第58話 血のターニングポイント
神歴1012年、3月27日――ギルティス大陸西部、レーヴェの町。
午後9時37分――宿屋二階、客室(ブレナの部屋)。
「……なあ、悪かったって言ってんだろ? いいかげん、機嫌直せよ」
「…………」
反応はない。
一瞬だけ、こちらを見たような気もしたが、それは本当に一秒にも満たない刹那の出来事。
オレンジ髪の少女――セーナはすぐさま、ムスッとした表情で明後日の方向へと視線を背けた。
ブレナは、やれやれと長く深い息を吐いた。
面倒くさい。
確かに、ドナウのトドメを横取りしたのは悪かったと思っている。
が、あの瞬間に駆けつけてしまったからには、やらないという選択肢はない。放っておいても、状況的に数秒後にはセーナの手によって葬り去られていた可能性は高いが――だが、絶対ではない。やれるタイミングを逃して、あとになって後悔する。そんな後ろ向きな失敗だけはしたくなかった。
たとえ、泥棒呼ばわりされようとも――。
(……にしても、一息で十二回も「泥棒!」まくし立てるか? しかも、そのあとずっと不機嫌モードだし……。めんどくせーヤツだな……)
三回も謝ったのに。
ルナやアリスならとっくに機嫌を直してる。目的を果たしたのに――ペンダントの色も変わらないし、気分は最悪だった。
と。
「セーナ、機嫌直す。兄者は三回も謝った。これは新記録。なかなかの偉業」
「うんうん、滅多に謝らないブレナさんが三回も謝るなんて超貴重。ホントに悪いと思ってるってことだよ」
レプとアリス、二人が畳みかけるように閉ざされたセーナの心をノックする。
ノックしてくれるのは、まあこれで七回目なのだが。
が、どうやら今度の訪問は前の六回とは違うらしかった。
二人の言葉を受けたセーナは、チラリと目線だけをこちらに向けて、
「……そーなの?」
「ああ、そうだ。俺は謝ることが大嫌いだからな。本当に悪いと思ったときにしか謝らん」
恥ずかしげもなく、言い切る。
その言い切りが、でも今回ばかりは功を奏した。
しばらく黙したあと、セーナはもごもごと言いづらそうに、
「……なら、許す。こっちも、なんか空気悪くして……ごめん」
「…………」
ブレナは、ホッと一息吐いた。
どうやら機嫌を直す気になったらしい。
セーナはそのまま、今度はアリスとレプのほうを向いて、
「アリスちゃんも、ジャリンコも……ごめん」
「全然いいよー。空気なんて、ちっとも悪くなってないし。ブレナさんの気持ちがちょっと沈んだだけ」
「レプはジャリンコなんて名前じゃない。レプはレプ。セーナはいつも間違える。これで驚きの三十七回目」
「うん、ごめん……ジャリンコ」
「ごめんって言ったそばからまた間違えてる! さてはセーナはレプを馬鹿にしてるな!」
「してないしてない。でも、あんたはジャリンコでしょ。可愛いジャリンコ」
「むぅ……」
空気が、数時間前までのそれに戻る。
否、そのときよりも――。
「よーし、決めた! 任務も片づいたし、明日はとことん遊ぶわよ! 二人とも、お姉さんについてきなさい! なんでもまるっと奢ってあげちゃう!」
「ホントにー!? やったー!」
「レプはお祭りいきたい! イカ焼き食べたい! 明日もあるって、さっき屋台のおっちゃんが言ってた!」
「あーっ、じゃああたしは綿アメ!」
「ちょ、なにおまえら勝手に……」
「オッケー! イカ焼きだろうがタコ焼きだろうが綿アメだろうが綿ガムだろうがなんでも買ってあげる!」
「おぉー! セーナ、太っ腹! 身体は小さいけど、器はデカい!」
「いやあんたにだけは言われたくないわ! あんたよりはまだ、だいぶおっきいからね!」
「…………ハァ」
ブレナは、短く嘆息した。
彼にとっては無駄な一日となってしまうが、それを無駄だと言い出せる空気ではとてもない。あきらめるほかなかった。
(……ま、雨降って地固まったみたいだし、とりあえずはよしとするか……)
目的も達成。
チロの魂は戻らなかったが、一歩前進したのは確かである。数が減れば、確率はおのずと上がる。そのときは近いと、ブレナはプラスに考えた。
そのときは、近いと――。
だが、このとき彼らはまだ知らない。
遠く離れた神都で、まさかあのような大事が起こっていようとは、このときの彼らにはおよそ知る由もなかったのである。
◇ ◆ ◇
神歴1012年、4月7日――ギルティス大陸南東、神都アスカラーム。
午前6時25分――商業地区、中央メインストリート。
朝トレ。
ルナは、日課となっている(ここ数週間の話だが)早朝の走り込みに精を出していた。
正直、アリスと違って、朝はあまり得意なほうではない(八時くらいまでは頭がボーッとしている)のだが、リアとの合同特訓以降、その苦手だった朝も少しずつ克服できてきているという実感があった。
今も、頭は冴えている。
起きてまだ三十分も経っていないというのに、彼女の頭は完全に覚醒していた。
だからというわけではないが――ルナは自然と、その『人だかり』に気づいた。
人だかり。
ルナは怪訝に眉をひそめた。
アスカラームの朝がひらくのは、帝都のそれと違ってだいぶ遅い。
ゆえに、まだ早朝とも言える今の時間帯に、人だかりができていることなど異例中の異例だった。
ルナはランニングを一時中断し、その人だかりのほうへと移動した。
三十人、いや五十人はいるだろうか?
彼女が最後尾付近に近づくと、彼らのひそひそ話が聞こえてきた。
「……おい、嘘だろ? こんなことって……」
「……やだ。なんで? だって、あれって……」
「……信じられねぇよ。作りモノじゃ……ないんだよな?」
「なわけないだろ? どこをどう見りゃ、あれが『人形』に見えんだよ?」
「……だよなぁ。じゃあ、やっぱり……あれは……」
「すみません! ちょっと通してください!」
胸騒ぎ。
言い知れぬ不安感が、ルナの心をわしづかむ。
彼女は人だかりをかき分けるようにして、最前列へと進み出た。
視界が、ひらける。
瞬間、凍てつく刃がルナの心を突き刺した。
「…………え」
間の抜けた一音が、自身の口から間抜けに落ちる。
ルナは、茫然自失に固まった。
在ったのは――。
背の高い石壁に寄りかかるようにして、視線の先に在ったそれは――。
美しいその身体をズタズタに切り裂かれた、シエラザード・シエスクの憐れな惨死体だった。




