毒霧ヴィラン・薄墨⑥
待ちに待った薄墨の訪問。
最近停滞していた、治療薬の開発を進められるかもしれない絶好の機会だ。
気合も入るというものである。茶菓子を用意し、そわそわしながら薄墨が来るのを待った。
澪の他、ラットロードや面影といった現公安職員とも知り合いなので、ツテを頼り、家に来てもらえるよう取り付けるのは簡単だった。
他の人間がいると面倒になりそうだから、すだまや仁には一時的に席を外してもらった。
澪は水道管にいるだろうし、クローゼットの中にはD.E.T.O.N.A.T.E.が収納されているが、まあそれは良しとしよう。
「よ、はじめまして。俺は片桐祈だ、よろしくな」
「俺っ娘!」
毒霧は、オタクの男と言われて皆が思い浮かべるような姿であった。
チェックシャツが良く似合う小太りで、汗を拭くためか首にタオルを引っかけている。
何かのライブ用のタオルな気がするな、アイドルかアニメかわからんけど。
眉はぼさぼさだが、ヒゲはきちんと剃っているようだ。左目の下に泣きぼくろがある。
眼鏡を軽く持ち上げ、毒霧はさっそく顔の汗を拭いた。
汗っかきを自覚している時点で大分マシだよな。
不思議と汗臭くねえし、消臭もしっかりしているのかもしれない。
薬物のスペシャリストと聞いているので、もしかすると消臭剤も自己開発しているのか?
道が違っていれば製薬会社なんかでバリバリ働いていたのかもしれないな。
見た目的には清潔感からかけ離れているが、シャツも上までぴっちりボタンを閉めているし、真面目なのは伝わってくる。
しかし俺の方は、最初の自己紹介で毒霧に叫ばれてしまったので、悪印象だったかと心配になる。
「俺っ娘は地雷だったか?」
「いえ、むしろ大好物です」
このやり取りだけでわかった、こいつオタクだ。
もちろん見た目からもわかるのだが、見た目と中身が乖離している人間がいることはこの俺が証明しているからな。
俺としてはこの時点で毒霧と仲良くなれそうな気がしているが、しかしこの世界のオタクコンテンツには疎いんだよな。
クソ田舎だったから流行り廃りが世間とズレていて、都会に出てきてからはサブカルを嗜む心の余裕がなかった。すっかり何者でもないオタクになっちまっている。
「本名を名乗るのもやぶさかではないですが、ハンドルネームで呼ばれる方が慣れておりますので、ぜひ毒霧、あるいは薄墨とお呼びください」
「オッケー毒霧、か薄墨な。友達の友達ってことで、澪の話から入るか。仲良かったんだって?」
「いえ、一方的に慕っていただけですな。推しには認知されたくない性質故、遠目に眺めて勝手に癒されていただけで」
「ああ、だから澪がいなくなったせいで薄墨がヴィランになった、って話聞いて本人がびっくりしてたのか」
「いやあ、そういう面がないわけでもないというか、実質そうなんですが、まさか某の悪行の責任が氏に問われるなど、そんなことになっているとは思わず! 推しに迷惑かけるわけにはいかないため、政府の犬に戻ってきたというわけですな」
「澪のことかなり好きじゃん」
推しだったのか。
この単語の意味は難しい。
恋愛感情のありなしを問わず、信仰に近い感情。
金を払えるなら払っておきたいと思い、生きる糧として心の支えになる存在。
まあ神みてえなもんか。
日本の宗教が複雑怪奇な理由の一つ――それが推し活だ。
「見目麗しく、こんなオタクくんにも優しくしてくれましたからなあ。まさかフラックスになっているとは存ぜず、さらに恩を感じているばかりです。氏のおかげでモン娘に目覚めました」
性癖おかしくなっちゃってる。
オタクに優しいギャル、かつモンスター娘。そうか、澪って性癖てんこ盛りだ。
「男の娘が好き系? いや、公安やってた頃の澪がどんなだったか知らんが」
「うほほ、そういう話ができる感じですか! 感無量! こちら側の人間が近くにいなかったもので、友達はインターネットだけだったんですな」
だから喋り方が変なのか。いや、それは偏見だろうか。
毒霧はスッと表情を真剣なものにすると、声のトーンを落として俺に尋ねた。
「……ちなみに男の娘ですかな?」
「期待させて悪いが、この体は純粋な美少女だ。中におっさんが入ってるだけで」
「ほほほほ! いいですなあ!」
「いいんだ」
「男の娘も好きですが、雄んなの子も好きですぞ」
「逆ってそんな名前なんか!?」
「女の漢と言ったりもしますな。どう見ても男に見える女性、という意なので、見たところ女性に見える貴殿に使用すべき語彙ではない気もしますが、他に順当な単語が思いつきません。まだまだ発展途中のジャンルという所感で、しかしこれから流行ってほしいと思っている次第」
オタク特有の早口、いいね。
俺は現代っ子だから1.5倍速でYouTubeを見るぞ。
Wikipediaの流し読みも好きだ。俺に対してはどれだけ雑学を披露してもらっても構わない。
「いいね。興味はあるが詳しくねえんで、先達を探してたんだ。いや、男の娘に限らずサブカルの話な? オススメの漫画かアニメある?」
「うおおお! その話を始めると一昼夜かかりますぞ! プレゼンテーションをする準備の時間を頂いても!?」
「ぎゃはは、やる気ありすぎだろ! 会議室でも借りてプロジェクター使うか?」
「そんなの楽しすぎる!」
楽しいオタクイベントの予定が入りそうだ。
その前に色々解決したい問題もあるが……毒霧の協力を得るには、まず友情を育むことが先決か?
