第79話 揺らぐ思い
神歴1012年5月5日――ミレーニア大陸東部、フェリシアの町。
午後3時50分――商業区、宿屋2階の一室。
「歯ぁ、食いしばんなさいっ!」
「…………」
ばしんっ!
蹴った。
思いっきり、ケツを蹴った。
歯を食いしばれ、と言いながら、ビンタではなくケツキックをかました。
不意打ち中の不意打ち。
けっこう良い音がしたが、でもどうやら受けたリアのダメージはほとんどゼロらしかった。
放ったセーナが、悔しそうに言う。
「ちょっとは痛そうにしなさいよ! 演技でも痛そうにしろ!」
「……ごめん」
「ごめんって言うなーっ、余計腹立つ!!」
まあ、気持ちは分かる。
短く嘆息し、ブレナは二人のやり取りに割って入ろうと口をひらいた。
が、隣にいたルナに先を取られる。
彼女は神妙な面持ちで、
「……セーナさん、もうそのくらいで許してあげてください。リアさんも反省してると思います。顔見れば分かります。これはシュンとしてるときのリアさんです。叱りすぎて、リアおねーちゃん怖い、ってトッドくんに言われたときと同じ顔してます」
「……あんた、それどこで見てたの?」
「ドアの隙間からこっそり見てました。でも、あれは包丁でイタズラしてたトッドくんが悪いです。リアさんは間違ってないです。あれはめちゃ怒って当然の場面です」
「…………っ」
リアの表情に、なんとも言えない複雑な色が混じる。
ブレナは、そこでようやくとそのやり取りに割って入った。
「セーナ、リアもたぶん反省してる。それくらいでいいんじゃないか? 二度やらかすようなら、そのときはさらにキツめの仕置きが必要になるだろうがな」
「……まあ、あんたがそう言うならそれでいいけど。一応、礼は言っとくわ。リアのこと助けてくれて……ありがと」
セーナの頭が、殊勝に下がる。
彼女はそのまま、「ほら、あんたも」とリアの後頭部にも手を当て、強引に彼女のそれも下げさせた。
ブレナはだが、必要ない、とばかりに利き手を振って、
「いや、礼は不要だ。こうなったのは、サラの能力をおまえたちに伝えてなかった俺にも責任がある。事前に知ってれば、リアが暴走することもたぶんなかったはずだ」
「対象の記憶ごと、その人物に姿を変えることができる。そういう能力ということで間違いないですか?」
確認するようにルナに訊かれ、ブレナは『その認識』で問題ないと頷いた。
「ああ、間違いない。ちなみにここからは俺の想像だが、その記憶ってのはおそらくサラがその人物と最後にあった段階までの記憶だ。じゃないと、さすがにいろいろと無理がある」
「じゃあ、そのサラっていう十二眷属のヒトと会ったことがないヒトは、化けられる心配はないね」
「化ける? ああ、そうか。そういうリスクもあるか……」
アリスに言われ、ブレナは改めてそのリスクを認識した。
確かに彼女の言うとおりだ。
サラが、自分やリアに成りすますということも可能と言えば可能。
が、もっとも、瞬間的にならまだしも、長い期間化け続けることは不可能である。
ブレナはその理由を、居並ぶ面々に話して伝えた。
「が、そうなっても大丈夫。まんがいち、俺たちの誰かにヤツが化けたとしても見分けることは容易だ。サラは魔法が使えない。ダブルを握らせて魔法を使わせれば、それで本人かどうかすぐに分かる」
「あたしも、魔法使えないんだけど?」
「わたしもです。ゼロエネルなので」
「…………」
そうだった。
この二人は、魔法が使えなかった。
少しだけ固まってから、ブレナは何事もなかったように二人に言った。
「ああ、分かってる。だからサラを倒すまでは、おまえたちは常に二人一組で動け。どんなときでも、単独行動は厳禁だ」
「わたしもですか? わたしは、サラというヒトとは会ったことないですけど……」
