第97話 奇跡の瞬間
神歴1012年、6月10日――ミレーニア大陸中部、ラドン村。
午前8時10分――ラドン村、宿屋1階の食堂。
「なあーっ!? ボクっちの師匠はナミ様だけだあーっ! たった三か月一緒にいただけで、師匠面するなぁー! 馬鹿師匠ーっ!」
「あーっ! ひどいこと言ったーっ! 取り消せ―! リリーはいつまで経っても、ボクの愛弟子だぁーっ! 愛弟子だ愛弟子だ愛弟子だーっ!」
サラとリリーの、低次元な言い合いが突然と始まる。
誰がどう見ても完全に似た者同士だったが、二人は共にそう思ってはいないらしい。
ブレナはあきれたように一息吐くと、ナミに向かって、
「約束だ。ジャックを返してもらうぞ」
「ああ、分かっている。――サラ、今から奴と共にガルメシア城へ戻ってジャックをこの村に連れてこい。ついでにこの村の住人もガルメシア城へ。時間がない。急げよ」
「はーい! りょーかーい! おじいちゃんたち、こっち来てー!」
言われたサラが、元気に応じる。
話を通してあったのか、三老人は訝ることなくサラの呼びつけに従った。
ゆっくりと、本当にスローリーな足取りで、三人がサラのもとへと歩み寄る。
やがて彼らはサラと合流すると、次々と宿の外へと歩いて消えた。
しんがりを務めたサラも、そうして彼らに続くように宿の外へと足を向ける。
彼女はそのまま、ブレナの横を通り過ぎ――だが、後方にいたルナとすれ違った瞬間、それは起こった。
ぱちんっ!
唐突に、平手で頬を叩く乾いた音が室内に鳴り響く。
ブレナは慌てて振り返った。
と。
「痛て!? なんだよ! なんでいきなりぶつんだよ!」
右手で、自らの頬を押さえたサラが、怒った顔でルナを睨みつけていた。
が、怒っているのは、どうやらルナも同じらしかった。
彼女は赤い両目に、静かなる青い炎を宿らせると、
「あなたのことは絶対に許しません。ブレナさんとレプの心をもてあそんだ、人でなしのあなたは必ずこのわたしが倒します」
「…………っ」
ブレナは、腰もとの『グロリアス』に手をかけた。
リアとセーナの目つきも、その瞬間に鋭く変わる。
アリスだけは状況が飲み込めずあたふたしているようだったが――いずれ、だがその後の展開はブレナたちが危惧するような一触即発へは移行しなかった。
ルナに頬を叩かれたサラは、ほんの一瞬だけ、ムッとしたような表情を見せたが――けれども彼女は、すぐにそれをかき消し、何食わぬ顔で宿の外へと出て行った。
…………。
…………。
…………。
室内の空気が、やがて平静に戻る。
ブレナは、改めて言った。
「ジャックの話だが、あいつは今、ガルメシア城にいるのか?」
「ああ、そうだ。心配せずとも、無傷だよ。可愛げのない男だが、捕虜に傷をつけるような真似はしない」
こちらの関係性を知ってか、知らずか、リアのほうを見ながらナミが言う。
リアは表情を変えなかったが、ナミのその言葉が彼女の心情にマイナスの影響を与えなかったことは間違いないだろう。
ブレナは、さらに言った。
「サラがジャックを連れてくるという話はとりあえず信じるが、ガルメシア城から連れてくるとなると相当な日数が掛かるよな? そのあいだ、まさかずっと雁首揃えてこの場所で待ってるのか? こののどかな村に長期間、暇を潰せるような――」
「その心配はいらない。順調に事が運べば、十分と掛からずサラは戻ってくるよ。無論、ジャックを連れてな」
「……どういう意味だ?」
と、だがそう発した瞬間、ブレナの脳裏に『あの男』の姿が突と浮かび上がった。
フード付き黒マントを頭からかぶった、例の男。
音もなく、声もなく、こちらの目の前から忽然と姿を消して見せたミステリアスなあの男。
「どういう意味かはすぐに分かるよ。そのときが来れば、おのずと理解できる。文字通り、一瞬でな」
「…………」
ブレナは、黙った。
ナミが発した言葉の意味と、ルドン森林で自身が味わった不可解な現象。
そのふたつが、彼の脳内でピタリと重なり合う。
「…………」
沈黙。
理解の沈黙が、長いときを潰す。
ブレナの意識が現実世界に戻ったのは、それから五分が過ぎたあとだった。
「ブレナー! 大変だー! 大変だよー!!」
声。
彼の意識を現実世界に引き戻したのは、不意に鳴った『声』。
宿の外から響いてきたその声は、まごうことなき『彼』の声だった。
ブレナは、怒りの息を落とした。
いくらなんでも、これは看過できない。
悪意ある、しつこさだ。
(……ふざけた女だ。この期に及んで、まだこんな『悪ふざけ』をしやがるのか?)
