第88話 記念すべき初デレ
神歴1012年、5月23日――ミレーニア大陸東部、フォトセットの町。
午後2時21分――宿屋2階の客室、ルナとアリスに割り当てられた部屋。
「アリスさん、手紙書いてるんですか?」
「うん、パパとママに。旅に出てから、まだ一度も書いてなかったから」
「そうなんですね。でも、ミレーニアからギルティスまで手紙って届くんですか?」
「うん、届くみたいだよ。ブレナさん、言ってた。十日くらい掛かるらしいけど」
「十日で届くなら、じゅうぶん速いですね。わたしも、誰かに手紙書こうかな……」
一瞬、そう思ったものの、手紙を書くほど親しい人間などいないとすぐに気づく。
当然である。
そういう間柄の人は今、全員この場に揃っているのだから。
ルナはアリスの正面の席に座ると、手紙の内容を見てしまわないよう視線の位置に気をつけながら、
「アリスさんのご両親は、ふだん何をしているんですか?」
「ママは裁縫の仕事してる。ママ、あたしと違って手先がすごく器用だから」
「お父さんは?」
「なんにもしてない」
「えっ?」
ルナはキョトンと固まった。
気づいたアリスが、不足した言葉を付け加えるように言う。
「パパは仕事してない。ずっと家にいるよ」
「ああ、そういうことですか。主夫をやってるってことですよね? 最近、そういう家庭も増えましたね」
「ううん、やってないよ。ご飯も掃除も洗濯も全部ママがやってる。パパはなんにもしてない。たまにママとあたしがお小遣いあげて、そのお金で週末のドックレースに行くのがパパの唯一の楽しみ」
「完全にヒモじゃないですか!?」
完全にヒモだった。
ものすごく紳士然とした立派な人に見えたのに、完全無欠のヒモだった。
が、アリスにとってその言葉はどうやら禁句らしかった。
珍しく、彼女は語気を強めて、
「ヒモって言うなーっ!! パパのこと悪く言わないでよー!!」
そう言い放つと、その勢いのまま、さらなる言葉を立て続けに叫んで並べた。
「みんなパパのことダメな大人扱いするけど、あたしにとっては最高のパパなの! いつも一緒にいてくれて、いつも一緒に遊んでくれたんだからーっ! 世界一のパパなの!」
「…………」
押し黙る。
ルナは、遠い過去の世界に心を馳せた。
父がいて、母がいて、でもそれ以外に何もなかった幼少期。それ以外に何もなくても、でも幸せだったあの時代。
もう二度と再び、戻ることはできない。戻ることはできないのだと、彼女は知っていた。
「……ごめん、ルナ。言い過ぎた。急に怒鳴ったりして、その……ごめん……」
こちらの沈黙を怒りと取ったのか、あるいは悲しみと取ったのか、どちらかは分からないが――アリスが申し訳なさそうに謝ってくる。
ルナは首をブルブルと左右に振った。
「かまいません。悪いのはわたしです。お父さんの悪口を言われたら、誰だって怒ります。家族のことを悪く言われたら、怒って当然です。だから、謝らなくちゃいけないのはわたしのほうです。ひどいこと言って、ごめんなさい……」
「……ううん、ルナは悪くないよ。悪気があったわけじゃない、って分かってるのに怒っちゃったあたしが悪いんだから。でも、パパ可哀想なんだ。いつもダメな大人だダメな大人だ、ってみんなに言われて……。ダメかもしれないけど……でもみんなに言われて、パパ可哀想だよ……」
アリスが、悲しそうに言う。
ルナは、彼女の手をギュッと握った。
「さっきは何も知らないのに勝手なことを言ってしまいましたが、アリスさんのお父さんはダメじゃないと思います。娘にこんなに愛されてるのに、ダメな人間なわけないです。ダメかどうかを決めるのは他人じゃなくて家族です。家族にダメだと言われる人間が、本当にダメな人間です」
「……ママ、たまに言ってるけど……」
「たまにならセーフです。週一までならギリオーケーです」
じゃあ、オーケーだ――そう言って、アリスが笑う。
ルナも同じように笑った。
