5・県道56号線のオオカミ
大伯母たちは結局夕方まで滞在していた。彼女たちが帰った後、茉莉花もきょうだいたちもぐったりと疲弊していた。
片付けを終えた後、しばらく動くのも億劫でダラダラと過ごしていたらテレビの番組が六時のニュースに切り替わっていた。
晩御飯はレトルトのソースをかけたパスタと残った煮物だけでも良いかと茉莉花が気だるそうに彼らにたずねる。それを聞いた真斗は「もういいから休んでろ」と言い、立ち上がって台所に向かった。
ずっと女中のように動きっぱなしだった彼女をこれ以上働かせるのは心苦しい。それから昼食の時に冷たい麺が食べたかったことを思い出した。
家族全員が揃っているから外食でも、と真斗は思ったが夏休み中のこの時間帯はどこも混んでいる。正直、運転するのも面倒なくらい彼も疲れていた。明日は出勤なので早く風呂に入って寝てしまいたい。他の三人も同じように見えた。
冷蔵庫の脇にマグネットで貼り付けていた中華料理店のメニュー表を手に取り居間へ戻る。
「出前取るぞ」
彼はそう言って座卓にメニュー表を置いた。
この中華料理店は昔から何かあった時に出前を頼んでいる馴染み店だ。車で五分ほど行った旧街道沿いにある。
「ピザも食いてぇ」と畳に寝転がって声を上げる咲也に真斗は「ああ、頼んどけ」とあっさり承諾した。追加のピザは外食に行けない代わり、と言う事にする。
茉莉花は朝七時に起床して日頃の家事と墓参りの準備をし、出向いた墓地では炎天下にさらされ、午後はずっと来客対応で動き回ってた。
真斗の計らいで夕飯の支度をする必要がなくなり彼女にようやくゆっくりと休める時間ができた。
出前の品が到着し食べ終えてから茉莉花は自室に戻り、ポニーテールを解きベッドに横たわる。
寝そべりながらスマホで好きなアーティストのSNSアカウントをチェックしていたら、猛烈な眠気に襲われあっと言う間に寝落ちてしまった。
ドアをノックしながら「風呂が空いた」と告げる咲也の声で目を覚ますまで約二時間ほど眠っていた。握っていたスマホを見るともうすぐ午後十時。
茉莉花はあくびをしながらパジャマと替えの下着を持って部屋を出て階段を降りる。
狭い踊り場でふと足を止めた。見下ろした先にある玄関にハーフパンツ姿で上半身は裸の九郎がいた。外へ出るのか床板から降り式台の上に立っている。
こちらの気配を感じたようで彼は階段の方を振り返り見上げた。
ハッキリとした二重瞼だが大き過ぎずそれで黒目がちに見える。眉も太過ぎず細すぎず真っ直ぐで常に目と平行にある。
ほとんど表情を変えないが長年顔を合わせていると微妙に反応が顔に出ているのがわかる。
茉莉花が階段を降りてきた事に気付いて「あっ」とほんの少しだけ眉が上がった。
九郎の前まで降りて来た茉莉花が彼の身なりを見て言った。
「走りに行くの?」
「走りに行く」
今日も行くのか、と茉莉花は目を丸くした。
出前で取った五目焼きそばと餃子、ピザまで食べた事もあり体力気力ともに復活したのか気疲れして萎れていた彼の黒い目は今は生き生きとしている。
雨が降ろうが雪が降ろうが散歩に行きたがる「犬」みたいだなと茉莉花は思った。
「そっか、車に気をつけて。この前タヌキ轢かれてた」
「タヌキ」
九郎は口数も少ない。だが「寡黙」とは違う。
同じくあまり表情を変えず自分からはあまり喋らない「寡黙」な兄の真斗は大柄で常に眉間に皺が寄っていて圧を感じるが九郎はそうではない。
彼も身長が一八三センチあり真斗と比べれば細身だが体育会系の部活に所属する同年代に引けを取らないしっかりとした体つきをしている。褐色の肌をしていて初見だとそれなりの圧迫感があるがその佇まいは「静か」なのだ。
高い鼻筋を持つ精悍な顔立ちだが目元が優しいので無表情であっても無愛想とは感じない、何とも絶妙な顔のパーツの組み合わせがそうさせていた。
性格もあまり感情の起伏がないが冷たさはなく穏やか――と言うか「ぼんやり」としている。
