第75話 ヴェサーニアの謎
神歴1012年、5月2日――ミレーニア大陸東部、ハーサイドの町。
午後7時31分――ハーサイド、宿屋二階の一室(アリスの寝ていた部屋)。
「最初に言っておきます。アリスさんのせいではないので、自分責めは禁止です。それを理解したうえで、お話しましょう。口をひらいたら、理解したと取ります」
「……う、うん……りょうかい」
気圧されたように、アリスが答える。
ルナは満足げに頷くと、軽く周囲を見まわした。
今現在、室内には自分とアリスとレプの三人がいる。
ルドン森林で見つけたルドン茸を煎じて、アリスに飲ませたのが今からちょうど五分前。アリスの体調は見る間に回復し、その後わずか数分で、彼女は以前と変わらぬ元気な姿を取り戻した。
で、今である。
ルナは全快したアリスに、事の次第を説明した――おそらくは隣の部屋で、同じようにリアに語って聞かせているだろうセーナのように。が、話の途中、アリスの顔が目に見えて曇っていくのを感じて、ルナは強い口調で冒頭のセリフを吐き落としたのである。
受けたアリスの反応は、ルナが想像したとおりの、不安度九十パーセントのそれだった。
「……ジャック、心配だね。大丈夫、かな……?」
「大丈夫だと思います。ブレナさんも、殺すつもりならその場でやっていただろうと言っていましたし。それができたシチュエーションでもあったみたいです。さらった理由は分かりませんが――生かしてさらったからには近いうちに向こうから何らかのアクションがあると思います。わたしたちは、それを待てばいいだけです。ジャックさんを取り戻すチャンスは必ずあります」
「レプもそう思う! ジャックはああ見えて、意外としぶとい。ゴキブリ並みのしぶとさだと巷では有名……」
ゴキブリを「あちょー!」の一声と共に素手で瞬殺できるレプが言っても説得力はあまりないが――でも、効果のほどはなかなかだったらしい。
それを聞いたアリスは、いつもの調子を完全に取り戻して、
「そうだね。ジャック、馬鹿だけど体力あるもんね。そうかんたんには大事になったりしないよね」
「はい。馬鹿ですけど、この中ではブレナさんの次にフィジカル強いです。殺したって死なないしぶとさあります」
「うん、死なないしぶとさある!」
レプと共に、確かな口調でアリスの言葉に賛同する。と、若干の間を置いて、室内の空気はようやくといつもの彼女たちのそれへと立ち戻った。
隣の部屋では、こうかんたんにはいっていないだろうが――。
激動の一日は、いまだ終わりを迎えない。
◇ ◆ ◇
同日、午後7時32分――ハーサイド、宿屋二階の一室(リアが寝ていた部屋)。
「……リア、平気?」
セーナは、気遣うように言った。
数秒の間を置き、ベッドの上に上半身を起こした妹分が問題ないとばかりに答える。
「平気。想像してたよりはるかに特効薬で驚いた。飲んで五分も経たずに全快するなんて思ってなかったから。ありがと、セーナ姉」
「……あー、うん。それはいいんだけど……平気かって言うのは……その……身体のことじゃなくて……」
言いかけ、でも中途で口をつぐむ。
察したリアの反応は、彼女が想像していたよりもはるかにクールだった。
「ジャックのことなら、平気。生かしてさらったってことは、交渉の道具として利用するつもりだってことだから。そう遠くないうちに、向こうから何かアクション起こしてくるはず。内容次第では、奪還のチャンスはある」
「だね」
もっとも、その交渉相手は自分たちを飛び越え、アスカラームにいるナギと直接と考えているかもしれないが。
いずれ、自分たちに今、できることは何もない。
三人が二人になっても、与えられた任務を続行するほかないのである。
戦力的に、同盟を組む必要は出てきたかもしれないが……。
「ま、でもあんたが冷静で良かったよ。今すぐ取り戻しに行く、って宿を飛び出さないか心配だったから」
「そんなこと言うわけない。聖堂騎士団に入団した時点で、私情は捨ててる。たぶん逆の立場でも、ジャックは今のあたしと同じこと言ってたはず」
(……そうかなぁ。アイツ、表面上はそっけないふりしてるけど……よくよく観察してると、妹大好きっコがバレバレだからなぁ。いざそうなったら、めっちゃ取り乱しそうな気がするけど。まあでも、それはこのコも同じか……)
孤児だった二人は幼い頃より、ギルバードの元で、彼に文字どおりの家族として育てられた。
自分と出会う何年も前から。
血は繋がっていなくても、二人は兄妹なのだ。
たった一人の兄がさらわれて、心中穏やかなはずはない。
セーナは、リアの肩に軽く手を置くと、
「んじゃ、今夜は早めに寝て、明日以降に備えるわよ。さっそく明日、アイツを取り戻すチャンスがやってくるかもしれないからね」
「了解」
即答したリアの肩は、でも少しだけ震えていた。
強がって見せているのだと、セーナには分かった。
◇ ◆ ◇
同日、午後7時37分――ハーサイド、宿屋一階の酒場。
何もなくなった胸もとに手を当て、ブレナは深く重い息を一息吐いた。
不測の事態だ。
ペンダントが川に流れ、謎の男にジャックがさらわれた。
元々、ジャックたちとはこの町で別れる予定だった。
別れたあとは、二度と会わない可能性すらゼロではなかった。
が、だとしても――。
(目の前でさらわれたってのは、多少、負い目を感じちまう。別に仲間ってわけじゃないが、それでも……)
知らず、ため息が落ちる。
ブレナは、ジョッキに半分以上残っていた琥珀色の液体を一気に飲み干した。
苦い味と苦い記憶が、身体中に染みわたる。
(……まあ、ジャックのことはおいおい考えるとして、問題は……)
ペンダント。
相棒との唯一のつながりが、川を流れて海に消えた。
これでは十二眷属を倒しても、チロの魂が戻ったのかどうかを確認できない。
月並みな言い方だが――時間が経てば経つほど、この事実がボディブローのように心を蝕む。
避けようがなかったとはいえ、痛恨極まる大失態だった。
(……ひとり倒すごとに、その都度、ラーム神殿まで確認に戻るってのは現実的じゃねえ。こうなったら、ミレーニア大陸に潜む十二眷属を全員ぶっ倒すしかねえ。全員ぶっ倒して、堂々とギルティスに凱旋だ)
残り六人、問答無用で狩りつくす。
効率は悪いが、その選択を取るほかない。
その選択を……。
(……にしても、あの野郎はいったい何者だったんだ……?)
全ての元凶。
フード付き黒マントを頭からかぶった、あの若い男が全ての元凶だ。
あの男との邂逅が、ミレーニアにおける最初の一歩を最悪の形で切り裂いた。
(……妙な男だった。全てにおいて、奇妙。奇妙って言葉が、何よりしっくりくる)
ナギとも、ナミとも、ギルバードたち十二眷属とも違う。
魔法も使わずに突如として目の前から姿を消したのもありえないが、何よりありえないのは測れなかったことだ。
測れない。
あらゆる意味で測れない。
ヴェサーニアの地に降り立って、あまたの生き物と遭遇してきたが、こんなことは初めてだった。
勝手知ったる庭先で、ある日突然、見たこともない不気味な花が咲いているのを発見したときのような、ゾッと背筋が凍る感覚。
あれから数時間が過ぎたが、その感覚が色あせることはなかった。
否。
色あせるどころか。
それはより強い感覚となって、彼の心底に強靭な根を張っていた。
とある馬鹿げた問いかけが、脳内で大真面目に再生されるほどに。
――この世界、本当に俺が造った世界だよな?




