第103話 悪鬼羅刹
神歴1012年、6月10日――ミレーニア大陸中部、ラドン村。
午前9時9分――ラドン村北西部、森林地帯。
「……ハ、イン? な、んで……?」
ノエルの、かすれたような声が弱々しく響く。
ルナは何もできずにただ、その『光景』を茫然と見つめることしかできなかった。
「なんで? 理由は今、説明したと思うが。言い回しが分かりづらかったか? ならシンプルに言い直そう。用済みになったから。それだけさ」
言葉の終わりに、ノエルの左胸からスッと『剣』が抜かれる。
彼女はそのまま、力なく土の地面にくずおれた。
もう二度と、そうして立ち上がることはなかった。
「まったく。オレが授けた能力も使わずに、何をちんたら遊んでたんだか。この段になって一人も削れてないなんて、そりゃオレがいかに温厚だろうと、こういう結果になってしかるべきだろうよ。まっ、ナミ様と合流されてたらもっと面倒くさいことになってたから、結果オーライではあったがな」
男が、言う。
動かなくなったノエルの身体を冷めたまなこで見下ろしながら、男が言う。
何もない空間から突如として現れた、フード付き黒マントを頭からかぶった男が言う。
ルナは、ぞっと背筋を凍らせた。
「……あんた、何者!? もしかして、ブレナが言ってた……」
隣のセーナが、警戒度を最大限に上げたような語調で発する。
受けた男は、下卑た笑みをニヤリとやって、
「ああ、そうだ――って、即答したいとこだが、これで違ってたら恥ずいよなぁ。まあでも、たぶんそうだと思うぜ? ルドン森林で会ったイケボの男ってんなら、間違いなくオレのことだ。なんて言ってた?」
「不気味な糞マント野郎って言ってたね」
吐き捨てるように、リア。
フードの男は、クックと笑った。
「おいおい、ひでぇなぁー。そいつはさすがに傷つくぜ。オレはこう見えてナイーブなんだ。繊細って言い換えてもいい。んで、そんなナイーブなオレから、おたくらにひとつ提案があるんだが……」
「…………」
提案。
男はそう言って、たんたんと――本当にたんたんとした口調で、その先を続けた。
「『降参』しちゃくれねぇか? 月並みな言い方で申し訳ないんだが、降参するなら命だけは助けてやれる。ああそういう言い方すると、また勘違いされちまうな。命は助けるけど、ダルマにするよ?とかそんな外道なことはもちろん言わない。二、三日眠ってもらう程度のダメージで済ますよ。だから安心して、降参してくれ」
「そんなこと言われて、『じゃあ、降参します』なんて言うと思う? あ、これも月並みな返しか」
と、セーナ。
彼女はそのまま、流れるようにダブルを構えた。
ルナも慌てて、それに倣う。リアはとっくに、戦闘態勢を取っていた。
「おいおい、マジかい? こんだけ言っても、戦うつもりなのか。そいつはまともな判断じゃないぜ」
「うっさい。さっさと構えろ。構えなくても、こっちは容赦しないけどね」
「……やれやれ。ちっさい身体で、威勢のいい嬢ちゃんだなぁ。ひょっとしてだが、コイツを見たあとでもその威勢ってのは維持されんのか? だとしたら、オレは心底おたくを尊敬するぜ」
そう言うと。
若干秒の間を置いて。
男は。
男はマントの中から『何か』を取り出し、それをこちら側へとポトリと投げた。
ディルス・ロンドの、生首だった。
◇ ◆ ◇
同日、午前9時15分――ラドン村北西部、森林地帯。
「…………え」
緩やかに吹いていた風が、その瞬間にパタリと止む。
周囲の空気がまたたくうちに凍りついていくのを、ルナはまざまざと感じた。
「……ディ、ル……? え……嘘、でしょ……?」
セーナが、茫然自失の体でつぶやく。
リアはルナ同様、言葉を発することさえできないようだった。
「……ちょっと、なにつまんない冗談かましてんのよ? そんなの笑えないって。ねえ、ディル……」
ヨロヨロとした足取りで、セーナが『首だけ』となったディルスのもとへと歩み寄る。
彼女の顔は蒼白だった。
幽霊でも――否、絶対にそこに存在するはずのないもの、それを目の当たりにしたかのような表情。
しばらくのあいだ、彼女はそんな表情で呆けていたが――やがて、だが散っていた感情の全てが唐突に戻ってきたかのように、両目をカッと見開き、
「あんたが、こんな奴に負けるわけないじゃない! セブンズリード最強のあんたがこんなキショイマント野郎になんて、負けるはずないじゃない!! あんたは誰にも負けない!! 負けて、こんな姿になんてぜったいならない!!」
「ああ、確かに強かったよ。オレが今まで戦った中で、間違いなく最強。倒すまでに二分近くもかかったうえ、二度も身体を傷つけられちまった。三度だったかな?」
フードの男が、そう言ってわざとらしく小首を傾げる。
刹那、ルナの背筋はゾッと震えた。
「……ざけんな」
抑えた、抑えに抑えた、限界まで抑えた不気味なほどに静かな声音。
背筋を凍らすセーナの気配は、その直後に爆発した。
「ざっけんなッ、テメェェェーーーーーーーッ!!」
「――――っ!」
爆発。
文字通りの爆発。
