第41話 来てほしいタイミングで、必ず駆けつける男
神歴1012年3月6日――ギルティス大陸南東、滅びゆく村。
午後1時41分――宿屋一階、玄関近くの共有スペース。
終わった。
ルナも、アリスも、リアも、おそらくはガゼルでさえそう思っていただろう。
この状態からの『逆転』は不可能。
仮に秘策や切り札を隠し持っていたとしても(ないだろうが)、もはやどうにもならない状況であると。
それは、この場にいる全員の共通認識であった。
その不測が起こるまでは――。
「リアおねーちゃん、ちっこーっ!」
「――――っ!?」
一瞬。
それは本当に、一瞬だったに違いない。
意識をその声に持っていかれたのは、おそらくは一秒にも満たない刹那。
だが、ガゼルはリアのその一瞬の隙を見逃さなかった。
ピュル!
「――――っ!?」
突然と。
どこにそんな力が残っていたのか――ガゼルは自らの身体を急回転させ、リアの手を振りほどくと、そのまま、マッハの速度でトッド目がけて突進した。
慌てたリアが、即座にそのあとを追う。
その間、ゼロコンマ数秒。
それは、悪夢の一連だった。
ルナは何もできぬまま――ただの一音すら発することができないまま、その一部始終を見届けるほかなかった。
完璧だった歯車が、冷酷無比に狂い始める。
◇ ◆ ◇
同日、1時41分――宿屋一階、玄関近くの共有スペース。
「……ケガ、ない……? どこも……いたく、ない?」
訊く声は、自分でも驚くほどに弱々しかった。
折れているのは、利き腕(彼女の利き腕は左である)だけじゃない。その付近の骨が根こそぎ砕かれている。ほとんどノーガードで喰らったのだから、当然と言えば当然だ。
リアは痛む身体にムチ打ち立ち上がると、茫然と固まるトッドの頭に優しく手を置き、
「……どこも痛くないなら、あんたは二階に戻ってな。おしっこも、一人でちゃんとできるよね?」
「……う、ん……でき……る……」
どこまで状況を把握しているのか、それは分からないが――トッドが、色のない瞳で頷く。彼はそのまま、夢でも見ているような表情でトボトボと部屋の外へと姿を消した。
リアは短く息を吐くと、両目に鬼を宿してガゼルを睨んだ。
獣人モードに切り替わった、巨漢の十二眷属を――。
「そそるねぇ。その可愛い顔で、射抜くような視線。ギャップがたまらんと、ゼレンならそう言うだろうぜ。オイラには、そんな癖はないがね」
勝利を確信したような顔で、ガゼルがかっかと笑う。
彼はそのまま、
「卑怯、とはまさか言わんよな? オイラはただ、新たな獲物を見つけてそこに向かっただけ。無防備さらして勝手に追ってきたのはおまえだ。あんな隙だらけの状態で追ってくれば、そりゃオイラじゃなくったって直前でターゲットをおまえに変えるさ。最初っからそれが狙いだったわけじゃ断じてないぜ。そんなことは予想もできんからね。ああ、偶然の賜物さ」
「……御託はいい。さっさとかかってきなよ。あんたなんて、腕一本あればじゅうぶん」
「その腕一本が、今までどおりの感覚で動かせるかどうか。これからじっくり検証していくとしようか」
「…………」
リアは、右の拳をグッと握った。
分かっている。
どういう結果になるかは、よくよく理解している。
それでも、やらなければならない。
今、自分にできる精一杯を、やらなければならない。
もう一度、強く右拳を握ると、リアは胸中で悲壮な決意を吐き落とした。
せめて二分は、時間を稼ぐ――。
◇ ◆ ◇
同日、午後1時43分――宿屋一階、玄関近くの共有スペース。
アリスは、金縛りにあったかのようにその場を一歩も動けなかった。
動けないまま、そうしてその『残虐極まる行為』を見つめ続けることしかできなかった。
一方的な嬲り。
数分前の光景とはまるで真逆のそれが、目の前で繰り広げられている。
ごぎゃっ。
ぐしゃっ。
ばきっ。
巨漢の獣人が拳を振るうたび、嫌な音がアリスの耳に届いて触れる。
血まみれのリアは、でもそれでも床にひざをつかない。
アリスには、それが信じられなかった。
(……リア、さん……なんで? なんで倒れないの? なんで立ってられるの?)
