男であることは分かる。

 服装と体格で何となくだが分かる。

 そこそこの距離を走ったにもかかわらず、息がまるで上がっていない。

「た……助け……」

 掠れた声で助けを求めるのだが、男は微動だにしない。

 はっきりとは分からないが、右手に何かを持っているように見える。

 凶器!?

 防犯ブザーを鳴らすという発想はどこかへ吹っ飛んでいた。

 それをした所で、誰かが駆けつけても、圧倒的に全てが手遅れだろう。

 駆けつけた誰かが見るのは、無残な自分の死体だけだ。

 その時だった。


「――った」


 男は何かを呟いた。

 私の耳にはそれがはっきりとは聞こえなかった。

 もう一度男の口が開く事は無く、そのまま身を翻すと、闇に溶けるように姿を消していた。

 一体何がどうなったのか。

 よく分からないが、助かったらしい。

 安堵のため息を私は深く吐いていた。

 体が信じられないくらいにガクガク震えていた。

 体中の肉体的・身体的緊張が解けたからだとは分かるのだが、それをどうやって抑えればいいのかそれがまるで見当もつかなかった。

 未来はただ両手で自分の体を抱えるように、その震える体を自ら抱きしめるしかなかった。

 

 10分ほどもそうしていて、ようやく体の震えが収まってきた、だが、それにしてもこれからどうしようか。

 警察を呼ぶにしても、実害はほとんど無い。

 膝小僧の傷も、自分で転んで作った物だし、追っかけてきた相手の顔も分からなければ、凶器を持っていたという確証も無い。

 冷静に考えれば考えるほどまともに取り合ってくれるとは思えない。

 それに傷だって軽症もいいところだ、家に帰って消毒さえすれば問題ない。

 全てが自分の過剰反応による思い過ごしかもしれない、あの人はただ走っていただけの人で、自分が転んでしまった事に責任を感じて逃げてしまったのかもしれない。


 だが――

 これらはただの言い訳だ。

 全てが巧みな言い訳だった。

 本心は、もう関わりたくないという想いだけだった。

 悪意が無い訳が無い、目の前で女の子が転んでも声も掛けず、手も差し出さずに逃げる相手は何か非が有ると自分に思っているのに間違いないのだ、その非とはつまり襲おうと考えているとかそういうことだ。

 けれども、警察を呼ぶにしても、そうしたらまだ関わりを持つ事となる、そこからまた何か怖い目に合うような気がして恐ろしいのだ。

 日本の警察は優秀だと聞くが、それがどれほどの物なのか実感が無い。

 テレビで見る分には、不祥事やら不当逮捕の情報ばかりで、それに警察に行ってもまともに相手をしてくれないという話ばかり目にしているので、いまいち助けを乞うような気になれなかった。

 私は、汗のせいで冷え始めた体を起こして、一人、家へと向かった。

 今日の事は忘れよう。

 そう思った。


 翌日、テレビを点けると私は驚愕した。

 事件の速報が流れていた、通り魔が女性を殺害したというニュースだ。

 しかも、現場は昨日私が通った道で――

 戦慄した。

 思わず、手に持っていたコップを取り落としていた。

 その瞬間に理解していた。

 あの最後の言葉。

 あの男が、言った言葉を今ようやく理解した気がした。

 

「……間違った」


 そう言っていたのだ。

 あの男は誰かと間違えて自分を追いかけてきたのだ。

 右手には想像通り凶器を持って。

 もしも、防犯ブザーなどを鳴らしていただろうなっただろうか。

 あるいは、暗がりで判断が付かないほどその女性と私が似ていたら――

 間違いに気づかずにあの男は私を殺したのではないだろうか。

 間一髪だったのだ。

 昨夜、確実に自分の頬を『死』が、その冷たい手で撫でていったのだ。

 ただ、幸運だけで今自分はこうして息をしていられるのだ。

 

 私はすぐに会社に電話して、風邪だと嘘をついて病欠した。

 上司は電話口で機嫌悪そうに応えたが、そんな物に構っていられない、死ぬ訳じゃないし。

 そしてその足ですぐに不動産屋に向かった。

 今度の家は、出来るだけ繁華街に近い場所にしようと思った。

 それと、彼氏をすぐに作ろう。

 そう決心した。



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