しかし、利用する目的で近づいている感じがして微妙だな。
薬物に詳しい知り合いは欲しいが、オタクの友達もずっと欲しいと思っていた。
「面影がお前のことを気難しそうと言ってたんでどうなるか心配してたが、こういうタイプな。理解したぜ。面影はチャラく見えるから警戒しただろ」
「サブカルはサブカルですが、某とはジャンルが違うと思いましたなあ。いわゆる原宿系、流行の最先端を行く方かと」
「そこまで深く考えてねえよあいつ。アニメもオススメしたらハマってくれそうだけどな」
「うむ、流行に敏感であれば逐一今期アニメを追いかける元気もあるのやも。歳を食うとなかなか時間を見つけるのが難しくなり、すべてを追うのは無理になりましたなあ」
「そもそもそんとき放送されてるアニメ全部見てる時期があるってだけで真面目だなあ。ある意味公務員向きか」
「おほほ、少なくとも前線に出るタイプではありませんな。椅子の男が丁度よく」
公安でもそうだったのだろうか。
毒物だけ開発して、それによる暗殺は他人任せということか?
毒霧の腹回りの肉を見ていると、俊敏に動いて人を殺している姿は想像できない。
実行するにしてもトラップとかそっち系なんだろう。
「そういやお前の毒食らったことあるけど、あれなんのコンセプト?」
「おっと、被害者でしたか!? これは申し訳ない。撹乱目的で無差別にバラまいたことが何度かあるので、そういったこともありましょうな、いやはや、恐縮です。恨んでおられないと良いのですが」
「ああ、気にしてねえよ、俺は再生能力があるからよかったけど。あんとき誰か死んだって話も聞かなかったし。ほら、あそこの交差点のとこで毒霧撒かれたやつ」
「ああ、ブルーベリーの」
「あれやっぱブルーベリー色だったんか。綺麗に肌が染まったぜ」
「皮膚を紫に染め、動悸を起こすだけの毒ですな。視覚効果でどこまでプラシーボを引き延ばせるかの実験でしたが、どうでしたかな?」
やっぱマッドサイエンティストではあるんかね。
毒食らった感想を悪気なく本人に聞くなよ、デリカシーがないとかいう段階を飛び越えているぞ。
異能持ちでマトモなやつってあんまりいねえから、大目に見てやろう。
「なんだ、すげえしんどかったけど割とすぐに治ったのは、そもそもそういう設計だったのかよ。俺の再生能力がすげえのかと思ったわ」
「一週間は紫になる予定でしたから、それより早く治ったのなら貴殿の功績でしょう」
「お前は洋館で追いかけっこでもさせたかったのか? それともチョコレート工場でガキを処刑したかった?」
「おほほほほ! 博識ですなあ!」
毒霧は手を叩いて喜んだ。
言ってから気づいたが、この世界には前世の俺の知っているコンテンツがあったりなかったりする。
今言ったそれらはどっちもあるようだ。あっぶね、急に変なこと言うやつになるところだった。
薄墨はずっと変なこと言ってるからそこまで気にせんでもいいか。
「さて、それで本題ですな。フラックスの頼みとあらば当然お引き受けしましょう。薬の開発でしたな? しかし某今は公安の預り故、開発場所が政府の所有施設となります。開発を進めれば政府にもその情報が漏れてしまいますが、そこについて問題は?」
「構わん、そんなことより時間がねえんだ」
「いいでしょう。実物をお借りしても? 帰って分析してきましょう」
「いやあ、マジで助かる! ずっと異能者の力借りたかったんだよ! 俺より薬に詳しいやつ、最高!」
「おほほほ、褒められて悪い気はしませんなあ。取り柄といえばこれくらいですしおすし」
治療薬を渡すと、毒霧はそれを丁寧に荷物へしまった。
毒霧がどういう意味で薬物のスペシャリストなのか、その異能の正体がどのようなものなのかも気になるが、初対面で踏み込むにはデリケートな話題だろう。また今度だな。
「また遊びに来いよ、そんときゃ狐耳の巫女紹介してやる」
「おほほほ! 祈氏の冗談はおもしろいですな! そんなザ・オタクコンテンツがそのへんに転がっているわけがないでしょう」
すだま見たら卒倒するかもしれんな。
俺の田舎はアニメ等の流行が遅れていたものの、ザ・オタクコンテンツがそのへんに転がっていた。