限界まで抑えていた『怒』の感情を一気に爆発させると、セーナは真一文字に男へと迫った。
限界を超えたスピード。
身体の負担などいっさい無視した、それは狂気のスピードだった。
が。
グシャ。
「……か、はッ」
めり込むような拳の一撃が、セーナの腹部に突き刺さる。
完璧なタイミングで放たれた、カウンターの左ストレート。
喰らったセーナの身体は、一瞬間で、ピンポン玉のようにはるか後方へと弾け飛んだ。
その間、わずかゼロコンマ数秒。
ルナは茫然自失となるほかなかった。
「……いや、遅すぎだろ? ディルスはその倍速かったぜ。同じセブンズリードでもここまで差があるもんなんだな。ガッカリだ」
「セーナ姉っ!」
男の言葉と、リアの叫びが重なる。
リアはそのまま、脱兎の勢いで飛ばされたセーナのもとへと駆け寄った。
ハッと我に返ったルナも、慌てて彼女のあとを追う。
と、一足先にセーナのかたわらへとたどり着いたリアは、そっと彼女の身体を抱き起こし――だが。
「セーナ……姉……?」
「リア、さん……?」
リアの反応に、知らず鼓動が高鳴る。
ルナは恐る恐る、リアの後ろからセーナの様子を覗き見た。
と。
「――――っ!?」
瞬間、ルナの身体に電流が走った。
瀕死。
一見で分かる。
薄目を開けたまま、セーナの身体はピクリとも動いていない。
半開きになった口と左の鼻孔から流れ出る血液が、危険な状態であることを如実に物語っていた。
「ん、なんだその反応? まさか死んじゃいないよな? 軽く小突いただけだぞ?」
離れた位置から、男が言う。
彼はジトリと細めた両目で、こちらの様子を見やると、
「……おいおい、いくらなんでも紙装甲すぎるだろ? まいったね、こりゃ。もしかして本当に殺っちまったのか? まあでも、ナギ陣営はまだ一人残ってるし――」
「……ルナ」
男の言葉を遮るように、リアがボソリと言う。
ルナはごくりと唾を飲み込んだ。
鬼気迫る表情。
その表情のまま。
リアは覚悟のまなこで立ち上がると、そのまま有無を言わさぬ口調で言った。
「……あんたが逃げる時間は、あたしが命に代えても稼ぐ。だから……だからあんただけは絶対に生き延びて」
「…………」
ルナは、でも何もできなかった。
リアと一緒に戦うことも、リアを見捨てて逃げることもできなかった。
その場に立ち尽くしたまま、ただの一歩も動けなかった。
本能で、彼女は理解していたのだ。
どちらの選択もまったく無意味であると。
どす黒い闇が、ルナの心を絶望的なまでに覆い尽くす。
ただひたすらに。
ただひたすらに、怖かった。
◇ ◆ ◇
同日、午前9時20分――宿屋前の広場、宿から少し奥まった地点。
ブレナは、感嘆の息を吐いた。
ナギとナミ。
二人の高次元の戦いに、ただただ感心する。
思っていた以上に、二人とも強い。
もしも二人同時にかかってこられたら、ねじ伏せられる確信は持てなかった。
(……ま、そんな状況に陥るってのは万にひとつもなさそうだが)
二人はどこまで行っても敵同士なのだと、今さらながら理解する。
千年前の二人にはもう、戻れないのだと――。
(とまれ、戦闘力はほぼ互角。それでもナギのほうが優勢に進めているのは、経験の差だろうな。ナギのほうが圧倒的に経験値で勝る)
おそらくは相当な修羅場を潜ってきたのだろう。
どういった経緯からそのような境遇となったのか?
戦いが趣味となるような、そんな野蛮な子ではなかったはずなのだが。
いずれ。
(……このままいけば、間違いなくナギが勝つ。長い戦いになるかもしれないが、二人が二人だけで戦い続けるかぎり、その結果は揺るがない)
二人が、二人だけで戦い続けるかぎり――。
(……でも、なんだ? なぜかそうはならないような気がする。この感覚は、この正体不明の『胸騒ぎ』と何か関係があるのか?)
分からない。
分からないが、刻一刻とその感覚は強くなってきている。
ブレナはその不安を振り払うように、大きく一度、首を左右に振った。
と、そのときだった。
「――――っ!?」
ナギの猛攻に、ナミがほんの一瞬バランスを崩す。
その一瞬のよろめきを見逃すほど、ナギは未熟ではなかった。
「氷の豪雨」
言葉と共に。
即座に魔法モードに切り替えられたナギのダブル――『ビアンコ』の柄の先から、氷の豪雨が降り注ぐ。
ナミはバランスを崩しながらもなんとかその攻撃をかわしたが、ナギの追撃は無論のこと雷電だった。
疾風怒濤の連撃。
体幹を乱したままのナミに、復旧のいとまを与えない。
あっという間に防戦一方となったナミは、堪えきれずに、やがて地面に無様に尻餅をついた。
ナギの瞳に、勝機が宿る。
彼はいっさいの躊躇なく、一心不乱にナミの身体を目指すと、刀身モードのダブルを振り上げ――そうして。
ザクッ。
飛び散った鮮血と共に、土の地面にガクリと両膝をついた。
「おっと、コイツは思わぬ幸運だ。隙だらけの背中に一刺し入れられるなんて、偉大なナギ様相手にこんな幸運は二度とは訪れないだろうぜ」
胸騒ぎの正体が、憚ることなく視線の先に現出する。




