3.あの時のごめんを君に
彼は、霧の向こうから現れた。
学ランのボタンをいくつか外し、シャツの裾を出したまま、ズボンのベルトはやたらと低い位置。どこからどう見ても、先生が眉をひそめそうな典型的“ちょっとヤンチャ”な中学生スタイル。
――でも、根は真面目な男の子だった……はず。
久美の記憶の中にいた、羽鳥悠真。
彼が、中学生の姿で目の前を歩いていた。
人気のない裏路地を、ひとり。
ポケットに手を突っ込み、時おり小石を蹴りながら。
「……あの歩き方、昔は恐かったんだよなぁ」
久美は物陰に身を隠しながら、そっと後を追った。
ストーカーのようで我ながらどうかと思ったが、夢だから許してほしい。なにより、目が離せなかった。
坂道を下りきった先に、小さな公園があった。
滑り台とブランコ、それからサビの浮いた鉄棒。ベンチが二つ並んでいて、街灯の下に小さな影がうごめいていた。
男の子が三人。中学生だろうか。
そのうちのひとりが、泣きそうな顔の小柄な少年の胸ぐらを掴んでいた。
「おまえさー、昨日も逃げたろ」
「わ、わかんない……おれ、やってないって……!」
「うっせぇんだよ」
そのときだった。
バサッ、と羽鳥悠真が彼らの前に割り込んだ。
「やめろよ」
その声は低く、でもはっきりとしていた。
一瞬、いじめっ子たちが動きを止める。
「は? なにおまえ」
「関係ないだろ、羽鳥」
「関係ある。俺、そういうの嫌いなんだ」
彼の背中が、すっと伸びた。
その姿は、ひとつ前の時代の子供たちとはまるで違っていた。
にらみ合いの末、少年たちは舌打ちしながら立ち去っていく。残された小柄な少年が、ぼそりと「ありがとう……」とつぶやくと、羽鳥は照れたように鼻をこすった。
「気にすんな」
そんなやりとりを、久美は少し離れたところからじっと見つめていた。
――やっぱり、優しい子だったんだ。
彼がベンチに腰を下ろすのを見て、久美はそっと近づいた。
手に持っていた紙袋を差し出す。
「はい。ご褒美」
「……は?」
不審そうに睨まれる。そりゃそうだ。
「たい焼き。おばちゃんからもらったやつ。チョコが入ってたら”当たり”だよ」
「チョコ? たい焼きに……?」
「そう。チョコだったら当たりって、私が昔勝手に決めてたの」
わけのわからない理屈に戸惑いながらも、彼は受け取って袋を覗き込んだ。
そして、ふと小さく笑った。
「変な人だな、おばさん」
「よく言われる」
並んで座ったベンチは、少し冷たかったけれど、不思議と居心地がよかった。
この空気も、言葉も、きっと夢の中だけの特別なものだと、どこかで分かっていた。
そこへ――また現れる、別の少年たち。
今度は楽しそうな笑い声が聞こえる。
彼らが蹴り飛ばして遊んでいるのは、小さなぬいぐるみだった。
久美の視線が、そのぬいぐるみに釘付けになる。
薄茶色のくまのぬいぐるみ。
――見覚えがあった。
「ちょっ……それ……」
羽鳥が立ち上がり、無言でぬいぐるみを拾い上げて、優しく泥を払う。
その瞬間、忘れていた記憶がフラッシュバックした。
誕生日にお姉ちゃんがくれた、大き目なストラップぬいぐるみ。
学校帰りに落としちゃって、必死で探して、探して、
泥、泣き声――そして。
「それ、返してよっ!!」
公園の入り口に、中学生の久美が立っていた。
涙と怒りで顔をぐしゃぐしゃにして、彼に詰め寄る。
蹴り飛ばして遊んでいた少年たちはもうどこかへ行ってしまった。
「どうしてそんなこと……返して!!」
「ち、違う……お前が落としてたから、拾って――」
パァンッ!
乾いた音が、空気を裂いた。
学ランの彼が、驚いたような顔で、頬を押さえた。
そこには、確かに久美自身がいた。あの頃の、自分。泣いて、誤解して、怒りや悲しみでぐちゃぐちゃになった気持ちを、ただただぶつけてしまった少女。
彼の手からぬいぐるみをむしり取って走り去っていく。
彼は何も言えなくなったまま立ち尽くしている。
久美はベンチから立ち上がって、そっと彼の背後に回った。
そして、やさしく抱きしめた。
「……ごめんね。あのとき、ありがとう」
彼の肩が、すこしだけ震えていた。