1.眠れぬ夜と冷めたコーヒー
高瀬 久美、四十二歳。
IT開発会社「ロジクラフト」の主任エンジニアにして、社内一のコード職人。
バリバリ仕事はできるが、恋愛偏差値は限りなくゼロに近い――というのが、もっぱらの社内評価である。
「主任、また夜中にコミットしてましたよね? ちゃんと寝てくださいよ〜」
ニヤニヤしながら声をかけてくるのは、新人の佐藤くん。若さと愛嬌と腹筋を武器に、社内のマスコットと化している。
「んー? 気づいたら朝だったの。気にしないで」
久美は疲れた笑みを浮かべながら、机の上のマグカップを傾けた。中身はもちろん冷めたコーヒー。エスプレッソにしなかったのは、昨夜の自分の優しさか、それともただのうっかりか。
「主任って、彼氏とかいたことあるんですか?」
不意打ちの直球が飛んできた。
久美の手がピクリと止まる。マウスカーソルがウィンドウの端っこで止まったまま、彼女の意識は一瞬だけ過去へ飛びかけて、すぐに戻ってきた。
「……企業秘密」
「うわ、なにそれ〜。怪しい! 絶対いなかったヤツじゃないですか!」
「ちょっと佐藤、そういうのはセクハラになるわよ」
隣の席の高野さんが笑いながら口を挟む。久美はその隙にマグカップを置き、椅子をクルリと回した。
「ほら、単体テスト残ってるでしょ。佐藤くんはそれ、よろしくね」
「はーい……あ、でも主任って、なんか一周回ってモテそうっすよね」
「回りすぎて見えなくなってる気がするけど」
「ひどい」
そんな軽口が交わされる職場。
チームの中では頼られ、慕われている。だけどふとしたときに、ぽつんと胸の奥が冷たくなる。
たとえば、こういう会話のあととか。
――良い人、か。
探そうと思わなかったわけじゃない。
ただ、気づけばずっと、仕事が一番手前にあった。それだけのこと。……たぶん。
退勤時刻。オフィスのフロアには、もう数人しか残っていなかった。
自席で軽くストレッチをし、ジャケットを羽織りながら久美はふと、窓の外を見た。
夜の帳がすっかり降りて、ビルの明かりが滲んでいる。
明日は土曜だというのに、明確な予定は何もない。そう思った途端、ふわりと孤独が肩に乗ってきた。
「よし! 今夜は日本酒と……スーパーの刺身パックだな」
ひとりごとを呟く。自虐というよりも、日々のルーティンの確認。
――東京って、どれだけ住んでも“地元”にはなれないんだな、って。
ふと思う夜がある。
コートのポケットに手を突っ込んで、久美は改札に向かうはずだった足を、ふと止めた。
なぜか今日は、生まれ育った町の空気を思い出す。
坂道と、木造の商店街と、電車が1時間に1本しか来ない駅。
――急に、帰りたくなった。
そんな気分に突き動かされるように、久美はスマホを取り出した。
「……え、最寄りの駅に、こんな名前の路線あったっけ?」
不思議そうに呟いた次の瞬間、風景が、なぜか少しだけ揺らいでいた。