第54話 動乱の兆し(前編)
神歴、1012年3月30日――ギルティス大陸南東、神都アスカラーム。
午後9時37分――商業地区、中央メインストリート。
遅くなりすぎてしまった。
ルナは歩く速度を二倍に上げた。
周囲に人の姿はほとんどない。昼間はあれだけ人が多いのに、夜になると死んだように静かになる。そこが帝都との最大の違いだった。
(でも、幸運でした。走り込みをしていたら思ったより遅くなってしまったので、もう店が閉まっているかと危惧しましたが……)
ギリギリ間に合った。
日によって閉店時間が違うという特性も、今回に関してはプラスに働いた。トッドが楽しみにしているドデカプリンを無事購入することができて、ルナはホッと胸を撫でおろした。
背後で鳴ったその声がルナの耳に届いたのは、折しもそのタイミングだった。
「おっ、それドデカプリンかい? あたしも好きなんだよねー。あんたも甘いモノには目がないクチかい?」
「…………」
ゴクリと唾を飲み込み、ゆるりと振り向く。
気配を完全に殺した状態で、褐色の女戦士がすぐ真後ろに立っていた。
ルナは、警戒の眼差しで答えた。
「いえ、わたしは辛党です。これはリアさんとトッドくんの分です。トッドくんはプリンが大好きなので」
「へえ、あの坊やがねー。まあ、甘いモノが好きじゃない子供は少ないか。それよりあんたが辛党だってことのほうが驚いたよ。見るからに甘党って顔してるのに」
それはどういう意味だろうか。
ルナは若干と眉根を寄せて、目の前の女――ミカエルを見やった。
「あれ、もしかして気分を害させちまったかい? ごめんよ、あたしの悪い癖なんだ。思ったことはすぐに口に出しちまう。一度、頭の中で整理してから口にしろって、エルには日頃からよく注意されてるんだけど。なかなか直せない。今もあんたが甘いモノが好きそうな甘ちゃんに見えちまったから、つい余計なことを口走っちまった」
「……わたしは甘ちゃんに見えますか?」
ルナはさらに眉根を寄せた。
ミカエルは「ありゃりゃ、またやっちまったかねー」とばかりに、わざとらしく自身のひたいを叩くと、
「見えるねー。シュガーそのものさ。警戒してるだけで、だってあんたは戦闘態勢に移行してない。ここまで分かりやすく殺気を出してるのに」
「戦う理由がありません。ミカエルさんは敵ではないですし――」
「悪いがこっちにはあるのさ。一目見たときから、あんたには興味を持っていた。あたし、こう見えてアブノーマルでさ。自分で言うのもなんだけど、おかしな性癖を持ってるんだよ。あんたみたいに可愛くて、そこそこ腕が立ちそうな女の子をめちゃめちゃにぶちのめしてやると、恥ずかしながら達するのさ」
「達する?」
「ああ、意味なんて分からなくていいよ。意味が分かっちまうようなヤツはあたしの好みじゃない。その辺のことを瞬時に察しちまうヤツはダメダメだ」
意味が分からない。
言っていることが一ミリも理解できない。
が、それを理解するよりはるかに優先度の高い項目が存在することはルナもよくよく理解できていた。
ルナは心と身体を『戦闘モード』に切り替えると、
「よく分かりませんが、どうしてもと言うなら、受けて立ちます。その代わり、ダブルは使いません。敵ではないヒトと、殺し合いはしたくないです」
「ああ、かまわないよ。素手でやり合おう。あたしも、殺すまでやるつもりはないからね。ま、ホントはそこまでいったほうが、得られる快楽も大きいんだけど。それは『別の機会』に取っておくとしよう」
「??」
意味深な言葉。
だが、そのことについて考える時間は与えられなかった。
セブンズリード、五番隊隊長ミカエル・パトラ。
リアとの特訓の成果を見せるときが、思いも寄らないタイミングで訪れる。
◇ ◆ ◇
同日、午後9時50分――商業地区、中央メインストリート。
強い。
でも、強すぎるとは感じない。
パワーはあるが、その他の身体能力はリアのほうがはるかに上だ。勝てない相手じゃない。ダブルを使わずに、素手の攻防のみなら互角以上に渡り合える。ルナは手応えの瞳で、ガードの上から(でも委細構わずに)右の拳を激烈豪快に振り抜いた。
ズン!
