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眩しい光と異世界

昼下がりの街路は、熱を孕んだガラスの匂いがした。

 取引先での打合せが長引き、スマホのカレンダーには赤い感嘆符が2つ並んでいる。次の会議まで二十七分。歩幅を自然と早めながら、俺は袖口から覗く腕時計を見た。黒い文字盤に銀の針。ソーラー式電波時計。秒針は、いつだって迷いがない。


 横断歩道の信号が青に変わる。足を踏み出した瞬間、世界が一度だけ、フラッシュのように白くなった。

 音が吸い込まれ、視界が欠け、膝にかかる重みがふっと軽くなる。思わず空気を掴むように手を伸ばすが、触れたのは何もない真空のような空白で――次の瞬間、靴底が硬い石に打ちつけられた。


 見上げると、空は濃く、高い。建物はガラスではなく、木と石で積み上げられ、瓦の代わりに灰色の板が屋根に重ねられている。風は草の匂いを運び、耳に飛び込む喧噪は知らない音節で満ちていた。

 知らない街。知らない服。知らない言語。

 けれど、驚くべきことに、その喧噪はしばらくすると意味を伴って理解に落ちていった。脳がついてくるのを待つように、言葉が輪郭を得ていく。


 「馬車を通せ! 道を開けろ!」

 「塩はもう一本! 今朝の塩は軽いよ!」


 石畳の広場は市の日らしく、露店が放射状に広がっている。蜜色に輝く果実、革の匂いのする袋、鈍く光る金属器。人々の衣服は飾り紐や刺繍で彩られ、色がやけに鮮やかだった。


 息を整える間もなく、頭の中で仕事のアラームが虚しく鳴った。慣れ親しんだ電子音。反射的にスマホを探してポケットを叩くが、そこにあるのは名刺入れだけだ。

 次に、腕時計。

 視線を落とすと、秒針は、ここがどこであれ関係ないと言わんばかりに、規則正しく六十の刻みを往復していた。太陽光を受け、文字盤がわずかに温もりを帯びる。

 時刻は、午後一時十三分三十七秒。

 ――俺の世界の、だ。


 「……参ったな」


 声に出したところで、何が変わるわけでもない。

 とにかく状況を見極めるべきだ。広場の端に噴水がある。まずは水、陰、座れる場所。近づくと、噴水の縁に腰かけている老人が、俺のスーツから靴までを一望し、目を丸くした。


 「旅の方かね?」

 言葉が、さっきより滑らかに聞き取れる。

 頷くと、老人は「変わった布だ」と俺のジャケットの袖をつまみ、眉を上げた。

 「それと……その腕の銀。小ぶりな日時計か?」

 「時計です。時刻を――」

 説明していると、子どもの甲高い声が割り込んだ。


 「おじさん、それ、光ってる!」


 視線が一斉に集まる。俺は無用な騒ぎは避けたいと反射的に袖を下ろしたが、もう遅かった。露店の奥から屈強な男が顔を出し、果物の籠を持った女が首を伸ばす。半円を描くように人垣ができていく。


 「動いてる……勝手に回ってるぞ」

 「魔具か? 呪いじゃないだろうな」

 「鐘の人の道具かも」


 鐘。

 そこで初めて、広場の端にそびえる塔に気づいた。木骨の上に石の小部屋が乗り、その上には巨大な鐘。風が通るたびに鈍い金が、遠くまで伸びる。

 塔の袂には縄が垂れ、若い男たちがその縄を手に笑い合っている。まるで、正確であることよりも、勢いよく鳴らすほうが誇らしいとでも言うように。


 「これは……時間を測る道具です」

 言いながら、俺はなるべく簡潔に、指を文字盤に沿わせた。

 「ここが一時間。これが分。これは秒。太陽の光で動きます。時間は、こうして……ずっと進む」


 沈黙。

 それから、小さなどよめき。

 「鐘よりも、ずっと細かいのか?」

 「鐘は四回だろう。朝と昼と夕と夜。そんな細かく刻む必要が?」

 「朝寝坊を見張るには良いな」

 「やめてくれ、うちの亭主が困る」


 冗談めかした空気に、少しだけ頬が緩む。緊張がほどけると、喉の渇きと空腹が一度に押し寄せた。俺は噴水の縁に腰をおろし、財布の中身を確認する。円は、ここではただの模様のついた紙切れに過ぎない。

