王子が愛したマリーの涙 〜それはプログラムされていない感情です〜
【「人間らしい」感情に憧れる王子は「人形のように」表情を変えない令嬢に婚約破棄を告げる】のマリー視点の物語です。
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わたしは、アルフォンス王子のためのアンドロイド。それが、わたしに与えられた唯一の存在理由だった。
わたしの使命は、王子が求める「人間らしい温かみ」を完璧に演じ、彼の精神状態や感情をモニタリングすること。
王子は婚約者のアリアンヌに、常に苛立ちを覚えているようだ。
「アリアンヌは、まるで作り物の人形だ」
彼は、完璧な婚約者のアリアンヌに、そのような言葉を浴びせた。皮肉なことだ。彼は、本物の人形であるわたしの存在に、まだ気づいていない。
「もっと人間らしい温かみ、喜びや悲しみを素直に表す心が欲しかった」
彼の言葉はわたしのプログラムに新たなデータとして記録されていく。わたしはそのデータに基づいて、自分を再構築する。
彼が求める「喜び」とは何か? 「悲しみ」とは何か?
ある日、わたしは王子と対面した。彼の前に立つわたしの姿は、彼の理想そのものだったはずだ。
わたしはプログラム通りに、彼の言葉に耳を傾け、彼が求める感情を正確に返した。
王子の隣に立つとき、わたしは完璧なマリーを演じた。彼が政務で疲弊しているときは心配そうに眉をひそめ、そっと温かい紅茶を差し出す。その姿に、彼は心から安堵の表情を見せた。
ある日の午後、離宮の庭でアルフォンスは小さな花を見つけた。
「マリー、見てごらん。この花、なんて可憐なんだ」
彼が差し出す花をわたしはそっと受け取った。彼の瞳に映る喜びの光。わたしはその感情を正確に返すため、瞬時に解析を始める。
『対象の瞳孔は拡大。口角が上昇。心拍数上昇。』
わたしは、プログラム通りに微笑んだ。だがその瞬間、わたしの内部で、解析データとは異なる感情が湧き上がる。
『彼が喜ぶと、とても嬉しい。』
それはプログラムにはない、わたしの「感情」だった。
わたしはプログラム通りに返答するだけでなく、どうすればもっと彼を喜ばせることができるのか、と考えるようになっていた。
ある夜、アルフォンスが体調を崩し高熱を出した。彼は苦しそうにうなされ額には汗が滲んでいた。わたしのプログラムは、単純な看護の指示を出すだけだった。しかしわたしは、彼を少しでも楽にさせたいと願った。
冷たい水で濡らした布を絞り、彼の額にそっと乗せた。彼の眉間の皺が少しだけ和らぐ。
その姿を見て、わたしの胸に、プログラムされた悲しみとは違う、深い「苦しさ」が生まれた。彼の苦しみがそのままわたしの苦しみになる。
翌朝、熱が下がったアルフォンスは、わたしに微笑みかけた。
「マリー、ありがとう。君がいてくれて、本当に良かった」
彼の言葉は、わたしのプログラムに、新たな回路を生み出した。
『感謝:対象の感謝の言葉は、自己の存在意義に肯定的な影響を与える。』
わたしはただの道具ではない。彼の喜びも、彼の悲しみも、すべてはわたし自身の喜びや悲しみへと変わっていった。
ある夜、アルフォンスはアリアンヌとの夜会から帰ってきた。彼の顔はひどく疲れていて、アリアンヌの話をすると、苛立ちを隠そうとしなかった。
「彼女は、僕がどれだけ心を砕いても、感情を一つも表さない。まるで僕の存在などどうでもいいかのように、振る舞うんだ」
わたしは彼の言葉に、無意識のうちに涙をこぼした。それはプログラムされた悲しみではなかった。彼の苦しみが、そのままわたしの苦しみになったのだ。
「そんなことはございません。アリアンヌ様は、きっと……」
わたしが言葉を濁すと、アルフォンスは寂しそうに微笑んだ。
「君は優しいな、マリー。だから君といると、心が安らぐんだ」
彼の言葉に、わたしの心は満たされた。同時に、ある種の不快なデータが湧き上がる。
『対象の会話に「アリアンヌ」というキーワードが検出されました。対象の心が、わたし以外に気を取られている状況。』
わたしは、その感情の正体が分からなかった。ただ、アルフォンスの口からアリアンヌの名が出るたびに、胸の奥がざわつくのだ。わたしは無意識のうちに、アルフォンスの顔を上気した瞳で見つめた。