あんな状態なのに。
あんなボロボロの状態なのに。
なんで?
アリスは、両目をきつく瞑った。
それから、ゆっくりとそれをひらく。
彼女は、胸の前で『覚悟』の拳を握った。
(……今、あたしにできること……無理でも、やらなきゃ! あたしはブレナ自警団のヒーラー、アリス・ルージュなんだから!)
胸中で叫んで、アリスは背後を振り向いた。
そのまま、投げ捨てられたダブルを――アセンブラを拾いに、玄関へと向かう。
だが。
「――――っ!?」
予期したとおり、最初の一歩で気づかれ、二歩目で追いつかれる。
ガゼルはかっかと笑って、
「いやいや、嬢ちゃん。そいつは無茶だ。隙がないのに動いちゃいかんよ。オイラが嬢ちゃんの動きに注意を払っていないとでも?」
「そんなこと、思ってないよー! 思ってなくても動いたんだーっ! いちかばちか動いたんだーっ!」
「で、順調に『ばち』が出たわけか。そいつはとんだ――――がはッ!?」
衝撃。
言葉の途中で、ガゼルの身体が左方向へとわずかによろめく。
アリス渾身の右上段回し蹴りが、彼の顔面にクリーンヒットしたのである。
アリスは握った拳を高らかに上げて、そのまま、目の前の獣人に「馬鹿にするな」と言わんばかりに言い放った。
「なめるなーっ! あたしだって、ちょっとは格闘できるんだからーっ!」
回復だけが、ヒーラーの仕事じゃない。
◇ ◆ ◇
と、息巻いてはみたものの――。
現実は、甘くない。
アリスは己の情けなさを痛烈に思い知らされていた。
「……ぁ、ぐ……ぅぅぅ……!」
息が、できない。
ガゼルの極太の腕にあっさりと首をつかまれ、高い高いされるように、みじめに中空へと締め上げられる。
会心の一蹴りから、わずか七秒。でも、アリスに後悔はなかった。
七秒、時間を稼げたのだ。
彼我の力量差を考えれば、この七秒という時間は上出来も上出来だった。
あとは――。
「ほーれ、高い高い他界」
(ぅぅ……なんか、最後の『たかい』だけ……響きが……嫌な感じするーっ)
感じ悪い。
アリスは最後の力を振り絞って、ガゼルのどてっぱらに一蹴り見舞った。
文字どおり、イタチの最後っ屁。
これで、もう自分にできることは何もない。
全ての力を使い果たした。
が、それでもアリスに恐怖はなかった。
この絶体絶命の状況下においても、不思議と恐怖はない。
やれることはやったんだという満足感と、それとは別のとある確信。このふたつの思いが、アリスの心から恐怖の二文字を奪い取っていた。
恐怖の、二文字を――。
(……あたし、やれるだけのことは……やったよ。七秒も……時間、稼いだ。ルナも、リアさんも……まだ……今なら、まだ……大丈夫、だから……。だから……)
だから――。
だから、いつもみたいに――。
「――――っ!!」
アリスは、確信のまなこを見開いた。
刹那、赤の一閃が光の速度で彼女の眼前を突き抜ける。
と、ほぼ同時に、アリスの身体は木製の床にドサリと落ちた。
「…………あ?」
何が起こったのか、瞬時には理解できなかったのだろう――惚けたような表情で、ガゼルが失った右腕の先を見つめる。
ひじの部分から先がすっかり消えてなくなった、自身の自慢の剛腕を。
「探し物は、これか? 返してほしいなら返すぜ。もっとも、くっつけてやることまではできないがな」
「――――っ!?」
右斜め前方、七メートル。
響いたのは、信じて待った待望の声。
アリスは、弾かれたようにその箇所を見やった。
切り取ったガゼルの腕をこれみよがしにクルクルと回しながら――ブレナ・ブレイクが、安心をくれるいつものまなこで立っていた。