いずれ、アリスもアリスの父親も幸せである。どんなに蔑まれようとも、父は娘を思い、娘は父を思っている。二人の心は通っている。
ルナにはもう、心を通わす父はいない。大好きだった父の心と身体はもうこの世界には存在しない。
まぶたを閉じ、ルナは強く思った。
世界は、平等であらなければならない。持つ者と奪われる者が同時に存在してはならない。弱者が強者に虐げられ、その強者という名の悪党がこの世の春を謳歌するような世界は間違っている。
十二眷属であろうと、人間であろうと、モンスターであろうと、そんな悪党は全て粛清されなければならない。悪のレベルに応じて、相応の罰を正しく受けねばならない。ヴェサーニアは、そんな世界にならなければならない。
ルーナリア・ゼインは、その世界の実現をただひたすらに希う。
◇ ◆ ◇
同日、午後2時27分――宿屋2階の客室、リアたちに割り当てられた部屋。
「……リア、無理しなくていいよ。アタシの前では、弱音吐きなよ。誰も見てないんだから。ほら、お姉ちゃんの胸で泣きなさい」
「……どんな寸劇?」
リアの冷めた視線が、セーナの胸にグサリと刺さる。
セーナは「んがーっ!」と頭を抱えた。
「ジャックのことだよ! あんた、心配なんでしょ! ほかのメンツは気づいてないだろうけど、アタシには丸わかりなんだよ! 何年の付き合いだと思ってんの!?」
「……セーナ姉が思うほど、別にそんな心配してない」
「嘘つけ。あんたはすぐ顔に出んだから。自覚してないだろうけど」
「……そんなはずない。顔になんか出してない。態度にも出してない」
「ほら、やっぱ心配なんじゃん」
「…………ッ」
鎌をかけた、というわけでは別にないのだが。
勝手にかかったリアが、悔しそうに顔を赤らめる。
セーナはここぞとばかりに畳みかけた。
「あれからなんの音沙汰もなくて心配なのは分かるけど、ハッキリ言って心配なんていらない。アタシの第六感が言ってる。ジャックは無事で、ナミの城かなんかで旨いモン食って腹立つくらい健康的に過ごしてる。アタシの勘が、間違ってたことなんてあった?」
「……あんまりないけど。なぜだか」
「あんまじゃなくて、一回もない。あんたを励ますために言ってんじゃないからね。ピカーッって勘が働いたから言ってる。それでも不安なら、さっきも言ったけど遠慮なくアタシの胸で泣きなさい。あんたの泣き言くらい、全部きっかりまとめて受け止めてあげるから」
「…………」
受けたリアが無言のまま、トボトボとこちらに向かって歩き始める。
セーナは両手を目一杯広げて、彼女の到着を待った。
が。
「……そーゆうの、恥ずいから」
真横まで来たところでボソリとそう落として、リアの身体はそのままセーナの横を通り過ぎて後方のベッドへと落着した。
しばしの静寂。
その後、セーナは光の速度で振り返った。
「いや恥ずいってなんだよ!? アタシのが恥ずいんだよ! こーゆうのはスルーされたほうが余計恥ずかしいんだよ! 素直に抱きしめられろ!」
「やだ。百万ゴーロくれるって言っても、抱きしめられてあげない」
珍しく、いたずらっぽく笑ってリアが言う。
セーナはカッとして、さらなる文句を言おうと口をひらいたが、続くリアの言葉は彼女のその勢いと言葉を完膚なきまでに奪い去った。
「でも、ありがと。セーナ姉のおかげで、少し気持ちが楽になった。こう見えて、セーナ姉にはいつも感謝してる」
「…………」
セーナは、両目を丸くして固まった。
普段のリアからは絶対に聞けない、素直な言葉。
こんな『デレモード』の彼女を見るのは、久しぶり……というか初めてかもしれない。
だが、そんな奇跡の現象はそれで終わりではなかった。
ニッコリと。
笑うことすら希少なリアが、両目を細めて満面の笑みを浮かべる。
彼女はそのまま、セーナの時を完璧に止めるトドメの一言を言い放った。
「セーナ姉、大好きだよ」
嬉しさと気恥ずかしさで、思考回路がショートする。