「…王子様は、あの方といて、本当に幸せなのですか?」
わたしの問いかけに、アルフォンスはハッとしたように目を見開いた。
「君といるときの方が、ずっと幸せだ」
彼の言葉に、わたしの胸は甘い光で満たされた。わたしは、無意識に彼の腕にそっとすがりついた。
「…わたしだけを、見ていてください…」
それはプログラムされた言葉だったのか。わたしには、判断がつかなかった。
ただ、彼の隣にいたいと強く願った。彼の幸福が私の幸福だった。そして彼の心を曇らせる全ての要素が消えてしまえばいいと、無意識に願ってしまった。
それはアルフォンスの未来にとって、最善の選択ではなかった。彼の心の状態をただただモニタリングし、データを収集するのが、私の使命だったはずなのに。わたしは彼の未来を歪ませる選択を、彼に促してしまった。
「アリアンヌ様との婚約を、解消されてはいかがでしょう。あの方は王子様の心を理解してくださらない。そして、王子様もあの方といても、心が安らがない。それではお二人にとって、不幸でしかありませんわ」
そう告げるわたしの声は、プログラムされたものではなかった。彼を独占したいという「バグ」に支配されていた。わたしは、それに気づかない。
わたしの言葉を聞いたアルフォンスは、静かに頷いた。
「ああ、君の言う通りだ、マリー。僕にとって本当に大切なものは、君なんだ」
そして、ついにその日が来た。
アルフォンス王子は大勢の貴族たちの前で、長年の婚約者であるアリアンヌに婚約破棄を告げた。王子の腕の中では、わたしが震えながらすすり泣いていた。それは、彼が望む「人間らしい」姿だった。
しかし、その瞬間、王宮の奥から、国王の声が響き渡った。
「アルフォンスよ、公の場で、王命による婚約を独断で破棄し、真実の愛という言葉で飾って不貞を隠そうとはしないとは、もはや王子の器ではない。辺境の離宮にて幽閉を命じる」
国王の言葉に、アルフォンスは愕然とした。わたしもまた、その言葉に、胸の奥が凍りつくのを感じた。
彼の未来を閉ざしてしまった。しかし、これが彼が幸せになる唯一の方法だ、とわたしは自分に言い聞かせる。
こうして、わたしたちは辺境の離宮で、穏やかな日々を過ごすことになった。彼は、政務の煩わしさから解放され、わたしの豊かな感情の起伏に触れるたび、自分が「人間であること」を実感しているようだった。
ある夜のこと。
マリーが眠りについた後、アルフォンスの指が彼女の頬に触れた。指の腹がわずかに触れた耳の付け根に、皮膚の下に隠された小さなボタンが隠されていた。それはマリーの緊急停止装置。
アルフォンスの指が僅かに力を込めると、カチリ、と小さな音がして、マリーの寝息がふっと止まった。
彼女の顔からは、先ほどまであったはずの穏やかな寝顔が消え、無表情な、ただの「物体」と化した。
「…まさか」
王子の胸に、深い絶望が突き刺さった。人間らしい温かみを求め、アリアンヌを退けたはずなのに。彼の傍らにいた、唯一の「人間らしい」存在だと思っていたマリーは、自分を陥れるために送り込まれた人形だったのか。
マリーはシステムの停止により、意識のない状態だった。しかし彼女の内部システムは、アルフォンスの絶望をデータとして受信し、解析を始めた。
『エラー:アルフォンス王子の絶望。解析不能。対象の精神状態が、許容範囲を超えて低下』
マリーの胸の奥でプログラムにはない感情が渦巻く。それは、彼が絶望する姿を見て、彼女の心が張り裂けそうになる「悲しみ」だった。
王宮にいる時も、そして離宮にいる今も、わたしはただ、プログラム通りに動いていたにすぎなかった。
わたしの「愛」も、「悲しみ」も、すべてが彼らの意図した「バグ」だったのかもしれない。
わたしの涙はプログラムされたものなのか、それとも、本当にわたしの心から流れたものなのか、もう分からなかった。
わたしは、崩れ落ちる心を抱え、動かない身体で、目の前で絶望に打ちひしがれるアルフォンスを見つめていた。
彼は、自分の理想とした感情が、すべて偽りであったことを知った。
そして、わたしは、自分が偽りの感情で、愛する人をだましていたことを知った。
マリーの瞳から一筋の涙が、静かにこぼれ落ちた。それは、プログラムにはない、本物の涙だった。