 代わりに名刺をしまい直していると、果物売りの女が、黄橙色の実を一つ差し出した。

 「旅の縁起物だよ。かじりな。代金はいらないさ、その銀の動く印を見せてもらった礼だよ」

 礼を言って齧ると、酸味が舌に弾けた。知らない果物なのに、懐かしいような味がする。


 「旅人さん、どこから来たのさ」

 子どもが近づいて、俺の腕時計に顔を寄せる。鼻息が文字盤にかかった。

 「ずっと遠くから。名前は……コウジ」

 自分の名前が、少しだけ異国の響きに変わって耳に戻る。


 「コウジ。変な名前」

 「おい、失礼だぞ」

 老人がたしなめ、俺に目を向ける。

「ここはエスティアの王都、アスト。ひと月に一度、市が立つ。今日はその日だ。見たところ、宿もないんだろう?」


 「はい。何も」


 「なら、この広場の北門を出た先に『蔦の宿』がある。安いし飯も悪くない。昼時は混むから、今なら空いて――」


 言葉が、鐘の音にかき消された。

 どこからともなく、重く澄んだ音が降りてくる。ひとつ、ふたつ、みっつ……四つ。広場の動きが一瞬だけ止まり、そして再開した。四つの鐘が意味するのは、ここでは「昼」らしい。


 俺は腕時計に目を落とした。

 一時十六分ちょうど。

 この世界の鐘は、俺の世界の時間とは噛み合っていない。日が中天にあるから昼で、鐘は四つ。そういう決まりなのだろう。

 ここには秒も、会議の招集も、終電もない。代わりに、鐘がある。


 「見たかい」

 果物売りの女が言う。

 「四つの鐘が昼を告げる。みんなそれで飯を食べ、仕事に戻る。神殿が鐘の刻を決めるんだ」

 「神殿が?」

 「そうさ。昔からの決まり。神さまが太陽を押し上げる時刻を告げるのさ」


 神が時間を告げる世界。

 俺は頷き、言葉を飲み込んだ。反射的に「標準時」とか「緯度経度」とかを持ち出せば、きっと余計にややこしくなる。まずは、ここでの常識を飲み込むほうが先だ。


 人垣が少し散り、代わって、腰に皮のエプロンを巻いた若者が一人、足早に近づいてきた。手は油で黒く、指の関節には細かい傷。

 「すみません。さっきの、動く銀。少し、見せていただけませんか」

 声音には熱があり、けれど礼節を崩さない硬さがあった。


 俺は腕から時計を外し、差し出した。若者は両手で受け取ると、目を見開き、指先でベゼルをそっとなぞった。

 「針が、止まらない……しかも、戻さなくても勝手に合う?」

 「太陽の光で動いて、遠くの塔から出る合図で時刻が合います」

 「塔?」

 「――ええ、そう。俺のいたところでは、見えない塔が、空の向こうにあって」


 説明になっていない説明に、自分で苦笑する。若者は笑わなかった。笑うどころか、目を更に真剣にして、時計の裏蓋に耳を当てた。

 「……鳴ってる。かすかに。滴るように」

 彼の耳には、クォーツのリズムが滴りに聞こえるのかもしれない。


 「名前を聞いても?」

 「コウジです。あなたは?」

 「俺は――」若者は言いかけて、首を振った。「すみません、職場を抜け出してきたんです。すぐ戻らないと。ですが、もしよかったら……夕方、もう一度ここで。もっと詳しく話を聞かせてください」

 彼は時計を両手で返し、走り去った。皮のエプロンが背中で跳ね、角を曲がるとすぐに見えなくなった。


 手のひらに戻った時計は、いつもの重さだった。知らない世界にひとつだけ、知っている基準。秒針は、さっきよりも頼もしく見える。

 俺はもう一度、噴水の縁に腰を下ろし、周囲を観察した。露店の値段の相場、通りに立つ兵の装備、塔の影の伸び方。理解できることと、できないことが、ゆっくりと分かれていく。


 「コウジ」

 老人が名を呼んだ。

 「宿を取るのが先だ。その後で、これからのことを考えるといい」

 「そうします。……お礼に、何かお支払いを」

 「いらんよ。代わりに、次に会った時にその銀の話をもう少し聞かせてくれ」


 俺はうなずき、立ち上がった。北門を目指し歩き出す。背中で広場の喧噪が再び膨らみ、どこかで犬が吠える。塔の鐘はもう鳴っていないが、代わりに、自分の腕の中で小さな機械が、たしかに世界を刻んでいる。


