第十章 その三
「いたずらてんぐー! どうしてこんなところに!?」
いたずら天狗は、驚いたあゆみを見て満足そうににんまりと笑うと、
「これはこれはあゆみ様に信國殿、お久しゅうございます。私は魔魅ですよ。どこにでも現れます。昨夜、さんきとであった時に、今日の朝に瀬田の観音様に結界を張られるとお聞きしましたので、三根の山奥からやって参りました」
「え、いたずら天狗は信國のことを知ってるの?」
「そりゃあ知っていますとも! 我々は長い間、山中でともに修行を重ねて参りました」
信國は、笑いながらうんうんと何度もうなづいた。
「いたずら天狗! 久しぶりだ。相変わらず人を驚かすことに長けておるな」
「なにをおっしゃいますか、信國殿、そなたこそ、ますますたくましくお成りになった」
「へー、二人が知り合いだったなんておどろき!」
「では、あゆみ様、いそぎ観音堂へ参りましょう。人間が起きてくる前に結界を張らなければ」
「わかったわ! ところで、目の前にあるのはお寺なの? えんめいじ?」
「円明寺というお寺で、ご住職様は、佐護の大般若のお経を読んで下さる方でございます」
「まるで円明寺は観音堂を守るように建っているのね!」
あゆみが目を見開き嬉しそうにそう言うと、
「瀬田の観音様は、古き時代より本原様にお守りされてきて、観音堂が移築された場所が円明寺の裏の山であったとは、まことに運が良かった」
いたずら天狗が珍しく感心した様につぶやいた。
円明寺の裏手は小高い丘のような小さな森で、お寺のすぐ裏手は墓石が沢山建てられた墓地になっている。あゆみ達は、その墓地の間を縫うように作られた小道を上に向かって登っていった。
「あ、観音堂が見える」
墓地の上はこんもりとした木々が茂っており、木々の隙間から観音堂が見えた。あゆみたちは、さらに急ぎ足になり観音堂の前に立った。
「このあたりには、あまり邪気が感じられない! やはり、本原様が毎月15日にはお経をあげられるとのことであるし、観音堂の前にご住職の住むお寺があるというのは、邪悪なものを寄せ付けないのであろう」
「お経の力ってすごいなぁ。」
そう言いながら、あゆみが観音堂の扉に手をかけようとした時だった。
「しかし、油断は禁物ですぞ! ほら!」
急に空が曇ったかと思うと、スーッとハヤブサのように黒いものが、あゆみ達の方へと突っ込んできた。
ばさばさっ
周りの木々を大きく揺らしたかと思うと、直ぐに旋回して、またあゆみの顔をめがけて飛んできた。
「きゃあ! 痛い!」
とっさの事によけきれず、その衝撃であゆみは倒れ掛かった。
信國は倒れ掛かるあゆみの躰をぐっと掴んで立て直すと観音堂の扉を思い切り開いた。
「さぁ、あゆみさま、お入り下さい」
「信國、ありがとう」
観音堂に入って観音様を安置している目の前の扉を開けようとしたが、扉には錠がかけられていた。
「信國、観音像はこの中ですか?」
「そうです。この錠が開くのは毎月15日だけ。しかし、あゆみ様なら大丈夫です。とにかく急いで結界を張りましょう」
「わかった! その前に、ここにある御真言と観音像の絵の紙をあるだけ全部、観音堂に張ってちょうだい!」
あゆみが指さした所には、線香などの側に大きめの短冊に描かれた文字と観音像の絵が描かれたものが何枚もおいてあった。
信國たちは三人で手分けして、その紙を観音堂の内側に張り巡らせた。
その間にお経の準備をしたあゆみは、目を閉じ大きく息を吸うと、いつもよりも大きな声でお経を読み始めた。
「ああ、なんということだ。あゆみさまの頬から血が流れている」
さっきあゆみを襲った黒い影が、あゆみの目の下を鋭い爪でひっかいたのである。
あゆみは構わずにお経を読み続ける。
お経のリズムにあわせて、太鼓と鐘を打ちならし、だんだんとお経を読む声も大きくなって行く。時には立ちあがり、両手を天に向け、また胸の前で印を結んだ。
「ああ、まるで天仁法師様だ……。天仁法師様が降りてこられている」
信國は、ははーと頭を床にこすりつけ、涙を流しながら、あゆみの姿にひざまづいた。
時おり、観音堂の外からは、ばさっ、ばさっという羽がぶつかる音がしたり、獣のキーッという叫び声がしたり、黒の魔王たちが観音堂を攻撃している気配が伝わってきた。
一方あゆみの血は止まらなかった。一直線に切られた傷からは真っ赤な血がとうとうと流れ続けた。
「あゆみ様。もうおやめ下さい。これ以上は危険でございます。早く手当をなさってください」
「信國! これがやつらの罠だと気づかんのか! これは幻だ! いいか、惑わされるな」
あゆみは一時もお経を読むのをやめなかった。
一時間、いや二時間は経っただろうか。
だんだんとあゆみの顔から流れる血が観音堂にたまり始めた。
あゆみの血で観音堂が真っ赤に染まる。
信國たちは時おり、その様子に心を揺れ動かされながらも、あゆみを信じて共にお経を唱え続けた。
あゆみの顔は血の気が引き真っ白になっていった。
気が遠くなりながら、あゆみは側においていた剣をとり、赤い石を押した。その瞬間に、七色の光が四方八方に飛び散るように広がり、一瞬にして真っ赤だった観音堂は輝きに変わった。
そうして、鍵がかかっていたはずの観音様の扉がギーと音を立てて開き始めたのである。
「あ…観音様が」
奥から光り輝く正観音像が現れた。
まぶしいまぶしい光り輝く観音様であった。
あゆみは立ち上がり観音様に静かに手を合わせ、静かにお経を口ずさんだ。そうして観音様の光は少しずつ消えるとともに、扉もまた静かに閉じられていった。
「あゆみさま…」
信國がそういってあゆみに近づいたとき、あゆみは遠のいていく意識中で、輝きながら遠ざかる天仁法師の姿をみていた。
「てんにん……ほうし…さま」
そうつぶやいて、あゆみは倒れていった。