「一応、な。もしかしたら、誰かに変身した状態でのサラとは出くわしてる可能性があるかもしれない。黒髪黒目の状態じゃなければ、すれ違っていたとしても十二眷属だと気づくのは不可能だからな」
「横から悪いんだけど、そもそもすれ違ったくらいの短い時間で、そいつに変身することが可能なの? 記憶まで再現できるんでしょ? だとしたら便利すぎない?」
文字どおり横合いから、セーナが会話に割って入る。
ブレナは彼女の言葉にこくりと頷き、
「まあ、普通に考えたら不可能だ。ある程度の時間、対象と相対することが条件となっていなきゃおかしい。おかしいが、念には念だ。二人とも、それで構わないな?」
「……構わないよ。あたしに拒否する権利なんてない。変な命令とかじゃないかぎり、しばらくはあんたの言うことはなんだって聞くよ」
「わたしも、別に問題ないです。でも、そもそもの疑問をひとつ良いですか?」
「ああ、いいよ。なんだ、ルナ?」
軽い口調で、うながすように訊き返す。
ルナの口から放たれた疑問の言葉は、でもブレナが想像していたどれとも違った。
彼女は不思議だといった感じで、形の良い眉をわずかに動かし、
「みんな当たり前のように話してますけど、ミレーニア大陸ではこういうの普通なんですか?」
「……どういう意味だ?」
言っている意味が分からない。
が、怪訝に眉をひそめるブレナをしりめに、ルナは当たり前のことを言うかのような口調でその先を続けた。
「いえ、言葉のままの意味です。ギルティス大陸では、こういう特殊能力的なモノを使える生物は見たことがなかったので。ガゼルが獣人モードと小動物モードを使い分けてはいましたけど、なんかこれはあれとはまた次元……というか種類が違うような気がしたので……」
「…………」
ブレナの中で、得体の知れない『何か』がモゾモゾと不気味に蠢く。
◇ ◆ ◇
同日、午後7時23分――宿屋1階、酒場。
そうだ。
ルナの言うとおりだ。
サラの能力は明らかに、この世界では浮いている。異質である、と言い換えてもいい。
一年前のあのとき、初めてサラの能力を知ったあの瞬間も、実は同じような違和感をブレナは覚えていた。
だが、その違和感の正体がなんなのか、までは行き着かなかった。行き着かないまま、数秒で流した。
だが、今は分かる。
そぐわないのである。
自分が造ったこの『ヴェサーニア』の世界観にマッチしない。
無論、ここはファンタジーの世界だ。
ダブルを介して魔法が使える世界である。
倒すと宝石に変わる、非常識なモンスターもそこかしこに跋扈している。
宝箱も当たり前のように各地に散在し、逆さまに水が流れる洞窟まで存在する。
ゆえに、他者に変身できる『特殊能力』があってもなんら不思議はない、とはだがならないのである。
なぜなら、それらの非現実的な要素は全て、自分が設定し創造したものだからだ。
今回のケースとは意味合いがまるで違う。
自分は、こういった『特殊能力』の設定はしていない。
もちろん、十二眷属を含め、その後の全ての生物を造ったのはナギとナミである。
その過程で、例えばガゼルのような身体的特徴を持った生物や、自分が想定していなかったような特徴を持つモンスターなどが数多く生まれるのは必然であり、それを見ることを楽しみにしていたのも事実だ(全てが既知であるのはつまらない。下界に降りたときの楽しみが減るからだ。二人に創造主の役割を託したのには、そういった意図も少なからずあった)。
だが。
(……これは違う。そういうのとは違う。違う、ような気がする……。ルドン森林で出くわしたヤツのせいで、過敏になってるってのも多少はあるかもしれねえが……)
それだけでは、でも断じてない。
ブレナはあの夜と同じように、大ジョッキに並々と注がれた琥珀色の液体を一気に飲み干すと、あのときと同じ言葉をもう一度、今度は声に出してつぶやき落とした。
「……この世界、本当に俺が造った世界だよな?」
揺らぐ思いが、視界を揺らす。