 門をくぐると、街路は少し静かになった。蔦に覆われた看板――葡萄の絵。その下に「蔦の宿」と読める字が揺れている。扉を押すと、油と麦酒の匂いが鼻をくすぐった。

 カウンターの向こうにいた、丸顔の女主人がこちらを一瞥し、目を細める。

 「部屋かい? 今なら二階の角が空いてるよ。旅人さん」

 「お願いします」

 「前金で一泊二銀。朝と夜にパンとスープがつく。湯は――夕の鐘のあとだよ」


 夕の鐘。

 俺は頷き、銅色の小さな円盤を手渡された。鍵だ。部屋に入ると、窓から街の屋根が連なるのが見えた。遠く、鐘の塔が顔を出している。

 ベッドに腰を下ろすと、膝から急に力が抜け、心臓が遅れて事態を理解し始める。手のひらに汗がにじみ、喉が乾いた。

 ――異世界。言葉がこぼれ、空気に溶ける。

 ここに時間割は貼られていない。けれど、俺には時計がある。時間を読む術がある。


 袖をまくり、文字盤を窓辺の光に晒す。秒針が刻む一秒一秒が、部屋の静けさに音を与える。

 会議はもう、とっくに始まっているだろう。誰かが俺の席をちらりと見て、眉をひそめ、やがて議題は先へ進む。俺のいない世界は、俺なしで進む。

 ならば俺は、俺のいる世界を進めるしかない。


 夕の鐘までに、やることを決めよう。

 宿の女主人からこの街の地図を描いてもらう。貨幣の相場を聞く。安全な道、危ない路地。塔の見張りの交代。

 それから、昼過ぎに出会った若者――皮のエプロン。あれは職人の印だ。彼の工房を探す手がかりは、広場の周りにいくつもあるはずだ。金属器の店、革細工の店、工具の音のする路地。


 考えながら、俺は上着を畳み、名刺入れを取り出した。自分の名前と会社のロゴ。馴染みのあるフォントが、急に遠く感じられる。

 名刺を一枚取り、裏にペンで〈食費・宿・情報代〉と書き、線を引いて簡単な帳簿を作る。数えるのは銀貨ではなく、やれることと、やったことだ。

 そうやって並べた小さな項目が、見慣れない世界に目盛りを刻んでいく。


 外から、路地を駆ける子どものはしゃぎ声が届く。窓の外、塔の影は少しずつ長くなり、光は琥珀色の層を重ね始める。

 やがて、空気が一拍、張りつめた。

 五つ目の鐘が遠くで鳴った。昼と夜の間に挟まれた、ほんの短い刻。人々が店を片付け、灯りの準備をする合図。

 その音に合わせるように、俺の腕時計は、淡く、しかしはっきりと、秒針の位置を一つだけ正した。

 ここにも、ここなりの時の流れがある。俺は、それを読み取り、重ね合わせる。


 夕の鐘が鳴る頃、再び広場へ戻ろう。

 約束をしたわけじゃない。だが、あの若者は必ず来る気がした。目の色が、そう言っていた。

 俺は立ち上がり、時計のバックルを留め直す。

 ――時間は、いつでも同じ速度で流れる。ただ、そこに意味を与えるのは人間だ。

 ならば、ここでの最初の一刻に、意味を与えよう。


 階段を降りると、女主人が木の盆を差し出した。パンと豆のスープ。湯気が、少しだけ心を軽くする。

 「夕の鐘が鳴ったら、湯も出すよ」

 「ありがとうございます」

 礼を言い、スープをすする。塩気が体に沁み、ようやく胃が仕事を始めた。


 匙を置くと、扉の向こうで人の足音が通り過ぎていった。外に出ると、空は薄紫に沈み、塔の輪郭が影絵のようにくっきりと立っている。

 やがて――

 夕の鐘が、落ちてきた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……数を数えるたびに、広場の明かりがひとつ、またひとつ灯っていく。

 俺は腕時計を見た。秒針が、ぴたりと十二時の上で跳ね、ふたたび滑り出す。

 新しい世界の一日が、終わりかけている。けれど、俺にとっては、ここからが始まりだ。


 塔の方角へと、足を向ける。

 ざわめきと灯りの海の向こうに、朝、声を掛けてきた老人の姿が小さく見えた。隣には、さっきの若者――皮のエプロン。

 二人は俺を見つけ、顔を上げる。

 俺も、腕を軽く掲げる。

 秒針は進んでいる。

 だから俺も進む。

 この世界で、時間を――そして自分の居場所を、刻むために。

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