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忘却の初恋  作者: 角山亜衣


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2/5

2.たい焼きはチョコだった

 顔を上げたとき、そこにあるべきはずの街灯がなかった。


 代わりに、くぐもったオレンジ色の明かりがぽつぽつと続いている。アスファルトの道は少しだけガタついていて、電柱には手描き風のポスターが貼られている。


「……え?」


 久美は立ち止まった。


 さっきまでいたはずのビル街は影も形もなくなっていた。代わりにそこにあったのは、記憶の中の「昔の町並み」。

 夜だったはずなのに、午後の日差しに照らされている。

 薄く霧がかかったような空気の中、音も匂いも妙に生々しい。


 ――これは夢? いや、夢にしては五感がちゃんと働いてる気がする。


 思わず自分の頬をつねってみる。

 ……うん、痛い。ちょっと、むかしの自分の母親そっくりなやり方だったな。


 鼻先を香ばしい香りが横切った。とても懐かしい、甘い匂い。


 たい焼き屋さんだ。


 記憶のままの場所に、小さな屋台が出ている。エプロン姿のおばちゃんが、手際よく鉄板を返していた。

 その姿が若々しく、エネルギッシュで、思わず見入ってしまう。


「……おばちゃん、若い!」


 つい出たひとことに、自分で苦笑した。

 でも本当に、時間が巻き戻ったようだった。


 おそるおそる近づきながら、財布を探って――思い出す。財布、今の時代のだった。貨幣のデザインが違うはず。うっかり出したら警察沙汰になるかもしれない。


「あら、懐かしい顔だね。ほら、持っていきな!」

 おばちゃんはニコっと笑って、たい焼きを何個か紙袋に包んで差し出してくれた。


「えっ……でも、お金……」

「サービスするよ!」

 

 久美は、お礼を言って袋を受け取り、歩き出した。


 たい焼きは、ほんのり温かい。袋越しに手のひらがあたたかくなっていく。


 かじってみると、口の中にふわっと広がるこしあんの甘さ――


「……“はずれ”だ」


 思わずつぶやいて、顔がほころんだ。

 あの頃、中身がチョコなら“当たり”たい焼き。あんこなら“はずれ”という自分ルールを楽しんでいた。


 この歳になると、むしろあんこの方が“当たり”な気もしないでもない。

 くすぐったいような幸福感に包まれながら、商店街の角を曲がったその時だった。


 子供たちの声が聞こえた。


「おい! 順番守れよ!」

「俺の方が先に来てたのに!」

「負けたやつは10円ガムな!」


 見れば、昔ながらの小さな駄菓子屋の軒先に、ビデオゲームの筐体が置かれていて、そこに小学生たちが群がっていた。


 その中心にいた、ひとりの少年。


 ――目を疑った。


 心臓が一回、大きく跳ねた。


 ふとした角度で振り返った彼の顔。笑ったときの目元。前髪の感じ。


「……羽鳥……くん……?」


 思わず、名前が漏れた。

 口元を手で覆い、影からそっと覗き込むように見つめてしまう。


 心がざわざわする。あの頃の記憶が、どっと押し寄せてくる。

 たった一度も“まともな言葉”を交わせなかった、初恋の人。


 彼が、そこにいた。本当に時間が巻き戻ったみたいに、鮮やかに。現実味を伴って。


 ――夢だとしても、奇跡だとしても、もう少しだけ……見ていたい。


 だが。


 彼は眉をひそめ、こちらに視線を向けた。


 次の瞬間。


「やべぇよ、あのおばさん、さっきからずっとこっち見てる……!」

「マジ? PTAか!?」

「逃げろーっ!」


 わらわらと子供たちが散っていく。

 羽鳥くんも振り返りざまに一目散に駆け出していった。


「あっ……ま、待って!」


 思わず久美も駆け出そうとした――その瞬間、視界がぐらりと揺れた。

 霧が、またどこからともなく立ち上ってくる。音が遠ざかる。空気が変わる。


 そして、目の前に現れたのは――学ランを着崩した、中学生の羽鳥悠真(はとりゆうま)だった。

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