椅子を鳴らして立ち上がると、ブレナはまっすぐに宿の外へと走った。
チロの声が響いた、宿の外へと。
憤怒の感情が、許容可能なメーターを光の速度で突き破る。
◇ ◆ ◇
同日、午前8時17分――ラドン村、宿屋前の広場。
いた。
想像通り、チロがいた。
チロに化けているだろう、サラがいた。
ブレナは、烈火のごとく叫んだ。
「見た目に寄らず、ねちっこい奴だな! ジャックを連れてきたなら、テメエの役目はもう終わりだ! 今、この場で――」
「えっ、なに? なんで怒ってんの? 久しぶりに会ったのに、その反応はおかしくない??」
「ああ、久しぶりだな。七分三十一秒ぶりだ。いや、チロの姿で会うのは八分ぶりくらいか?」
「ん、チロの姿って…………どゆこと??」
しらじらしい。
わざとらしく(まるで本当に理解不能だと言わんばかりに)キョトンとした様子を見せるチロ。
ブレナは『彼』――いや、『彼女』のもとへと近寄ると、
「さっさと『変身』を解け。チロの姿のまま、斬り捨てるのは忍びない」
「き、斬り捨てるって!? ちょっとブレナ、落ち着いてよ! オイラのこと、分かんなくなっちゃったの!? てゆーか、変身? なんか勘違いしてるよ、絶対!」
「勘違いなんざ――」
「待て、ブレナ! それは『サラ』ではない! おそらく、本物の『チロ』だ!」
割って入ったその声は――。
後方数メートル、ブレナは弾かれたように振り返った。
立っていたのは、ナミだった。
否、ナミだけじゃない。
ルナも、アリスも、リアも、セーナも、リリーも。
つまりは宿の中にいた全員が、揃って外に飛び出してきたということになる。
ブレナはだが、視線をナミただ一人に釘づけ、
「本物のチロ? んな馬鹿な、何を根拠に――」
「根拠はない。だが、サラならジャックを連れてきているはずだ。わたしの命令を無視して、一人で戻ってくるような奴ではない」
言われて。
ブレナは改めて、チロの周囲を仔細にチェックした。
いない。
確かに誰もいない。
ジャックどころか、そこには人っ子一人存在しなかった。
チロ単体である。
そのチロが、驚いたように訊く。
「サラって、あの人真似師のサラ? 十二眷属の? あいつ、今度はオイラに化けてたの!?」
「……本当にサラではないんだな? もし悪ふざけなら、今すぐやめろ。わたしをもだますのは、裏切り行為とみなすぞ」
受けたナミが、逆に確認するように問いただす。
チロは顔を真っ赤にして激高した。
「ナミまでなんだよー! レプを呼んできてよー! レプならきっと、オイラが本物のオイラだってすぐに分かるはずだー!」
「…………」
…………。
…………。
もしかして。
もしかして、本当にチロなのか?
本当に、本物のチロなのか?
フェリシアの町で倒したあの十二眷属の男の中に、本当にチロの魂が封印されていたというのか?
そんな『偶然』がありうるのか?
だが――。
だが、もしそうだとしたら――。
「……チロ? 本当に、おまえ……本物の『チロ』なのか?」
「うん、オイラ一年ぶりに華麗に復活! ブレナも、ナミも、久しぶり! レプはどこ? レプにも早く会いたいなー!」
チロが、びっくりするくらいに軽く言う。
ブレナは、ワナワナと両手を震わせた。
そのまま、おぼつかない足取りでチロの目の前に(文字通り目の前に)まで近寄る。
そして――。
そして彼は思いっきり、相棒の頭を引っぱたいた。
「あたッ!? な、なんでいきなりぶつんだよー!」
「なんで? なんでだと? こんのぉぉぉ馬鹿巻きグソ! 復活したなら、なんでさっさと飛んでこないんだ!? おまえが休まず一週間くらいで飛んできてりゃ、サラが化けた偽物なんかにおちょくられずに済んだんだよ!」
「なんだとー! オイラ、これでも一生懸命飛んできたんだぞー! 一か月もかからずここまで来たのに、なんて言い草だー! この乱暴者! 乱暴ブレナ! 馬鹿トーマ!!」
「んだとー!!」
「んだよ-!!」
チロとのあいだ、わずか数センチのあいだに火花が散る。
今にも醜い取っ組み合いを始めそうになって、だがすんでのところでブレナは我に返った。
ハッとして、チロに訊く。
「そう言えば、おまえ……なんで俺がここにいるって分かったんだ?」
「えっ、なんでって…………あーっ、そうだ! そうだった! 忘れてた!! こんなことしてる場合じゃないんだった!!」
と。
本当に忘れていた何かをハッと思い出したように、チロが唐突に両手を頭上に振り上げる。
そうして。
そうして彼は。
そうして彼はそのまま、思いがけない言葉を口にした。
それは本当に、思ってもいなかったような出し抜けの『報告』だった。
「ナギが、ナギがこの大陸に来てるんだ! ギルバートとか連れて、ガルメシア城を攻める気満々ですぐそこまでやって来てるんだよ!!」
事態が、にわかに動き始める。