鈍い音を立て、ミカエルの巨体が後方数メートルの位置まで弾け飛ぶ。
ルナはフッと一息吐くと、
「……まだやるんですか? これ以上は、スイッチが入ってしまいます。模擬では済まなくなります」
「いいじゃないか。入れておくれよ。思ってた以上に手応えあって、こっちは興奮が止まらない状態なんだからさ。こんなところで終わったら、この興奮をどう鎮めりゃいいんだい?」
ガードに使った左腕をプラプラと振りながら、ミカエルが異様な目つきで言う。
異様。
文字どおり、それは異様極まる眼差しだった。
ルナは、右の拳を強く握った。
(……なんか気味が悪いので、次の攻防でケリを着けます。相手の間合いもだいぶ掴めてきたし、たぶんやれる。トドメは、リアさんに仕込まれた右のハイで……)
必殺の右上段回し蹴り。
タイミングよく入れば、おそらくは一撃で沈められる。沈められる自信が、ルナにはあった。
彼女は右の拳を握った状態のまま、スッと腰を落とした。と、それを合図にしたかのように、そのタイミングでミカエルが動く。
爆速の一歩。
あっという間に、二人の距離が消滅する。先制の一打を振り抜いたのは、ミカエルだった。
ルナの左あご目掛けて、渾身の右フック。空気を切り裂くような音を鳴らして打ち下ろされたそれはだが、ルナの身体に命中することはなかった。
すんでのところで、ふわりとかわす。これ以上はない、完璧なタイミング。自画自賛の回避は、トドメの一撃へとつながる秀逸な初動となった。
ルナは、間髪いれずに腰をひねった。
若干と位置の下がったミカエルの左あごを目掛けて、そうして必殺の右上段回し蹴りをここぞと繰り出す。
彼女は、心中で会心の拳を突き上げた。
(……イケる! このタイミングなら、右のハイが入る……! ガードも、間に合わない!)
決まる。
この一撃で、勝負は決する。
リアとの特訓の成果が、完璧な形で実を結ぶ。
結ぶ、はずだった。
だが。
「狂嵐の牙」
放たれた予期せぬ言霊が、ルナの抱いた『確信』を根底から叩いて崩す。
◇ ◆ ◇
同日、午後9時53分――商業地区、中央メインストリート。
「……ぁ……」
ゆっくりと、可愛くて魅力的な肉体が冷たい地面にくずおれる。
ミカエルは、自身の上唇を軽く舌でなめると、
「いいねー。可愛い顔に似合わず、エロい身体だ。エルにはない、初々しさもある。思ったとおり、リアクラスの上玉だね」
「……ダブル、を……使う、なん……て……ひきょう、です……」
「卑怯? ああ、悪かったね。言ってなかったけど、実はあたしは卑怯なんだ。それはもう、まれに見る卑怯者さ。平気で嘘もつくし、勝つためだったら手段なんて選ばない。ましてや、あんたみたいなそそる美少女を前にしたら、何がなんでも勝ちたくなるってもんさ。そのあとのことを想像したら、負けるなんてもったいない真似できるわけがない」
ああ、もったいない。
もったいなさすぎて、そんなことになったら何日も後悔するだろう。
ならなくてよかったと、ミカエルは心の底から安堵した。
「さて、と。それじゃあ、さっそくお愉しみタイムといこうかねー。『狂嵐の牙』でちょうどいい感じに服がエロく破けてくれたから、いつも以上にノッてけそうだ。あんたやリアみたいな勝気なコが『もう許して……』なんて懇願してきたらと思うと、ゾクゾクしちゃうよ。途中で泣いちゃったりしてくれたら、もう言うことないんだけどねー。あんたはどこらへんでそうなってくれるのか、ワクワクが止まらないよ」
想像しただけで、いろんなところがキュンとなる。
ミカエルはうっとりとした表情で空を見上げると、満を持して『愉悦』の一歩を踏み出した。
が、文字どおり、それは一歩で終わる。
「そこまでよ、ミカエル。それ以上の狼藉は控えなさい。セブンズリードの品位を落とす行為はこのわたしが許さない」
「…………」
ああ……。
ああ…………。
ああ……………………。
この女は……!
この女は…………!
この女は……………………!!
いつだって、最悪のタイミングで現れる。
ミカエルは、左手でひたいをかきむしりながら振り返った。
六番隊隊長、シエラザード・シエスク。
相性最悪のクソ女が、正義のヒロイン気取りで立っていた。




