2.たい焼きはチョコだった
顔を上げたとき、そこにあるべきはずの街灯がなかった。
代わりに、くぐもったオレンジ色の明かりがぽつぽつと続いている。アスファルトの道は少しだけガタついていて、電柱には手描き風のポスターが貼られている。
「……え?」
久美は立ち止まった。
さっきまでいたはずのビル街は影も形もなくなっていた。代わりにそこにあったのは、記憶の中の「昔の町並み」。
夜だったはずなのに、午後の日差しに照らされている。
薄く霧がかかったような空気の中、音も匂いも妙に生々しい。
――これは夢? いや、夢にしては五感がちゃんと働いてる気がする。
思わず自分の頬をつねってみる。
……うん、痛い。ちょっと、むかしの自分の母親そっくりなやり方だったな。
鼻先を香ばしい香りが横切った。とても懐かしい、甘い匂い。
たい焼き屋さんだ。
記憶のままの場所に、小さな屋台が出ている。エプロン姿のおばちゃんが、手際よく鉄板を返していた。
その姿が若々しく、エネルギッシュで、思わず見入ってしまう。
「……おばちゃん、若い!」
つい出たひとことに、自分で苦笑した。
でも本当に、時間が巻き戻ったようだった。
おそるおそる近づきながら、財布を探って――思い出す。財布、今の時代のだった。貨幣のデザインが違うはず。うっかり出したら警察沙汰になるかもしれない。
「あら、懐かしい顔だね。ほら、持っていきな!」
おばちゃんはニコっと笑って、たい焼きを何個か紙袋に包んで差し出してくれた。
「えっ……でも、お金……」
「サービスするよ!」
久美は、お礼を言って袋を受け取り、歩き出した。
たい焼きは、ほんのり温かい。袋越しに手のひらがあたたかくなっていく。
かじってみると、口の中にふわっと広がるこしあんの甘さ――
「……“はずれ”だ」
思わずつぶやいて、顔がほころんだ。
あの頃、中身がチョコなら“当たり”たい焼き。あんこなら“はずれ”という自分ルールを楽しんでいた。
この歳になると、むしろあんこの方が“当たり”な気もしないでもない。
くすぐったいような幸福感に包まれながら、商店街の角を曲がったその時だった。
子供たちの声が聞こえた。
「おい! 順番守れよ!」
「俺の方が先に来てたのに!」
「負けたやつは10円ガムな!」
見れば、昔ながらの小さな駄菓子屋の軒先に、ビデオゲームの筐体が置かれていて、そこに小学生たちが群がっていた。
その中心にいた、ひとりの少年。
――目を疑った。
心臓が一回、大きく跳ねた。
ふとした角度で振り返った彼の顔。笑ったときの目元。前髪の感じ。
「……羽鳥……くん……?」
思わず、名前が漏れた。
口元を手で覆い、影からそっと覗き込むように見つめてしまう。
心がざわざわする。あの頃の記憶が、どっと押し寄せてくる。
たった一度も“まともな言葉”を交わせなかった、初恋の人。
彼が、そこにいた。本当に時間が巻き戻ったみたいに、鮮やかに。現実味を伴って。
――夢だとしても、奇跡だとしても、もう少しだけ……見ていたい。
だが。
彼は眉をひそめ、こちらに視線を向けた。
次の瞬間。
「やべぇよ、あのおばさん、さっきからずっとこっち見てる……!」
「マジ? PTAか!?」
「逃げろーっ!」
わらわらと子供たちが散っていく。
羽鳥くんも振り返りざまに一目散に駆け出していった。
「あっ……ま、待って!」
思わず久美も駆け出そうとした――その瞬間、視界がぐらりと揺れた。
霧が、またどこからともなく立ち上ってくる。音が遠ざかる。空気が変わる。
そして、目の前に現れたのは――学ランを着崩した、中学生の羽鳥悠真だった。