「お風呂最後でしょ?炊いたままにしとくから早く帰って来て。上がったら鍵開けとくから」
「わかった」
九郎は式台から裸足のまま土間に降り「靴を履かずに」引き戸を開けて外へ出る。
茉莉花はいつもの事なので特に気にも留めず彼を追い、サンダルを履いて引き戸の前に立った。
「いってらっしゃい」
「行ってくる」
頷く九郎を見送ると、茉莉花は引き戸を閉め鍵をかけた。
外に出た九郎は歩きながら胸を開き半身を捻りストレッチを始める。
辺りの空気に昼間のような熱はないが生温い。それでも木々の枝葉を揺らす風は夜らしく澄んで心地よく彼は目を細めた。
一通り身体を慣らした九郎は敷地の外の方向へ歩き出す。このまま道路へ出るように見えたが、門柱の手前で歩いて来た方向へ踵を返し立ち止まった。
振り返った方向――コンクリート舗装の長いアプローチを真っ直ぐ行ったその先は、右奥にあるガレージの辺りで行き止まりになっていている。
家の敷地を取り囲む木々に覆われ、目視は出来ないがその先を約二十メートルほと行くと下りの急傾斜になっている。
彼はその場で身体を数回弾ませてから視線の先にある雑木林を見据える。
門柱からその行き止まりまでの距離は五十メートル弱。
真っ直ぐに立った姿勢からゆっくりと前傾姿勢を取り前へ出た左足に体重をかける。短距離走のスタンディングスタートのフォームだ。
後ろの右脚で軽くコンクリート舗装の地面を蹴り走り出し数歩で一気に加速する。
視線を上げ前方を捕らえる九郎の目は優しい黒い瞳から打って変わり激しい稲妻を宿らせたような金色の瞳に変わっていた。
走り出した彼のシルエットはみるみるうちに身体の内から湧き出した「獣」に取り込まれる。
黒い毛が肌と履いていたハーフパンツを覆い、手足や顔の形態も変わってゆく。
トップスピードのまま再び身体が前のめりになると「両手」は「前脚」になり地面を蹴る。
歪な黒い影になった九郎は行手を阻む行き止まりの雑木林にスピードを緩めることなくそのまま飛び込む。
木々の間を走り抜け視界が開けたと同時に地面を強く蹴って自宅がある高台から九郎はその身を踊らせた。
深い谷を飛び越え夜空に浮かぶ彼の姿は金色の目を光らせた「黒いオオカミ」。
飛び移ったのは向かい側の丘陵にある住宅地。コンクリートで覆われた法面を駆け上がり崖上を縁取るように続く緑地帯を走る。
緑地帯の右下には路線バスも走っている県道が見える。この辺りはまだ車両の往来が多いので身を隠すようにこの高台から並走する。
県道は緩やかに歪曲する箇所もあるが真っ直ぐに北へのびている。
市の境を越えてから少し進むとぐっと通行量が減ってきた。県道側の車両の流れが切れ、対向車や後続車の気配がないことを確認した九郎は高台の法面から県道へ飛び降りアスファルトを蹴って駆け出した。
緩いカーブを抜けると視界が開け頭上には澄んだ明るい夜空が高く広がる。左手の丘陵には新興住宅地。右手には東の海側、遠く松島まで続く繁樹に覆われた広大な丘陵地。
谷戸に広がる田畑を貫く片側一車線。
黒いオオカミ――九郎は律儀に左側の走行車線を走る。
背後から走行車のヘッドライトの光が近づいて来た。
目視される距離まで追いつかれる前に九郎はアスファルトの県道から左手にある水田の畦道に飛び移り車両に進路を譲る。
畦道を並走する自分を追い抜いた白のSUVのテールランプが遠ざかる。背後から後続車が来ないことを確認すると彼は畦道からまた県道に移り直走る。
半分人間だからなのかアスファルトがオオカミの脚にも合うのか、どちらなのか自分でもよくわからないが舗装された道を走るのは気持ちがいい。
この道はバイパスの裏道でもあるので昼間の通行量はそれなりに多い。堂々と走るなら今。灯も少ない午後十時以降の時間帯に限られる。
今日はどの道に逸れるか、どこで引き返そうか。
金色の瞳を輝かせ「オオカミ」の九郎は心地よい風を纏いながら夜の県道を駆けて行く。




